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この街は今日も語る  作者: 紫芋
第1シリーズ 牧原逸花は語らせない

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夜闇に吹く嵐

バトル回です。


え?この作品にバトルってあるのか?⋯⋯ですか?


ありますけど何か?


追記──加除修正として、ストーリーの内容、設定を少し変更しました。


ストーリーの大筋の変化こそありませんし、結末も変わらないですが、所々変更しました。


主に鳩羽くんと詩葉に関してですね。


他は変えてません。


ごめんね!

 料理が盛られていた食器が泡に浸していく。


 スポンジを食器に当てて汚れを落とし終えると、シンクの側面に跳ねる勢いでお湯を当てて洗い流した。


 黙々と作業をしている准《じゅん》は、ひたすらに皿に付着した油汚れを落として慣れた手つきでお湯を浴びせていく。


 洗い終えた皿は、隣に居る逸花《いちか》が受け取り、食洗機へと放り込み、手を差し出すようにして次を待った。


 エネルギッシュかつ好奇心旺盛で天真爛漫。


 けれど、彼女は食洗機に放り込んだ皿やフライパン等の調理器具を丁寧に並べている。


 そんな様子を傍から見ている准は、当初から持っていたイメージ以上の雑さは無くなり、綺麗好きや几帳面といった印象を新たに与えた。


『准から逸花への評価が僅かに上がった!』


 そんなレベルアップした際のBGMが脳内で微かに鳴った時である。


「ねぇ、桐江《きりえ》くん。明日、探検調査に付き合ってくれない?」


「────ん?なんだって?」


 子供のような物言いながら、顔は真剣そのもの。


 けれど、何をもってそんなお誘いを逸花がしたのか、准には皆目見当が付かない様子である。


 訝しんだ表情を一瞥して察した逸花は、手渡された皿を食洗機に置いた後、顔を隣の少年へと近付けた。


 逸花の肩と准の腕が密着する中、言葉は紡がれる。


「私さ、調べたい事あるんだけど一人じゃ大変じゃん?女の子だしぃ」


「ぶりっ子なら他所に振り撒いてくれ。僕はお前の調査内容を何も知らないし知る気もないんだ」


 力強く手渡した皿を受け取る逸花は、駄々を捏ねる子供のようであるが、准は黙々と作業に勤しむべくシンクに視線を落とした。


「えぇ〜、酷いよぉー!あ、その皿、まだそれ泡残ってるよ?」


「⋯⋯」


 再び手元へ戻された少し大きめの丸い皿にお湯を全力で浴びせていく。


 多少手荒な洗い方を不思議そうに見つめる逸花は准の顔を窺い、子供のように拗ねた態度を取る姿に少し笑みを零す。


 シンクの中から大量の湯が跳ねる音は、リビングから垂れ流しているテレビの音量と、姉弟の談笑の声を掻き消していた。


「ねぇ?お願い。一生のお願い!調査の最初!先端だけでいいからさ!」


「⋯⋯」


 蛇口を閉めてお湯が塞き止められる。


 先程まで遮られていたリビングから鳴る環境音が准の耳にも届けられると、シンクから目を離して逸花の方へと視線を移す。


 逸花は既にお願いのサインを成していた。


 上半身を少し前屈みにして、両手はしっかり掌を合わせた合掌。


 頭を下げて必死に懇願の姿勢を身体で表現していた。


 吝《やぶさ》かではない気持ちになっていく准は少し顔を上へと向けて、腕を組んで考える素振りをする。


 僅かな呻き声。顰め始める面持ち。自身より身長が低くて負い目がある立場の同級生の女子高生が頭を下げてのお願い。


 断るよしなど何処にあるか。准は神妙な顔付きで大きく頷いた。


「⋯⋯『先っちょだけで良いから』って艶めかしく言ってくれたら考えよう」


 真面目な顔して悪巧み。准の思春期的ないけない思考が掻き立てられていき、言葉に紡がれた証拠である。


 しかし、この時の少年に一遍の悔いは無かった。


「えぇ!良いの?!⋯⋯なまめかしい、って何?」


「色気大ありの麗しい女性のようにって事だ」


「分かったよ!それで桐江くんのやる気が出るならやるよ!」


 確固たる意志を持って水に濡れた両手をタオルで拭き取ると、片手を握って鼓舞するように天井目掛けて腕を上げた。


 一方の准は、まさか了承されるだなんて夢にも思わず、高鳴る鼓動を抑えようと口を引き結ぶ。


(⋯⋯⋯⋯ん?ちょっと待て。牧原はその手の知識に疎い。つまり⋯⋯やろうと思えば、無限に誑かせれるんじゃねぇか!?)


 それはまるで未知とのご対面。僥倖を得て、画策して、いけない思考は加速していく。


「頼む!お前の言葉がないと、立(・)ち(・)上がれねぇ!」


 この少年、酷い話恋人がしっかりといる為、ある種の慢心と驕りがあった。


 思春期的思考に迷いは無く、少年の瞳は真っ直ぐと穿つように真剣なものであった事を向かい合っている逸花も視認する。


 だからこそ、報いなけばならない。牧原逸花は少年の罠にまんまと掛かり、やる気を漲らせた。


「ゴホン⋯⋯。あ〜。ふぅ⋯⋯。先っちょ──」


「止めなさい」


 制止の言葉を投げ掛けると共に傍まで駆け付けた藍莉は、逸花の頬を抓った。


「あだだだだだだだ!痛いよ〜!!なんで私なのっ?藍莉ィ〜」


「貴女。今、騙される所だったのよ?むしろ感謝して欲しいものね」


 憐れみの視線を向けつつ、しっかりと同情心が籠った声色の藍莉は逸花の頬から指を離すと、子供をあやすように頭を撫でる。


 されるがまま撫でられ続ける逸花の表情は緩み切っていた。


 逃げるなら今だ!と潜在的本能が囁かれた事により、准は退散を決意し部屋に篭ってやろうとするものの、既に現実に帰って来た逸花の意識は一足早く、ハッとなった様子で逃げようとする愚か者に向けて白い目を向ける。


「どういう事さ〜、桐江くんっ!」


「チッ!行けると思ったのに!」


「准⋯⋯。後でお説教追加ね?」


「ひ、ひぃぃぃい!だ、だって──」


「ん?」


 藍莉から放たれる威圧感に准は気圧されていく。


 無表情でひたすら准へと冷淡な視線を向ける藍莉に敵う者など存在しない。


 余裕のあった表情は徐々に崩れていき、最後には諦めたように肩を落としながら頭を下げるのであった。


「すみませんでした⋯⋯」


「もう〜、酷いよー!」


 未遂に終わったとはいえ、利用された事実は消えない。


 逸花は准の胸元をバシバシと掌で太鼓を叩くようにしてダメージを与えていく。


 しかし、牧原逸花は優しい女の子。


 叩く力は脆弱で、勢い付いて呻き声を上げてしまうなんて事も無く、お爺ちゃんの肩を叩く孫のような力加減であった。


(ピコピコって音鳴りそう⋯⋯)


 少し悔しそうな顔を浮かべていた逸花は、胸元をリズム良く叩く行為を止め、ビシッと指を准に向けて言い放つ。


「こうなったら桐江くんには、探検をなんとしてでも手伝って貰うからね!」


「探検?」


 脊髄反射のように逸花へと問い掛けた藍莉の表情は不思議がった面持ちである。


 彼女こそが他の友人と比べても、牧原逸花という女性を知っていた。


 地獄耳のように何処からともなく聞き付けた噂に向かって全力疾走。


 どんな些事な出来事であろうとも常に活発。


 話題提供からオチまで綺麗に担当し、場を和ませるカンフル剤。


 授業は怠けてノートの模写を常に求める怠慢っぷりもご披露するものの、謝罪と感謝は忘れない。


 それが大州藍莉から見た牧原逸花という友人なのだ。


「そう!これ!」


 サッとポケットからスマホを取り出して、操作を終わらせて、勢い良く画面を藍莉に向けた。


「何これ?」


 画面に表示されているサイトを見つめ、首を傾げる藍莉は逸花の方へと視線を向ける。


「『七不思議』だよ!」


 それは『空弩街七不思議』の内、二番目の噂。


【七八区《しちはっく》】であった。


 藍莉と准、互いに違うタイミングで怪訝そうな雰囲気を醸し出し始める。


(絶対面倒臭いじゃん⋯⋯)


 露骨に嫌悪感を顔に出した准はスマホから目を離す。


(この子⋯⋯、また変な事に⋯⋯)


 逸花の満面な笑みと、厄介事臭いサイトに表示されている文字列から、怪訝な顔を浮かべた。


「それ聞いた事あるけど、実際に事件があったかも定かじゃないんだろ?」


『七不思議』と揶揄されるには、必ず現実で何か関連する事件や人物が登場しているという関連性がある。


『第一の不思議』でもある【焼けの胎】は、二十年前の『空弩街連続猟奇殺人事件』が元となった不思議ではあるが⋯⋯。


【七八区】には、元となった事件の皆目分かっていない。


『警察』という単語がお話に出てきている事から、明治時代以降に出来た話である事は容易に想像出来るものの、現代から百年以上も前の話。


 更に話に出てきた小屋や、遺体の中から全く別の人間の骨や肉が見つかったなんて事例はどのサイトにも掲載されていない。


 准も過去に調べた経験こそあるが、どの噂よりも信憑性が無く、眉唾物の御伽噺でしかないと判断した。


 だが、牧原逸花は噂好き。


 たとえ出鱈目な眉唾物であろうとも、未知でメルヘンな御伽噺であろうとも、湧き立つ好奇心は収まらない。


 右に噂話があると聞き付ければ、障害を飛び越えてでも探し当てる。


 左に噂話があると聞き付ければ、上空を天翔ける勢いで見つけ出す。


 そして、今回はこの街の噂好きならば涎が垂れる程の噂話。


 目を輝かせた逸花は、戸惑う准と溜め息を零す藍莉を交互に見つめて訴え掛けた。


「だから調べるんだよ!お願いだよ〜!『幽霊』が居たって事は、『小屋の行方』とか『美(・)女(・)の(・)謎(・)』とか分かるかもしれないじゃん。お願い〜、お願い〜っ!」


「ん〜、とは言ってもなぁ⋯⋯」


 そう、准達が『幽霊騒動(タフネス系)』に巻き込まれてから、まだ一週間と少しばかりしか経っていない。


 ただでさえ厄介な騒動に巻き込まれがちな桐江准からすれば、いい加減に休まりたいところなのだ。


(⋯⋯⋯⋯そう言えば、『美女の謎』ってなんだ?)


 まだスマホを所持していた頃、サイトで【七八区】に関して調べた際、『美女』に関する情報はミリ単位で出ては来なかった。


 つまり、准が情報をチェックしていない期間で新たな情報が発生した事に他ならない。


 早速、逸花にその情報の事を詳しく聞こうと振り返った。


 そこには女神像に祈りを捧げるように膝を床に付け、両手を合わせて曇りなき眼で上目遣いをして藍莉を見つめる逸花の姿が確認出来る。


「なにとぞー。なにとぞ〜〜」


 准の強制連行が実施可能なのはあくまでも大州藍莉の許可あってのもの。


 それを知っている逸花は神頼みするように懇願を体現していたのだった。


(⋯⋯何やってんだ⋯⋯、アイツ)


 傍から見れば馬鹿な光景ではあるだろう。


 しかし、この牧原逸花は至って真剣であり、藍莉もそれを応じるように真面目な検討を脳内でしていたのだ。


 准を放置して十数秒が経過した頃合い。


 腕を組んで試行錯誤していた藍莉は諦めたように溜め息を吐いて、仕方ないと目で語り掛けるように逸花を見下ろした。


「連れてって良いわよ?」


「はえっ?!」


 驚きの声を漏らす准とは相反して、立ち上がる逸花は軽く跳びながら両腕を上げて喜びをこれでもかと体現する。


「わ〜い!彼女さんから許可貰っちゃった〜!」


 舞い上がる逸花は准の方へと身体を向けて、ピースサインをお見舞いする。


 しかし残念な事に、そんなご褒美は准の視界には収められていない。


(止めないの⋯⋯?)


 厄介事に巻き込まれないか不安ではないのか?


『幽霊騒動』の件をもう忘れられたのか?


 なんて野暮な考えが巡っている准だが⋯⋯。


 藍莉は当然だが不安もあり、先の『幽霊騒動』をバッチリ記憶している。


 それでも逸花による准の街探索強制連行を是とした。


 ここからの流れを読み取れない准ではない。


 怪訝な顔をしながら藍莉に疑問を投げ掛けた。


「まさかとは思うけど⋯⋯。藍莉も行くのか?」


「ええ、私も行くわ」


 ほら来た、とばかりに呆れた准とは違い、大喜びで浮かれ上がった様子を見せていた逸花の動きはピタリと停止した。


「ひょえ?」


 聞き間違いではないか?と思わず首を傾げた逸花は、あれほど上げていた腕を力無く下ろしてしまう。


「⋯⋯藍莉」


 神妙な面持ちへと変わった逸花は真っ直ぐと藍莉を凝視した。


「やっぱりか⋯⋯」


 何かあってからでは遅い。そう考える准は言い訳探しの為、部屋を見渡していく。


「駄目?」


 そして、准はその言い訳を発見した。少し見開かれた瞳は藍莉へと向き直る。


「駄目って言うか⋯⋯。蒼太《そうた》はどうするんだよ?家に置いてくのか?」


 顔をクイっとリビングにあるソファに座ってウトウトとしている蒼太へと向けた。


 晩御飯も済み、お腹は膨れて睡眠を欲する状態となった蒼太の瞼は少し落ち掛けていた。


 そんな微笑ましい光景を三人で見つめていると、一抜けするように藍莉はリビングの方へと歩き出す。


「ちょっと待ってて。蒼太に許可とってくるから」


「許可制なのか⋯⋯」


 返事を返す者は誰も居ない。藍莉と蒼太が話し込む様子をひたすらに見つめる准は、手持ち無沙汰な状態を脱却するかのように冷蔵庫からお茶の入ったピッチャーを取り出す。


「⋯⋯⋯⋯」


 瞼は細めて、ジーッと姉弟の光景を微笑ましそうに眺める逸花は瞼を閉じて少し息を吐くと、准の方へと向かいお茶をせがむのであった。


  ━ ━ ━


 降り止む気配を一向に見せない豪雨の中、少女は一人の少年の腕を掴みながら、行く宛ての無い街を懸命に走っている。


 既に息は荒れており、心臓の鼓動は早まっているものの、決して脚を止めてはならないと胸中で叫びながら雨に打たれ続けた。


 二人の少年少女の後方には、大人が何やら騒いでおり、物凄い剣幕で大声を上げている。


「はっはっはっ⋯⋯。頑張ってっ!」


「詠葉《うたは》姉ちゃん、もう無理だよ⋯⋯」


「何言ってるの!脚動かして!」


 豪雨が続く中、車道には車の影もライトも無く、街灯も点されていない歩道のみが慌ただしい。


 ふと振り返った少年の視界には何も無い。


 真っ暗な歩道と隣接する車道。少しカーブが掛かっており、下り坂を走っているのも相まって先は周囲に比べても濃い黒色で統一されていた。


 すると────。


「っ!!ね、姉ちゃん!来てる!」


「振り返らない!走ってぇッ!」


 水溜まりが蹴られた。膝元にまで掛かった水飛沫は既に雨に打たれ続けている為、二人は気にもならない。


 徐々に二人の走る速度が落ちていく。


 目的地はある。けれど、場所を知らず途方も無いだけの逃走は、急斜面の下り坂を走っているにも拘わらず、やたらと長く感じる少女は苦しい顔をし始める。


(どうしよう!どうしたら良いんだろ⋯⋯⋯。っ!)


 真横にあった街灯、そして等間隔で設置されていた後方の街灯が雨を明るく照らした後、すぐさま消灯した。


 風は吹き荒み、奇しくも向かい風。


 まるで街が敵にでもなったように、二人の子供を妨害していた。


 直後、前方にあった街灯が弾け飛び、ガラス片が二人の真横に落ちた。


 少女が腕を即座に引っ張り大事が無いようにしようとするものの、少年は腕を掠めてしまう。


 思わず背後を振り返りそうになる少年は、姉でもある少女の忠告を守る為、振り向きたい欲を無理に殺して、再度引っ張られるようにして前進。


「もうすぐで、私の話を信じてくれてた人の所に着くから!」


「本当に信じられるの?!だって如何にもヘナチョコそうだったじゃん⋯⋯」


「でも、もう頼れる人が居ないの!我儘言わないで!」


 目指す場所は病院。そこ以外、少年を目撃した試しが無いからだ。


 偶然の出逢いであり、奇っ怪な話をひたすら聞いてくれた奇特な人物という印象が強いその少年の顔を思い浮かべ、懸命に脚を動かしていく。


 少女は『未来予知』が出来る。だが、十秒間、静止画をトントン拍子に流されるだけであり、決して万能という訳では無い。


 誰かが危機的状況に陥る未来があると知っていても、場所は何処か?どの時間帯で発生するのか?はその時の静止画に映り込む光景から参照にしていく必要性があるからだ。


 だから気付けた。だから二人だ(・)け(・)は今現在、この街を走っている。


『見つけた』


「え?」


 脳内に直接語り掛けられているような不思議な感覚が二人の子供に見舞われた。


 直後、少女の焦燥感は臨界点を越えて、鬼気迫る表情に変わっていく。


 もう一刻の猶予も無いと少女は悟る。


 脳内に直接語られた嫌悪感に渋い顔を浮かべる少年はまだ気付いていない。


 ────もうすぐ近くまで、迫っているのだと⋯⋯。


 後方から複数の男性の悲鳴が上がったのを機に事態は大きく変わったのだと、少年は察した。


 少女の走る速度は落ちていくにも拘わらず、状況だけは刻一刻と迫り続けている。


 豪雨にすら負けない騒然とした音は次第と止んでいく。


 気付けば、雨音と二人が水溜まりを踏み鳴らす音のみが鮮明に聞こえるようになると、後方から物凄い勢いで何か大きな物が飛んで来た風に二人の子供は吹き飛ばされたように道路に転がった。


 繋いだ手は自然と離れてしまい、少年は呻き声を上げて、少女は自ら戒めていた後方確認をしてしまう。


「あ、あぁ⋯⋯⋯⋯。なに?」


「ぁぁ、ぁぁぁ⋯⋯姉ちゃん!あ、あの人!」


 歩道の反対側は木々が生い茂っており、森林地帯となっている。


 その一本の木の幹に食い込むように白衣を着た男性が一人、見るも無惨な状態で殺されていた。


 事態は逼迫した中に既に立たされていると、少女は殺された男性を見て深く知覚する。


 乱れた呼吸を整える間を少女自らが与えなかった。


 少し後ろで座り込んでしまった少年の腕を掴もうとした時である。


「大丈──っ!」


 腕を掴もうとした少女と少年の間。


 女が一人、佇んでいた。


「⋯⋯⋯⋯」


 声にならない少女は見上げる。


 背を向けている女性は、少女の事など眼中にすら無い。


 青白い素肌、手入れのされていないボサボサの黒髪。


 まだ季節的には早すぎる薄着の格好をしており、白色の半袖のシャツも、ベルトの巻かれた赤色のスカートも所々破れており、清潔感も皆無。


 口元に泥と露出している手脚は傷だらけであり、雨が降っているというのに、泥も血も洗い流される様子を見せない。


「⋯⋯誰?誰なんですか!?」


 女は無反応を貫き、少年の頭部目掛けて腕を伸ばし出す。


「姉ちゃん!た、助けて!」


「止めて!この子に触らないで!」


『⋯⋯⋯⋯⋯⋯』


 追い越すように女性の横を通り抜けて、少年を庇うように押し倒した少女は、本当にただ必死だった。


 恐怖心に身を引き裂かれそうになる。


 逃がす術も手立ても思い浮かばない少女の取れる最後の抵抗。


 そんな勇猛果敢な弟を守る姉という光景を、呆然と見下ろしているだけに留まっている女性の身体は明かりに灯される。


 その黒色の高級車は、車道のど真ん中で急停止。


 中からスーツ姿の男が一人出てきた。


「見つけたぞ、詠葉、朔。⋯⋯⋯⋯貴様は⋯⋯。そうか、遂に『亡霊』がここまで来たか」


 体格がガッシリとした筋肉質。オールバックの金髪で目付きが鋭く、見られるだけで威圧感を与えてしまえるその男は腕時計を外し、ネクタイを緩めた。


「吉野。能力増幅機《ガジェット》を」


 雨音にも負けない低く威圧的なその声は、運転席から老人を降ろさせて、助手席から一つのアタッシュケースを取り出させた。


「畏まりました」


「⋯⋯『過去の女』め。その醜悪な素顔を肉塊に変えてやる」


 銀色に鈍く輝くアタッシュケースの中を取り出した男はメリケンサックにしては機械的な物を装着して、拳を突き合わせる。


 手の甲に分厚く張られていた装甲は腕にまで伸びていき、能力増幅機《ガジェット》の動作が停止すると同時にボクサーのように腕を前に構え出す。


 直後、目を見開いた女性の顔色はみるみる険しくなっていく。


 歯を剥き出しにして、恨めしそうに睨み付けながら腰を低くして戦闘態勢を取る。


『⋯⋯⋯⋯貴方⋯⋯。あの男の⋯⋯。ううううぅぅぅぅ。殺してやるゥゥゥ』


「此方《コチラ》の台詞だっ!『遺物』めッッ!」


 女へと向けて猛突進する男は、右拳を腰に据えるようにして、振り上げる準備をして前屈みとなる。


「ふぅぅぅぅんッ!!!」


 微かに吸われた吐息。拳は空に摩擦熱を帯びさせていき豪快な音と共に、拳は上空へと駆け上がった。


 それは人間一人では到達出来ない暴風の一薙払い。


 強烈なアッパーカットが豪雨を弾き飛ばして、夜空を衝いた。


 女性から逃げるべく、再度懸命に駆け出していた姉弟の背中は、前方へと押し出すように突風に弾かれていき、否応無く地面を転がった。


 翻っていく衣服は竜巻にでも飲まれたかのように激しく揺れて、木々は斜めに傾けられていき、男の近くにあった街灯は小枝を踏んだようにポキッと真っ二つにへし折れてしまう。


(な、なんだよぉぉぉぉ!)


 思わず背後で起こっている状況を確かめようと少年は振り返る。


「な、なんだよ⋯⋯これ?!」


 その男は堂々と綺麗なアッパーカットを決めて、夜空に向けて拳を掲げていた。


 それだけならば、まだ良い。


 問題は、拳を突き上げた事による一撃によって夜空を覆っていた灰色の雲は綺麗に丸い穴が空けられており、あれ程の豪雨は綺麗さっぱり地面に降ってこなくなっていた事にある。


「⋯⋯⋯⋯⋯」


 少年は声を出せなくなっていた。未知の光景が広がっている。


 強烈で鮮烈な光景が映る少年の眼には、屈強な男と女との死闘に釘付けになっていた。


「ヌオォォォァァァァ!」


 テンポとリズムがブレない果敢で強烈なラッシュが女の身体を強打する。


 打ち付けられていく拳は明確に女に接触しており、衝撃はその身体は大きく揺られていく。


 その激しい攻撃の嵐は、少年の視界には微かにしか視認出来ずにいる。


 けれど、息を呑み、刺激されていく。


 身体の震えは男の放つ乱打だけによるものではなかった。


 地面が軋む音が鳴る。木々が倒されていく音が徐々に広がっていく。


 ガードレールがひしゃげていき、空気が振動している。


「ふんッ!ふんッ!んんんッ──だぁぁぁぁぁぁぁぁぁあッッ!!!」


 猛攻撃は終幕を迎えた。


 身体を横へと反らして、右拳で殴る体勢を取る。


 傍から見れば避けやすく、打つ方向が丸分かり。


 男が焦っているようにも見えるだろう。


 けれど、男は至って冷静で平常であり、真っ当な事をしている。


 何故ならば──。


『ッッ〜〜〜〜〜!!!』


 構えて放つ。そのシンプルさが強大かつ恐ろしい一手。


 迫り来るその拳に、女は対応出来ない。


 臨界速度《トップギア》から舞い込む一瞬の捷さと重さ。


 音は遅れてやって来た。


 その殺人確定級の拳は女の顔面に直撃し、街を駆ける一つ星として、加速が加わった上で飛んでいく。


 その衝撃は凄まじく、道路には大きなクレーターを形成し、地面だったものは粉微塵と化す。


 竜巻が発生したように辺りにあるものを巻き込んで、空中へとデリバリーと言わんばかりに掻っ攫おうとしていく。


 少年、少女と共に。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!」


「朔《さく》っ!あ〜あっ!嘘っ!あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ」


 一足先に吹き飛ばされた弟の名前を叫んだ。


 いくら腕を伸ばそうと身体は意志とは関係無く動き、距離を否応なく突き放そうとする。


 その竜巻は男すらも予想外の副作用。


 クレーターから浮いて出てきた男は悲鳴にも聞こえる呼び声がする上空を見上げた後、吉野なる老人へとハンドサインを一つ送る。


「吉野。早く回収しろ」


 一つの命令が下ると会釈のように頭を下げた吉野は身体を竜巻の発生してしまった方向へと向ける。


 直後、朔の全身は青の輪郭が発生して、あれ程に無造作だった動きを制止させた。


 そのまま朔と吉野の間に糸でもあるように指二本で引っ張る動作をした。


 光(・)る(・)瞳(・)は僅かに細まる。


 如実に朔と吉野の距離は狭ばっていき、最後には朔の身体は吉野に抱き抱えられた。


「急げよ」


「はい」


 吹き乱れる竜巻の勢いは徐々に弱まっていく。


 目を開けられるようにまでなった少女は朔を探そうと身体を動かす。


「あっ!」


 吉野の手元。小さな男の子が意識を失って眠ってしまい、老人に抱えられているのを発見した。


 更には吉野の瞳が青く光っているのもバッチリ確認し、慌てた様子で羽織っていた白のパーカーを脱ぎ、自分の身体と視線との間に遮蔽物として被る。


「んんーっ!」


 顔と上半身を濡れたパーカーとフードで覆い隠すようにしてる少女は空中に滞在中。


 驚く素振りを見せた吉野は諦めたように瞼を閉じて、付き従う男の方へと目を向けた。


 元の瞳の色の状態で。


「坊ちゃん。彼女は私の能力に気付いてますね」


 開かれた瞼から見えるその眼差しは好々爺そのもの。


 疲れた様子も見せる吉野は小さく息を吐き、近寄った男の顔色を窺う。


「ほう、予知で見たか⋯⋯。仕方ない。少し手荒だが、死なさんように風を調整するか⋯⋯」


 能力増幅機《ガジェット》が装着されている右手を突き上げた。


 滞空期間の終了間近の少女に照準を合わせていく。


 目を細め、意識を集中させると、突き上げた右手をゆっくりと振り下ろした。


 風は少女の背中に直撃。まるでプロペラをへし折られてしまい旋回するヘリコプターのようにクルクルと回りながら森林地帯へと姿を消して行ってしまう。


「っ!!うわぁぁぁっっ〜〜〜!」


 慌てて男は左腕を上げると、更に遠くから少女の悲鳴が聞こえる。


 歯を食いしばりながら、右手を、左手を⋯⋯⋯⋯そんな動きを三、四度繰り返した後、ようやく悲鳴は収まりを迎えた。


「坊ちゃん。下手ですねぇ⋯⋯。仮にも善意で拾った子でしょう?もう少し扱いはどうにかなりませんでしたか?」


「喧しいぞ。吉野。まだ、調整が完璧では無いだけだ」


 嘲笑混じりに貶した吉野を窘める男ではあるものの、自覚はあった。


 その表情からは、申し訳なさが滲み出ており、能力増幅機《ガジェット》を意味ありげに睨む。


(今死なれては困る⋯⋯。少なくても『超能力者』が滅びるまでは⋯⋯)


 男の悲願の達成の為、少女は必要なパーツそのもの。


 嫌われている事も知っている。恐れられているのも重々承知している。


 だが、嫌われている事と恐れられている事が、自分の目指す到達点を諦めて良い理由にはならない。


 吉野がジト目で男を睨む。お前が行け、という明らかな窘めであり、罰であり、最もな話だった。


 男は森林地帯へと脚を踏み入れようとする。


『アァァァァァァァァァァァァッッッ〜〜〜』


 甲高い雄叫びは突然に。振り返ると共にひしゃげた街灯が男の目の前にまで迫って来る。


「なにぃッ!?」


 素早く叩き込む拳は乱打となり、街灯を弾き飛ばしていく。


 顔付近に飛んで来る破片はギリギリながらもしっかりと躱して怒気が籠った慟哭の主を睨む。


 距離にして十数メートル程度。体格も着ている衣服も分かる程度の距離であり、何故だ?と慄く男は唖然とした表情をさせる。


 車道の白線の上で佇むそれは、先程男が吹き飛ばした筈の女であり、歯を剥き出しにして腕は奇妙な開かれ方をしていた。


 開かれたまま力を込めて、腕を抱き締めてやると言わんばかりに横へと伸ばす。


 男の警戒の鐘が高鳴り、吉野を一瞥した。それが退避の判断だと理解した吉野は急ぎ傷付いた車の助手席に少年を乗せて、運転席へと乗り込んだ。


「坊ちゃん!」


「構うな!吉野、先に戻れッ」


「⋯⋯畏まりました」


 バックミラー越しに映る男の言葉と胆力を信じて、吉野は車を走らせた。


 逃走第一となった黒い高級車を追い掛けようとする女の脚は動いた。


 だが、当たり前のように制止を促すように男は向かい合うように立ち、拳を握り構える。


「『遺物』が⋯⋯とっとと塵になれ!」


 威勢は虚勢を隠す為の手段。


 男には分かってしまう。女の実力が高い事を。


 何よりも、あれ程の連撃と強烈な一撃を浴びせたというのに、まるで無傷だとばかりに平然と立っているという事実に男は恐怖を覚える他無かった。


『ナガッァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!』


「ッッ!?」


 咆哮が鳴り上がる。空気は振動して血走った瞳は鋭く向けられた。


 直後、身体は浮き上がり、男は脚に力を込める。


 しかし、すぐにそれは間違いだと判断し焦りを募らせた。


「ッ!イカれ過ぎたか!突然変異ッ!!」


 大声を張り、最大級の侮辱を口にする男には余裕なんてものは消え去ってしまっており、周囲を急ぎ確認する。


 ────地面が浮いていた。


 比喩でも何でも無い。半径四十メートルの円状にくり抜かれるようにしてアスファルトも泥濘んだ地面も草木も等しく、範囲内の全てが対象として、高速で駆け昇るエレベーターのように地面が空へ向かって上昇していく。


 身体に負荷が掛かり始める。急加速にでの急上昇によって発生した重力が、男の身体を硬直させて、呼吸を僅かに忘れさせてしまう。


「ッッッ!!!この勢いッ!!させるかァァァァア!!」


 男と女の距離は二十メートル程。先手必勝のように距離を瞬時に縮めて重い一撃を叩き付けてやろうと脚が動いた。


 しかし、女が男の動向を漫然と待ってやれる程、律儀ではない。


 くり抜いた地面には森林地帯も含まれている。


 青い輪郭を宿した木々は数本ずつ地面から離れ始めると、鋭利で尖った形状へと削るように形を整えられ出した。


 純木製のそれは余分を切り捨て、純粋な殺意と必要性のある形に変化していた。


「なにッ!!?」


 槍、或いは矢のような形状をした数本の木々は、計七個分の巨大な武器として生まれ変わらせると、すぐさま男へ向かってノールックで穿つ。


 女は不敵になる様子は見せない。


 女に油断は無く、ただ淡々と粛々とその作業を終わらせるべく本領を発揮し始める。


「くぅ〜〜〜!」


 男から見て左方向から三本、右方向から四本の純木製の投擲武器が降り注がれる。


 両方から満遍なく来られても対処は出来ないと経験と勘がそう言わせ、右方向へと身体は動いた。


 右利きだからという単調な理由ながらも、右へと舵を切ったその身体は投擲武器よりも速く、俊敏であり、降り注ぐその純木製の巨大武器は男の真横を素通りさせたように回避行動を取る。


 放たれた武器は大きくカーブして、地面スレスレの位置から旋回を果たして、男の元へと再度疾走し始めた。


 男の視界には女を常に監視下に置くように位置取りを為し、警戒心を滾らせたまま、飛んでくる純木製の武器に向かい打つ構えをする。


 拳に目一杯の力を籠め出すと、風は吹き荒み、空を切る音色を奏でると共に両腕に纏わり着く。


「これしきの事でぇぇ!!!」


 二本の腕から繰り出される猛乱打は五メートルもある純木製の投擲武器へ打ち込まれていく。


 砕き、削り、弾き、壊して、木片は周囲に構わず転がり落ちて行く。


 質量が軽くなった木片は未だ上昇する地面に張り付くように落下。


 時に男の頬を掠めて切り傷を残し、時に女の顔を擦るように弾け飛んだ。


 数は確実に消費していき、最後の一本となった槍が男に接近。


 それは随分と間のある距離間に一瞬動揺すらしてしまうものの、構わず男は身構えた。


 男にとっては拳に力を溜められる絶好の機会であり、何の損失も無いのだから。


『ッッウゥゥゥゥ〜〜〜!!!』


「なにっ!?」


 力を溜める動作にもラグはあり、隙がある。


 女は窺った。ひたすら木製の武器を利用して動きを見た。


 必ず存在する男の隙を確実に、絶対の機会を逃さない為に。


 それは瞬間移動による移動法であり、男の背後に突如として現れた。


(馬鹿な!さっきまでコイツは左側に位置していたハズだ!)


 身体の違和感は瞬間的にやって来た。前触れ自体は存在している。


 それを止める術を知らないだけの事であり、男の全身は変化を顕す。


 身体に齎されるのは急激な熱気であり、渇きだった。


 高まっていく体温は、水分を沸騰させていく感覚と、両腕と両脚のみならず、内蔵が炙られるような気持ち悪さが口から漏れ出そうになる。


「ッッ?!がぁぁぁぁ!!!」


 身体との接触まで残り数十センチとなった投擲武器を無理矢理掴み取ると、背後に居る女へ目掛けて雑に振るう。


 空気を豪快に裂くような痛快な音が鳴り響き、女はその攻撃をモロに顔面へと叩き付けられた。


 悲鳴は出ず、叩き付けられた箇所を擦るような動作も取らずに、倒れ込んだ身体をなんて事のないように立ち上がらせる。


 やがて、浮き上がり上昇していた地面は動きを停止。


 佇む女はボソボソと呟くように唇を動かしていく。


『────────死ね』


 浮き上がっていた地面は全て砕け散った。粉微塵と化した足場と、抵抗も虚しく落下を余儀なくされる男の肺は圧迫させられていく。


 超念動力《サイコキネシス》が浮き上がった地面を全て崩壊させたのだと、男の理解が及んだのはそんな時であった。


 熱は膨張していき、目の乾きと口の渇きはやがて痛みを覚え始める。


 そして────発火《いんか》した。


「パッ、パイロ⋯⋯キネシスッッ!!」


 超発火能力《パイロキネシス》。


 触れてからのラグはあるものの、人体を殺すという意味合いで言えば間違いなくトップクラスの超能力。


 最大の特徴は皮膚を焼くのでなく、内部を焼く事にある。


 一度発動してしまえば、たとえ極寒で有名な南極で裸体のまま居座ろうとも、最後は発火する鬼畜仕様。


 実演可能な芸当が多すぎる女は足場が崩れて尚、直立不動のまま衣服が風で靡く事もなく、ひたすら男を見下ろす。


 身体の内部を突き破るように口の中、眼球、血管から毛穴までに至るまで、炎が吹き荒み、落下による風当たりの抵抗は無意味の一言に尽きる。


「ッッッ〜〜〜〜〜!!!」


『死ね。死ね。死ね。死ね。お前達は皆死ぬべきだ。誰でもない。私が、私がッ!私がッ!!!そう決めたァァァァ!』


「呪われた女めぇぇぇぇぇ!!!」


 あらん限りに酷く焼かれる激痛に耐えながら叫び声を上げた男は、未だ見下ろす女を見下す。


 だが、どんなに叫ぼうと女の勝利は揺るがない。


「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」


 上空三百メートルからの急落下。


 パラシュートもなければ、急いで駆け付けてくれる応援も来る事は無い。


 身体は落下速度の上昇と発火能力により、痛み苦しみ悶えるのみ。


「俺は、死ねなァァァァァァァァァイ!!!」


 その木霊に応えるように、パン!と音が夜闇に鳴った。


 男は忽然と上空から消え去り、女は不審がり周囲を直立のまま見渡す。


『ん!?⋯⋯⋯⋯?ん?』


 大地に亀裂を発生させる事もないまま女は着地した。


 受け身を取る素振りもなく、道路のど真ん中で寝ているような光景である。


 そして、平然と何事も無い様子で立ち上がると、忽然と姿を消した男の所在を確かめるべく周囲を確認し始めた。


 けれど、何も無い。誰も居ない。


 自身がくり抜いた地面が眼前に広がり、浮き上がる事を免れた木々と木々の間は漆黒の空間が塗りたくられたように広がっており、舗道されていた車道も歩道も戦闘の影響で車が走行出来る状態では無くなっていた。


 全周囲の確認を終わらせた女は訝しんだ表情をさせて、下り坂を下りようと振り返った時、若い男が一人、そこに佇んでいた。


『⋯⋯⋯⋯⋯ん!』


「⋯⋯⋯」


 女はその男を見て、冷や汗を流す。


 黒髪に青い瞳をしたその男は特段何もしていない。


 ただ見ているだけだった。それだけだと言うのに、女はその男が『危険な存在』だと瞬時に判断した。


 何がそう思わせたのかは理解出来ない。けれど、本能性と直感による働き掛けが大きいだろう。


 身体の硬直は畏怖を知らしめ、喉の乾きは焦燥感を募らせる。


「良いのか?襲わなくて。⋯⋯怖いんだろ?」


『⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯』


 口は開きたくても表情筋が頬骨や顎の骨、歯に至るまで何かに固められたように微動だにしない。


 それが女にとって、かつて味わった事もない不思議な体験だった。


「⋯⋯そうか。じゃあな」


 軽い口調で視線を外した男は、鼻歌を交えて森林地帯の方へと去って行く。


 完全に後ろ姿が視認出来なくなってから、初めて息をした感覚が女を襲った。


 大きく息を吸っては吐いて、俯いた顔からは汗がポタポタと落ちていく。


 震える指先を無理矢理押さえ付けるように握り締めて、森林地帯に向かった男とは真反対の方向へと逃げるように後にした女の脚は少し駆け足気味であった。


 一方、発火能力により燃えてしまった男は川底に背を打ち意識が混濁寸前に追い込まれるものの、水面から顔を出す事に成功する。


 女の超発火能力《パイロキネシス》は極寒であろうとも燃え続ける仕様。


 打ち付けるような川の流れは、黒焦げの皮膚には酷く響き、身悶えながらも川から這い上がる。


 上半身は川岸に、下半身は川の中に浸かったままの状態で口元や目元は火が漂う。


「⋯⋯⋯⋯ッ〜〜。くぅぅ⋯⋯負けたのか⋯⋯」


 悔しさが滲み出てしまい、歯を食いしばろうにも力が入らない。


 脚も腕も満身創痍で動作は不可。筋肉は完全に駄目になってしまい、動かせるのは目玉ぐらいのものであった。


 肺に訪れている圧迫感は依然として続いており、内蔵の殆どが爛れてしまっている。


 発火能力自体はまだ健気に活動中。


 男の死ぬ瞬間まで身体を蝕み続けるのだ。


「よく死んでなかったな⋯⋯。いやぁ〜、良かった良かった。無駄な浪費は避けれたかなぁ」


 軽い口調で現状況が見えていないような発言をした若い男性の声に男は自然と反応を示すように目玉を動かしていく。


(⋯⋯⋯⋯この、こ、声⋯⋯は)


 屈辱の念が迫り上がり、嫌悪感が胸中を渦巻かせた。


「⋯⋯あさ⋯⋯くら」


「よっ!お久しぶり」


 軽い挨拶のように右手を頭の近くに持っていき小さく振る。


 ニコニコとまるで男が大したダメージではないように焼き焦げた肩に触れていく。


「ッッッ!!」


 ピクリと僅かに振動する身体。それを「はっはっはっは、まな板の上の鯉みたいだなぁ〜」と嘲笑する若い男に苛立ちが増していく。


 痛みを身体で表現したい。だが、男の身体は強烈な痛みを発した時のみ僅かに反応するのみで自発的には動かせない状態にあった。


 覗き込むように若い男は屈んで膝に肘を乗せて顎は手に乗せられた。


 その余裕綽々な態度を男は見る事しか出来ず、情けなさすら湧いてしまう。


「条件を飲んでくれたら、助けてやるぞ?どうする?」


「⋯⋯⋯⋯⋯?」


 不快感が更に膨れ上がる男は、顰めっ面をするも、それを意に介さないように言葉を続けた。


「お前が捕らえようとしている女の子を一度だけで良い。見逃せ。それが条件だ」


「ふざっ⋯⋯⋯⋯なぁ。あの子⋯⋯⋯お、おれ⋯⋯の」


「どの道、これから探しても見つからない。だからこそ有意義に時間を使えって言ってんだ。早くしないと死ぬぞ?」


 確実に蝕まれている生命活動の限界時間は、およそ三分足らず。


 紫色になっていく唇を噛み締める力も残っていない男は苦悩する。


 苦渋を舐めさせられた男の提案を鵜呑みにするか、我を通して死ぬか。


「わかっ⋯⋯⋯⋯⋯たっ」


「果たせよ?損なった瞬間、俺がお前を殺しに行く。言っとくが、あの可哀想な女とは違って、俺は触れずに人体発火なんて朝飯前だ。忘れるな?」


 立ち上がった若い男は一歩、踏み込んだ。


 直後、時間が巻き戻ったように焼かれた皮膚は忽ち人肌を取り戻していき、焼かれ尽くした内蔵の爛れは浄化されたように元の状態に逆行する。


 次第に身体は動かせるようになっていく事で、ようやく立ち上がれた男は、ずぶ濡れで重くなった下半身を懸命に動かして陸地に上がった。


「まったく⋯⋯、鳩羽っちは相変わらず弱いなぁ〜」


「埒外の貴様らと一緒にするな⋯⋯。俺は人なんだ」


「そんな格好で森をこれから練り歩く奴に言われたくないんだよなぁ〜」


 仕立てたばかりのスーツを着ていた男は現在、全裸であった。


 発火能力は人体のみならず、身に着けている衣服やアクセサリーも簡単に巻き込んでいく。


「⋯⋯⋯⋯」


「どうするぅ?携帯も無い。財布も無い。森でイエティーとして暮らすかい?」


「っ。⋯⋯朝倉、条件の追加を求め、るっ!⋯⋯」


 悔しがった顔を見つめながらニマニマとする朝倉拓也に憤りを覚えるも、グッと堪えるように頭を下げた。


 追加条件で衣服の獲得。


 朝倉拓也の注文を必ず守らなければならなくなった男は、苦虫を噛み潰したような表情をさせながら森林地帯を出た。


 朝の日差しが男の身体を刺激する。


 思わず見上げた空は仄かに薄暗くて一点の眩しさを鮮明に象っていた。


 夜は更けて朝が巡る。危機的状況に追い込まれた男にとって、今日ほど見たかった朝日は無いと少し微笑みながら、帰路に着く為、歩道を歩いて行く。

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