落ちて、堕ちる、墜ちた
朝の陽射しの眩しさで目を開けた僕は、蹴飛ばしてしまったタオルケットは敷布団から遥か遠くに。
額から首筋へと流れる汗の気持ち悪さに立ち上がり、そのまま部屋を出た。
鼻腔を擽るいい匂いがリビングから立ち込めている。
寝惚けた思考が快活気味になっていく中、キッチンを一瞥した僕は洗面所へと向かい、顔を洗いに行った。
首筋に垂れた汗はタオルで拭き取り、朝から眠たそうにしている自分の顔を鏡で見つめる。
「馬鹿そうな顔だな⋯⋯」
何時も見ている顔であり、はねてしまった髪を水で濡らした手で当てていき、倒していく。
ある程度納得した僕はそのまま洗面所を出ようとする僕はふと浴室の方へと目を向けると、結露が浴室の扉にあるのに気付き、思わず溜め息を零してしまう。
「何度言ったらいいんだ。アイツ⋯⋯」
僕は呟いた。一昨日には言った事がもう出来ていないともなると怒りたくもなるが、何処か仕方ないと甘やかしてきたツケのようなものが回ってきてしまったのだろう。
早歩きでリビングへと向かい、既に僕の到着を待っているであろう人物へと声を掛けた。
「おい、舞喜!朝風呂は良いけど、結露が酷くなるから換気扇回せって言ったろ?何度言えばいいんだよ?」
「んん?あ〜ごめん。アタシウッカリしてた〜」
「しっかりしろよな。お前、中学で人気だからって調子に乗りすぎんなよ?」
「煩いな〜。お兄ちゃんだって洗濯物出さない時とか、お弁当キッチンに置いとかないとかあるじゃん!」
「あのなぁ〜、カビるんだよ!」
「お弁当はカビても良いっていうのー!最っ低〜」
テレビを自堕落に観ながら、朝食に口を付けている妹。桐江舞喜は僕の妹で、校内の人気者だ。
中学生の筈なのだが、何故か僕の高校にもその名は轟いている。
どうやら、僕の預り知らない所で色んな問題を解決しているらしく、『空弩街』の住人ならば、誰でもその名を聞いた事があるらしい。
僕は兄というのもあって、よく男子から仲介役を頼まれてしまうが、鬱陶しいったらありゃしない。
こんな粗暴で、いい加減で、ぐうたらで、馬鹿で、呑気の怠け者で、見た目と世間体の取り繕いだけが上手くなった奴の何がいいのだか、僕には皆目理解が出来ないのだ。
「お兄ちゃん、早く食べてよ?洗い物してくれるなら良いけどさぁ」
「⋯⋯はぁ〜。分かった」
「あ、明日土曜日だから、このままパパとママの家に泊まるね?」
「あぁ、そうか。⋯⋯」
何故だろう、なにか違和感が残る。
小さくない大きな違和感。僕の家には父親と母親が何故居ないのか、離れて暮らしている理由ってなんだっけ。
というか、どういう事だろう。妹ってこんなのだっけ?
「⋯⋯⋯⋯まぁ、いっか」
「はぁ?どうしたの?」
「いや、べーつに。⋯⋯熱ッ!」
「もうー、零さないでよ!はい、拭いて」
味噌汁を零してしまった僕にティッシュ箱を手渡す舞喜。
指と舌は火傷で、パジャマとカーペットは味噌の香りが付いてしまうという惨事。
呆れた表情で、机にティッシュ箱を乱暴に置いて、立ち上がった舞喜はリビングを離れて少しすると、急ぐようにタオルを僕の頭に掛けてきた。
「はい、これで拭いて。おっちょこちょいで馬鹿で単細胞のお兄ちゃん」
「余計なものが多いんだよ!お前は!」
「ふん!じゃあアタシ先に行くから」
「あぁ⋯⋯え?もうそんな時間?」
「私、日番なの」
「あーね。いってら。気を付けてな」
「それはこっちの台詞!行ってきまーす」
リビングから玄関へと向かう後ろ姿を何気なく見ていた僕は不意に涙が流れた。
突然の涙は僕の思考を停止させて、思わずに拭う。
「え?な、なんで。⋯⋯何泣いてんだろ⋯⋯」
玄関の扉が閉まり、一人となった僕。
何故か安心感すらあるその状態に違和感を覚えている僕はきっとおかしくなってしまったのだろうと早急な決断をして、朝食を口に頬張っていく。
「⋯⋯⋯⋯なんだろ?味もなんか、変だな⋯⋯」
物足りないと、そう感じてしまう。
何時も慣れ親しんだ味、家庭の味とも呼べる見慣れた朝食で、白米に卵焼き、味噌汁と納豆。
何時もこんなTHE・朝食みたいな感じだっただろうか。
いや、違う。もっと簡素で、適当だった気もする。
むしろ、懐かしい感覚がしてならない。
最近までのがおかしくて、その前までが当たり前だったのが帰ってきたような、そんな懐かしさ。
そんな心温まる朝食と睨めっこしている僕。
「⋯⋯まぁ、いいか」
考える事を放棄して、口と箸を進めていく。
全て食べ終わった頃には眠気なんて無くなってしまっており、シンクに皿を入れて水で漬けて、学校へと向かう準備をした。
歯を磨き、再度自分の顔が映る鏡を見るも、本当に没個性というか、普通というか、平坦で平凡でつまらない人間な感じがする。
自分で言うと傷付くから敢えて言わないが、こんな奴と付き合いたいとか普通思わないだろう。
だが、こんな没個性な奴がバリバリ仕事が出来て、頼れる先輩してたら、それはそれで一周回って有りとか言われるのかもしれない。
「なんか、やる気出てきたな⋯⋯。僕って凄いぞ!⋯⋯⋯⋯やっぱ、凄くないわ」
何も凄くないという事が、呟いた直後に理解してしまった所で歯を磨き終えた。
半袖のシャツの袖に腕を通して、通学用鞄に今日必要な教材があるのを確かめる。
確認し終えた僕はスマホにイヤホンを接続して、耳にイヤホンを当てて、スマホを尻ポケットに入れて準備は万端となった。
「じゃあ、いこ⋯⋯あ!」
忘れ物が一つある事を思い出し、僕は机の引き出しにしまいっぱなしとなっていた赤に煌めく宝石が埋め込まれた首飾りを首に掛ける。
いつ買ったかも、何処で売ってたかも覚えていないし、見るからに高そうだが、これは何故か外せない気がしてならない。
「⋯⋯じゃあ、行くか」
宝石に向かって語り掛ける僕は傍から見ると頭がおかしい人間なのだが、そんなものは見られなければ、問題ナシというもの。
鍵を手に取り、玄関を出た僕。偶然、お隣のおばさんと出るタイミングと被ってしまい、頭を下げて僕はそのまま自転車に跨って、通学路を漕いでいく。
「⋯⋯⋯⋯」
音楽を聴きながら、自転車を漕いでいるのだが、何故か違和感が多くある。
そもそもの話、僕は自転車を最近壊した記憶があるのだ。
確か、あれはゴールデンウィーク辺りだった気もするのだが⋯⋯。
「⋯⋯まさかな。夢とダブったかな?」
半笑いになりながら、ペダルを漕ぐ速度は上がっていき、在学している高校へと二十分程で辿り着いた僕は、駐輪場へと向かい鍵を掛けて、退屈そうにその脚を昇降口に向かわせた。
「おおーす!准!今日もつまんなそうだな?」
そんな僕の脚を止めた人物はただ一人。
睦生嶺二である。
基本的に校内で僕の脚を止められるのは、嶺二か僕に用のある生徒と教師のみだ。
駆け出した彼は僕の肩を組むように腕を後ろから掛けてくる。
「嶺二は学校楽しいのか?」
「楽しいけど?お前違うの?」
「⋯⋯まぁ、楽しいかな」
「どっちよ〜!あ、そうだ!聞いたぞ?今日、現国に小テストあるかもってさ」
「ええ?!僕は聞いてないぞ?」
学校が終わって何時間経ったと思っているのか。
いくらでも言える時間はあっただろうに、どうして友人である僕にそれを教えなかったのか、その判断がどうやって出来たのか、是非とも教えて頂きたいものだ。
「だから、今言ってやったんじゃん!」
「はぁ〜。遅せぇよ、ムッくん」
不審そうに僕を見る嶺二。なにか言ってしまったろうか。
ごく自然に普段通りにしていた筈だが、何処か挙動不審になってしまったという線を考えたが、そんな事はない筈だ。
「⋯⋯ムッくん?お前、俺の事をそんな呼び方してたっけ?」
言われてみればである。僕は普段、『ムッくん』とは呼ばない。
そんなあだ名を臆面もなく言うなんて、罰ゲーム以外のなんだと言うのだろうか。
けれど、そんな『ムッくん』呼びはどうしてか、どうしてだろうか。
胸が熱くなるな。まさか、恋?!⋯⋯ないな、有り得ない。
「しっかりしろよ。誰かと間違えた?あ、彼女とか!⋯⋯居ないか」
「おい!分からないだろ?僕にも美人な彼女が居る可能性をどうして排斥するんだ!」
「だって、お前⋯⋯。俺以外に話す奴居ないじゃん」
「舞喜が居る。だから、僕は少なくても二人は話す奴が居るんだよ!」
「少ねぇ⋯⋯。自慢出来ねぇ〜」
ヘラヘラと笑いながら言う嶺二。
モテる、話せる、空気読めるの三拍子の嶺二にはお茶の子さいさいなのかもしれないが、僕にとってはベリーハードモードなのだ。
むしろ、どうして人とあんな簡単に話せるのか分からない。
会話途切れて、アタフタしないなんて信じられないし、僕なら挙動不審になる自信しかないのだ。
「因みに俺は、サッカー部とクラスメイトだろ?後──」
「もういい。やめろ。僕を傷付けて何が面白いってんだ」
「いや、始めたの准からじゃん」
そんなつもりは毛頭ないし、本当に僕からだったかすら怪しいのだが、人数を言い出したのは間違いなく僕からだし、僕からなのかもしれない。
「ホントになぁ〜。朝から悪手だ⋯⋯」
「握手?なんで、手を握ってんの?」
「僕は今、僕と同類が居てホッとしたよ」
「え?」
「馬鹿って事だ」
「なぁぁ?!」
驚いた様子で叫ぶ嶺二を置いて、僕は昇降口前の玄関扉へと入ると、丁度仲良しこよしのグループが靴から上履きへと履き替えている所であった。
「あら、おはよう。嶺二、桐江くん」
「おはよっさん!大洲さん!」
視界に映るは大洲藍莉。クラスのマドンナというか、喧しいグループの総大将というか、お節介な奴。
小さく手を振り、僕は応えず、嶺二は元気に手を振る。
子供みたいだな、こう見ると。
ミルクチョコレートみたいに茶色の髪は跳ねさせているのか、癖っ毛なのか、巻いているのか判断に困るウェーブで長い髪──だったのだが。
どうやら髪を切ったようであり、腰より少し上まであった髪は肩辺りになり毛量が減った事と、前髪にはよく分からない白い龍の髪留めがあり、左耳がよく見える状態となり大人しい印象の人物がファンキーになる途中にも見えた。
とはいえ、彼女の周りに居る人間はどの道喧しい事に変わりないのだから、僕から見る総評と現実での総評には違いは出るのだろう。
「あぁ、おは」
「貴方、相変わらず、やる気ないわね」
「そう?普通だろ、このぐらい」
「そう?他の人はもっと活気に満ち溢れてるわよ?」
「満ち溢れてる事がウザったいんだよなぁ⋯⋯」
「なんで?」
隣に居る嶺二が聞いてくる。僕は面倒くさそうに答えた。
「煩いから」
「それ、貴方の問題じゃない?」
「まぁ、准は変わり者だしな。根暗だし」
「うるさいやい!」
常に元気ハツラツな奴らの方がどうかしているというものだ。
普段ならば、楽しい事にハイテンションになり、普通な事はローテンションで、嫌な事は空元気でやり過ごすものだろう。
常日頃から明るくて何事にも取り組める化け物を指標に置いて欲しくはない。
「根暗って、身内の時だけ語気が強くなるらしいわよ?」
そして、陽気な奴は根暗で陰険な奴を放って置いてくれないのだ。
厄介極まりない。
「お前に語気強めたら、お前の後ろに居る猛獣と野獣に喰われるんだよ。頭ごとな」
大洲の後方で会話が終わるのを今か今かと待つ、猛獣と野獣──失礼。
武島颯悟と富宮奏海は、僕達と大洲との会話が終了するのを律儀に待っているのだ。
恐らく、大洲と一緒に教室に行く為であるのだが、陽気な奴等はなんなのだ。
トイレも教室も部活も遊びも何もかも一緒じゃないと死ぬ呪いに掛かってしまったのか。
それとも強迫観念がそうさせているのか、使命感や宿命でも感じているのだろうか。
どちらにしてもロクに理解出来そうにない価値観である。
そんな野獣と猛獣である珍獣コンビは訝しんだ様子で大洲の背後から前へと歩き出した。
「誰が野獣だ!」
「誰が猛獣よ!」
「馬鹿言え。武島が猛獣で富宮が野獣に決まってるだろ」
「逆なんだな」
嶺二が呆れた様子で呟き、僕は珍獣コンビに撤回を求めるよう要請されていたが、確固たる意志でそれは承諾しない事を誓った。
(屈するなー僕。こんな珍獣に負けたら、僕の生涯の恥となるぞ!)
下駄箱前で騒いでしまっていると、僕は何時ものフルメンバーが揃っていない事に違和感があり、チラチラと見渡して、階段の方へと脚を動かしながら言う。
「あれ?そういえば、大洲戦隊の残り二人はどうした?」
「待って。その大洲戦隊って?」
僕の隣を歩いていた大洲が目を細めながら聞いてくる。
面白い内容でもなんでもないのだが、聞かれたからには答えるしかない。
「お前を中心に出来上がった仲良しこよしのグループ名」
「名付けたの貴方?」
「僕以外誰がいるんだ」
「呆れたわ。大体、どうして戦隊モノなのよ」
「なんとなくなんだけど?」
訝しむ視線が僕に集中するが、知った事ではない。
たとえ僕が名付けたのが事実であって、それを不快に思っても、そう名付けさせた彼女達にだって問題があると僕は断固抗議したいのだ。
そんな僕達二人を先頭に階段を上がる中、僕の背中を誰かが小突く。
何事かと思い、思わず振り返るとニヤニヤした嶺二が僕のすぐ後方に居て、手の位置から僕を小突いた犯人が丸わかりであった。
「二人、仲良いね?」
「 え?」
驚いた様子の大洲は短くなった髪を指で巻いては離して、巻いては離すを繰り返す。
どうしてちょっと顔が赤いのか。何故、恥ずかしがるのだろう。
言ってやれば良いのだ、普通に話す程度だと。
このままではまるで異性として興味があるように見える。
「仲良くないわ。こんなのと仲が良いなんて思われたら、お父さんに怒られるし」
止めて頂きたいのはむしろ僕だが、言い方に棘があるようにも聞こえるのは何故か鼻についた。
ただでさえ、僕は日陰者でそれが心地良いとすら思っているのに、こんなお天道様がギンギラギンに照らされている場所へと引きずり込まれてしまっては、たまったものではない。
(⋯⋯顔赤いんだよ。免疫付けてくれ。⋯⋯マジで。こっちまで恥ずかしくなる。やべぇよ。いい匂いするし、何?人気者って匂いまで違うの?)
思わず俯いた僕は、そのまま段差を数える事にするが、後方からは声が聞こえる。
喧しい人物その二の富宮のものだ。
「藍莉の父さんって確か⋯⋯」
「教師よ。だから煩いのよ。あれやれ、これやったかって。参るわ」
「でも、勉強の質上がりそう」
大洲にだけ全肯定な武島が珍しく会話をしている事に驚いた僕。
割とコイツは本当に全肯定で会話よりも『可愛い僕の僕の大洲藍莉』の反応を楽しんでいる気色悪い奴であると同時に猛獣である。
惚れた弱みと言えば聴き応えがあるのだろうが、正直武島の場合は行き過ぎて、信奉すらしていても不思議ではない程だ。
つまり、大の苦手な要素が詰まったヤバい奴としか僕は見ていない。
まぁ、僕から見た偏見でもあるんだけど。
「そういえば、准。舞喜ちゃんも中学生だろ?」
来てしまった。大人気な妹の話題だ。
何が悲しくて、世間様に見せる時と家にいる時の行動、言動が大きく噛み合わない愉快素敵爽快で痛快奇天烈な妹の話を高校に居る時に触れなければならないのか。
そういうのは一年後、舞喜の進学先が僕と同じ高校の場合でかつ、受験シーズンの時ぐらいだろうに。
とはいえ、会話的に僕の番だろう。
ここでスルーを決め込んで教室内での立ち振る舞いが大きく変えなければならないのは痛過ぎるデメリットである為、素直に応じた。
「そうだぞ。それに、大洲先生なら前に家に訪問に来たぞ。厳しそうな人だったな」
「お父さん、妹さんの担任なの!?」
「へぇ〜なんか良いな。あんなに人気者の妹居て、その繋がりでクラスメイトお父さんが担任教師なんてさ。⋯⋯なのに、なんでそのお兄ちゃんがこんなんなのよ?」
富宮の一言の多さは愛も変わらない。変化しない、普遍で不変の象徴だろう。
ムカつくところと当たりが強いところも込みではあるが。
「こんなんってなんだ、あんなの」
「誰があんなのよ!」
「はぁ〜、うるせぇ」
「まぁまぁ、教室に着くから、仲良くな?な?」
武島と大洲が富宮を、僕は嶺二に宥められる形で場を鎮められた。
思わず手が出るところでしたよ。そうしたら僕も負けでもあるのだが、一矢報いたい気持ちはどうしたものか。
そんな事を教室に入り、席に着いた頃に思っていると、まだお喋りがしたりなかったのだろうか、大洲が僕の前までやってきた。
「⋯⋯ねぇ」
「うん?なんだよ人気者」
「もうすぐ夏休みでしょ。皆で何処か行かない?今、予定空いてる日にちの確認取ってるんだけど⋯⋯」
「早くないか?今、六月の中旬だよな?一ヶ月後だろ?」
予定通りならば夏休みは七月十八日からで、まだまだ先だ。
前の席の椅子に座っている彼女は、どれだけ早とちりの先走りがしたいのか。
「後からこの日やっぱり行けないっていうのが嫌なのよ。気落ちしちゃうし」
「⋯⋯そうか⋯⋯。まぁ、考えとく」
「そう。嶺二も呼ぶから安心しなさい」
「はいはい」
呼んでも呼ばなくても、僕な気分次第で行かない可能性は大いにある。
正直、暑すぎれば行く気を失ってクーラーがガンガン効いた自室でのんびりしたいという欲求に簡単に負けるし、大洲が物凄い興味深い格好や服装、話題や費用全額負担なら迷わずに行くだろう。
「そういえば、前もそんな約束したよな⋯⋯」
「⋯⋯してないわよ?誰と勘違いしてるのよ」
「あれ?そうだっけ?」
確か、嶺二の自宅近くにある小さな公園のベンチでそんな約束をしたような気もしたのだが、気のせいだったらしい。
完全に恥をかいてしまった。
後で嶺二の髪をワシャワシャと虐めてやろうと僕は心で予定を立てて、実行する時間を考えるのであった。
━ ━ ━
「ど、どうなっているの?これ⋯⋯准!起きて!准!」
黒煙が立ち込めた場所を目指して走り出した私だったのだけれど、薄い緑色の波──波動のようなものが突然私達の身体に衝撃として打ち込まれ、痛みもなく動揺だけが残り准の方へと安全確認の為に見ると、歩いていた人も准も皆倒れてしまっていた。
まるで眠ったように、静かでいくら揺すっても起きる気配が全くない事に不審感と不安感が同時に押し寄せる。
「⋯⋯どうして、こんな⋯⋯。准、お願い起きて?ねぇ!」
「大丈夫ー!藍莉ぃぃ?」
聞き馴染みのある声が聞こえた。
大きく声を張って、私を呼ぶその声は私のクラスメイトでよく知る人物であると共に先程までジャンクフード店で一緒だった女の子。
「っ!逸花!何処?⋯⋯⋯⋯ここよ!」
歩道で手を大きく振っている彼女に合わせるように交差点にいる私も手を振る。
駆け足気味に野難さんを背負ってやって来る逸花。
今日ほど逸花が頼りになった日もない、とは口にすると怒られそうだけど、本当に安堵を覚えた。
私の近くまで駆けて来た逸花は背負っていた野難さんをそっと下ろすと、腰を曲げて膝に手をつけて、息を荒らげる。
「どうなってるの〜!詩葉ちゃんも眠っちゃって、背負うの大変だしさ〜」
「解らない⋯⋯。急に、こんな事に」
「一斉に眠らされた感じだよねぇ、これ?どうするの?」
見渡す限りに眠った人の山。
車が通っている様子はなかった。
走行中で事故は起きていないと思いたい。
あの爆発によって、皆が興味を持ったように車を停止させたのか、少なくても私達の今居る辺りでは交通事故の類いは起きていないのだ。
夕暮れ時というのに静寂で信号機の音が耳に響くくらいに鮮明に聞こえる。
「私に言われても⋯⋯。ううん、こういう時どうしたらいいのかしら」
「うーん!朝倉さん探すとか?」
「居場所の心当たりは?」
「ない!」
「よね⋯⋯」
こういう時に限って近くに居ない。
准が言っていた通り、朝倉拓也は神出鬼没で頼りになる時は何時も急である。
彼はなんでも知っているというのなら、これも想定内の事なのか、それとも想定外の出来事なのかも此方からは判断が付かない。
「なんだか、不気味だよね⋯⋯」
「なんだか、逸花⋯⋯貴女、軽くない?」
「え?そう?」
「⋯⋯まぁ、今はいいわ。取り敢えず運ぶの手伝って、歩道に運びたいから」
「はーい!」
私達は大人も子供も一度歩道に集める事にした。
そうしなければ、私的には落ち着かないからというのもあるし、そうしたかった。
日陰がある建物の屋根の下に人をある程度並べていく私達。
十人程日陰に置いた頃、私は見てしまう。
女の子が歩道を歩いている姿を。その白く伸びた髪の女の子には見覚えがあった。
「確か⋯⋯サナちゃん?」
「⋯⋯あ!」
黒いワンピース姿だったサナちゃんは現在、軽井さんの家に泊まっており、色々と着せ替え人形のように、あれやこれやと衣装を着て准の家に訪問する事があり、私も何度か会った事がある。
猛暑が始まる時期が近付いているのもあって灰色の半袖のTシャツにデニムの短パン。
髪は後ろ髪を結んでポニーテールのようにして首筋が見える状態で軽井さんの趣味が入っていそうな服装だった。
「藍莉お姉さん。大丈夫だったんだ。良かった」
小さな歩幅で信号を律儀で守るように、左右の確認をして、私達の所まで辿り着いたサナちゃん。
無事だった事が本当に嬉しいと感じさせるその笑みは微笑ましいものにも見える。
状況が状況でなければ、の話だが。
「えぇ、私はね。けど、准達は⋯⋯そういえば、貴女一人で来たの?軽井さん、今日は部活の筈だけど?」
「はい!椎奈お姉ちゃんはブカツっていうのでいないから、お留守番してた。けど、なんだかよく分からないのが身体を通って⋯⋯それで」
緑色のよく分からない波のようなものが発生して、それが起きた瞬間、バタバタと人が倒れていった。
軽井さんの自宅はここからそこそこ離れてるから、被害の範囲はかなり大きいのかもしれない。
学校近辺は確定で入っていると見て動いた方が良いし、サナちゃんの話が事実ならば、サナちゃんは一つ間違えている事がある。
「心配してきたのね。⋯⋯けど、私達の学校はアッチよ?」
指差すはジャンクフード店から東側にある方角。
サナちゃんがやって来た方向で、私達がジャンクフード店に行くまでに通った道。
「え?そうなんですか?!⋯⋯ありがとうございます」
「サナちゃん。今回の事に、心当たりある?」
「いいえ。分かりません。『幽霊』はもっと静かだから」
「そ、そう」
波が来た時も割と静かではあったのだが、サナちゃんの感覚からすれば、静かではなく、煩い部類に入るという事。
『現象』だったとしても原因が掴めない現状、初動が求められる。
こういう時、准ならどう動くのだろう。
そんな事を考えていると、私の背後から叫び声が聞こえた。
「あー!朝倉さんだー!」
太陽が沈みそうになっている上空で誰かを抱えているようにも見えるそれは確かに人影にも思える。
逸花、よく見えるわね。豆粒程度にしか私はそれが視認出来ず、目を凝らして、何となくでしかその姿を想像できない。
「戦いごっこしてる?」
「浮いてる?というか、飛んでるのかしらアレ?」
「冷静に分析してどうするのさ!二人共ぉぉ!」
すると、黒い豆粒程度の人影はもう一つの人影らしきものから衝突されて、高度からしても使われなくなった三百メートル程の電波塔よりも高い位置に居る筈だというのに衝撃がここまで伝わり、髪を大きく靡かせて、近くにある窓ガラスにヒビが入る。
「うわぁぁあっ!」
「なんでこんな距離感で衝撃一つで強風が吹くのさぁぁぁぁ!」
止みそうにない突風と衝撃音が無数に身体を震わせて、彼等の近くにあったのであろう建物は崩れていき、空を切るような音が耳に届くと、自然と衝撃は消えた。
呆気に取られた私は後退りしようと脚が動いて、何かに踵が当たる。
眠ったままの准だった。
何が起きているのか、何をどうしたら良いのか、全くもって理解が追い付かない私達の目の前に、突然としか表現が出来ないように、朝倉さんが鳩羽さんを片腕で腹部を抑えた状態で現れた。
「コイツを頼んだ。怪我はしてないが、『夢堕落』に堕ちてる。介抱してやって──」
会話が途切れる。突然、吹き飛ばされたように私達の前から姿を消して、左方向にあるテナントビルから衝撃音と激突したであろう瓦礫が道路に飛び散り、壁には穴が出来上がっているのが分かる。
無造作に鳩羽さんは地面に転がされてしまい、サングラスがコンクリートに落下してレンズがひび割れた。
「何が⋯⋯起きてるの。これ⋯⋯」
鼓動が嫌に高鳴る。朝倉さんは微かに右方向を見てから飛ばされたようにも見えた。確信はない。
早すぎて、何となくでしか視認出来なかったけれど、多分そうだと思う。
そんな彼でも吹き飛ばした何かは私達の付近に居て、何時毒牙にかかるかが予測出来ない。
荒くなる息は自身の弱さの証明であると同時に私が普通である根拠。
だが、同じと思っていた逸花は私の手を握ってきて、温かくて、安らいで、裂かれた。
私は倒された。逸花が押し倒すようにして、私は地面に臀部を着けて、両手で身体を支えている隙に、逸花の瞳は瞼で隠されて、口から血を漏らしながら、仰向けになって倒れてしまう。
腹部に男性の拳一つ分程の縦幅、横軸に一線の傷は、逸花から大量の血を失わせていく。
私はどうしたらいいのだろう。
叫ぼうとして喉が詰まった変な感覚だけが残り、涙が溢れてくるその視界は傷付いた逸花をしっかりと映してくれずにいる。
再び、風が吹き乱れ始めた。
敵は誰で、何が目的で、どういった存在と現象なのか、何一つとして理解出来ない今、私はただ逸花の傷付いた腹部を手で抑える人形のようになっていた。
聴覚が全く機能しなくなったのか、何も聞こえない。
いや、聞こえる。自分の荒くなった呼吸と同時に泣き声、それと別のもう一人の声。
静止を促すようにも聞こえるその声は非常に邪魔に感じてならない。
友人が死に掛かっている中で何もしないなんて正気を疑う。
透き通るような青の光が地から上空に放たれて、大地が、大気が大きく揺れている事にも気づかないで。




