夢故に桐江舞喜は語り尽くす
舞喜編は今回で予定通りおしまい。
朝倉拓也は静かに見守る。ベッドで眠っている少女とその部屋一面にある黒い羽根は徐々に透き通り、肌色にも似たタイルや白い壁が露出していく中、『影』は動いた。
処理が遅く、パラパラ漫画を捲る紙が数ページ飛ばして送られているように、カックカクな動きは、不気味さを醸し出し、無表情かつ、静かに、音もなく横たわっていた筈の身体は立ち上がっていく。
それを本物の少女の肩に触れて、青い瞳を揺らしながら、徐ろに動き出した『影』に向けた視線は、敵意は無く、一瞥だけして、また少女へと向き直った。
「起きたのか。もう終わるぞ。念仏でも唱えてやろうか?」
『必要ない。人に祈られ、尊ばれこそすれば、悼まれる謂れはない』
「⋯⋯女の子の身体で、そんなキモイ話し方、止めてくれないか?仮にも知り合いではあるんだが」
『コレは影に過ぎない故、彼女本人では非ず。さしたる問題にはならぬ筈だ』
所詮は影であり、それを用いて姿を顕しているに過ぎない存在ではある。
それは当然、朝倉拓也とて頭では理解こそはしている。原理も構造も解ってはいるのだ。
それでも彼は苦い顔を浮かべている。
「人間は視覚から得る情報を脳に送って、それで判断するんだよ。後、感情とかギャップとかな?人間鑑定最低ランクなのか?糞烏」
『【八咫烏】だ。戯けた事を言うなかれ。猿』
「誰が猿だ!古語と標準語混ぜてるような知能指数低めの鳥に言われたかねぇんだよ。ダチョウか貴様は」
『鳥の本望を忘れた走るしか脳の無い脳筋と一緒にするな』
飛ぶ事よりも走る事に特化し、脳ミソがちっこくてすぐド忘れしては走り出すダチョウは、鳥界ではペンギンに比べても知能指数は低めであり、かなりのお馬鹿として有名である。
そんなダチョウを引き合いに出された【八咫烏】も流石に怒りを露わにした様子であるが、烏は更にある事に気付き、言葉を続けた。
『いや、待て。我も鳥が中身ではなく、あくまで皮だけだぞ?勘違いするな』
「どっちでいいわ。そんなの。⋯⋯で?出てきたって事は、おさらばだろ?この子の迷子は終わったのか?」
『お主、気付いていて、放置したのではないか?何故だ?』
訝しむ様子からは多少の怒りは含まれているのは、彼からも伝わり、一蹴と嘲笑を混ぜた笑みが浮かばれた。
「ん?俺が迷子センターの職員に見えるのか?お可愛い眼球だな?」
『何故だ。何故、この子の導き手になろうとせなんだ?』
「⋯⋯この世界の人間じゃない奴が、この子の生涯の道まで、支えていける訳がない。俺はあくまでも旅をしているだけだ。それを視野に入れてないだろ?糞烏」
烏とて、目の前に居る男の動向こそ知らないが、旅の目的は知っている。
だからこそ、深くは追及はしないし、言及もしないが、思うところはある事に変わりはない。
そんな様子を見ていない朝倉拓也は、少し微笑んで病室のベッドで寝ている少女を見つめた。
「それにな。俺じゃなくても良いんだよ」
『なに?』
「この子のような悩みはウン万と皆が持ってる。馴染めないとか、取り合えないとか、分かり合えない。時にムカつく〜とか、見てると苛つくとかもあるだろう。でもな、人はそれで良いんだ」
『何が良いんだ?争いは更なる争いを生む』
「⋯⋯お前は、見てるようで見ていないな。その眼は飾りか?」
『なに?』
「大人がどんなに説いても、子供にとってはそれは『初』の事だ。同じ交通事故でも、状況、立場、環境で、その後の流れが大きく変わるし、当たり所でその後に掛かる負担は変わるように、一人一人にそれぞれ、ソイツら宿ってる感情や想い、意志は違う。それを活かす事を多様性と俺は思う。だが、人は社会性に縛られて、その多様性を自ら壊してる。それもまた人が作ったものだが」
目の前で寝ている桐江舞喜の立場、環境、状況は人から見れば、悪辣なのかもしれない。
巻き込まれたとはいえ、それにより被害者は出ていて、本人は苦悩していたとしても、被害者の家族にとってそれは、二の次の話だ。
だが、それをほんの少しだけでも、眼を向けてやる事が出来れば、見ている視点を少し変えてやれれば、何かは変わるかもしれない。
仮に、桐江舞喜がこのまま退院し、中学に登校しても何かしらの不和は訪れて、新たな争いは起こる可能性はある。
「それでも、人は争い無くして人の尊さを知れない生き物だ。初めからなんでも知れる奴なんて居ないように、知る為に知って貰う為に争うんだ。この子も引っ込んでばかりじゃなくて、時には争わないと、理解して貰えないんだ。だって、ソイツらは何でもは知らない人だからな。『初』で『未体験』は、実地でしか学べない」
人が全て同じではない。知っているつもりで、知らない要素は概要は多くあり、未知は常にあり、友人にだって秘密はあり、恋人にもそれなりの想いがあり、夫婦にも隠し事は出来るものだ。
だが、それも含めて、朝倉拓也はぶつからなければ、分かり合えないと口にしている。
かつて、本人がそうだったように。
『お主、性悪説という言葉を信じている質だな?』
「あぁ。人なんて、エゴと矛盾の塊だろ。でもそれが良い。そうでなきゃいけないんだ」
『なんだと?なぜそうなる?』
「だって、人間が機会じみた動きなんてしたら、キモイじゃん。社会性だなんだいっても、種を残せない人は生物学的には無能だし、数だって、世界全体で見れば真ん中辺りぐらいだろう。それでもイチビれるのは、やっぱし、不完全故だと、俺は思う」
にんげんは頭を使い、情報を共有し、コミュニケーションを用いて、野生を生き、社会性を獲得したと同時に、群れて生きる事を選択した生命体である。
犬や猫と比べても脚は遅く、握力はチンパンジーやゴリラと比べても貧弱であり、蝙蝠のようにウイルスを多く持ち、免疫力が常に高く、人のように病気にはなりにくい。
それでも、人がそれでも今日まで生き残れたのは、知能と社会性の確立が大きく、物作りをし、壊し、争い、理解を深め、ルールを設ける。
これが人の営みであり、人が成した成果。
『お主はアレだな。生粋の馬鹿だ。私がそう結論付けよう』
「なんでだ?!」
『そこまで言っておきながら、結局お主は人を尊ばない。人の事を私達神と同類と考えているな?それを馬鹿と言わずなんと言う』
「あらら、バレちった」
そう言い、頭を搔く。諦めたように、『影』に身体を向けて、言い切る。
「だって、俺にとっては、神も人も同じだからな。生き方や価値基準の違いはあっても、俺の邪魔をすれば容赦なく切るし、いい事をされれば感謝する。子供であろうと、大人であろうと、位が高かろうと、低かろうと、俺はお前らを同列に見てる」
朝倉拓也に敵は存在しない。朝倉拓也に解らない事はあらゆる世紀を迎えても訪れず、全てを視て、観測して、読み取り、そして、知らないフリをする。
ある者は『究極の後出し野郎』と揶揄し、ある者は『世界が世界で生んだ屑』と嘲り、ある者は『神をも超えた神秘の銀河体』と絶賛するが、どれも朝倉拓也にとっては、『あざーす』で済まされる言葉でしかない。
神に言われようと、人に叫ばれても全て、この男にとっては同列で同位なのだ。
『哀れだ。嘆かわしい事この上ない』
「ふっ⋯⋯いずれ解るさ。いずれな?」
『影』がボヤけて、輪郭にノイズのようなものが発生しだした。
それを体感している『影』は自身の身体を見て、頷くのみ。
「消えるか。そうか。じゃあな」
『他の神々は先程の発言を聞いたらなんとするだろうか』
「知らん。他所は他所、お前はお前だ。自分で考えて動け、鳥頭」
『やはり。我はお主が好かん⋯⋯』
そう言い、完全に消えて、影は返還された。
黒い羽根は全て初めから無かったように元の綺麗な病室へと早変わりしていく。
その光景を眺めながら、朝倉拓也はニヤリと笑う。
「俺は好きだけどな。イジメがいしか無いお前の事」
━ ━ ━
僕の目の前に父親と母親が佇んでいる。
それは良くないがまぁ良いのだろう。問題は、ここが舞喜の夢によって繰り広げられた世界であり、本人が、しっかりと心の底から蟠りを解消しなければ、囚われっぱなしとなる事にあるのだ。
第一声は誰が掛けるのだろうか、舞喜か、両親のどちらか。
後方で、黙って見ているだけの僕には、ここで少しは心の重荷を解いて欲しいばかりであり、舞喜を見つめるばかりである。
「お、お父さん。⋯⋯お母さん。あ、あのね──」
「どうして、貴女みたいな子が産まれてきたの?」
「え?」
始まった。本当に母さんが言いそうな言葉だが、少しトゲがあるようにも聞こえる。
本物はもっと、陰があるように言うし、もっとねちっこい。
「情けない。本当に、ウジウジとやる事全部が中途半端でお兄ちゃんに助けて貰わないと生きていけないなんて、貴女が私達の子供なんて、虫唾が走るわ」
「母さん、言ってやるな。舞喜もその程度でも、頑張っているんだ、笑ってあげないと」
あくまでも、舞喜の思う父さんと母さんが語り掛けてくるというだけあって、悪印象が強ければ、強い程、本人とは乖離していると同時に、舞喜の嫌な所を明確に突くのだろう。
「うぅ。⋯⋯お兄⋯⋯ちゃん」
助けを呼んでいるように、振り返った舞喜は既にギブアップ寸前で、泣きそうになっている。
助けてやりたいが、僕が大きく介入しても、多分一時的にどうにかなるだけで、舞喜の根本的な心根は変わらない。
ここは、多少なりとも鬼になって口にするべきだろう。
「僕は見てるだけだ」
「でも、でもぉぉ!」
「僕が居ないと生きていけない程、お前、弱くないだろ?おんぶにだっこが悪いと思ってるから、父さんと母さんを介して、こんな台詞吐かせているんだろ?」
「⋯⋯⋯⋯」
父さんと母さんが僕を引き合いに出す事はない。
あるとすれば、同時に怒られている時のみで。
今、この場で対象となっているのは、舞喜のみであり、僕は入っていない。
つまり、舞喜が思い描いた父さんとお母さんにコレを言わせているのは、紛れもない舞喜本人であって、二人の台詞ではないのだ。
「む、無理だよ⋯やっぱり。うぅ」
「無理なものか。ここはお前の自由な空間だぞ?その気なれば、父さんと母さんをお菓子にも出来る。太っちょの魔人と同じ事が出来るって考えたら、凄い空間なんだぞ?」
「何それ?!漫画?分かんないよ!」
「あら?し、知らない⋯⋯。ビビデバビデブーが名前の由来になった、ピンクの睡眠時間が秒単位の奴知らない?」
「知らないよ!!」
「マジかぁ」
少年漫画の金字塔だった作品を知らないなんて、お見舞いの時に持って行ってあげれば良かったかもしれない。
そうすれば多少は和んだ可能性だってあったのだが、完全に裏目に出て、中途半端に怒らせて、アタフタとする妹の様子しか見られなくなってしまった。
そんな妹の様子に追い打ちを掛けるように、母さんが沈んだ表情で更に口にしていく。
「なんで、こんな子がうちの子なのかしら⋯⋯」
「産まれる家を間違えたんだ。仕方ないだろ?」
「恥を知って欲しいものよ。貴方?お願い、なんとか言ってよ?」
父さんに頼み込む母さん。正直、ここは再現度が高いなと、少し関心すら覚えたが、舞喜はそれどころでは無いだろう。
傍から見れば、完全なる茶番で、内なる自分と対談しているだけなのだが、舞喜本人にとっては、ちゃんと前に進み出せるチャンスであり、好機とも言える。
「⋯⋯⋯⋯舞喜、お前は出来の悪い娘だ。生きてる事も恥ずかしいと知りなさい。そんな娘を甲斐甲斐しく育ててる父さん達を誇りに思って、二度と顔を見せないと言いなさい。良いね?」
「⋯⋯⋯うぅ、ううぅぅぅ」
「ほら、すぐに泣く。こんな子やっぱり私達の子供じゃないわ。こんな泣き虫で、誰かの後ろに居るのが生き甲斐のような子が。あぁ、なんでこんな子を私は産んだのかしら。もっと頭も良くて、可愛らしくて、世話のしがいのある子供が欲しかったわ。本っ当に」
「⋯⋯⋯⋯」
母さんの言葉にはどことなく多少既視感があった。
少なくてもニュアンスと言葉の粗さを除けば、僕は中学の頃に言われた事がある。
あの時は、どう返したっけ?思い出せない。
一向に反論も出来ず、いよいよ蹲ってしまった妹は、鼻を鳴らして泣いているのがよく聞こえる。
「言われっぱなしか?舞喜?」
「で、でも、だって⋯⋯。自分の思い込みって分かってても、アタシには、無理だよぉーーッ!」
腰を丸めて、膝から太腿辺りが叫び声を篭らせて、耳に届く。
元々、反抗的な性格ではない舞喜からすれば、このまま蹲るのが定石で、鉄板ネタにもなっているが、今はそれが悪手になると僕は知っている。
こんな所で、挫けて欲しくは無かった僕は、舞喜には近付かず、あくまでも声だけで伝えた。
本当の事を。
「自分と向き合えないと、父さんと母さんになんて向き合えないぞ?本人はもっと面倒臭いんだからな。分かってるだろ?」
「⋯⋯うん、分かってる。分かってるけど」
「僕の事も、父さん、母さんの事も気にするな。必要なのは、自分が何を言いたいかだろ?ちゃんと言わないと伝わらないぞ?伝えなきゃ、進めない。進めないと、戻る事も出来ない。僕は朝倉さんからそう言われた。だから、僕は今ここに居る。だから、お前も自分なりで良いから進んで欲しいんだ」
一年前に言われた言葉。僕が豹変を遂げた妹に対して、戸惑っている時に投げ掛けてくれた言葉であり、今も大事にしている言葉。
まぁその後、べちゃくちゃとよく分からない話もしてたから、そこしか覚えていないのだけど、それでも大事な言葉である事に変わりはない。
そんな言葉を舞喜に投げ掛けたのだが、戸惑っているのか、竦んでいるのか、嗚咽を微かに含ませながら、僕の方へと向き直る舞喜の瞳は、真剣味を帯びていて、少し元の顔付きに戻りつつあるのが分かった。
「お、お」
口元は震えて、落ち着きのない子供のように、彼方此方に視線を通わせながらも、最後には意を決したように、僕の方へと向かった。
白く塗りたくられつつあるこの夢の世界で、舞喜だけが、異様に異物感を醸し出す。
「お兄ちゃんの言葉で言って。せめて、朝倉さんじゃなくて、さ?お願い⋯⋯」
僕の言葉とはつまり、『舞喜』としてではなく、『妹』としてのお願い。
応えてやらねば、兄貴としては不格好であると共に、情けない存在となりかねないその要求は、深く思考を巡らせて、考えうる兄貴としての言葉を口へと発させた。
「⋯⋯そうだなぁ。⋯⋯僕はお前の兄貴で、まぁ鬱陶しい妹って思う時もあったし、面倒臭い時もあったけど⋯⋯」
「うぅ。ひ、酷い」
「でも!それでも⋯⋯僕の妹はお前だけだ。お前の兄貴が僕だけのようにな。そんな酷い兄貴以上にお前が優しい事は誰よりも知ってる。だから、お前は言える」
確信のようなものは正直に言えばなかったが、それでも信じてみたかった。
僕の妹はこんなに凄いんだと、誰かに自慢こそしないが、心の中でしっかりと、正しく、鮮烈に刻み込みたかったのだろう。
泣き虫で、誰かの後ろに隠れるのが日常で、自分よりも他者が得をすると知っていて、不和や協調を乱すぐらいならば自身が損失を被る事を是としがちな、どうしようもない妹。
僕はそんな妹を持って、後悔しなくないし、居て欲しいと願っているのは間違いなくて、きっと安心したいのだ。
何時も、親のご機嫌取りのような妹が、今日。
たとえ夢の中で、両親本人でなかったとしても、僕はこの反抗期を肯定して、背後で応援してやりたい。
だから、変わろうとしているそんな妹に願う。
「押し付けかもしれないけど、それでもお前はちゃんと自分と向き合える奴って思ってるから。兄貴を安心させてくれよ?コイツ、成長したんだなぁ、って思わせてくれ。僕からのお願いだ」
押し付けがましいのかもしれないと、僕自身も分かっていて、きっと、プレッシャーだって掛かるのは百も承知で、それでも──そうだとしても、言わなければ、ならないと感じた。
僕は『兄貴』として、言わなければならない。
そう、受け取った。
「⋯⋯⋯⋯。頑張る」
「あぁ!頑張れ!」
落ちた膝をゆっくりと立ち上がらせて、震える身体を抑え込むように、拳は握られて、胸元付近まで持っていく舞喜の表情は窺えない。
けれど、恐怖心や葛藤、抑えていた様々な感情や、自らを奮い立たたせようとするその表情は、たった一言では表しようのないものなのは、想像にかたくないのは、確かだろう。
「お、お父さん。わ、アタシね⋯⋯お父さんが浮気してる時、悲しかった。アタシも馬鹿なのは本当だけど、お、お、おお父さんの方が何倍も馬鹿だよォォォォォーー!!」
声のボリュームは徐々に上がって、続ければ喉が枯れるかもしれない。
そんな、めいいっぱいの声が純白の世界に轟いていく。
「お母さんもそう!ア、アタシはお母さんの、おお、お、お人形じゃない!アタシは生きて、生きてるから。何時も、怖いし、馬鹿にするし、ビクビクしてて、家に居たくないけど、家族だからって我慢して、お母さんってこんなものなんだって言われて⋯⋯。友達に言われたの。『舞喜ちゃんのお母さん、優しそうな人だよね』って。あの時、その、えーと。⋯⋯嫌だった。だって、優しくないし、怖いし、すぐ怒るし、すぐ大声出すし!でも、でも、う、産んでくれてありがとうございます」
噛まないように、ありったけの心根から発せられた言葉は、息を絶え絶えにする寸前までであり、律儀に感謝を伝えたりと、支離滅裂な部分もあるが、それには僕は関与しない。
僕はその言葉をただ黙って聞いているだけで良いのだと思うし、初めての反抗に僕は要らないのだ。
思いの丈を叫ばせる。思うがままで乱雑に、滅茶苦茶に叫ぶ度に、腰が丸くなりつつ、綴られていく。
「ア、アタシ。お母さんの事、き、ききき、嫌いで、嫌いだけど、仲直りはしたいから。頑張るから、だから、ちゃんと見てて!」
発せられる言葉は震えていた。面と向かって嫌悪の言葉を吐くというのは、存外に精神を使う。
少なくても舞喜にはそうなのだ。
未だ、白く塗られ続けられている夢の世界。
垂れて落ちていく白のペンキのようなものは、地面に触れると、波紋を促して、足元を駆け巡る。
「お父さんも、アタシ、もっとしっかりするから、見捨てないで!お仕事ばっかじゃなくて、前みたいにキャンプでもいいから、遊んでよ!家族らしい事、もっとしたい。自慢したい、楽しみたい!アタシ、この家に産まれて、産まれて良かったって、思いたいから。だから、お兄ちゃんの事もアタシの事も、諦めて欲しくないの!」
「でも、貴女が家族を壊した。違う?」
「そうだよ。アタシが壊したの。あの時、本当にどうしようもないぐらいに。だから、アタシが元に戻したいの」
「出来の悪い舞喜がか?無理はやめろ。出来の悪いなりにやればいい。お兄ちゃんに任せればいいんだ。なぁ?」
父さんが母さんの顔を見てそう言うが、僕の知っている父親は、こんな風に母さんに肯定を促すような言葉は投げてこないが、この世界はそんな原作無視のキャラ崩壊すら容易に可能である。
それにより、僕の知る父さんはより気持ちの悪い生命体へと変化を遂げたように感じざるを得ない。
けれど、舞喜にとっては向かい合わなければならない存在である事に、何一つとして変わりはなくて、対峙するべき相手であるのだ。
そんな相手に一歩、前へと踏み出した舞喜は、更に言葉を重ねるように声を張る。
「それじゃ、駄目なの!アタシがちゃんとやりたいの!お兄ちゃんに任せてばかりは嫌だから。学校もちゃんと、頑張って行くから、逃げないから。⋯⋯」
「それでも出来なかったら、逃げるんだろ?また、お兄ちゃんに任せるんだろ?何時もみたいに」
「どうしても無理なら、頼る、かも⋯⋯。でも、それが悪いなんて思わない。家族だもん」
「舞喜。貴女って子は⋯⋯なんて我儘なの」
軽蔑の眼差しと呆れた表情をして舞喜を見る母さん。
そんな母さんを一瞥した父さんは、鼻で舞喜を笑う。
夢だからこそ我慢出来るが、現実ならば、僕はどうしてしまうだろうか。
多分、殴り飛ばしてしまうかもしれない。
今でも内心は我慢している側なのに、舞喜はよく耐えている方だと思うし、服の裾を掴んで、噛み締めている。
そんな舞喜は小さく頭を下げた。
「ごめんなさい。我儘でごめんなさい」
父さんと母さんが、初めて驚いた表情を浮かべている表情を、唖然と両者が顔を見合せて、現実味のない光景を目の当たりにしているようなその顔付きは、舞喜が確実に変わりだそうとしている事の暗喩でもあるのかもしれないと感じた。
「でも、コレがアタシだから。もう、自分を自分で責めるのは辛いから。逃げたくないから。⋯⋯お母さん、お父さん、ちゃんと頑張りたいから、応援して、ね?」
「舞喜⋯⋯⋯。お父さんはお前に付けられたこの痛みが忘れられない。あの時、お父さんをぶったのはお前だ」
腹部を手で押えて、引き攣った顔で舞喜に見せつける父さん。
母さんは左腕と右頬を抑えて、痛がる素振りをしている。
傍から見たらヤバい人ではあるが、実際にヤバい人なので慣れたものだろう。
「うん。アタシだよ。アタシがやった事だから、ちゃんと、謝りに行くから。本当のお父さんとお母さんに」
「許されると思っているのかしら?都合が良いとは考えないの?」
「都合が良いなんて、思ってない。アタシはちゃんと言いたいだけ。ごめんなさいって。それだけ」
「舞喜⋯⋯。お前はこの先もそう言って謝るばかりか?」
「ううん。きっと、迷惑も掛けるし、失敗すると思う。だから、だからさ。⋯⋯⋯⋯お兄ちゃんやお父さん、お母さんに支えて欲しいの。ちゃんと一人で頑張れるようになるまでの間」
僕には、父親と母親というものの基準はこの二人で、立派な父親と母親とはなにか解らない。
だけど、せめて。舞喜だけは、父さんと母さんの力を借りて立派になって欲しいものだと、それだけは本当に思う。
きっと、徒労も多く、苦労よりも苦痛が伴う日々かもしれないし、想像し易いものだとしても、家族に見切りを付けた僕とは違って、家族愛を求めている舞喜は、父さんと母さんと共に仲良くして欲しいものだと切に願わざるを得ないのだ。
「アタシ、その為なら、頑張れるから!辛い事に文句も、多分⋯⋯いっぱい言うけど、それでも頑張るから!」
「見捨てる事も出来るのに、どうしてそこまでするの、貴女は?」
「家族だからだよ!」
「家族だっていっぱいある。父さんを舞喜が見捨てる事も家族の在り方じゃないのかい?」
「そうだね。でも、アタシは嫌」
気付けば、声の震えは無くなっていて、姿勢をピンと伸ばしていた舞喜。
僕はその様子をただ嬉しく思えてならない。
「もう、絶対に順風満帆は無理でも、アタシは少しでも、仲直りはしたい」
「それが我儘だと分かっていてかい?」
父さんが首を傾げて問い掛けた。
母さんは舞喜の返事を待つように真っ直ぐと視線を向けている。
「そうだよ?それが家族だって思う。お兄ちゃんが居て、お父さんが居て、お母さんが居て、アタシが居る。家族の形に違いがあるのは知ってる。でも、だから、アタシの思う家族をちゃんと作っていきたい」
そして、舞喜は躊躇いなく言い切る。
僕の妹は、今日、明確に確かに前に進んだのだと、そう確信して、安堵の笑みを思わず浮かべてしまう。
(やっぱり、舞喜は凄いなぁ⋯⋯)
僕なら、多分罵詈雑言で終わらせてしまうが、舞喜は違う。
明確に、しっかりと芯があるからなのかもしれないが、泣きそうになっていた声色も鳴らしていた鼻も止まり、震えていた拳は開かれて、確固たる意志で目の前の二人に対して、真っ直ぐに視線を向けていた。
「⋯⋯まったく、馬鹿な子ね」
「うん。だって、お父さんとお母さんの子供だもん」
「⋯⋯私と貴方の子供」
そう言い、父さんを見る母さんは、原作準拠のような微笑ましそうに、恍惚とした表情を浮かべていた。
確かに、何処でも父さんの話題が上がると割と嬉しそうにするのが母さんであり、悪い癖でもあったが、やはりと言うべきか、舞喜の前でもあのキモイのを披露していたのか。
本当に僕は、この親の子供である事に恥しかない。
そんな出来が悪いと思わざるを得ない両親でもある父さんと母さんを交互に見ている舞喜は、更に前へと歩き、二人に近寄る。
「そうだよ。いい加減で、すぐに仕事ばっかりで家族の事をほっぽり出して、取り合ってもくれないし、オマケに胸が大きくて、美人さんにすぐ靡いてホイホイ着いていくお父さん」
向かった先はホテル。当然朝帰りで、何事もないように帰ってくる父さん。
「パートでいい家族風を装って、した事もない事をさもした風に嘘ついて、勉強したか?テストは?ってそれが口癖みたいになってるお母さん」
世間体の気にしすぎが災いして、周りには嘘しか吐けない母さん。
呆れよりも、可哀想という感情が巡ってくるのは、僕だけではない筈だ。
「その二人の子供だよ?馬鹿に決まってる。出来が悪いに決まってる!でも、絶対に⋯⋯アタシは、お父さんとお母さんみたいにならない。もっとちゃんとするし、悪いと思った事はちゃんと謝る。途中で投げ出さない。文句も言うかもしれないけど、それでもやる!」
二人の手を取る舞喜。波紋は辺り一帯に広がり、世界全てが白に染め上がった。
そんな中、父さんは握られた娘の手をもう片方の手で包み込むように握る。
「⋯⋯はっはっは。そうか⋯⋯そうか。そうだな」
二人の様相にノイズが走った。僕は思わず立ち上がるも、走り出す事はせず、すぐに動作がゆったりとなる。
どうやら、舞喜の繰り広げた夢の世界も終わりを迎えたようである。
「お父さん?お母さん?」
「頑張りなさい。舞喜」
「その言葉、信じたらね?」
「⋯⋯うん!」
瞬間、握られた二人の手は消え去り、僕の前方には舞喜のみが残った。
真っ白で、何も無い白の世界は、僕達兄妹だけを残して、完全に跡形も無くしている。
振り返った舞喜は優しく微笑んで、僕の方へと走り出す。
「⋯⋯お兄ちゃん!ちゃんと、見ててね。頑張るから」
「あぁ。イヤでも見ててやる」
「うん!」
そうありったけの笑みを込めて、視界は真っ白に染め上がっていく。
夢の世界故に僕の妹は両親と語り尽くして、僕は何処か安心感すら覚えた。
これを覚えているか、忘れているかは知らないが、それでも僕の自慢の妹はあの両親相手に、最後まで向き合ったのだという事は、誇りに思う。
たとえ、現実では何も解決していなくとも、その足掛かりは出来た事を僕は喜ばなければならない。
反抗の時間はこれからで、この先からやってくる。
まだ予行演習で、本番までは時間が掛かるのかもしれないが、それまではゆったりと、少しずつ見守っていきたいものだ。
━ ━ ━
翌日の九時頃、僕は学校をサボって、妹の退院に付き添う事にした。
とはいえ、その時間には珍しく朝倉さんも居て、手続きの諸々は僕のサインを残しているだけで、全てしてくれており、助かる限りである。
仲良くなった看護師さんや医者の人とも、挨拶を済ませて、舞喜と共に一階の受け付けまで歩く。
そして、残り少ない手続きを僕は済ませて、話し相手になっている朝倉さんと舞喜の所へと向かい、外へと出た。
「外ってこんな空気してるんだ〜」
退院して外へと脚を踏み入れた第一声はそれであり、なんとも拍子抜けしそうな言葉ではあったが、それで良い感じすらしてきた。
「ねぇ!朝倉さん、今日来てくれるんでしょ?」
「お祝いだから、作ってやろうか?」
「良いの!ワーイ!」
「僕も手伝いますよ?」
「お前は、もっと別の事、気にした方がいいんじゃないか?」
「え?」
「たとえば、忘れてるヤツとか。さ?」
忘れている人物でも居ただろうか。
藍莉に蒼太、牧原、嶺二、軽井にサナちゃん。
富宮に武島、紫島、幸坂。
【何処ぞの象】に自分のクラスメイトも覚えている。
誰の事を忘れているのだろうかと、一通り探るが、最優候補で、既に逢えない人物を口にした。
「え?誰です?六華なら覚えてますけど?」
「⋯⋯そうか。まぁ、良いや」
「え?」
何かある。そう感じざるを得ない表情を浮かべた朝倉さんは僕の前を歩く。
「お兄ちゃん!朝倉さん!早くぅ!」
そんな僕達よりも前を既に前進していた舞喜は大きく手を振って、声を張った。
「アイツ、何か変わり過ぎだろ。仮にも自分の想像上の父さんと母さんと話しただけなのに」
「まぁ、いいじゃねぇか。ほら、行くぞ。色々と買ってやるんだろ?」
「⋯⋯はい」
退院祝いは好きな物を三つだけ買うと、本人の前で言い切っていた僕は、財布の中身が足りているか、思わずポケットから取り出して確認した。
「⋯⋯⋯⋯。ヤバいかも」
夢の世界で嶺二から貰った六千円は消失してしまっており、無駄に借りだけを作った気分になっている僕。
せめて、財布にその借りた金が入ってくれていれば良かったのだが、そうもいかないらしい。
家に帰って、舞喜の為に貯めていた貯金を引っ張り出すしかないようだ。
「夏休みはバイトだなぁ」
「まだ一ヶ月先だろ?早くないか?」
「そうなんですけどね。藍莉とかと遊びたいし」
夢の世界では、わざわざ誘ってくれていたが、僕から誘ってみようか。
検討してみなければならないし、蒼太も連れて行ける所も探さなければならないのだが、スマホは現実には無く、パソコンも家には無い。
結局、直談判しかないのが、実情となっているのだ。
昨日の夜二十一時半頃、僕達は目覚めて、皆が騒然としていたあの日。
僕や笠辺先輩や詩葉の三人で、舞喜の居る病室へと向かうと、藍莉、牧原、サナちゃんが既に居た。
朝倉さんが僕達に事情を全て説明してくれたのだが、笠辺先輩と詩葉はどうやら夢の内容自体を覚えていないらしく、僕が覚えているのは夢の中で現実の記憶を取り戻したかららしい。
舞喜も夢の内容はしっかりと覚えており、はにかんだような表情で申し訳なさそうにしていたのが印象深い。
その後、僕達は帰路に着く寸前で、鳩羽さんを置いて行ってしまった事を思い出すも、既に自宅なり何処かに帰っていると信じて、僕達は自宅に着いたのだった。
【八咫烏】なんてむしろ鏡ぐらいしかロクに知らない僕だが、神様とかいう凄いのに憑かれていた舞喜はある意味では、『現象ホイホイ』の申し子なのかもしれない。
なんて考えている僕だが、話を聞く限りでは、朝倉さんが居ないと、舞喜は人殺しになっていたのだと思うと、素顔に感謝しかないのだ。
それと同時に、僕はまだそれに関して、お礼を言っていないのを思い出した。
「朝倉さん」
「ん?お礼は要らないぞ?」
「え?なんで、分かるんですか?」
「分かるからだ。それ以外ない」
「左様で⋯⋯」
確かにこの人は読心術があるのだったか。
それにしても、読むの早いし、出鼻を挫かれた気分となってしまう。
「まぁ、今回に関しては、俺がいた事で、事態が大きく広がったって考えれば、安い出費なんだよ。お礼を言われる事もしてないし、本当に要らないんだ」
「そうですか。なら──」
「代わりに、ちゃんと妹の事は見てやれ。前みたいな事になっても、俺はもう助言はしない」
「⋯⋯はい。分かりました」
忠告なのだろう。この人は基本、正解は濁して、外れは言わない質ではあるが、結局この人の言っていた通りになるのが常で、困る事に積極的に関与もしようとはしない。
今回は、『安易に同じ過ちを踏み抜くな』という警告にも似ていて、僕は真剣な表情にならざるを得なかった。
「そうだ。結局、あの子は言ってないようだから、お前には伝えておこう」
「はい?」
「俺は明日にはこの世界を出る。多分⋯⋯というか、十中八九この世界には戻ってこない」
「え?⋯⋯バイバイ詐欺ですか?」
「⋯⋯ふっ。まぁそう思うなら、それでいいさ」
そう言い、舞喜に追い付く程度の駆け足で前を行く朝倉さん。
僕はこの時、何時もの冗談にも聞こえていた。
実際に何度も「じゃあ!」とか言って結局はひょっこり帰って来ているのがこの人で、いい加減な印象が多かったのだから、仕方ない。
だから、次の日から、朝倉さんが本当に居なくなって、僕は託されたようにも感じてならなかった。
何処で、何時この世界から姿を消えたか知らないあの人は、僕達兄妹の問題、『現象』からの付き合いで、意見の衝突もあったけど、何かあれば助けてくれて、つまらない手紙でヒントのようなものを出したり、おちょくったりするような人だったが、それでも随分と世話にはなっていた。
そんな彼に少しでも認められたかは、僕は彼の口からは、聞けていない。
ナメた手紙は来なくなり、逼迫した状況でも姿も声も現さなくなった朝倉さん。
あの人がどんな人か、僕は最後の最後まで、きっと、理解は出来ないのだろう。
あの人と、語り合いたい事が、多くあったというのに、その時間はやって来ないと舞喜の退院から少しして、理解した。
━ ━ ━
次の日の朝。准は学校に行く準備をしており、一向に起きない舞喜を起こしに部屋へと向かう。
入院中は、規則的な起床と就寝が常であったが、その枷から解き放たれた舞喜は、朝倉拓也と深夜になるまで話をしてお疲れのご様子であった。
そんな舞喜も、退院早々から反抗期に入るような真似はせず、焼きたてのパンと薄味のスクランブルエッグに文句は言わずに、黙々と食べており、テレビを眠たそうな表情で観ながら、兄のせっせと支度をする様子を聞き耳を立てつつ、ノンビリとしている。
まだ、登校には時間を要するとして、夏休み明けを目標と豪語する舞喜は、准と中学校の教師からの了承を得た事で浮かれてもいたのもあったのだ。
既に藍莉は舞喜が起きる前に、顔を出して、蒼太を連れて登校を開始しており、准が一人で何時も通りに登校する事が決まっている。
そんな中、舞喜は口にした。
「そういえば、常盤さん元気?」
「え?」
「だから、常盤さん!お兄ちゃんが来ない時、偶にだけど、お見舞いに来てくれてたんだよ?お礼もしたいけど、お兄ちゃんスマホ無いんでしょ?お礼代わりに言っててくれると助かるんだけど?」
「⋯⋯お前、何言ってんだ?」
「はい?なにって?」
「常盤って誰だ?」
「え?⋯⋯」
語らなければならない物語は続く。
はい。舞喜編はおしまい。
次回から、ようやく出番の少なすぎる女の子、トッキーの出番です。
次回の章でチュートリアルおしまいでさー。




