怒りと軽さ
加除修正完了!
眠気まなこが抜け切らない准は急ぎ準備を進めていた。
まだ朝十時過ぎの時刻であり、起床から五分しか経っていないのだが、予想外の事が起きてしまい着々と準備を進めている次第である。
「桐江く〜〜ん。はーやーーーくぅぅぅぅ」
十三時に駅前広場で待ち合わせの予定だったのだが、牧原逸花さんは活発さを飛び越えて、友人の藍莉の自宅に電撃特攻を行い、流れるように隣の部屋に住んでいる准の方へとバトンタッチされたのだ。
藍莉にも支度はある。弟の面倒から始まり、お化粧などなど。
流石に寝起き早々から逸花のトップギアな活発さを相手出来ないと判断した藍莉は、インターホンを連打して、准の自宅に逸花を置いて行ってしまった。
(ったく。なんで僕ん家に喧しいのを置いてくのかねぇ⋯⋯)
歯を磨きながら悪態を心の中で呟いた准は、鏡越しに映る鈍臭そうで気怠げな顔付きをした自分がいた。
けれど、逸花に対して多少の感謝はある。
藍莉と准の二人で何処か遠出する事は基本的に出来ない。
藍莉には蒼太が居て、毎日世話をしなければならず、准も近々退院する舞喜の為にも色々と準備を進めていた。
呑気にお出掛けなんて出来る心の余裕は、藍莉にはあっても准には無い。
そんな状況の中、半ば強制ではあるものの、スーパーで買い物をする以外で一緒に外出するという機会を与えてくれた逸花は、素直に嬉しい存在であったのは間違いないのである。
『探検』という名目で無ければ⋯⋯。
顔を洗い終えて、気怠げそうにリビングに向かうと逸花の姿が消えていた。
怪訝な顔で周囲を見渡して、呼び掛けようと口を開けた時、逸花は確かに居た。
リビングと地続きになっているベランダで快晴の空目掛けて腕を翳す姿で。
「⋯⋯⋯⋯⋯」
准は絶句して目が離せないでいる。決して見蕩れていた訳では無い。
ただ、似ている⋯⋯。そう感じて手に力が入っていく。
「──────あれ?桐江くん?まだ着替えてないの〜?」
振り返った逸花が揶揄うように笑いながら、リビングへ入室。
灰色と黒のチェックシャツ、黒のデニムパンツを履いており、小さなポーチを肩から掛けるファッションの逸花は、目と鼻の先まで准の元へと向かい、脚のつま先を立たせながら背を伸ばして顔を近付ける。
「⋯⋯どったんだい?見惚れてたぁ?」
揶揄う口振りは何処か小馬鹿にしていた。
鼻腔を撫でる優しくて甘い匂い。
僅かに煌めく黄金の瞳は准の瞳を見透かそうとするようにジーッと見つめていた。
「なぁぁんってね!早く、お着替えして、ちゃちゃっと向かっちゃお!」
視線を切って柔和な笑みを零した逸花に、准は乾いた笑いを浮かべて対応するのみ。
(⋯⋯⋯⋯⋯⋯六華)
それはかつて、確かに存在していた憧憬。
快晴に手を翳し、憂う涙に頬を濡らす彼女を想起した准は俯いてしまう。
「牧原、さっきベランダでやってたのって⋯⋯なんだ?」
「さぁ〜?⋯⋯適当に天気良いなぁって思ってやった事だよ?」
後ろに手を回して小石を蹴るように片脚を前後に振る彼女の仕草に准は納得のいかない様子を見せる。
表情を読み取った逸花は瞼を閉ざして、ピタッと動作を止めてベランダに顔を向けた。
「ねぇ、桐江くん」
「⋯⋯なんだ?」
「物凄く憧れてる子が居なくなってから、その子が大事って気付いた時、どんな風に思えばいいんだろうね?」
「禅問答的な奴か?」
「ううん⋯⋯」
准の方へ顔を向けた。雲が太陽を覆い隠して、部屋は僅かに暗くなる。
「ただの空想論だよ」
普段は見せない澄まし顔で、瞳は潤む。
活発で天真爛漫。やると決めれば全力投球。
それが牧原逸花に抱く、全ての人類が抱く印象。
けれど、准は徐々に気付いてしまう。
その神妙な面持ちと何処か冷めたような瞳こそが、本来の彼女なのではないのか、と。
答えは求められなかった。感性の違いや価値基準の違いこそあれど、求められた問いに答えを得られず、応える事を放棄した准は部屋に戻り着替えを始めた。
そんな少年の動向を目で追う逸花は、可哀想な者を見るように口元を緩ませる。
「⋯⋯⋯そうやって逃げるんだね。桐江准くん」
呟いた言葉は少年の耳には届かない。
否、届かせないようにボソッと呟いただけの話ではあるのだが、それでも聞かれてはならない言葉だった。
ベランダを覗き込むように空を眺める。
太陽は顔を出して青一面を覆い隠すように広がっていた白い雲は散っていき、快晴を齎していく。
チャイム音が鳴る。逸花が反応し、玄関まで向かうと扉を開けた。
「藍莉〜!おはよーー!」
「⋯⋯⋯はぁ。急に来ないでよね?連絡してくれれば先んじて準備済ませたのよ?」
「いや〜。楽しみで仕方なくって〜。えへへへ」
側頭部を撫でるように手を置いて苦笑いを浮かべる逸花に呆れた藍莉は溜め息を吐いた。
今日は元気溌剌を求められる探検日和。
発案者は逸花で同行者は准と藍莉の合計三人。
この先で起こる出来事は誰にも分からない。
━ ━ ━
辿り着いたのは駅前広場。
『空弩街』は悲しいかな、街の住民以外で立ち寄る必要性を感じさせない街の為、土日祝日であったとしても人通りは少なめである。
むしろ、平日で電車通勤と通学をする時間帯の方がピークとも言えるだろう。
閑古鳥が鳴いている訳ではなく、かと言って盛況かと言われれば違う、なんとも言えない駅前広場で牧原逸花は人目を気にせず高らかに右腕を空に向けて伸ばす。
「さぁ、目指すは『小屋』だよ!⋯⋯桐江くん、なんか体調悪そうだけど大丈夫?」
この街で誰よりも活発な逸花とのテンション感に着いて来れない准は何とも言えない顔をさせながら伸びていた背を曲げた。
「いやその⋯⋯、『小屋』が何処にあるかは⋯⋯?」
「私が知ってる訳ないじゃん〜。何言ってるの?桐江くんー」
「へへへ⋯⋯⋯⋯。帰ろっかな」
苦笑いを浮かべた准は視線を逸らしてしまう。
だが、そんな准に寄り添うように隣に近寄って肩を肩でポンと叩く。
「駄目よ?私と逸花の二人になったら、そのままウィンドウショッピングに勤しむわ」
白色の長袖Tシャツ、踝よりも上に裾があるデニムパンツとサンダル履いて、カジュアルチックな格好をしている大洲藍莉は断言した。
一体何が不満なのか?准は訝しんだが、すぐ察する。
大洲藍莉はこれまで、私服に頓着が無い女の子だった。
家庭環境によるせいでもあるが、普段はジャージで過ごし、買い物も使い古した衣服で済ませており、友人と遊ぶ機会も全て却下していた彼女はつい最近恋人が出来てしまう。
そうなれば多少なりともおめかしに対して意識を向けるようになり、貰った資金を糧に安くて比較的になんでも合う衣服やパンツを集めるようになっていき⋯⋯⋯⋯。
気付けば、買い物にハマってしまっていた。
ショッピングとは即ち、資材調達。
如何に自分に合う物があるのかリサーチして誰よりも早く入手する為の行為。
けれど、お金は湯水のようには溢れてくれず。
食費や雑貨品で消えて、残りは弟の為にと貯金に回す日々。
藍莉にとって優先順位は基本的に弟であるが、現状そのその弟がいない事と折角の友人との買い物は、自分に少し甘くなる時間でもある。
そんな欲に身を浸す事に危機感を覚え始めた藍莉が、ウインドウショッピングで我慢する事を覚えるまで、そう時間は掛からなかった。
「あれなら、僕が少し出そうか?」
甘い誘惑が准の口から発せられ、ピクリと眉が動く。
(⋯⋯⋯⋯どのぐらいまで出してくれるのかしら?いやでも⋯⋯)
基本、藍莉にとって彼氏とは対等でありたいと願う。
勿論、多少の誤差や勘違い、価値基準の違いはあって全てが上手くいくとは思っていない。
けれど、忘れてはならないのは、准もまた妹の為にも貯蓄している側の人間である事。
自分と近しい環境下にある事は、甘い誘惑よりも優先すべき事態であると知っている。
だから⋯⋯⋯⋯。
「良いわよ。貴方は妹さんの為にもお金いるんでしょ?」
「いや、けどな⋯⋯」
「良いから!」
「あ、はい」
強く拒絶されて肩を落とす。
准だって、彼女の為に何か出来る事があるかと思っての言葉だった。
(そんな言わなくても⋯⋯)
初めての恋人。慣れた対応が出来る程の経験は無く、慣れ親しむ程、長い付き合いという訳でもない。
試行錯誤に手探りの中、見事に外したと准は自身を罰する。
「もう、そんな落ち込まなくても良いじゃない。気持ちだけは貰っておくから。ね?」
「お、おう」
「ねぇー!聞いてるぅぅ?」
ハッとなった二人は逸花に目を向ける。
不貞腐れたようにプクーっと頬を膨らませて、肩に掛けた小さなポーチを振り回す。
「ごめんね。それで何?」
「ふふ〜ん。よくぞ聞いてくれました!藍莉殿」
不貞腐れた時間は僅か十秒ちょっと。
自慢げに無い胸を張り、腰に手を当てる彼女の威厳は、一切無かった。
ただのごっこであり、アプローチ。
藍莉にとっては慣れ親しんだ挙動であり、仕草であり、目が肥えてるまである。
「今回はちゃんとしてるんだよ?ちゃんと調べて、欲しい情報の行方にも、大体の目安は付いてるんだから!ドヤさぁ〜」
普通の事を口にする逸花ではあるが、クラスメイトの二人にとっては衝撃の言葉以外の何物でもない。
准は目が点となって、小刻みに身体を震わせる。
藍莉は口元に手を添えて、驚きを隠せない様子。
「なん、だって?!⋯⋯⋯⋯おい、藍莉。これは、僕の知ってる牧原なの、か?」
「ええ、驚天動地って言うのかしら。逸花?熱でもあるの?」
思わず固まった表情をしていた藍莉は心配そうに逸花に近付いて、額に手を当てる。
「あ、熱いわよ?!救急車呼んでちょうだい!」
「ラジャー⋯⋯。あ、僕、スマホないや」
公衆電話の存在を知らない桐江准の痛恨の痛手。
あわあわと慌てふためく准と、それを落ち着かせようとする藍莉の二人を見つめる逸花は、地団駄を踏んで抗議する。
「ちょちょーーいっ!二人揃って何さ、何さ!私だってちゃんとやらなきゃいけない事くらいちゃんとやるよー!」
その口から放たれたデマにも等しい言葉に、藍莉はこれまでの逸花を思い馳せた。
──藍莉〜!ノート見せてぇぇ!え?授業?寝てたよ?藍莉のノート見た方が分かりやすいしぃ〜?
──藍莉〜!シャーペンの芯が切れちゃったぁ。
──藍莉〜!お待たせ〜!なんでそんなに荷物多いの?え?!合宿って学校でするんじゃないの?
溢れ出る存在しかしない記憶に藍莉は蹲る。
「うっ!」
頭痛を訴えるように頭を押さえる藍莉の心的ダメージが蘇る。
曰く、楽しい事は皆一緒に。
曰く、困ったらその時はその時。
事前調査を行わない逸花の思考基準は、藍莉にとって難敵である。
徐ろに立ち上がった藍莉は逸花に近寄り、顔を近付けると暗い笑みを向けた。
「じゃあ、これからはテスト前の勉強も、出掛ける時にやってた忘れ物の確認も、これからは一人でやってくれるのよね?」
「そそそそ、そんなー!嫌だよ〜!お願い〜〜!見捨てないでー!親友ぅぅぅぅーー!」
膝が崩れたように座り込んだ逸花の瞳には涙が溢れると、勢いよく藍莉の腰に抱き着いた。
顔を衣服に擦り付けるようにして徹底抗戦。
藍莉も逸花の肩を掴み、離れようとするものの微動だにしない。
「は、離れて!分かったから。逸花、離れなさいっ!」
そうなれば援護を求める他ないと、藍莉は准を頼った。
「准っ!お願い助け────あれ?」
まるで初めから存在しなかったように、最後に彼氏を見た位置に目を向けるも、誰もそこに居なかった。
助けを求めようと口を開けたまま、周囲を見渡していくと⋯⋯。
「───────はっ?」
表情は影を落とし、開いていた唇はピッタリと閉じられた。
視線は一点。後方で大学生ぐらいのお姉さんと至近距離でお喋り中の彼氏を目撃した藍莉は、嫉妬の念に胸中を渦巻かせる。
「ここ左です」
「ありがとう〜。あ、もし良かったお茶でもどう?」
あくまでも道案内をしているだけの准ではあるが会話の内容は藍莉の居る距離からでは聞こえない。
(パーカーの上にジャージ着てる奴にナンパってなに?見栄えないの?誰でも良いの?早く離れなさいよ⋯⋯)
スタイルが良く、腹部の少し上までの裾でボディラインを強調した魅惑の女性に対抗心を燃やし、満更でもない様子でヘラヘラとしている准に憤りを覚えた藍莉は、逸花の肩を掴んでいた手に力が入る。
「アハハハ⋯⋯⋯⋯は?」
「あ、藍莉⋯⋯?い、痛いよ⋯⋯」
込み上げる嫉妬の炎は乾いた笑いを浮かばせる。
藍莉の身体には隠しきれない怒りの念は噴き出して、逸花を萎縮させた。
掴まれた肩はヒシヒシと痛みを帯びていくものの、恐れが勝って視線を逸らすように俯いた。
(ここここここ、怖いっ!藍莉が怖い⋯⋯⋯。桐江くうぅぅぅん!なにやってんのォォォォ!)
未だに談笑中の准に泣き出しそうな視線を向ける。
必死にお断りをする准は少しぎこちなく笑いながら、首と両手を左右に振っていた。
そんな少年に一歩、女性は近寄って誘惑。
「⋯⋯ねぇ、逸花」
「っ!な、なに?」
呼び掛けられた逸花はバッと顔を上げて藍莉を見上げるものの、すぐ喉からか細い悲鳴を鳴らした。
勿論、その様子は藍莉も見ており、無表情ながら執念に囚われて、ひたすらに凝視している。
「感情で人を刺すのと、無感情で人を刺す。どっちの方が罪は軽いかしら?」
「だ、だだ、駄目だよぉー?!何言ってるのさー?!」
腰に抱き着いていた腕は離れた。
すかさず、准と女性の元へと移動を開始する藍莉の前に逸花は立ち塞がるように先回り。
腕を横に伸ばして阻止。
首を勢いよく横へ何度も振り続け、最悪の事態を起こそうと動く藍莉の制止を促した。
「⋯⋯。冗談よ?」
「⋯⋯本当に?」
恐る恐ると聞く逸花の身体は未だに震えていた。
すると、ニコッと含みが垣間見えない純粋な笑みを藍莉は浮かべ、逸花は胸を撫で下ろすように安堵の息を零す。
「ええ、折角のデートなのに。こんな事で怒ってられないもの」
「そっかぁ⋯⋯⋯⋯。あれ?私の存在ハブられた?」
聞き捨てならない何かが聞こえたぞ?と安堵の面持ちをしていた顔はコロッと変わり、意表を突かれたような間抜けな表情をしてしまう。
『探検』を提案したのは誰か?誘ったのはだれか?
そう、この牧原逸花女史である。
だというのに、予定調和のように仲間外れにされる事が確定した事に多少なりとも納得いかない様子を浮かべる逸花は不貞腐れたようにジト目で藍莉を凝視した。
しかしそこは牧原逸花の『お世話係兼友人』の大洲藍莉だった。
「後で少しだけ、流れで外してくれればいいわ」
宥めるように優しい声色で、曖昧かつ中途半端な物言いで誤魔化す。
普通ならば自主性に重んじて、逸花本人から察したように二人きりにするか、予めどのぐらい外れておくかを聞くものだが。
「分かったーー!」
曖昧なラインは自主性に重んじて適当に解釈。
今回は『探検』というだけあって逸花が活発的に行動するのは藍莉からすれば分かりきっていた。
だからこそ、二人きりになれる時間の確保は容易であると高も括っている。
「大丈夫ですので。じゃあ、気を付けて────。お待たせ」
ようやく魅惑の女性から解放された准は、急ぎ待たせている二人の元へと帰還する。
そう、准とて気付かない訳がない。
凝視する恋人の沈んで暗く淀んだ突き刺すような痛い視線と、圧倒的なまでの『帰還のコール』をひたすら鳴らす圧力は、数メートル先からでもバッチリ感じ取れる程のものだった。
戻って来た時には既に低姿勢であり、藍莉に近付き小さく会釈する。
数秒間の沈黙は逸花の首を傾げさせて、准の喉を鳴らす。
「⋯⋯浮気者」
判決が下った。たとえ善意による行動とは言えど、大洲藍莉は満更でもなさそうな顔付きで魅惑の女性と接していた桐江准という少年を許す事はしない。
藍莉に促される形で逸花は目的地に向かう為、駅の改札へと入っていく。
准は急ぎ足で二人の背を追い掛けるように改札へと入って行くのであった。
━ ━ ━
牧原がピックアップした『探索』の場所は計三箇所。
一つ目は空弩街の北部にある舗装途中となっている地点にある『プレハブ小屋』だ。
中々に豪華な一軒家の横に建てられたその『プレハブ小屋』は建設完了から僅か三週間ぽっちで、火災で倒壊。
今もその跡地が残っていると言われているらしいのだが、一軒家共々倒壊したその『プレハブ小屋』はどのような用途で建てられたのか、誰も分かっていない。
二つ目は『粗目橋』と呼ばれる川辺付近にある石造りの橋。
厳密に言ってしまえば、牧原が調べたいのは橋自体では無く、その近辺にある別の箇所らしいが、分かりやすい指標として、そこをピックアップしたらしい。
【七八区】に出てくる主なキーワードは『子供』『男二人』『小屋』『遺体』の計四つ。
けれど、僕の知っている限りの情報ではこの近辺にキーワードがある事件は無かったはずなのだが⋯⋯。
三つ目は『空弩山』。
空弩街唯一の登山スポットとなっており、標高は約二千メートルの山であり、恐らく今現在、唯一ちゃんと他所様にお見せできる観光スポットだろう。
因みに牧原曰く、ここを選んだ理由は至極単純らしく、「絶対に曰く付きの山だからだよ!」との事。
【零山灯明】と呼ばれる『空弩街七不思議、その五』の舞台にもなっている山脈でもあり、他の七不思議の話の舞台が被っている事に、僕個人としては違和感がある。
東地区と南地区を半月状に囲うようにして聳えているあの山は、朝倉さんが行くなと注意勧告した山だ。
その『空弩山』を眺めては『イカれてる』と口遊む姿をよく見ていたが、僕からすれば普通の山でしかない。
計三箇所のスポットを電車の中で紹介された僕と藍莉は、何処から行くかという相談も無く、北地区へ辿り着いてしまう。
電車を降りると次にバスで移動を開始して、ルンルン気分で舞い上がっている牧原と藍莉の談笑を聞きながら僕は『プレハブ小屋跡』へと到着を果たす。
『プレハブ小屋』があった場所は北地区の中でも最北端であり、お隣の県との境目になっている場所にポツンと建っていた。
既に一軒家は取り壊されてしまっており、完全に更地化。
お隣の焼け落ちた小屋の処理に邁進している作業員が多く集まっている。
「撤去の工事してる⋯⋯」
「してるわね」
「まぁ、普通はな?」
普通に考えればそうだろう。
何時までも黒焦げの建物を放置する筈がない。
恐らくだが、最近になって工事作業が開始されたのは、この敷地の管理人辺りが最近見つかったのだろう。
ネットから情報を引っ張ってきている牧原の言葉が全て正しいとは到底思えず、信憑性も薄い為、この『プレハブ小屋』が三週間で燃えたというのも怪しいものだ。
そもそも、『プレハブ小屋』が【七八区】とどのような関係があるというのだろうか?
アレは小屋が消える事で事件が起きたとなっているから、そもそもの話焼け落ちて残骸を遺しても良いものなのだろうか?
こじつけ感もあるし、何処か適当な感じもする。
こんな事なら、朝倉さんが近くに居る時に予め聞いておけば良かったかもしれない。
「ど、どうしよう。あ、そうだ!工事のオジサンに聞いてくるよ!」
何を慌てたのか、牧原はそそっかしく前進の見込み。
撤去の作業をしている人達の邪魔になるかもしれないという観点が牧原には無いのだろうか?
いや、仮にあっても突っ走るだろう。
「ちょっと!」
「すみませーーーん!」
作業中のおじさん目掛けて猛ダッシュ。もはや当たり屋並の勢いで駆けていく牧原を藍莉は制止を掛けようとするも、ついぞ無駄に終わる。
僕は後方で呆然と眺めるに留まっていた。
「んと、行動力パネェ⋯⋯」
「はぁ〜。⋯⋯どうするの?二つ目に至っては森林区域よね?私、てっきり人に聞き込みしに行くとばかり思っていたのだけど⋯⋯」
今日の藍莉はサンダル履いている。山脈を登るどころか、森に入って行く格好では無かった。
「まぁ、仕方ないだろ。山に登るまでは無いだろうし⋯⋯。最悪、僕と牧原だけで森林に入るよ」
「⋯⋯貴方、逸花にはヤケに甘いわね?」
「身長のせいだろ?妹とダブるんだよ」
厳密には舞喜の方が少し高い。僕が最もダブって見える存在は別に居るが、言わなくても良い話だ。
今日は豪雨の後の快晴。日差しが強くジメッとした空気が漂う。
日陰に隠れるように僕の隣で屈み待機した藍莉は、何かを思い出したように僕の顔を見た。
「そう言えば。妹さん、もうすぐ退院なんでしょ?」
随分と桐江家特有トレンドをご存知のようだ。
まぁ、僕が前に言って藍莉がそれを思い出しただけの事なのだろうけど。
「あぁ、三日後に退院する予定」
「一人暮らしももうすぐ終わるわね。名残り惜しさみたいなのってあるものなの?」
名残惜しさ⋯⋯。元々、一人暮らしの予定では無かったし、舞喜も帰ってくる想定で一人暮らしをしていた。
むしろ、今日まで一人暮らしをしていた事の方が異常だったとも言える。
「いや無いなぁ。どっちかと言えば迎える為に準備してたようなものだったし」
「そうなのね。ちゃんとお兄ちゃんやってるんだ。⋯⋯あ、そうよ!妹さんが食べられない物、前持って言っておいてね?アレルギーがあったら大変だから」
「⋯⋯⋯⋯」
僕は思わず感服してしまう。
家族を滅茶苦茶にされた経験が無い僕にとって、藍莉が何を思ってそんな言葉を紡げたのか、素直に分からない。
僕の表情に思うところがあったのだろうか、鞄からハンカチを取り出した藍莉は立ち上がって、僕の額にそっと当てた。
「何よ?そんな鳩がロケットランチャーを撃ち込まれたみたいな顔しちゃって」
「それは死んでんだよなぁ」
僕は弾け飛んだみたいな顔でもしていたのだろうか。
汗を拭って少し微笑んだ藍莉は、そっと鞄にしまい込む。
「前に言ったかも知れないけど、私の家族は何処かで壊れてたわよ。だから、妹さんのせいじゃないわ」
舞喜が要因なのは間違いない。けど、問題はあの『暴力事件』を起こす遠因となったのは家族全体で、その比率が最も高いのが僕だって事にある。
こんな結末になるなんて思わなかった。
そんな言葉では片付けられない程に、あの時の傷は大きくて修復不可なものとなっていた。
慰めの言葉をどれだけ貰っても、あの時の責任は僕にある。
『そうよね?アンタは逃げて、逃げて、逃げて見なかった事にしてあんな事になった。分かってるでしょ?アンタだけが、のうのうと生きてるなんて⋯⋯。恥ずかしいって思わないの?』
背中から抱き着かれて耳元で囁かれる。
日陰に居るせいで妙に寒く感じて、冷や汗が流れてくる。
僕はそれを払拭したくて堪らなかった。
『舞喜は苦しんで、悲しくて、泣いて⋯⋯。アンタは苦しんでない。悲しんでない。泣いてもいない。文字通り不公平って奴じゃない?』
「っ!⋯⋯黙ってろ⋯⋯⋯」
「え?」
抱き着かれていた感覚が一気に消えて、空気は静まり返っていた。
僕は思わず隣に居る藍莉に目を向ける。
「ごめんなさい。気に障る事、言っちゃったみたい」
「あ、いや⋯⋯。藍莉が舞喜の事を蔑ろにしないって事が分かっただけで充分嬉しいよ⋯⋯⋯。悪い、変な事言った」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
駄目だ、軌道修正出来る気がしない。
死んだ亡霊に取り憑かれているなんて、心配を掛ける内容以外の何物でもない。
最近酷くなってる気がする。ゴールデンウィークの時からだ。
「ねぇ、准。大丈夫?汗、酷いわよ?」
「────え?あ、いや、大丈夫。心配してくれてありがとう」
藍莉にそう告げたけど、納得がいっていない様子で再びハンカチを取り出して僕の額に当てていく。
甲斐のある行動、善意の行い、それが今の僕には胸を締め付けるような行為に思えた。
嬉しい反面、どうして僕だけがそんな日々を送れているのか、不安が募っていく。
僕の瞳を覗き込むように藍莉は見つめてくる。
その不安げな顔色を払拭する術を、僕は知らなくて、悔しくなった。
「あのね、准。何かあったらちゃんと言いなさいよ?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯あぁ」
俯いて視線を切る。余りにも恥ずかしかった。
大洲藍莉ならば、きっと僕以外の男の方が釣り合う。
僕という存在よりもきっと別の人物の方が良いのではないか?そんな気持ちは増す一方だ。
自宅に帰れば彼女が居て出迎えてくれる時がある。
安心させてくれると同時に彼女の時間を無駄にしているのでないかと不安が駆り立てられた。
他人に言われれば否定出来るが、自分で思う分には拭い切れない。
「そう言えば、今日は何時もと違うんだけど、分かる?」
「え? ⋯⋯⋯⋯」
僕は首を傾げて藍莉をじーっと見つめた。
普段の藍莉との違いはなんだろうか?
髪型は変わらない。跳ねてるのか、手入れしているのか、癖っ毛なのか絶妙なウェーブの長い茶髪。
スーパーに買い物する時は、後ろ髪を結んだり、帽子を被ったりしているものなのだが、今日はデフォルト。
そうなると服装に着目すべきかと思い視線を少し下に向けようとするものの。
「服装じゃないわよ?」
先んじて手を打たれてしまった。
そうなると、変化があるのは何処だろうか?
僕は目に力を込めて藍莉を凝視する。
「口紅⋯⋯はしてないし。化粧の仕方も変わってないだろ?香水か?いや付けてないだろ?⋯⋯⋯⋯」
「ちょっとちょっと!近い、近いわよ」
気付けば物凄い接近していた。香水を付けているのか、顔を藍莉に近寄らせた時にそうなったのだろう。
目と鼻の先とはこの事で、驚いた表情をさせる藍莉の顔はとても近かった。
「もう⋯⋯。正解はここよ」
耳朶に小さく光る物が着いていた。髪に隠れていたそのピアスは確かに普段の藍莉は付けている印象が無い。
まぁ、髪で隠れてしまって見える訳が無いという言い訳をしてもいいならしてやるが、多分論破されて負けるだから止めておこう。
「へぇ〜、穴空けたのか?」
「違うわよ。挟むだけだから穴は空けてないの」
そっと手で藍莉の髪に触れて、ピアスの形を確かめる。
正六角形の銀色の小さなピアスで、アクセントのようなものに近いのだろう。
高級感があるようには見えないが────。
「綺麗だな」
「⋯⋯当然よ。馬鹿⋯⋯」
夏が迫り来る季節。暑さのせいで頬が赤くなるのは自然な事で、彼女の頬が赤くなるのも間違っていない。
だから、僕は咎める事なんてしない。
視線が妙なぐらい泳ぐ彼女は、前髪を手で払うような仕草をさせながらチラチラと僕の様子を窺った。
とても綺麗で可愛い女の子。それが大洲藍莉であり、僕の恋人。
たとえ、何時か愛想尽きられる事になっても、ちゃんと言葉にしておかないといけない。
そう思えば、言葉は自然と出た。
「うん、やっぱり綺麗だな」
「何よ?!二回も言わなくていいわよ。貴方じゃないんだからボケーっとはしてないの!」
距離を離そうと藍莉の手は僕の身体を押し出そうとする。
その手を赤子の手を握るぐらいの力加減で優しく握った。
驚嘆の細声が藍莉の口から漏れる。次第と柔和な表情へ変わっていき、僕の手をお返しとばかりに握り返した。
掌を指で擦るように撫でて、上目遣いで見つめる藍莉は、僕の頬へ向けて手を伸ばす。
触れられた指は細くてか弱い。けど温かくて何時までも縋っていたくなる不思議な感覚。
「僕、ちゃんとお前に寄り添えるようになるから」
「?⋯⋯⋯貴方何言ってるの?もう出来るわよ」
馬鹿だなぁと言いたげな藍莉は、優しい微笑みを浮かべていて、本当に綺麗だった。
「おーい!ふったりとも!」
ビクッ!と身体を震わせた僕と藍莉は、まるで何事も無かったように距離を離して牧原へと顔を向けた。
牧原逸花というファンキーガールは、どうも人の目というのを知らないようであり、張った声を目一杯に上げながら大きく手を振っている。
もう傍から見れば、戦争が終わって永らく逢えなかった恋人と再会した〜みたいにも見えるが、恋人はどっちだ?
僕か?藍莉か?どっちであろうとも断固否定したいから富宮を明け渡そう。
「逸花。何か分かったの?」
ジャンプを最後に僕達の傍に辿り着いた牧原に藍莉は問い掛けた。
かなりの時間を費やして、作業中のおじさん達の邪魔までして得た成果とは如何様なものか。
「なーんにもわかんなかった!あっはっは。仕事として依頼されただけだから、詳しい事情なんて知らないってさ」
「そう」
藍莉も内心では気付いていたのだろう。落ち込んだ様子も無ければ、気を使って励ましの言葉を投げる訳でも無い。
「でもね、この『プレハブ小屋』って本当に出来上がって三週間で焼けたらしいの!凄くない!」
「マジかよ⋯⋯」
正直、一番胡散臭い情報が正しいものだったなんて。
そう考えば、少し悲しくもなる。折角出来たプレハブ小屋は、一ヶ月もしない内に焼け焦げて使い物にならない物に変わったという事になる。
原型がどんなものだったかすら知り得ないが、焼け落ちた後の小屋ならネットで画像検索を掛ければ幾らでも拾えてこれるだろう。
「それでね、それでね!なんと『プレハブ小屋』の中には、無かったらしいの」
「何が?」
「家具とかだよ!おかしくない!」
前屈みで意気込んだ様子を見せる牧原に多少身動いだ僕は、急ぎ藍莉に助けを求める視線を送った。
それに気付いてくれた藍莉は牧原の頭を優しく撫でると、説明をしてくれた。
「三週間も経ってるのに、荷物とか家具を一切置いてないのは不自然だろって話をしてるんでしょ?」
「そう、それ!」
「分かんねぇだろ?建てられてすぐに出張に行って、何も荷物とかを持ち出せなかった可能性もあるし」
その他にも、色々と推測は出来る。世の中、自分だけの見聞きして知っているものばかりが全てではないのだから、様々な憶測が頭を過ぎらせた。
何でもかんでも自分にとって変わった事があれば、『不思議な出来事』なんだと判断するには早計が過ぎると僕は思うし、その旨を伝えたのだが。
「いんや!何かあるね!私の勘がビビビッ!って来たんだから!」
何かのドラマで見たサイコメトラーのように、両手を頭に近付けて何か電波のようなものを送っている素振りを見せるものの、僕にはそんな不可思議電波は視認出来ない。
「藍莉、止めてくれないか?」
「何言ってるのよ、准。私で止めれるなら、初めから止めてるわ⋯⋯」
「お前で駄目なら、もう本当に駄目だな」
既に諦観している藍莉の視線は次第に逸らされていく。
その一部始終を見た僕は悟った。
(つまり、今日は牧原が満足するまで連れ回されるって事か?)
普段、友人間で面倒くさそうな表情を浮かべない藍莉が、ここまで露骨に面倒そうにしているのは、大変珍しいと感じる反面、危機感を齎した。
そして、そんな僕達の心境などお構い無しの牧原は、腕を高らかに上げて意気込む。
「さぁ〜!次に行こーーッ!」
「えぇ⋯⋯⋯⋯」
まだ『プレハブ小屋』の謎は一つも解けていないというのに、まるで究明したかのように清々しい表情をさせた牧原は日陰から脱して、日向の上を歩いて行く。
バス停に辿り着いた僕は、ジメッとした空気からの早期脱出を願いバスの到着時刻を確認する為、時刻表を見つめた。
すると、牧原が僕の腕を指で数度軽い力で突いて来た。
「なんだ?」
藍莉がスマホで友人とメッセージのやり取りをしてる為、コチラに気付く様子は無い。
すると、何故か微笑みを見せた牧原は耳打ちするように口元に手を添える。
僕はそれに応えるように耳を近付けた。
「ねぇねぇ?桐江くんって藍莉の事、好き?」
どんな質問なのだろうか?疑われているのなら大変失礼な話だ。
「当たり前だろ?なんでだ?」
「⋯⋯⋯⋯そっか!ならいいや〜」
「?」
言葉の意図が全く読めない。僕が藍莉に負担を掛けていると告げられているのなら牧原の言葉の意図もまだ理解出来るものだが、それならさっきまでの藍莉の行動や仕草に整合性が取れなくなってしまう。
となれば、牧原本人が僕達の間にある関係性に不審感があると疑っているという事になるのだが⋯⋯。
だとしても、それなら僕の言葉だけ聞いて納得する理由は何か?それが分からなかった。
━ ━ ━
バスに乗り込んだ僕達は次のスポットである『粗目橋』に向かう為、近場で下車して徒歩での移動を余儀無くされていた。
けれど、身体に妙な滑り気を感じさせるジメッとした空気と、燦々と煌めく太陽によるお節介な直射日光が、目的地へ向かう為に歩き続ける僕達の体力を着実に奪っていく。
だが、そんな僕達にも安らぎはあった。
造林地区がすぐ側にある道路を直向きに歩いて行く途中に、ポツンと建っているカフェがあったのだ。
僕達三人は目配せし、頷いて無言の了承を得ると、脚は自然とガードレールが無い白線の内側から少し外れてカフェへと向かう。
そして現在、窓から見える景観が非常に悪いでカフェで一休みしている最中である。
この付近はキャンプ場がある訳でも、釣りが名所となっている訳でもない。
立地的な観点ではかなりの外れ感があるのだが、カフェの空気感は穏やかであり、涼むという名目ではかなり心地の良いものとなっている。
客の数も僕達を除けば、六人程という数ながら、騒がしい人等は居らず、店主もカウンターの裏でコーヒーを飲みながら雑誌を読んで待機中。
藍莉はブラックコーヒーとショートケーキを頼み、牧原はモンブランとカフェオレ。
僕はブラックコーヒーのみ。
オレンジ色に照らされる店内は眠気を誘い、窓際の席に座っている僕達は店内を見渡す。
黙々と本を読んでいる者。
スマホの画面を見ながら、淡々と指を動かしている者。
出された料理を口に運ばせているだけの者。
本当にそれだけだった。
「藍莉、ケーキちょっと分けて。私のもあげるから」
「えぇ、良いわよ」
互いに注文したケーキの皿を隣に座る二人は交換する。
真っ先に牧原は藍莉が渡したケーキにフォークを突き刺していく。
「う〜ん!美味い!」
オーバーリアクションを取りつつも、本当に美味しそうに食う牧原の頬は緩みきっていた。
藍莉も口にはしないものの、頬が蕩けてしまっているようにケーキを咀嚼しており、僕は少し後悔する。
(そんな美味いのか?⋯⋯僕も頼めばよかったなぁ〜)
せめて直視は避けようと思い、窓際に座っている利点を活かして窓を覗き込む。
これなら問題無いと言い聞かせるように手に顎を乗せて、ひたすら呆然としていると、造林林から人が出てきたのが見えた。
「?アレって⋯⋯」
黒のインナーの上にボロボロの白いパーカーを着用し、所々が破れているデニムパンツを履いている子供に僕は見覚えがあると思い、目を見開いていく。
(あの子、昨日病院に居た⋯⋯)
僕に『予知能力』をご披露してくれた少女だった。
けれど、パーカーはあれほど茶色く汚れていなかったし、ズボンもダメージジーンズのように破れてはいなかった。
それに歩き方からして怪我をしているのだろうか。
腕を押さえていて、フラフラと覚束無い足取りに不安感を募らせられる。
少女は店に入る様子は微塵もなく、左脚を引き摺るようにカフェを通り過ぎようとしていた。
気にはなる。けれど、僕は少女を捨ておこうとしている。
何故だろうか?自分でも不思議と此処に居座りたい気持ちが無性に溢れていた。
あの子の事を気にして店を出る事自体、嫌悪感すら湧いている。
「ふぅ〜食べた〜。じゃあ!行こ!」
視線を移せば、牧原はケーキが盛られた皿も、カフェオレの入ったティーカップも空となっており、満足気に藍莉へ視線を送った。
それに気付いた藍莉は少し苦笑する。
「⋯⋯まだ良いんじゃない?もう少し居ても?」
「え?!藍莉、もう食べ終わってるし、飲み終わってるじゃん。桐江くんも何か言ってあげ────」
牧原は不審な眼差しを僕に向けた。
普段の彼女とは何かが違うと分かってて、僕はそれに対して関心が持てずにいる。
「ねぇ!聞いてるのー!」
不意に頬を引っ張られた。
「痛い!痛い!」
かなりの強さで、頬の肉と顔面がお別れをしそうになるかと思う程には強く、爪が食いこんでいる。
送別会を開いてくれる訳でもないのに、抓ってくる牧原は本当に遠慮がなかった。
「痛いッ!牧原痛い!」
ヒシヒシと痛みを感じる頬を擦りながら、牧原を怯えた目で見つめるものの、反応しない事に更に恐怖心が湧き立って来る。
「⋯⋯⋯⋯」
返事をしない牧原は、ただひたすらに様子を窺うように僕を見つめていた。
少し目を細め、再度僕へ向けて手を伸ばそうとする。
それがヤケに恐怖感を湧き立てられた僕は、逃げるように立ち上がった。
「あ、そうだ。悪いけど、僕はちょっと外に出てくる。金は置いとくから」
「准?」
財布を取り出し千円札を机に置いた僕は、そそくさと逃げるように席を立ち、丁度良い機会だと思い、少女の行方を追い掛けるべく退店した。
けれど、ドアに備え付けられた小さなベルの音は、どうしてだろうか?心の奥底からの嫌悪感を齎した。
(⋯⋯なんだ今の?⋯⋯⋯)
小さなベルの鈴の音一つに違和感を感じてしまって、動揺が隠せなかったが、今は一刻も行かなければならない。
左を向けば少女はうつ伏せで倒れてしまっていて、駆け寄るように傍へと向かった。
「おい!大丈夫か?」
「⋯⋯っ!!⋯⋯あ、あのっ!あのっっ!!」
僕の顔を見ると共に切羽詰まったように脚を掴む。
その力は貧弱で本当にすぐに解けそうな程に弱くて、表情は鬼気迫る何かを感じさせる。
ボロボロの衣服。頬に付いた擦り傷は生々しい。
昨日被っていた黒の帽子は無くなってしまった為に、顎にまで到達するぐらいの長い前髪が露出していた。
後ろ髪は一本の線を引いたように灰色が目立っており、妙は違和感を感じさせる。
髪染めに失敗したにしては、頭頂部から後ろ髪の先端まで綺麗に伸び切った灰色の一線。
染めているにしては綺麗に整い過ぎていて、思わず凝視してしまう。
「弟を⋯⋯朔を助けてください!さ、さ、攫われたんですッ!」
「さ、攫われ⋯⋯た?!」
僕は酷く狼狽した。明らかに脚の動かし方がおかしい少女の身体的心配を気に掛けていたというのに、斜め上の情報がお出しされた事に僕はたじろいでしまう。
「『鳩羽さん』に、私達の親代わりの人に!⋯⋯⋯た、助けて上げてください!」
「待ってくれ。まずは落ち着け。一先ず、冷静になってくれ。僕もちゃんと話を聞きたい」
「は、はい。⋯⋯⋯⋯すみません」
朝倉さんから教わった事は多くある。
その一つに、助けたい人が居るなら、助ける側はその人よりも冷静で落ち着いた対処を求められるって事だ。
あの人のように上手くは出来ないだろうが、それでも見過ごす事は出来ない。
パーカー越しにも垣間見える事の出来る血の滲みは、白い衣服という事もあり、より痛ましく思える。
まずは少女を座らせようとした。小石が敷き詰められた地面にうつ伏せにさせたままでは休めるものも休まらないという判断からだ。
腕を掴み、ゆっくりと起き上がらせようとした時。
「いっ!」
細声で短い悲鳴が上がった。
けれど、身体の何処をどう痛めているのか分からない僕は、起き上がらせようとして支える腕をピタリと停止。
「悪い!大丈夫か?」
「は、はい」
冷静でいる事の難しさというのを改めて知った気がする。
切り傷なのか擦り傷なのか、付着して乾いてしまった血がそれを教えてくれない。
頬にも首筋にも、手の甲にも傷はよく窺えて、苦悶に満ちた表情をしている少女になんと声を掛ければ良いのか、分からなくなっていく。
「⋯⋯⋯⋯ひ、一先ず起き上がるのが難しいなら、仰向けになってくれ」
「だ、大丈夫です。お、驚いただけですから」
歯を食いしばりながら、何とか座り込んだ少女は、荒く乱れた息遣いをして僕を見た。
少女が僕に縋る理由は弟の朔という子の救出なのだろうが、それなら何故警察へと届出を出さないのか、という疑問もある。
こういう時こそ警察の出番であって、僕の出番ではない。
どう声を掛けて良いものか迷った。
何時までもここに居座る訳にもいかないし、後方にあるカフェの中で休まらせるのも懐疑的だった僕は、迷った末に傷の確認をする事を選ぶ。
「っと⋯⋯痛いのは何処だ?」
「え、えと、ここと、ここです」
示したのは右腕と左脚。窓越しで目撃した時も、右腕を押さえるようにして左脚を引き摺るように歩いていた。
フラフラで覚束無い足取りからして、相当の痛みがあるのは想像に固くない。
「あ、あの脱いだ方が良いですか?」
「え?⋯⋯あぁ、まぁ良いなら」
どのぐらいの傷の深さなのか、直で確認するつもりは、僕にはなかった。
けれど、少女の提案は出来る限り叶えてあげたい気持ちもあり、思わずそれを了承してしまう。
パーカーを脱ぎ地面に置いた少女は、黒のタンクトップ一枚の状態で右腕を僕の方に寄せる。
(⋯⋯⋯⋯これ、腫れてるのか?)
青く腫れ上がったその右上腕は、内出血している可能性も鑑みた方が良さそうで、赤黒い血が生々しく付着して固まっていた。
「⋯⋯上げられるか?」
「⋯⋯⋯っ!⋯⋯ここまでしか、上がりません」
肩より上が上がらない。上げれば上げる程顔は顰めていく様子もあって、実質右腕は使い物にならないと判断した方が良さそうだった。
「あ、脚、見せますね⋯⋯」
気恥しさがあるように俯き出す。
座り込んだまま、腰を上げるようにしながらウエストバンドに手を掛けた。
そして、ズラすようにズボンを脱ごうとする少女の手を、僕は勢いよく掴んで制止する。
不思議そうな顔をさせながら首を傾げる少女だが、僕の方が首を傾げてしまいたくなる行為だ。
「何やってる?」
「え?⋯⋯だって、脱いだ方が見えやすいかと⋯⋯」
「捲れば良いだけだろう?それとも、捲っても見えない箇所に傷があるのか?」
パーカーは白い為、比較的にわかりやすく傷の位置が確認出来たが、ズボンは黒色と見えづらい。
少女が差してくれた指の位置的には足首付近だった為、裾を捲るものかとばかり思っていたが。
どうやら読みは外れてしまったらしい。
「ご、ごめんなさい。もしかして、何か駄目でしたか?」
「駄目に決まってるだろ。傷を見せるだけで、脱げなんて言ってない。それにさっきは足首を差していたろ?なんで脱ぐって発想になるんだ?」
「⋯⋯え、えと。足首も痛いですけど、ここも痛くて⋯⋯。全部確かめて貰った方が良いかな?って⋯⋯はい」
太腿を指差す少女は申し訳なさそうな表情を浮かべて、顔の向きと共に声のボリュームが徐々に落ちていく。
「⋯⋯お前、どんな生き方してきたんだ?」
素朴な疑問を投げ掛けた。
普通、上を脱いでも下は脱ぐものではない。
それは社会性や相手の信頼関係にも関わる話だが、生きた環境が大きく作用されているものだと僕は思う。
この目の前に居る少女は、羞恥心を見せていたけど、最終的には出会ってまだ二日の異性に下着を見られても良いと思えてしまえる判断基準は、一体どうやって培われてしまったのか、甚だ疑問が尽きない。
「普通ですよ?」
「普通じゃない。脱がないんだよ、普通の人は」
「え?だって、パパとママはいつも私を人の前で脱がせてますよ?」
言葉を失った僕は冷静で努めようとする為、俯いて唇を噛んだ。
(なんだ、何言ってるんだ?⋯⋯⋯⋯は、え?⋯⋯は?)
僕よりも幼い少女が社会性を学べていないという事実が堪らなく不愉快だった。
物事における弊害と危険性をまるで理解出来ていない事と、それを親という存在が学ばせようとしていない現実に立ち眩みを起こしそうになる。
街を立ち去ろうと、月明かりのよく通る夜に玄関出て行く二人の影は、今も鮮明に覚えている。
倒れる僕はそれを見上げるようにして見つめるだけで、それ以上のアクションは取れなかった。
両親が街を去った理由は、街で噂の対象になる事を危惧した以外の事は無くて、そこに僕達子供の事など顧みる様子は一切無い。
「っ⋯⋯⋯⋯」
「あ、あの⋯⋯。私、何かまずい事しましたか?」
不安げに顔を覗かせる少女は、今にも消え入りそうな声でそう呟いた。
僕は思わず顔を上げて、出来るだけ不安感を与えないように笑う。
そうだ、今は僕の事など些事な事で、問題はこの子の弟が攫われた件について聞かなければならない。
「⋯⋯いや。取り敢えず、脚が動かせない事は分かったから、早くズレたズボンを元に戻してくれ」
「は、はい!」
「取り敢えず、僕がお前をおぶるから、乗ってくれ」
「⋯⋯あ⋯⋯はい」
少女の前に移動して、少女が寄り掛かるのを待つ。
恥ずかしそうにしている少女は、そっと身体を預けるように体重を掛けていく。
「し、失礼します」
ぎこちなく腕を首元に回して、背中は密着は熱を帯びていくものの、僕は違和感を感じた。
前髪が長い故に首筋に当たってこそばゆいのもある。だけど問題はそこでは無い。
思わず目を見開いて、背後を確認する。
恥ずかしそうにしながら目元が前髪で隠れる様子を見た僕は、理解した。
既に全体重、掛けているのだと。
「軽すぎないか!?」
過去に数度、女性をおぶった経験があるからこそ分かる。あまりにも軽すぎる。
軽いと言われれば、女性にとっては褒め言葉なんだろうが、いくら何でもだ。
小学生をおぶっているような軽さ。中学生くらいと勝手に推測していたからその歴然の差のようなものに、僕は動揺してしまう。
「え⋯⋯、駄目でしたか?私、十四ですから、重い筈ですけど?」
「どういった基準だ?それは?」
「パパが言ってたんです。歳を重ねると体重が重くなるって⋯⋯。違うんですか?」
「⋯⋯今度教える。よく聞いとけよ」
「は、い」
決して表情で悟られないように前を向く。
信じられない。それが僕の心に溢れていた感情の全てだった。
(どうなってるんだ。コイツ⋯⋯。親もそうだが、どういう暮らししたら、そうなれるんだ?)
既に藍莉と牧原は店から出てきていて、僕は軽すぎる少女を背負って歩き出す。
傷だらけで痛ましい少女と、その弟をどうするか、僕達は話し合わなければならない。
大きく手を振ってコチラの近くに駆け寄る牧原と、何処かボーッとしている藍莉と共に。




