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この街は今日も語る  作者: 紫芋
桐江舞喜は語り尽くす

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34/40

試練

 朝倉拓也の目的は、滞在している世界に影響が受けない程度に探し物をしなければならないという事であり、武力行使による活動が主軸ではない事と、朝倉拓也以外にも、他世界に介入する者が存在するという事である。


 桐江准達の生きる世界の事を『イカれた世界』だと、朝倉拓也は呼称して呼ぶ。


 その理由はただ一つ、この世界は引き込み、呼び込み、滞在させていくのだ。


『あってはならない者』と『不必要な現象』を。


 全ての始まりという程のものはない。


 ただ、そういった世界なのだという事と、ひょんな出来事一つで、当たり前のように物語は始まってしまう。


 それが『桐江准達の生きる世界』なのだ。


 街には、二つの異常事態イレギュラーが居る。


 一つは、現在、朝倉拓也と戦っている者。


 もう一つは、その存在に侵食おかされた者である。


「⋯⋯チッ。ややこしい事をしてくれたな!」


 内心にあった憤慨は漏れ出て、声に出してしまう朝倉拓也は、街に現れた異常事態イレギュラーの対処の為に、奔走する羽目になってしまい、街の上空を飛行して、その存在と接敵する事を選択した。


 あらゆるものが視えるといっても、弱点はある。


『外からの介入』だ。他世界から唐突にやって来た者には流石の朝倉拓也も未知として映り、事態収拾に駆るしか無い。


 そして、朝倉拓也は今回起きる事を予期した。


 予期と予測を思考し、考え抜いた結果、やらかしてしまったと確信する。


「お前⋯⋯」


 折り畳まれて艶のある黒い翼と緑色の眼光が鋭く、怪しく光る存在を目前に、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた朝倉拓也は、自身の失態を噛み締めるように奥歯を噛んだ。


 白を基調とした目元に赤色の涙のようなペイントが施されたくちばしがある仮面を着けて、准達が昨日訪れたばかりの研究施設のすぐ側に佇んでいる。


「⋯⋯こうならないようにしてたんだがな」


 ゆっくりとその存在へと歩き、拳を握る朝倉拓也の目付きは変わった。


 してしまった失態の対処は自身の手で。そう確固たる意志を持って、一気に懐へと飛び込んだ時である。


 緑色に光る瞳孔はより一層の光を纏って、怪しく波状の波として日本を包んだ。


「ッ何!?」


 握った拳が衝突したと同時に放たれた緑色の波は、強い衝撃と爆発を伴い、辺りにクレーターが形成されるほどであるにも拘わらず、結局、朝倉拓也は事態の事前に止める事は叶わなかった。


 黒い煙は巻き込まれた研究施設の完全な破壊と爆発によるものであり、それを起こした二人の戦闘が始まる。


 躊躇いを大いに残した朝倉拓也は、『超能力』で近くまでやって来ていた鳩羽がいきなり意識を失ってしまい、落下してしまうのを阻止するべく、片腕で抱えたまま攻撃を回避していくものの、攻撃への躊躇と道路で当たり前のように眠る事なく活動している大洲藍莉達を発見し、鳩羽の保護を頼むも、その隙を突かれる形で近くの建物まで吹き飛ばされてしまう。


「⋯⋯クソ⋯⋯やりづらいてなぁ」


 ダメージは無い。正直に言えば、衝撃はあっても直接的なダメージにはなり得ない程に実力差は開いている。


 だが、問題はそこではない。桐江准を含めた日本中の人間が昏睡状態へと陥ってしまった事の方が問題なのだ。


「小娘共が無事なのは⋯⋯、そうか『非日常の存在(わくぐみ)』が中にいるかいないか、か」


 大洲藍莉は【走馬悼】が影の中に入っている。


 牧原逸花とサナは『龍』と『幽霊』の為、昏睡の影響を受けない。


 そして、桐江准に関しては【緑象願りゃくぞうがん】との契約はあるものの本人がその存在という訳でも、中にある訳ではない為、影響を受けてしまった。


「ややこしい事をしたな。アイツには流石に荷が重いだろうしな⋯⋯。やるしかないか」


 体内にある魔力を発散するように体外に解き放ち、昏睡を起こした存在へと一気に加速して突撃をした朝倉拓也は既に倒れた逸花には一瞥もせずに、叩きのめすように、目の前に現れては、空を穿つ勢いで蹴り飛ばして、更に急加速を掛ける。


 高度が千キロを越えた辺りで、蹴られた腹部を押さえていた手を離して、羽根を一枚()いで、それを朝倉拓也に投げ付けた。


 緩やかに迫る羽根を螺旋を描くように上昇した朝倉拓也には避けるには容易い事であり、一気に殴り込みを掛けようとするが、目の前に居るソレは怪しく折り畳まれていた翼を広げて、身体を反り、朝倉拓也の背後へと回り込むように回避をして、戦かせる。


「⋯⋯チッ。烏はそんな事しないぞ!」


 白い仮面と黒い翼、緑色の眼光と身体は黒の艶ある体毛に覆われたその烏へ向けて悪態をついたと同時に、鋭く尖った爪は背中を引き裂かれる。


「悪いが、俺に『試練』は無い。さっきので察しろ!既に終わってるんだァッ!」


 緑色の波状は試練の選別であり、遣いから与えられた機械的システマチックな行動の一つ。


 既に、元いた世界で『試練』を終えた朝倉拓也には不必要な要素であり、到達域でもある。


 背後に回った烏へと振り返り、重い拳を白の仮面に叩き込むと、衝撃音をかなぐり捨てて、一直線に飛ばした後、胸元の前へと両手を叩き、魔力を籠める。


「助けてやるからな」


 白い仮面は砕け散って、朝倉拓也の目の前で落下していき、その仮面の下にある素顔を見て呟く。


 薄い青の光、練られ、圧縮と凝縮したその魔力。


 左手を前方に、右手を後方へと手首を回して、回転を掛けて、叩き飛ばした烏へと一気に突き出す。


「【魂の(ソウル・)砲撃ブラスト】ッ!!」


 青い閃光は大気と大地を大いに震わせて、通った光は雲を引き裂いて、一直線に烏へと迫る。


 朝倉拓也の十八番であり、最も使い勝手の良い正真正銘の魔術。


 この世界には存在せず、あってはならない技法。


 大地に直撃すれば二次被害を生みかねない魂に干渉する攻撃。

魂の(ソウル・)砲撃ブラスト】は烏へと直撃し、青い爆発を発生させて、辺りに強風が吹き荒れた。


 悲鳴もなく、抵抗という抵抗は微かなもので、黒の体毛と白の仮面は剥がれていく。


 広げられた黒の翼は、一枚一枚紙吹雪のように羽根が散っていき、地へと身を任せるように落下しようとする。


 そんな身体を優しく受け止めた朝倉拓也は、その正体に苦い顔をしながら見つめるばかり。


「済まない。俺のせいだな」


 そう呟くと、瞼を閉じた。失敗を今一度噛み締めながら。


【転移移動】で即座に鳩羽達の元へと戻った朝倉拓也。


 帰還と共に見たのは、血で濡れる事も厭わずに倒れてしまった逸花の腹部を押さえている藍莉であった。


 何かを叫んでいるようだが、言葉になっておらず、殆どが聞き取りはできないでいる。


 だが、必死さは伝わり、死なせたくないのだろうという事だけは理解出来る朝倉拓也は脚を一歩、踏み込んだ。


 すると、逸花の傷はミルミルと治っていき、傷なんてものは初めから無かったのではないかと、そう錯覚してしまう程に綺麗に傷は塞がる。


 そんな場面を目撃した藍莉は唐突の回復により、慌てて左右と背後を見回すと、驚愕の表情で呟く。


「朝倉さん。⋯⋯その子は、准の妹さん?なんで?」


「俺の責任だ。済まない」


 そう言う朝倉拓也は何時ものおチャラけた態度はなく、真摯にそう言うのであった。


 だが、事態が全く読めない藍莉は、表情を変えて朝倉拓也の言葉の意図を掴もうとするも、いきなり起き上がった逸花により、その思考は妨害される。


「⋯⋯あ、逸花!良かった、無事で!本当に!」


「うぐぅぅぅ!痛い痛い!痛いよォォォ〜〜。また、死にそうになるゥゥゥ〜」


 感涙と共に逸花を抱き締めた藍莉は冗談で放った言葉に耳を傾ける事はしない。


 そして、朝倉拓也と目が合った逸花は、僅かに顔を引き攣った。


 幸い、藍莉にはその様子は見られてはいないが、サナにはバッチリと目撃されており、不思議そうにその光景を見ているが、追及は決してしない。


 倒れた人達が未だに施設内や道路のど真ん中で寝ているこの状況を知っているのは朝倉拓也のみ。


 落ち着きを取り戻した後、逸花から離れた藍莉は問い掛ける。


「コレは何が起きたんですか?どうしたらいいんですか?それに、その子は⋯⋯」


「コイツは少年の妹で、妹じゃない。ただの『影』だ」


「『影』?ですか?」


 自身の影を一瞥して、朝倉拓也を見る藍莉。


 自身も影に入り込んだ自身の欠片によって改変前の記憶を保有出来ている事から、自然と状況を飲み込めるのだが、それでも、全てが解る訳ではなかった。


「そうだ。よく言うだろ?『光が濃ければ影もより一層濃くなる』って。アレだ」


「じゃなくて、どうして准の妹さんがそんな事になっているのかを聞いているんです!」


 准だけに留まらず、街は静寂に包まれている現在。


 まるでこの世界には、今歩いている藍莉達しか存在していないかのようである。


 朝倉拓也の後方を着いて行くように脚を動かす藍莉達。


 目的地を教えて貰った訳でも無かったが、誘導されるように自然な流れで着いて行っているのだ。


「【八咫烏】の『現象』にこの子が巻き込まれた。いや、どっちかと言えば恩を返された結果だろう」


「なんですかソレ?!」


「【八咫烏】ってのはそもそも知っているのか?」


「知りません」


「同じーく」


「サナも知らないです」


 後方に居る三人は和歌山県にある本宮大社に行った事が無いのだと察し、同時に日本サッカーにも馴染みのあるマークを知らない事に僅かに落ち込む素振りを見せた朝倉拓也。


 仕方ないと言った様子で口を開いた。


「ピッカピカの天照大御神キャピキャピがみが神武天皇へ向けて遣わせた烏。『導きの神』とか『太陽の化身』としての側面がある」


「じゃあ、神様なんですか?その【八咫烏】というのは⋯⋯」


「まぁ、一応な。権能は並程度、戦闘がメインでは無いが、恩義に厚くて、人間の味方をする事も多く、信仰もされてる由緒正しい神様ぱしりだ」


「パ、パシリって酷ッ!」


 逸花が思わず叫ぶと、面倒くさそうに朝倉拓也はそのツッコミに答える。


「あの天照大御神キャピキャピのパシリで迷子のおっさんを助けたって話が有名だからな。仕方ない」


「でも、なんでこんな事を?」


「言ったろ。恩義に厚いんだよ。だから引き起こしたんだ。試練として夢に導いて、人を堕とした。そんなとこだろうが⋯⋯」


 憶測というのも混じっている。


 そもそもの話、抱き抱えている少女が何時、【八咫烏】なら存在と接触したのか、その時期や話の内容も掴めていない。


 だが、間違いなく桐江舞喜には恩義に厚く、迷子となった存在を導こうとする【八咫烏】に接触する資格があるのだ。


【当て馬】による被害とその後の生活の仕方と学校生活などの不安感と小さな畏怖感。


 誰だって、嫌な事があれば逃げてしまいたい時はあり、それに向き合う力を培って成長し、大人になっていくものだ。


 だが、桐江舞喜に関しては、親がその手の役目を放棄したに近く、唯一の親戚、家族である准に対しては、負い目があり、内心の吐露の全てはしていなかった。


 だからこそ、朝倉拓也が代わりにその手の面のサポートとして見舞いに来ていたのだが、教え導き、成長させるには朝倉拓也はある意味では未成熟であり、ある意味では達観して、ある意味では成熟され過ぎていて、少女に対して付け入る隙を与えてしまっていたのだ。


 そして何よりも、【当て馬】という器になった経験と過去は更なる器としての素質を齎してしまっており、【八咫烏】の接触を可能にさせてしまう一因を作る羽目になっている。


「夢?おと、す?どうにもならないんですか?揺すっても起きる気配無かったですけど?」


「無理だろうな。太陽が沈み始めてる事と一度寝かせても効果が切れてないって事は、発生させた本人に会って、解いて貰うしかない」


「解く?⋯⋯その本人って」


「そう、桐江准の妹、舞喜だ。この子が今回の騒動の原因でもあり、同じ被害者だ」


「被害者?」


「神様ってのは、人間の尺度で物事を考えないんだよ。程度を知らないし、加減よりも公言を取る。そのくせ、信仰されればドヤ顔するし、一々デカイ顔して長ったらしい話をしようとする。挙句には何でもかんでも『神』とか『女神』とかの称号は大事らしくてな、司っている権能に対しては煩いんだ。何度鏖殺してやろうかと思ったか⋯⋯」


 過去数度、神様と乱戦した経験がある朝倉拓也から言わせれば、『神だからこそ』の信念のようなものは持っており、それにより旅の妨害を受けている。


 相手にもならないと一蹴するのは簡単ではあるものの、他世界にも干渉出来る存在も居る故に、後腐れ無いようにと、毎度毎度戦闘を起こっては、適度に痛め付けて帰還させているのが、この男である。


 殺生は基本的にしない事を信条にしている朝倉拓也にとって、神様とは邪魔な存在程度でしかなく、我を通す事を生業としている為、意見の対立が絶えないのだ。


「いやいや〜、朝倉さん!流石に誇張し過ぎだよ〜、嫌われるよ?」


「誇張?何がだ?」


「え?いや⋯⋯え?」


「はぁ?⋯⋯あぁ、鏖殺の事か。まぁ、信じる信じないは勝手だ。嘘と思うならそれでいいさ。別に今はそこじゃないしな」


「それでどうしたらいいんですか?妹さんも寝てるんですか?」


 朝倉拓也が抱き抱えている少女ではなく、目の前までやって来た建物をみる藍莉。


 やって来たのは、舞喜が入院している病院であり、騒動の原因の地点である。


「見れば判る」


 そう言い院内に入ると、人が全て死んだように眠っている。


 急かすように脚を動かした朝倉拓也は、エスカレーターのボタンを押して、五階へと向かい、そして、迷いも無く道を進んで行く。


 その後を黙って着いて行くのみの三人。


 サナに関しては、椎奈の様子を見に行こうとするのを静止された上で着いて来ており、何がなにやらといった様子である。


「着いたぞ。この子の病室だ」


 五〇三号室と、ネームプレートには『桐江舞喜』と記されている部屋の前に着いた。


 部屋の扉をゆっくり開けると、ベッド一面が黒い羽根がビッシリと落ちており、静かな寝息を立てて眠っている舞喜がそこに居た。


 まるで寝かされたように綺麗な姿勢での眠りはむしろ気疲れすら覚えそうな程である。


「この子が、舞喜ちゃん」


「そうか、初めて会うのか」


「は、はい、そうです」


 こういった形での出会いは望まぬ形であったが、事態が事態である為、文句は言っている場合ではない。


 黒く染められた病室のベッドに寝ている少女はまるで死装束にも似ているとは、誰も口にはしなかった。


  ━ ━ ━


 夕暮れの放課後。教室の窓から漏れる陽の光はオレンジ色で鮮やかである。


 そんな中、僕は何かしらの違和感が拭えずにロッカーから取り出した鞄を枕のようにして顎の置き場にしていた。


「桐江くん。帰らないの?」


 そう僕に声を掛ける者がお一人様居た。


 クラスの人気者である彼女からの言葉に答えておかないと、後からクラス中に変な噂でも流されてしまっては元も子もない。


「そう言うお前は部活行かないのか?大洲」


「私、今日は部活休むもの」


「サボりか。ようこそこちら側へ」


「桐江くんがサボってる所、見た事無いのだけど⋯⋯」


「そうか?意外と手は抜くぞ?」


 主にテストの時とか。まぁ、こちら至って真剣にやった上であたかも手を抜いている風に見えるのだから、才能とすら感じざるを得ない。


「だから馬鹿なのね」


「馬っ鹿!そういうのは居ない所で言えよ」


 本人に言って傷付くというのを知らないのだろうか。


 僕が強心臓のノミメンタルだから耐えられたものを、人気者にそんな事言われたら常人は五分後に泣くというもの。


 おかしい、涙が出てくるのは何故だろう。


「何よ、陰口言われたいの?」


「コイツ、口達者過ぎん?なんで、こうも返せるの?」


「桐江くんと違ってドライブシュート上手いのよ」


「左様で。⋯⋯で?何を口実にサボったんだ?」


 普段真面目に友達とワチャワチャと行事に取り組む様子は何度も見ている。


 そんな彼女が部活を休むだなんて不思議な事があるものだと、驚きは隠せないのだ。


「口実ではなく、事実なのだけど。はぁ〜、弟にお父さんの誕生日があるから休んでくれって言われたのよ」


「成程、新しい父親に替えて貰う為か」


「なんでそうなるの?プレゼント以外無いでしょうに」


「⋯⋯それもそうだな」


 何を口走っているのだろうか。


 まるで今の父親が駄目というような言い方は確かに良くなかった。


 何故、そんな考えに至って口にしたのか、自分でも甚だ疑問が出てくる。


「そういえば、桐江くんとこうやって話す機会って中々無かったわね」


「話す必要も口実も理由も無いからな」


「そうね。私達、友達でも無いものね」


「確かに」


 目を細め、何か言いたげな彼女だが、それを無視した僕は教室で二人きりとなったこの状況に慣れていないように窓を眺めた。


 僕と彼女が喋りだしたのはつい最近の事で、嶺二繋がりで話を少しした程度。


 人脈の多いアイツには常に助けられている反面、余計な荷物まで持ってきそうで不安はある。


 そう、アイツのように──アイツ?誰だ。


「それで、何を黄昏てるの?似合わないわよ?」


「似合うからしてんじゃねぇよ」


 嫌味なのか、本気なのかが分からない彼女の言い方にアイツの正体が掴めないままの思考は吹き飛んだ。


 今日、窓際となった僕の席はグラウンドも夕暮れの空も見渡せる絶景であると同時に、眩しさで瞼を覆いたくなる。


 何も無い、ごく普通に送る学校生活で窓際なんて得した気分だったというのに、二時限目からはそんな役得な気分は消し炭となっていたが、僕の隣の席が大洲藍莉という事もあり、その陰鬱さは加速していた。


 そんな僕とお隣でも上機嫌な彼女は鞄をロッカーから引っ張り出して、僕の前へと立って言う。


「取り敢えず、一緒に帰らない?」


「⋯⋯まぁ、いいけど」


 そうして、僕は席を立ち、一足先に教室から廊下へと出た彼女の後を追うように歩き出す。


 階段を下って昇降口にある下駄箱を目指している途中、剣道部の先輩方らが駆け足気味で僕たちを追い越すように走って行く。


 三年生で、二、一年からもよく話に上がる笠辺先輩だ。


 接点なんて当然ないし、友達とワーキャー言いながら、僕達の背を抜けて前を駆け出して行くが、どちらが歳下か分からないぐらいには談笑しながら話している。


 そんな笠辺先輩の横顔がチラッと映ると、僕は不意に首を傾げてしまう。


 こんな感覚は今日の朝もあって、不可思議な情緒に呑まれそうになる。


 そう、僕は何かを忘れているのだと、そう思い、隣にいる優等生へと声を掛けた。


「大洲。忘れた事がある時、どうやって思い出すんだ?」


「え?えぇと、その日の行動と言動を振り返るとか、思い出の品を漁るとか?かな」


 一瞬の戸惑いから、考える素振りが果たして必要だったのかというぐらいに早い解答が返って来た。


 本当に頭の出来が違うか、常習的に物忘れをしている人ぐらいの早さである。


「⋯⋯そうか。思い出の品か。例えば、何があるのさ」


「アルバムとか?貰い物とか」


「お前の場合、蒼太からの物しか無いだろ?」


「⋯⋯⋯⋯私、弟の名前、言った事あったかしら?」


 階段を下りる彼女の脚が止まりだし、それに合わせるような形で動きを止めて、思い返してみる。


 言われてみれば、僕はどうして大洲の弟を知ってるのだろうか。


 聞き耳を立てて彼女の口から出た弟の名前を覚えていたという可能性。


 そう思えば理解は出来たが、納得がいかない。


「桐江くん、今日変よ?どうしたの?」


「僕は何時も変だよ」


「そう言う自虐、私は上手く返せないわよ?自虐虫くん」


「おい、何ボソッと言ってんだ?」


「あ!口が手動が動いてしまって⋯⋯」


「せめて口走って欲しかった」


 上手く返せないどころか、自分の好きな速度とコースに打ち返そうとするその姿勢に天晴あっぱれと謳うべきか、敢えて責めるべきか悩んだが、どちらにしても悪い結果にしか繋がらなさそうである。


 心配そうに一段上から見下ろす彼女の顔はよく見えていて、不安そうな表情をしているのだ。


「⋯⋯何か悩み事なら、乗るわよ?」


「いや、いい。お前は僕なんかよりも武島や富宮とか牧原と仲良くしてろよ」


「⋯⋯待って!?牧原って誰?」


「⋯⋯⋯⋯誰だ?」


 口からさも当然のように漏れた名前。


 牧原逸花。そう浮かんだ名前には何故か既視感のようなものがあるが、僕はそんな生徒を見た事も聞いた事もない。


 口を手で塞いで、驚愕しましたと言わんばかりに目を見開いた僕。


「桐江くん、本当に大丈夫?何処か、頭打ったとか?何かあったの?」


 そんな様子を心配する彼女だが、僕は手を振りその優しさを拒否するようにした。


「いや、本当に何も無いんだ⋯⋯」


 多少の動揺があったが、僕と彼女は下駄箱まで辿り着き、靴を履き替えた。


 正門に行く前に、僕は自転車を引っ張り出して、彼女はその様子を見届けるように側に居るのだが、何故ここまで凝視されなければならないのか、些かの疑問はあったが、気にしない事とした。


 さて、正門へと行こうと自転車を押していると、僕達の後方から声がする。


「あれ?先輩!今日、部活行かないんですか?」


「軽井さん。走り込み?」


 ブロンドの髪色で、ポニーテールにして体操服を着ている女子がやって来た。


 どうやら、僕達の一個下、つまり一年生のようで、中々にオシャレ好きというか、キャピキャピしている感じがする彼女は汗だくで僕達に近付く。


 厳密には僕達ではなく、大洲に近付いているのだが。


「そうなんですよぉ〜。正木先生、タルんでるから校舎の外周して来いって煩くて〜。あぁー大洲先輩、助けてくださいよぉ〜」


「私、今日は休みだもの。どうしようもないわね」


「えぇ〜!⋯⋯あ、もしかしてお邪魔でしたか?」


 何かを察しましたというように、彼女は大洲からも距離を離してしまう。


 なんという勘違いと思い違いなのだろうか。


「待て待て、後輩。僕とこんな個性の塊と仲良しと?目は大丈夫か?」


「何よ、没個性。死んだような目をしている気怠げな人に言われたくないわよ」


「誰が没個性だ」


 気怠げだって個性だろうに、酷い事を言う女だ。


 僕と隣を歩く大洲を見比べていく軽井という後輩も何かを言いたそうにしてる様子を見せて、再度大洲へと近付く。


「そういえば、大洲先輩のその髪色って染めてるんですか?」


「地毛よ?」


「えぇ!そんなんですか?いいなぁ〜」


「おばちゃんがオランダ人なんだっけ?」


「じゃあ、ハーフですね!」


「それを言うならクォーターだ」


「あれ?」


 この子、素で馬鹿なのではなかろうか。


 こんな所でポンコツポイント稼いだって誰も得しないだろうに、本当に間違えて恥ずかしそうにしている彼女を見て、伝播したように僕まで恥ずかしくなる。


 誰か見ていないか確認してしまい、誰も見ていない事に安堵を浮かべた僕に、肩をポンと手を乗せる大洲。


 急なスキンシップは男の心をドキマギさせて最悪の場合、心肺停止に追い込む行為というのをご存知ないのだろうか。


「というか、私のおばあちゃん、生粋の日本人なんだけど?」


 どうやらスキンシップではなく、僕の適当に言った虚言に多少なりとも言いたい事があったご様子である。


 これは心肺停止しない代わりに生き地獄だな。


 更に、適当な嘘を吐かれた軽井も僕の方を不審そうに見つめてくるのだ。


 人生一変するほどの嘘を吐いた訳でもないのに、なんというプレッシャーなのだろう。


 素直にこの子の将来が怖いまであるが、僕は先輩で男である。


 ならば臆さずに、堂々としている方が潔が良いまであるのではないだろうか。


「先輩、嘘つきましたね」


「嘘つきましたけど?何か?」


 開き直った僕はそう呟くと、驚いた様子を見せる軽井。


 なんて、いいリアクションをするんだろう。


「な、なんて素直な自白⋯⋯」


「自白は素直なもんだろ」


 そんな事を言っていると、軽井の視線は僕達から外れて、正門へと歩く女子高生へと釘付けとなった。


「あ、常盤さん」


「ん?友達か?」


 長い黒髪に鞄を前に持ち、如何にもご令嬢といった風貌と立ち振る舞いをしている彼女は僕達を見て、小さく手を振った。


 軽井はそれに反応するように手を振って、見届けるように背中が小さくなるのを無言で見つめている僕達。


「綺麗だなあ。良いなあ、私もあんだけ⋯⋯」


 そう言う彼女の視線は下へと向いていた。


「⋯⋯⋯⋯はぁ〜ん。成程」


「先生に変質者が居るって言わなきゃ」


「おいおい。何故だい?クラスメイトだろ?見逃すという妥協をここで見せてくれてもいいじゃないですか?」


「嫌よ。胸見て比べてるような人の妥協したくないわよ」


「先輩、変態」


「お前な、そんな事言ったら、僕は女子と会えば基本見るぞ?そこにあるんだから仕方ないだろ?」


「じゃあ、私の時も?」


「嫌、見飽きた」


「いだだだだだ!なんで踏むんだよ!」


「何となくよ、まったく」


 思い切り踏まれた僕は、下へと視線を向けた。


 本当に学校指定の物か、もしくは鉄でも入っているのでは無いかと疑ってしまう程に物凄く痛い。


 数秒、踏み続けられて、離れた時には膨れっ面をする彼女だが、可愛いなんて口にする事も出来ない程に脚がジンジンと鳴って、しゃがみこんでしまう。


「仲、良いですね?やっぱりお邪魔でした?」


「「違う!」」


 ハモってしまった。嫌だよ?学校の噂になるなんて。


 そんなこんなで、正門へと向かうという目的は完全に頭から抜け落ちてしまい、三人で談笑していると、軽井が思い出したように口を開ける。


「あ、私そろそろ」


「えぇ、頑張ってね」


「はい!それじゃあ失礼します」


 僕は彼女に鼓舞の言葉は送らずに見届けるに留めた。


 どの道、僕というよりも大洲を目的に立ち止まっていたのだ。


 僕が声を掛けなくても、彼女が声を掛けるだけで済むのならば越した事はない。


 そんな、爽やかなキャピキャピ女子が走り込みへと戻り、姿が見えなくなったのを確認すると、僕は呟いた。


「軽井って言ったっけ?あの子、本当になんと言うか取っ付き易い奴だったな」


「桐江くんもあれぐらい、軽い感じでいけばいいじゃない」


「それはどんな無茶だ?」


「無茶を可能にしてみなさいよ」


「無茶っていうのは、可能性が無いから無茶って言うんだぞ?」


 古事記に書いてて欲しいものだ。というか書いてくれ。


 そうすれば、彼女の言葉の論破に繋がるというもので、勝った感を出せる。


「それにしても⋯⋯」


「え?それにしても?」


 どうやら、もう無茶のお話は終わったらしい。


 僕の勝ち路が露と消えた。


 そんな僕には視線を合わせず、段々と近づいて行く正門を見ながら彼女は呟く。


「常盤さんって人、綺麗な人だったわね」


「そうか?お前も大概だぞ?」


「ありがとう。でも、ナンパは他所でやって」


「ナンパじゃねぇよ」


「あの子、一年の間でかなり有名なのよ」


「有名?」


「お嬢様でしょ?あの子」


「⋯⋯そうなのか?知らないが」


 本当に知らない。名前も知らないし、あんな生徒がいた事すら記憶にございませんなのだ。


 けれど、有名にはなりそうな風格は何となく感じていた。


 どう見ても美人に見えるし、遠巻きでも所作が綺麗で、愛嬌のように手を振ったあの仕草が出来るクラスメイトなんて、自慢したくもなる。


 とはいえ、僕達にも大洲藍莉とかいう髪色で目立って、品行方正で人気があり、成績で勝ち誇れる存在が居る為、中々にいい勝負が出来そうだ。


 今度、メンコか凧上げで対決して欲しいものである。


 シラケて微妙な空気にしてやりたい。


「博識ならぬ、白識ね」


「誰が頭真っさらだ」


「まぁ、兎に角、あの子を狙ってる子、多いのよ」


「僕としては、あぁいう子が厨二病とかだったら最高だな」


「待って、何言ってるの?」


 不審者を見るような目で見つめてくる。


 だが、日陰者にはそんなのは効かない。


 何故か?そんなの見られた時点で縮こまって霧のように消えてしまうからだ。


 けれど、日陰者の中でも嶺二という強敵相手に鍛えられたメンタルとコミュ力があり、それによって僕にも耐性があるのも事実。


「何となくだよ。ギャップって奴だ。で?実際はどうなんだよ博識な大洲先輩はその常盤って子を何処までご存知な訳で?」


「⋯⋯厨二病かどうかは知らないけど、目立った事はしない子と聞いてるわよ?落ち着きがあって、皆の注目の的だって」


「へぇ〜、漫画の世界から出てきたみたいな奴だな」


「ええ、そうね。悪い噂も聞かないし、勉強も前の中間テストで学年一番だったらしいから、相当優秀なのね。きっと」


「というか、もっと偏差値の高い所行こうとして、受験失敗して下のランクのこの学校に来た感じもするな」


「あぁ、それはないらしいわよ」


「違うのか?」


「えぇ。バスケ部の子が常盤さんと同じクラスなんだけど、聞いたらしいのよ」


「また随分とズケズケと⋯⋯」


 どうやってそんな質問したんだよ。普通の会話をするにしても、入学志願の理由が話題に上がるなんて普通はない。


 かなりマイルドにかつ、遠回しに言わなければ居場所が無いのではないかと勘違いされてしまうまである。


「その時に常盤さん、自分から志望してこの学校に来たって言ってたらしいのよ。だから、受験失敗で滑り止めって形で来た感じじゃないらしいわよ」


「嘘かもしれないだろ?」


「理由聞いたら、制服が可愛いからって言ってたわ」


「⋯⋯そうか?」


 僕は大洲の着ている制服を見る。


 至って普通のシャツだ。白の半袖で、紺色のスカートと普通の黒の靴下と靴。


 何処が可愛い要素があるのだろうか?


 冬服は確かにブレザーになり、指定が厳しくないカーディガンを羽織る者もいるが、それでも制服を可愛いと言えるその考え方には僕は懐疑的にならざるを得ない。


 結局の所、着てる奴の問題だろうに。


「私は可愛い方だと思うわよ?」


「お前は人気者だからな」


「はぁ〜、もういいわよ。期待して損した」


「え?」


 不貞腐れてしまった。僕も馬鹿では無い。


 多分、可愛いとか、肯定するような言葉が欲しかったのだろうが、そんな事言われても困るのだ。


 だって、ただのクラスメイトに「可愛い!超可愛い!どこの星の人か分からなかったぐらい可愛い!」なんて、言われても困惑必須であり、意識されても僕よりも良い人はきっと居る。


 大洲、お前は選べる立場で在りながら、選ばないという事を選ぶのは、選べない人の冒涜であると教えてあげたい。


 そう、僕は選べる立場に居ないが、彼女は違う。


 人気者で実際に愛嬌もあれば、ちゃんとノリに乗ってくれる優等生で美人だぞ?


 選ばないなんて損得以前の問題とすら思えるのだ。


 不貞腐れて前を歩いて行く彼女は僕に一瞥もなく、校門前で立ち止まる。


 お別れの時間がやって来たのだ。


「俺はこっちだから。じゃあな」


「えぇ、それじゃあ。また月曜日。ちゃんと登校しなさいよ?」


「なんだよ?僕が不登校するって言いたいのか?」


「だって、折角の話し相手なんだもん。来て欲しいじゃない」


「まぁ、目立たない程度にな」


 少しだけ、驚いた様子だった、かもしれない。


 日差しが彼女の顔を隠して、僕はそれを見続ける事が出来ずにいて、結局逃げるように自転車に跨った。


 後ろから挨拶の声はしないし、引き止めるような声もなく、僕は自転車で予定通り自宅に辿り着くまでの間、無言で暑くなり始めた季節の風に当たりながら、不整脈のように一心不乱に高鳴る気持ちを隠すようにペダルを漕いだのだった。


「ただいま」


 辿り着いた自宅は静かで、何時もならば騒がしい存在が同じく騒がしい友達を呼んだり、一人の時ですら、スマホで動画サイトを爆音で垂れ流しているのだが、そんな光景は訪れてはいない。


「そっか、舞喜は父さん所か」


 朝に言われた事を思い出した僕は鞄を自室に放り投げて、キッチンに行って皿洗いを始めた。


 違和感は未だに凝りのように心に残り続けていて、どうしても拭いたくて仕方ない。


 そんな気持ちがスポンジを持って皿へと当てている手の動きに出ており、早送りのように手早く済ませてしまおうとしている僕が居る。


「思い出の品ねぇ〜。そんなもの無いし、アルバムとかですかねぇ」


 シンクにあった皿や茶碗は全て洗い終えて、食洗機に置いてスイッチを入れた後、自室にある押入れへと向かった。


 大洲の言葉を信じるならば、アルバムや誰かから貰った大切な物や記念写真といった類いで何かが分かるかもしれない。


 この気持ちの悪い感覚からもいい加減に離れてしまいたくて、右へと戸を流し、ダンボール数個と引き出しが数箇所ある物入れを漁っていく。


 小学校の頃に貰った色紙や、思い出となっている昔の写真が大量に挟まったアルバム。


 見渡していき、目立った何かがあるようにも見えず、ゆっくりと分厚いアルバムをしまい、溜め息を吐いた。


 何かまだあるかもしれない。そんな淡い期待だけが嫌に先行して身体は再度押し入れへと向かわせて、ダンボールの中身を覗かせる。


「⋯⋯⋯⋯この箱なんだ?」


 木箱というには色が鮮やかな茶色で、引くのか押すのか、あるいはパカッと開けるタイプなのかも不明な四角形の箱。


 取っ手がないその箱に小さな溝があり、爪で蓋の部分を上げると、そこには赤い宝石が埋め込まれたネックレスがあった。


「んん?なんだこの宝石!えぇ?!父さんのヘソクリ?!いやぁ、流石に僕の部屋に置いて置く訳ないな」


 売れば高値で付きそうな、綺麗で目を奪われてしまう宝石は、血よりも鮮やかであるのにも拘わらず、何故か『濁っている』と思ってしまった。


 初見の筈のその宝石は夕方の光に反射して僕の瞳を焼く。


「あれ?なんで?あれ?」


 涙が流れた。体温を感じ、声が聞こえる。


 後ろ姿が白い光に包まれて消えていく一人の誰かが脳裏に通り過ぎて離れない。


 けれど、僕は──彼女を知っている。確実に、忘れてはいけない何か、誰か、大切で胸を締め付けるようなこの感覚は決して忘れてはならなかったものであると、再認識させられる。


「六華⋯⋯」


 溢れる涙の際に出た名前は僕は聞き馴染みが無いのに、懐かしさと後悔が渦巻いていく。


 僕はきっと、本当におかしくなってしまったのだろう。


 立ち上がって、気持ちを落ち着かせようと、天井を見上げた時だった。


『やっと呼んでくれた。待ってたんだよ?』


「え?!」


 思わず声の方向へと顔を向ける。真正面で夕焼けの日差しが黒いシルエットのようになっている者が居た。


「だ、誰だ?!お前⋯⋯⋯⋯お前は知ってる気がする」


 驚きは前から後ろに、懐かしさと疑問は後方から前方に出る。


『准くんは仕方ないね。本当に。うん、仕方ない』


 優しく呟くように言う恐らく女性らしきその人物は微かに微笑んだ気がした。


 いや、シルエットとなっているから声で判断するしかない状況で、ここだけ見ると僕を襲おうとしているようにも見えるのだが、何故か畏怖感や恐怖が湧いてこない。


 それどころか、僕は近付こうとすらしていて、一歩前へと出る。


「⋯⋯なんで僕の名前まで?」


『起きて。もう、寝てる暇はないよ?舞喜ちゃんの所に行って、早く』


「⋯⋯⋯⋯」


 更に近付いて、僅かに顔が見えた。


 彼女の額は僕の額に付けられて、手を目元を塞いでくる。


 温かくて、優しい感覚、そして、鮮明になっていく違和感の正体が僕の心を大きく騒つかせていく。


『准くんの感じてる違和感はもうすぐ解ける。大丈夫だよ。さぁ行って。何時もみたいに、走らなきゃ』


 目元から手が離れそうになり、僕はその手を掴もうとするも、すり抜けるように消えた。


 変わらない。そう思った僕は、大きく息を吸って吐いてを繰り返す。


 ここで耐えなきゃ、また泣いてしまう。


 感動や必然性や奇跡性のある再開では決してなく、むしろ偶然、偶発性に近い形であったが、一年ぶりにあの閃光に散った龍と再開出来て、感無量となっている僕。


 まだ、終わっていないし、始まってもいない。


 スタートラインのホイッスルは鳴ってすらいないのに、感動する馬鹿は居ない。少なくてもここではいらないのだ。


「⋯⋯⋯六華。ありがとう」


 僕の人生において、最も傷を付けて、痛みを含ませて、後悔と懺悔を多分に遺して去った刃龍にそう呟いた。


 そして、僕は自室を出て、カレンダーを見る。


「日付けからしても今日はまだ舞喜は入院してなきゃいけない。なのに居る⋯⋯」


 そもそもの話、僕達は爆心地へと向かって道路を走っていた時、急にやって来た眠気に襲われてしまい、恐らくだが眠ってしまったのだろう。


 けれど、それが分かったから覚めるという訳でもないとなれば、舞喜に会うしかなくなる。


 そして、何よりも牧原逸花の存在が無い事が僕にとっては大きな疑問となっているのだ。


 彼女は龍。龍は強力な反面、影響を他所様へと与え易く、影響を受けにくいと朝倉さんが言っていたのを思い出す。


「初めから居ないか、影響の外に居るか、か」


 僕はある仮説を立てた。勿論、夢である前提でだ。


 命と引き換えに消え去った筈のスマホをポケットから取り出した僕は電話を掛けた。


 話さなければならないのかもしれない。言わなければならないのかもしれない。


 自分が思っている以上に根が深くなってしまう前に。

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