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この街は今日も語る  作者: 紫芋
常盤美羽は語り切れない

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37/38

誰を忘れて、誰を掴む

 何もかもが上手くいく事は少ないが、それでもその方が良いなんて事は当たり前である。


 そんな中、桐江准には一つの疑問が駆け巡り、取り返しの付かない何かがあったのではないかと思考を巡らせていた。


 高校へと登校してすぐ、自身の座席へと着いて、考えに耽る准は、朝食を取っていた妹の桐江舞喜からの見知らぬ名前に、何かしらの違和感すら抱かない事に違和感があったのだ。


(常盤、常盤。⋯⋯⋯⋯駄目だ、知らないなぁ。でも、舞喜に聞いた限りだと、見舞いにも来てるんだよな、その子。僕が連れて来たって言うし。⋯⋯嶺二辺りに聞いて見るか?)


 常盤美羽と舞喜を最初に対面させたのは、准本人らしい事を舞喜が語ってくれており、そんな記憶が一切無い事に、更に不安感を募らせながらも、立ち上がる。


 一番気兼ねなく話せて、多少の無理難題は了承してくれて、挙句には見返りを求めない唯一の友人であるところの睦生嶺二の席へと歩こうとすると、その当人が席に居ないのだ。


 辺りを見渡して見るも、教室にすら居ない事に気付き、完全に佇むのみとなってしまった准は、唖然とした様子となり、溜め息を吐いて自身の席へと踵を返してしまう。


「どうしたの?准」


 自分の席に座りだしている准に話し掛けた人物が居た。


 大洲藍莉──そして、仲良しの富宮奏海である。


「⋯⋯え?あ〜、なんだ。藍莉か」


「悪かったわね、私で?」


 右手を腰に当てて、僅かな怒りを細めた瞳に含ませた藍莉。


「アンタ、最低ね」


 舌を鳴らし、目を細めて侮蔑の視線を向けた奏海。


 そんな二人の表情を見つめて、逃げるように顔を廊下側へと向けた准は、「あ」と小さく呟いて、今一度二人へ向き直る。


「⋯⋯そうだ、丁度いいや。お前ら二人、常盤美羽って子、知らないか?」


 隣に居る二人はお互いに確認を取るような視線を向けて、眉を顰める。


「⋯⋯?誰なのそれ?藍莉知ってる?」


「いえ、知らないわよ。その人がどうかしたの?⋯⋯まさか、浮気?」


 冷たい視線が准の元へと飛び交う。教室にいる一部の生徒は藍莉の言葉に反応して、准を見たのだ。


 そんな視線が飛び込んできた事で、多少の居心地が悪くなったように、机に顔を埋めて、腕で隠す体勢に入る。


「知らないのか。じゃあ仕方ないか」


「ちょっと、スルーなんて酷くない?」


「僕が浮気してたら、殺せ。それでいい」


「⋯⋯何それ、怖いんですけど」


 奏海の引いた声がか細く、誰にも聞こえない程度に呟かれると、身体は一歩分だけ後退した。


 一方の藍莉は、組まれていた腕を組んで解いて、目の前にある机に添えて准の顔を窺うように腰を低くしていく。


「駄目よ?浮気して死んだら、クラスメイト巻き込んで心中図るから」


「藍莉ッ?!」


「また巻き込みか?止めろっての。僕は常盤美羽って奴を知りたいんだけだ」


 顔を上げた准。すぐ側には、距離が近くなった藍莉の顔があり、ニコッと笑みを浮かべているのにも拘わらず、それがイヤに寒気を感じさせていくのに、心底恐怖した。


 僅かな間、見つめ合う二人。やがて、敗北を喫するように見つめ合いは終了し、上半身を背もたれへと寄せて、凝ってしまった背中や肩を解すように伸びをする准と、勝利を寒気を促す笑みで勝ち取った藍莉は、前の席にはある椅子に座り、向き直る。


「⋯⋯その子がどうしたしたの?」


「妹から聞いたんだよ。何でも、僕が連れて見舞いに来た事があるっぽいんだけど、僕にはその記憶は無いし、何時も僕か朝倉さんしか見舞いに来ないからさ。何か気味悪くてな」


「ちょっと待って。准、こっち。早く!」


 急かさせるように腕を引っ張り、准を廊下へと誘おうとする藍莉に、思わず振り解こうとする准。


「なんだなんだ?!おい!」


 だが、その抵抗はすぐに終わる。


 彼女の目を見た少年には、その必死さと抵抗を無くす意欲が感じられて、思わず振り解こうとする力は抜けていき、意のままに連れられていくのであった。


「藍莉行ってら〜」


 そんな後方からの声に藍莉は、顔だけを向けて、腕を抑えている手とは反対の手で、小さく振ると、そのまま廊下を駆け足で歩いていく。


 廊下を渡り、階段を降り、一年生に見られる事も厭わないまま校舎を上履きのまま出て行く二人。


 向かった先は、准が最近来ていない何時かの部室棟である。


 二階にある女子が使用するバスケ部更衣室前まで僅かに荒くなった息で上半身を揺らしながら到着した藍莉と、その必死さに唖然とした准。


 腕は離された。


「また『現象』絡み?」


「⋯⋯多分。けど、なんというか⋯⋯妹も嘘ついてる感じに思えないし」


「貴方にとっては知らなくて、舞喜ちゃんにとっては知り合いかもしれないでしょ?それに、その子高校生なの?」


 名前だけでは年齢が正確に判る筈がなく、自身に聞いてきたのだから、同じ高校に在学している生徒とだと先入観を持って聞いた藍莉。


 准はそんな彼女の疑問に一抹の淀みなく答えた。


「妹が言うには、そうらしい。この高校の女子制服着て、よく見舞いに来てたらしいからな」


「あんまり無茶したら駄目よ?分かってるでしょ?もう、家に帰ったら舞喜ちゃんが居る。貴方一人の問題じゃないのよ」


 藍莉は今朝に会っている舞喜の姿を想起させる。


 下の者が居る環境下が同じである藍莉だからこそ判る僅かばかりの怒りは言葉に含ませて、連日何かしらに巻き込まれに行ってしまう少年のその気質には確かな危うさを感じさせられてしまうのだ。


「だとしても、朝倉さんも言ってたんだ」


 視線が左へと逸れていく。口篭るようにして隠し事でもあるかのように。


 少年は思い返していた。彼が自身に残した『現象』に繋がるメッセージを。


「『忘れてる人は居ないのか』ってさ」


「だったら、彼に見つけてもらえば──」


「いや、もう居ない。少なくても今は⋯⋯」


 絞られていく声には、寂しさがあった。


 少年はこの時には察している。


『朝倉拓也』が帰ってくる可能性は限りなく低いと。


 少なくても今回の事柄に関しては、一切関与する気が彼には無いのだと、少年は悟っている。


 もう、頼りには出来ない。気付けば助言と忠告や喚起を促す男はもうこの世界には居ない。


 旅をしているあの男は、突然現れて、律儀に家にやって来て、ご飯を食べて話をして、自宅に帰るように、次へと向かったのだ。


「帰ってくる目処は?」


「分かんない。ヒョイっと姿見せる時もあったから。⋯⋯けど、少なくても今までと違ってさ、ちゃんと玄関前で『じゃあな』ってそう言ったんだ。何時もそんな事無いのに⋯⋯」


「⋯⋯寂しいの?」


「寂しいっていうか、何も返せてないなって。そんな感じ」


「⋯⋯まぁ、私よりも貴方の方が付き合い長いものね」


 藍莉が彼と会ったのは『幽霊騒動』のあった事件の時であり、一年も前に会っている准とは思い入れが違う。


 苦手な部分も正直あり、話に聞いていたよりも信頼するべきか悩んでしまうぐらいの関係値であり、彼氏の友人程度の関係。


 だが、准にとっては『小さな救済』をした男であり、様々な知識を与えてくれた人物であると同時に、命の恩人なのだ。


『自身の命』も『妹の尊厳と約束』を守り、少年の謳う平穏の為の一助として、何かしらの言葉を掛けてくれた、それが朝倉拓也だったのだが、今はそんな彼に掛けられる言葉は本人には届かない。


 タチの悪い話、死んだ訳ではない為、天に向かって言葉を放つ事に意味が無いのを知っている。


 もしかしたら、また会えるのではないかという微かな希望も抱いている少年には、もどかしさばかりが残る始末なのだ。


「朝倉さんには頼れないのね。なら、一緒に探しましょう?」


「良いのか?」


「何故駄目なの?探すわよ?当然でしょ」


 疑問形で返された言葉に、藍莉は眉を顰めてしまう。


 快く感謝なり承諾されるものとばかり思っていた藍莉にとっては不快な返答である。


「それに貴方、無茶と無謀が取り柄でしょ?そんな人を置いて、オチオチといつも通りにしている訳がないでしょう?まったく」


「酷いのに、優しいッ!やめて、脳がバグる。バグってイカれてるのに、イカれちゃう!」


 狭く深い博愛は今日も少年の為に動き出していく。


 全くの情報や足取りは皆無の中、文字通りゼロからの人探しが始まった。


  ━ ━ ━


 藍莉を中心に始まった『常盤美羽』の探索は一向に進展を示さなかった。


 クラスメイトに聞いてみるも、当然『知らない』や『誰それ?』といった掠りすらしない言葉がオウム返しのように返ってくるのみ。


 准は仕方なく、教師にも話をする事にした。


 幸い、前から妹が入院しているというのは教師陣は既に話が通っており、多少の解釈や齟齬を無視してでも、美談のように扱えば、簡単に情報が手に入ると思っていた准は、担任から『探し人』について話をしようとしていた──その矢先の事である。


 職員室の丁度真ん中辺りで担任と話をしようとしていた頃、右方向にある一年生のクラスを担当している先生達が騒ぎ始めたのだ。


「加藤先生。この『練馬』って生徒にご存知ありませんか?」


「⋯⋯え?誰ですか?一年生ですか?」


 准の意識は一気にそっちに持っていかれた。


 担任の先生が律儀に名前を聞こうとペンを引っ張り出している時に、礼儀知らずにもズカズカと一年生を担当している加藤先生、そして新城先生の方へと歩き出した准は声を掛ける。


「先生、どうしたんすか?」


 加藤先生。


 一年の担当をしている教師であり、体育の授業を受け持つ男性。


 赤と白のラインが入ったジャージを着ている事が多く、皆からは赤を見立てて『火遁先生』と呼ばれており、熱血漢ではない普通の先生には重すぎる名称を大事にしている先生である。


「ん?!あ〜、桐江か。いやな、ホームルームん時にうちのクラスは全員居る筈なんだ──なんだが、知らない生徒が居るんだ。でもクラス名簿見ても数は合ってるし。んん〜」


「え?その名前『常盤美羽』じゃないか?!」


「いや、違う。『練馬ねりま功一こういち』っていう一年だ」


 思わず出た名前に、淡々と答える加藤先生。


 ペンをクラス名簿で突く仕草をさせながら、訝しむ表情を浮かべて、唸る声を上げていく。


「⋯⋯桐江くん、その『常盤さん』って子がどうかしたの?」


 新城先生。


 桐江准が一年生の頃に担当をしていた教師であり、僅かにふくよかな体型をしていて、おっとりとしているのが印象の可もなく不可もない普通の先生。


 数学を受け持っており、デスクにはパソコンと次回使う予定の答案用紙が綺麗に並べられていた。


「いや、妹が探してるって言ってるんだけど、居なくて」


「この学校の生徒なの?」


「はい」


 准が答えると、デスクからクラス名簿を引っ張り出して、視線が上から下へと降りていく。


 再度、指をなぞるようにして紙に添えて確認を取ると、准の方へと向き直る。


「⋯⋯私の担当のクラスにはそんな名前の子、居ないわね」


 意外と早く見つかった。そう感じていた希薄は願いもその言葉で砕けたように感じる准は、加藤先生へと向き直り、聞いた。


「加藤先生は?」


「おらん!俺はこの『練馬』って奴のほうが不安だ。ちょっと見てくる」


 クラス名簿を先に確認していた加藤先生からすれば、その新しい名前がある方が当然、目に付きやすい。


 ただでさえ『練馬功一』なる見慣れない男がクラスに居る中、焦るように職員室を出ようとする。


「加藤先生!廊下は走らないでください!も〜」


「先生、悪いんですけど、『常盤美羽』って生徒が学校に居るか、確認して貰っても良いですか?」


「構わないわよ。放課後までに済ませるから、その時にもう一度来てください」


「はい。ありがとうございます」


 准は職員室を出て、扉を閉めた。そして、一年一組の教室へと向うべく、そのまま階段は上がらずに、廊下を歩いて行く。


「あれ?先輩何してるんですか?」


 最近よく聞くその呼び方と声はすぐ隣の教室から出てきた人物からのものである。


 ブロンズ色の髪に赤のヘアゴムで二つ結び。半袖に亜麻色のカーディガンを着用している准の後輩。


「軽井か。って、サナちゃん連れて来たのか⋯⋯」


「おはようございます。お兄さん」


 ご丁寧に頭を下げている小学校低学年の見た目をした黒のワンピースを着用しているサナ。


 偶に連れて来ていると准は聞いてこそいたが、半ば冗談程度に聞き流してすらいたのだが、まさか本当に連れて来ているとは思ってもいなかった為、少々沈黙を貫いてしまっていた。


「おはよう⋯⋯って、違う!軽井、今すぐ校長室にある飴玉とってこい!」


 指差すは、職員室の奥にある校長室。


 差された方向を見つめる椎奈とサナは校長室に行った事はなく、飴玉があるなんて知らない。


「校長室に飴玉有るんですか?!」


「あるよ!一回入った事あるけど、辰角散ののど飴があった⋯⋯」


 苦くて、喉の調子を整える為の飴玉であり、決して子供が喜んで舐める物ではなく、苦い顔をする事は間違いない。


「子供に舐めさせるんですか?⋯⋯風邪でもないのに?」


「馬鹿野郎ぅ!!こんな子供におもてなししないなんて、恥ぞ!」


 廊下のど真ん中で声を張る少年は拳を握り、奥歯を噛み締めている。


 椎奈は手を口元に持っていきアワアワとしだして、サナは二人を交互に見つめていき、そんな三人の横を通り過ぎる生徒達は奇怪な様子でしか見る事は出来なかった。


「私、恥なんですか?!嘘ですよね?」


 サナは今でも見える人、見えない人で別れており、この会話を見えない普通な人が聞く分には、おかしな内容としてとらえられており、見える人には子供に飴玉を献上させようとする光景に変わる。


 だが、見えない人の比率が圧倒的に多く、少なくてもこの中では准と椎奈にしかサナの姿は視認出来ない。


「あ、そうだ。サナちゃん『常盤美羽』って知ってるか?」


 椎奈の隣に居るサナの目線を合わせるようにしゃがみ込んだ准。


 写真もなく、名前のみではあるものの『幽霊』として『この世ならざる者』として一番影響が受けにくい存在であるサナ。


 その隣に居る椎奈は准に対して鋭い視線を向けていた。


「だぁれ?その人?」


「知らない⋯⋯かぁー」


 大きく息を吐いて、サナの頭を優しく撫でる准は立ち上がる。


「先輩、なんでに聞かないんですかぁ?」


「だって、お前普通じゃん。⋯⋯一応聞くけど、知ってるか?」


「知りません!」


「コイツぅぅ」


 自慢するように胸を張る椎奈に対して冷ややかな視線を送る。


 ある意味、分かりきっていた答えではあったものの、ここまで高らかに言い切ってしまうその物言いに、多少の苛つきが心を騒つかせてしまう准ではあったが、咳払いをした。


「⋯⋯軽井そういえば何組だ?」


「え?二組ですけど?」


 一昨日の夢。【八咫烏】が招き入れた世界において、同じく巻き込まれた軽井達と違い、記憶を保持した状態で帰還。


「⋯⋯なんだっけ?あの時、なんか言ってたような。言ってなかったようなぁ⋯⋯」


 だったのだが、そんな少年にも抜け落ちた情報があった。


 それは、放課後の夕方頃。椎奈、藍莉、准の三人で自転車置き場付近に居る時、ある人物の話をして、その姿を見た筈だったのだが、スッポリとその人物の事は抜け落ちており、妙な違和感が拭えなかったのである。


「どうしたんですか、先輩?」


「お前、憧れる生徒とか居るか?」


「貴方の彼女に憧れてます!」


 周りが静まっていく。唖然としている准、首を傾げて流れる空気を感じ取ろうとするサナと状況をまったく掴めない椎奈であった。


「その言い方だと、僕の彼女になるのが夢みたいな言い方だな」


「⋯⋯え?」


「お姉ちゃん、そうなの?」


 興味津々に椎奈の方へと視線を向けるサナ。


 頭を抱える准。段々と顔が紅くなっていく椎奈。


 耳まで真っ赤になり、汗が吹き出しそうになる彼女は慌てた様子で肩をがっしりと掴んだ。


「ちちちち、違う!あ、違いますからね?!」


「別にお前に惚れられてもなぁ⋯⋯」


 揺らさる身体に抵抗の意思はなく、苦笑いを浮かべながら呟いた。


 だが真っ赤だった椎奈の頬は冷めていき、慌ただしく流れる瞳は真っ直ぐと准を冷めた視線で見つめ、握った肩は、より強くなる。


「は?なんですか、まるで私が先輩に捨てられたみたいなその流れ。は?え?ちょっとカッチン来ました。先輩一発殴らせてください」


 右手は肩から離れて、准の顔を目掛けて殴ろうとする。


 途端の奇行と暴力に屈する程、甘い人生は送っていない准は、殴り掛かろうとするその拳を受け止めたのだが、右肩に加わる握力には屈したように、膝をついてしまう。


「お前、情緒捨てたのか?!やめろーーーッ!暴力は暴力でしか解決しないぞ?!分かっているのか!?」


「うるさいです!うるさいうるさぁぁい!ヤケですよ!?言い掛かりですよ?!面倒臭い女ですよ!?うわぁぁぁぁぁん。学校で嫌な噂されるんだ〜。尻軽とか、タラシとか、そういうの〜」


 既に周りではヒソヒソとする声が准やサナ達の耳を刺激しており、決壊したように泣き出した椎奈を慰めようとする者は居なかった。


「サナちゃん、離れろ。今日のこいつは危ない。そんな気がする」


「⋯⋯うん」


 踵を返してに自身の教室へと戻ろうとする准とその後を追おうとするサナ。


 しかし、左脚に引かれるような圧力が加わり、身体がビクッと跳ねた准は軽く悲鳴をあげて、振り返る。


「うわっ!なんだよ!?離せよ!」


 椎奈の抵抗は続いていた。這い寄るようにして廊下に身体を密着させて、腕は左脚にしがみついてしまっていて、傍から見れば男に捨てられる女という構図の完成である。


 流石に蹴り飛ばしてしまう訳にはいかない。


 泣いている女子、人目とサナという軽井椎奈を最も慕っている女の子という視線は准に苦い顔をさせて、複雑な心境を掻き立てていく。


「見捨てないでください〜〜!先輩しか居ないんですよ〜〜!!あんな恥ずかしい間違い聞かれたら責任持とうって思いませんか?!ねぇ!!」


「思えるかぁ!サナちゃんは僕が育てる!お前はそのまま家に帰って母ちゃんのミルク飲んでろーー!」


「嫌だぁぁぁぁ。捨てないでください〜〜〜!」


 たった一歩の足取りは重く、カーディガンが汚れる事も厭わなず、椎奈の足側からは男子の視線が特に激しく飛び交っているのにも気付かない状況下で准は職員室横にある階段付近までやってきたが、左脚は上がらずじまい。


 椎奈を見つめながら、近くにあるであろう手すりに手を掛けようとするも、後方を見ながらの為か、一向に掌は手すりに触れられないのだった。


「マジやめろ!皆の視線が⋯⋯。僕は捨ててないからな!いや、てか拾ってねぇよ!言い加減にしろよ?!何言いがかり付けちゃってくれてるの?!」


「先輩が死ぬまで離れません!!」


「はぁぁぁぁなぁぁぁせぇぇぇぇ〜〜〜ッ!⋯⋯あれぇ?なんだか、藍莉の姿が見えるなぁ〜。なんでぇ?」


 手すりを確認しようと階段側へと視線を向けると、般若に限りなく近いご立腹以上激昂寸前の藍莉が階段を使い騒がしくなっていく一階の様子を窺うべく姿を現そうとしていた時に、出会でくわしてしまった。


 彼氏の脚に抵抗されつつもしがみ付く部活の後輩であり、女子の姿。


 サナすらもその雰囲気に気圧されそうになり、慌てた様子で、職員室前の壁に隠れてしまう。


 あれほどに騒いでいた椎奈は藍莉を見た瞬間、黙ってしまい、汗が吹き出て、口をパクパクとさせていく。


 バスケ部ならば誰でも知っている一般常識。それは、大洲藍莉には彼氏が居るという事であり、話題にする際は細心の注意が必要とされる、というものである。


「⋯⋯ごめんなさい!私、掠め取ろうとなんて思ってません!たまたまそういうの風に言ってしまっただけなんですぅ!」


 徐々に近付いてくる藍莉の圧力が降りていく度、足が段差に乗る度に強くなっていき、俯いてしまう准。


 何かやましい事をした記憶はないし、していないと誓って言えるのだが、状況を見れば明らかに女を捨てようとしている男の構図であり、バスケ部仲間、後輩、慕っているの三拍子が詰まった軽井椎奈を這わせて、泣かせている状態であるのは、藍莉にとっては地雷でしかなく、准がそれを踏み抜いてしまったと思われても仕方ないのだ。


 周りは静かになっていく。強張る表情から繰り出される恐怖心は伝播するようにあれだけ騒いでいた生徒達も息を呑み、萎縮するように後方へと身を引いていく。


「⋯⋯ねぇ、准」


「はい」


「モテる彼氏って自慢したら、笑われるかしら?」


「いや、えぇと、⋯⋯僕、モテた自負ないんだけど」


「じゃあ、その脚にくっ付いてるのは何?埃?それとも塵?貴方にはどう見えるの?私には──虫に見えるんですけど?おじゃま虫というのか、ひっつき虫といえば良いのか、それか蛆虫かしら?」


 准の目の前、あと一歩で段差は終わりを迎える。


 そんな位置で立ち止まる藍莉は顔を覗かせて、椎奈を見つめて──睨み付けていた。


(あ、あぁ。こ、怖ぇ⋯⋯なんだこのプレッシャー?!)


 そして、遂に逃亡者は現れる。そう、徐ろに立ち上がった彼女は、震えの止まらない身体を存命に全てを委ねるべく、全細胞をフル活用するが如く、身体は回れ右をした。


「せ、せ、先輩⋯⋯私は逃げる!」


「おい待て!汚ぇぞ!」


 振り返る准。だがそんな少年の首の動きよりも早く、人影は通り抜けて、走り出そうと脚が動くと同時に首根っこを掴んでいた人物が居た。


「ひゃうん!」


 藍莉である。首根っこを掴んだ後、肩に腕を回して、胸を背中に押し付けて密着する


「⋯⋯軽井さん?何してるの?なんで逃げるの?同じ部活仲間で先輩、後輩。挨拶は常識でしょ?たとえ、人でなくても⋯⋯」


「ご、ごごご、ごご慈悲を!」


「行くわよ」


 微笑んだ彼女は悪魔の如く、襟元を掴み、校舎の外へと引き摺られるように連れて行かれる。


 そんな様子にただ黙って、手を合わせる准とそれを見て合わせるように合掌したサナは瞼を強く閉じた。


「あ、あーーー!先輩〜〜ッッ!サナちゃーーん!」


「⋯⋯成仏しろ」


「じょーぶつしてね」


 こうして、軽井椎奈は藍莉の手によって何処かへと行き、サナは自身の見える准の手を握り、少年の顔を見上げた。


「お兄さん、ここ何時も来ないよね?今日はどうしたの?」


「あ、忘れてた」


 目的は一年一組の教室にいるであろう『練馬功一』の姿を見る事であり、後輩と戯れる事ではないと改めて認識した准は、サナの手を繋いだまま廊下を歩く。


 サナは普通、人からは視認されず、手が繋がれていれば、サナの手を繋いだ者も自然と歩き方に変化がある。


 サナが引っ張れば、さも名演技のように身体は前のめりになるし、サナが背中を物理的に押してしまえば、押されたように見える。


 しかし、前方、後方には他に人が居ないように見えている為、『独りでに変な事をしている人物』の出来上がりなのだ。


 現在、准の右手はサナが独占しており、繋がれている細い手からは温もりはない。


『幽霊』に熱はなく、触れてしまえている時点で異端である証拠となる。


「やべぇ。どれが『練馬功一』か分かんねぇ⋯⋯」


 一年一組までやって来た准はサナの手を離さないように右手だけ握り、左手はポケットに入れて、出来るだけ目立たないようにしていた──その筈だったのだが、先程の絡みの影響でヒソヒソと声が響いているのだ。


(皆の視線がイタイ!⋯⋯退散するしか無いなぁ)


 教室内には加藤先生がクラス名簿に記載されている名前と実在している人物とが、数が一致しているかを教卓前で指差ししながら確認していた。


 そんな様子を見て、自分の出る幕などはない可能性もあると、判断して自身の教室へと戻ろうとしていた時である。


 不意に見た扉が取っ手も含めて違和感を感じた。


(なんか、変だな?なんだろ?)


 思わず傾げる首だが、角度を距離を向きを変えても解らずじまいであり、ヒソヒソとする声と一点に集まる視線に負けそうになった准は手を握って同じように教室を見つめていたサナの方を向く。


「サナ。取り敢えず、俺の教室に行くか?」


「うん!」


 一向に成果は出ずじまいで、無駄な体力と彼女の新たな一面を目撃するだけとなった休み時間。


 教室に戻ろうとして、階段に脚を踏み入れようとして、手すりを掴もうと左手が伸びた。


「あれ?⋯⋯え?手すりは?!」


 無くなっていた。段差もあり、壁もある、だが手すりだけは無くなっていた。


 登校時に手すりがないなんて事があれば、誰だって噂する。


 二時限目が終わったばかりのこの時間に何があれば手すりが消えるなんて事態になるのか、准は考えても判らず、理解がしきれなかった。


「サナ⋯⋯、手すり何時からなかった?」


「お姉ちゃんが泣いて、ここまで来た時には無くなってたよ?」


「朝は?あったか?」


「うん!あったよ!危ないよね?」


「あ、あぁ。そうだな」


 強烈な不安感が付き纏っていく。それの正体が判らないのにも拘わらず、誰を探さなければならない、そんな感覚に襲われる准は、辺りを見渡す。


 上り始めたばかりの階段を下りて、藍莉と椎奈が向かった方向も、一年の教室がある方向も、職員室と校長室がある方向も見渡して、何も無いという当たり前に違和感が募っていくばかり。


「僕は、誰を忘れてるんだ?」


 チャイムの音に掻き消えていく声は誰にも届かない。


 移動教室を含めて、皆が教室へと向かっていく中、ただ二人は手を繋ぎ、廊下のど真ん中で、佇むのみ。

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