二択にならない二択
作る料理に拘りを持つ者はきっと何度かその料理を作り、慣れて、アレンジをし始める人物に限るだろう。
しかし、この桐江准は何度も作っているにも拘わらず、一切味付けも変化も求めない少年であり普遍好きなのだ。
作った料理はなんちゃってカツ丼。
大洲藍莉というイレギュラーなお客に加えて、普段から使える食費には限りがある。
その為、お惣菜のカツを自作のタレにフライパンで焼きつつ、溶いた卵を放り込み、盛っていたご飯の上に乗せて、かさ増しのようにレンジでチンしたもやしを乗せて、おしまい。
なんちゃってカツ丼の完成である。
コツはもやしをフライパンに入れない事である。
「⋯⋯失敗した」
そう、この少年は失敗したのだ。
何を失敗したのかと言うと────。
「タレが濃い⋯⋯」
お醤油の入れ過ぎである。
麺つゆで味を調整したのにも関わらず、「二人分だもんなぁ」と言って、倍の量を作ったまでは良かった。
しかしこの少年は醤油の入れ過ぎで味が濃くなり、カツはタレのつけ過ぎで中々に舌に響く味となってしまったのだった。
ダイニングテーブルに置かれた丼の椀には茶色に限りなく近い黒のタレが染み込んだカツ丼が置かれている。
作った本人ですら流石に絶句であり、綺麗に盛られた筈の丼物は何故か毒々しく見える始末。
「悪い。残してもいいぞ?」
「何言ってるの?食べるわよ。折角、作ってくれたのに勿体ないじゃない」
「お、大洲しゃん」
箸をうっかり落としそうになるものの、しっかりと指で掴んだまま、何とか失敗したカツ丼は完食したのだった。
けれど、少女は決して味のコメントを口にはしなかったのである。
「ご馳走様。ありがとうね。お皿シンクに置いておいて、洗うから」
「洗うから?⋯⋯いや、あの、届くの?高さ?」
思わず見比べる。何度も見比べて、無理だと判断してシンクにそのまま移動しようとする脚をミニ藍莉は引き留めた。
「⋯⋯⋯⋯届かすわ!」
「え?」
そうして立ち上がった少女・ミニ藍莉は皿を持って、キッチンのシンクへと歩き出して、レッツ・ウォッシング!
「うぅ〜!はっ。はぁ、はぁ。ううぅぅぅぅ〜〜!何よぉぉ、なんでシンクってこんなに高いの!」
「僕はシンクを買った事ない」
「そっちじゃぁぁ、ない!はぁ。はぁ、はぁ、はぁ」
年齢的に幾つかは知らないが、目元が丁度シンクの縁辺りである今の少女にとっては皿洗いは苦難そのものであり、背を伸ばしても、ジャンプしても、一向に洗える段階に届いていない。
「台は、ある?!はぁ、はぁ」
「無いです」
「ぐぬぬぬぬ⋯⋯かくなる上はっ⋯⋯」
「いや、無理しなくても良いんだぞ?僕がやるし」
「何言ってるの!後からになって『借り』とか『貸し』とか言われたくないの」
「あ、そこなのね」
どうやら、変な所に拘る少女であり、意外な一面があるなと准は納得させた。
「桐江くん、私を担いで!」
「神輿にでもなられるので?」
ワッショイ!ワッショイ!と言いながら、小さな少女を台に乗せて担ぎあげるのを想像したが、思った以上に似合わない事により、その思考は一気に飛んでいく。
「違うわよ。巫山戯てないで、はい!私の背後に立つ!」
「悪役なら絶対言わない台詞だ⋯⋯」
言われるがまま少女の脇に手を伸ばして持ち上げた。
ミニ藍莉の頭が顔に当たるものの、我慢して皿洗いが終わるまで待つ事となる。
「まだ?」
「そんな簡単に終わる訳無いでしょ?後、どさくさに紛れて胸触らないでね」
「触る胸無いじゃん⋯⋯」
呟くなんてナンセンス。准は淡々と完全に聞こえるように口にしたその一言は少女の逆鱗に触れた。
「ふんっ!」
鼻辺りにある後頭部は前から後ろに振られて、思い切り准の鼻っ柱に叩きつけられた。
「あがっ!っっくぅぅぅぅ⋯⋯」
鼻を抑えようにも両手共に塞がっており、少し後ろへと脚は動き少女共々揺れた。
ぶらんぶらんと脱力したように脚を前後に振っているミニ藍莉は鼻で笑う。
「自業自得よ。元に戻ったなら兎も角、今の私はなんか嫌」
「なんで、元に戻ったらいいんだよ⋯⋯」
「自分のルックスに自信があるからよ」
確かに胸あり、引き締まった腰ありとルックスは上々なのかもしれない。
普通ならそれも拒否るものなのだが、少女こと彼女は見窄らしい身体付きの状態で触られる事の方が余程NGらしい。
「左様で⋯⋯。それで、何処を触らせてくれるんだよ?大洲様は?」
「う〜ん。そうね⋯⋯。腕とか?」
「却下」
「え〜駄目ぇぇ⋯⋯?じゃあ、因みに何処触りたいのよ?」
「全部だろ?」
振り返ろうと途中まで顔を向けたもののそれを止めて、前へと向き直った少女。
少し間をおいて言う。
「⋯⋯中々に言うわね」
「胸だけなんて勿体ないだろ?」
「私、とんでもない人に今持ち上げられてるのね⋯⋯」
「やっと気付いたかい?お嬢ちゃん」
赤くなった鼻でニコニコと笑みを浮かべる准おじさん。
誰にも見られていないと言うのに嘲笑地味た笑みを浮かべる様は不審者のようだった。
「おじさん。息しないで、髪に吹きかかって気持ち悪い」
少女はそんなおじさんには目もくれずに言い切ったのだった。
「本当に⋯⋯なんだかなぁ⋯⋯」
本当に無い胸を揉みまくってやろうかと、そんな邪悪度億万パーセントの気持ちが込み上げたが、濡れた手で腕を叩いた事が合図となり、少女持ち上げ期間は幕を閉じた。
「⋯⋯さて」
一息着いた少女と少年は食事をした机を掃き終えた後、ダイニングの椅子に腰掛けて話を聞く準備へと入った。
冷蔵庫の音と屋外から聞こえる少年達の騒ぐ声が部屋に響く中、始まる。
「私がこの姿になったのは、朝学校に行こうと玄関を出てからなの」
その言葉を皮切りに話は切り出された。
家にいる間はなんとも無く、平穏そのものであったのだが、玄関の戸を開けて学校へと向かおうとすると大洲藍莉十七歳の見た目は十歳前後にまで気付けば退化してしまったのだと言う。
「変わった事とかは?前日とか?その日以前に何か触ったとか、見たとか、起きたって感じのは?」
「何もないわよ?普通に学校行って、帰って、弟と一緒にご飯食べて、友達と電話して、駄べって、寝ただし」
本当に普通。
変哲のへの字の無い程に当たり前の日常であり、誰もが送っている普通の事だ。
そうなればと、切り込んでいく准は身振り手振りで言う。
「うーん。知らない間になにか見た?とか⋯⋯」
「だとしたら、私が見た物は何?ってならない?」
「そうだなぁ⋯⋯。というか、大洲的には幾つくらいの年齢と見た目なんだ?」
「⋯⋯十歳かな?」
随分と具体的な数字を言う少女は首こそ傾げていたが、それなりの自信があるように窺えた。
「その心は?」
「この服を買って貰った時、よく着てたのかそのぐらいだから。小四でしょ?十歳は」
「まぁ、誕生日迎えればそうだな」
「あの⋯⋯、私戻れるの?」
不安そうに見つめる少女。
それに便乗するかのように、励ましの言葉を投げても罰は当たらないのだろう。
「分からない。戻るにしても、それなりの条件や意図があるだろ?」
けれど、准はそれをしなかった。
それは、決して励ましにはならないと踏んだ。
慰めにも近く、もっと確信的になってからでなければならない意味がないと思ったからだ。
「こういうの慣れてるって私観なんだけど、今の世の中って皆がこんな出来事が起きてるものなの?」
「皆は起きてない。偶々触れちゃいけないものに触れちゃったって場合とか、人の心理的、精神的な事に何かが干渉してこういった事が起きるらしいから、皆が皆。必ずしも何か起こる訳じゃないらしい」
「怨念がある石に触る⋯⋯とか?曰く付きの場所に行くとか?」
「それもあるな」
「これ、オカルトって事?」
首を傾げて怪訝そうな顔を向けた。
日本にも呪いが籠った墓があり、それをずっと置いていたり、曰く付きと言われる物を保管している場所もある。
けれど、ミニ藍莉の言葉に対して准は首を横に振る。
「オカルトじゃないな。オカルトなら『身体を小さくする』じゃなくて、『身体を犯す』筈だから、多分違う」
「犯す?」
ミニ藍莉は自身の腕や身体を見る。
小さくなってしまった事以外の変化を確かめるように⋯⋯。
「身体に痣が出来たり、黒く変色したり、別人みたいになったりとか。そういうのに、『小さくする』って工程を挟む必要無いだろ?せっかちなんだよ。幽霊や呪いって」
「そうなの?呪いって一朝一夕に出来ないってなにかのテレビで言ってたけど⋯⋯」
「準備は時間が掛かるけど、出来たら即効性の毒みたいに回るんだ」
「桐江くん。なんか、専門家みたい」
そう感心した様子で呟いた言葉に対して、准は再度首を横に振る。
「受け売りだよ。僕もこういうのに巻き込まれてから調べ始めたら、専門家みたいな人と会って教えてもらったんだ」
「その人は何処にいるの?」
「いや、もう居ない」
ミニ藍莉は「あっ」と小さく漏らすと、申し訳なさそうな表情で准を見た。
「亡くなったの?」
更に口元を手で押さえる。完全に失言だったと判断して恐る恐る向き合う准の顔色を窺う。
だが、准はケロッとした様子でありながら、吃るように一言。
「いや、変な穴に入って消えてった⋯⋯」
「はい?」
ミニ藍莉の表情はコロッと変わった。
あれほど、申し訳ないといった表情は唖然としたと思えば、怪訝そうな、不可解そうなものに変わり、視線からは、何言ってんだ?という圧が加わっていた。
それを察した准は焦った様子で、手を横に全力で振って見せる。
「⋯⋯いや!マジなんだって!ワームホールみたいな穴にな?その⋯⋯手振りながら入ってたんだ!嘘じゃないから、信じてくれ!」
「ふ〜ん」
ジト目で見つめられる視線からは信用というものは含まれていなかったのは目に見て分かる程だった。
「信じてないなぁ⋯⋯。まぁ良いけど⋯⋯」
「貴方の言葉を信じていないんじゃなくて、その人の事を信じていないの」
少女からすれば当然の事。
ワームホール以前にその前提である受け売りの知識を与えた人物は聞く限りでは、如何にも怪しいに尽きる。
仮に本当なら尚の事だ。
けれど、少し微笑んだ准からはそれは無いといった様子である。
「⋯⋯いや、信じられる。少なくても、その人のお陰で妹は助かってる」
「え?妹さんも何かあったの?」
テレビ台に置かれたキャンプ場で撮られた写真を遠巻きで見つめるミニ藍莉は訝しむ。
交互に向けられる視線からは心配の色が窺えて、准は少し微笑んだ。
「ちょっと待ってくれ⋯⋯」
落ち着いた手つきでスマホに手を持った准は何かを探すようにスワイプしていき、そしてスマホを見せた。
「⋯⋯なにこれ?」
「その人曰く、『【四馬】に当てられた』って。だから、妹の写ってる写真は途中から全部黒い何かに覆い被さるんだってさ」
その写真は本来ならば、妹の中学進学祝いの何気ないものの筈だった。
セーラ服に身を包み、『入学式』とどデカく書かれた看板の前に立つ恥ずかしそうな顔色を浮かべる妹の記念写真は家族共々、この先良き思い出として残り続ける筈だったのだが、現実はそうはならなかったのである。
セーラ服諸共包み込むように黒い手は全身に纏わり付き、顔はグニャッと螺旋を描くように歪な形をしていた。
更に、首と脚には黒い手が無数に絡み付いていて、締めているようにも見える。
正門前に置かれた看板、そしてその後方にある中学校をバックにして撮られている筈の写真は何故か──巨大かつ青い瞳のような光が写し出されており、撮った本人である准も当時は大慌てであった。
「な、なんなのこれ?!」
「【当て馬】だってさ。本当の名前は忘れた⋯⋯」
「治ったの?」
「あぁ、けど検査入院で今は病院に居る。実害出ててさ。骨も折れてた事もあって中々になぁ⋯⋯」
准は思い返していた。
妹が豹変したように暴力を起こして、当時通い始めたばかりのクラスを学級崩壊に招き、問題を起こした事。
食べた物が全て腐ってしまい、嗚咽している様子も、急に倒れ込んでしまい眠りに着いた事も全て。
既に一年前の事件であり、過ぎた話。
だが当事者達、並びに被害者にとっては終わっていない話でもある。
決して無下には出来ない物事で、家族が招いた一大事件は今も胸に傷として残り続けていた。
「良かった。妹さん無事なのね」
「あぁ。病院に行ったら、元の妹に戻ってて安心したよ」
「元の?」
「人が変わったみたいになっててさ。だから⋯⋯って、今はそれじゃない。大洲の事だ」
「え、えぇ、そうね。話が脱線したわ」
コホンと鳴らしたミニ藍莉は間を置いて、腰をジリジリと奥にやり座り直して向き直った。
「私のこれは何て呼べばいいの?不可思議な現象?オカルトじゃないならミステリー?それともファンタジー?」
「『現象』だな」
「『現象』?」
「そう。僕はそう教わった。少なくても不思議現象じゃ言いづらいだろって事でそうなった」
「なんだか、拍子抜けする理由だけど⋯⋯。まぁ良いわ。それでこの『現象』、私はどうやったら治るの?」
小さなくなった身体、頭脳も同じで、薬を飲まされた訳でもないのに起きてしまった『現象』は決して簡単な道のりで解決出来る程、甘くは無いと覚悟を決めた。
考える素振りを見せる准は専門家ではない。
散々教えてくれた人物は遠くへ行き、現在孤軍奮闘真っ最中。
「まずは、最近の大洲自身の動向をしっかり把握しないといけないな。後、親にも伝えないとまずいんじゃ⋯⋯」
家出と言うには少し語弊はあれど、自分の娘が家から出てって帰って来ないなんて事件性がある何かに巻き込まれた以外何物でもない。
後になってからそういったゴタゴタに巻き込まれるのを回避するべく先んじて口にしておいた准の意図を汲んだようにミニ藍莉は静かに頷いた。
「────そうね。悪いんだけど、後で電話貸して貰える?」
「あぁ」
「それと昨日の私は何も無い程に普通だったわよ?どうするの?」
少し考えた後、准は一つの判断を下す。
「明日、大洲の家に行ってみるか⋯⋯」
「え?!行くの?」
「行くだろ?行かなきゃ分からないし」
「⋯⋯⋯⋯じゃあ、学校が終わったら電話してね?」
それを言われた時、准の視線は少女を凝視するようになった。
「というか、スマホは?」
「十歳の私は持ってないみたい。ランドセルにも無かったし」
ソファで寝かせている赤いランドセルはリコーダーがはみ出しており、給食袋はソファからはみ出していた。
(しかし、なんで十歳なんだ?)
既に浮かんでいた一つの疑問。
昨日には何も無かったと言っている少女の言葉を信じるならば、十歳の頃に何かがあり、それが起因してこうなった以外に考えられない。
事件の着地点を探るには、まず何処からが原因で、何が発端として発生したのか、それを探る必要がある。
「⋯⋯十歳の時に何か無かったのか?特別な事とか、大事な事とか?」
十歳頃、最も印象に残った出来事、その内容から発生した『現象』の発起点を探ろうとミニ藍莉を真剣な目でみつめた。
少し間が空き、俯いた様子となったミニ藍莉はゆっくりと口を開く。
「⋯⋯男の子に初めて告白されたとか。弟が産まれたとか。成績表で初めて親と教師に駄目出しされたとか、かしら」
「弟くんの事以外、割とどうでもいいな⋯⋯」
生命の誕生は兎も角、他があまりにも有り触れ過ぎている。
どう考えてももっとあるだろうと口にしようとするも、その前にミニ藍莉が言葉を発した。
「何よ?私の十歳は弟有りきって言いたいの?」
腕を組んで牽制を突く。それは自虐にもならないと准の首を横に振った。
「そうは言ってないだろ?けど、特別な事とか大事な事なのに、成績とか告白とか要らないって言ってるんだ」
するとミニ藍莉はモジモジした様子で上目遣いで発言した。
「私の初めての日が⋯⋯」
目が見開かれた。
爆弾発言にも等しいその妙に艶かしい物言いに一瞬思考が停止した准は口をポカンと開いてしまう。
硬直してしまった身体。再起動した時に何を少女が言ったかをまた思考して幾つかのループ。
────ようやく理解に至る。
「え?!⋯⋯お前⋯⋯え?大洲、まさか⋯⋯」
「何よ?⋯⋯悪い?」
組んでいた腕は股に挟むようにして視線を泳がせて少し恥ずかしそうにしている。
(いや、流石に十歳は⋯⋯⋯⋯早すぎるだろッ!いや、でもなぁ⋯⋯⋯ませてっからなぁ)
ミニ藍莉の様子に根負けしたように、俯いた准は何を言おうかと考えるも、結局は「いえ、何も⋯⋯」と、それだけ言って黙りこくってしまう。
すると、恥ずかしそうにしている筈のミニ藍莉の口から音が漏れた。
「ぷっ。ふふははは、は〜ははははは」
突然の大笑い。
唖然としていた准は仕組まれたと察して目を細めた。
「⋯⋯⋯⋯なんだよ?」
「初めてって言うのは告白自体の事よ?それをなに飛躍させてるのよ。ふふっ」
「お前、途中で面白がってただろ?」
「当然」
口癖を胸高らかに口にした藍莉は自慢げだった。
(やっぱり⋯⋯くそぉぉぉ。ませてるのか、僕の方だってのか⋯⋯)
完全に一手取られた准は不貞腐れるように顎を手を乗せて、テーブルに顎を置いてしまう。
それを見たミニ藍莉はテーブルに少しだけ身体を乗せるようにして准に寄って髪をワシャっとし始めた。
「言っとくけど、私処女よ?」
「どうでもいい情報この上無い」
「何よ?私の初めてという事がそんなに気に入らないの?」
頭に乗せられた手を掴んで元の定位置へと半ば強引に戻させる。
不貞腐れていた態度を止めて、ミニ藍莉へと向き直り抗議をする。
「気に入る、いらない、じゃない。どの道、見た目もチビになってるし、確かめよう無いだろうが」
そう、つまり────たとえ既に済ませていようと、そうでなかろうと、初体験前の状態の身体になっているのならば、少女の言葉は嘘か本当かが判断出来ない。
「へぇ〜。つまり元に戻ったら確かめようとするんだぁ」
それを揶揄うように反論。ニヤニヤとした顔付きからは少しいたずらっ子のような印象を受ける。
「解釈違いだな。初めての相手が誰かを探そうとしなきゃ行けないか、要らないかの違いだ!お前の身体をとやかくするつもりは一切合切、これっぽっちも全く思ってない!」
「女の子相手にそこまで言うなんて⋯⋯鬼畜ね。童貞くん」
桐江くん改めて、童貞くんへと改名。不名誉この上ないとばかりに准は立ち上がる。
「おい、なんで僕が童貞の体で進んでんだ!分かんねぇだろ。ヤリまくってっかも知れないじゃん!」
「無いわね。本当に童貞じゃないなら、そんな反応しないもん」
「童貞であろうとなかろうと、十歳で卒業したとか言われたら誰でもこんな反応になるわぁぁッ!!」
アパートの一室は盛大な声で轟いた。
それからつまらない闘論が数十分程続き──准は論破されてしまう。
━ ━ ━
現在、論破王ことミニ藍莉様はお風呂で入浴中。
家に帰ろうにも自分の姿が誰にも認識されないどころか鍵すら所持していない現状を鑑みて、今日一日だけでも泊めさせてやる事となった。
そして僕はと言うと───。
「どうしたもんか⋯⋯」
大洲家の電話番号は既に紙に書いて貰っている。
今時、固定電話がある事の方が珍しい世の中で大洲家はそれがあったのだ。
僕は今、一つの過ぎりがあった。
それは、学校で准だけ見えず、周りは見えている事。
友達が見えていたのならば、家族はどうなのだろうか?という素朴な疑問でありながらも大事な問題点。
仮に姿が見えていないのならば、今頃は大騒動真っ只中であり、心配した家族の対応により警察も動いている。
とはいえ、そんなにすぐニュースになる訳は無い。
ならば、手は一つである。
「掛けてみるか⋯⋯」
同級生の女子高生の自宅の電話番号というこの上ない貴重な物を片手に持ちながら、震える手でスマホを操作していく。
(震えるな⋯⋯、そうだよ、ただの確認じゃないか。それに、何も疚しい事もない。親御さんに確認するだけなんだから)
電話番号を入力して、通話ボタンをタップ。
恐る恐ると耳元にスマホを添えた。
よく聴く音が耳に流れて、数十秒。
プツッと音が鳴って、声が聞こえた。
『もしもし』
声の主は聞いた限り、三、四十代の女性のものであり、その人物が母親だとすぐに認識した准は緊張した様子で声を発する。
「あ、あのもしもし⋯⋯桐江と言います。えと、僕、娘さんの、えーと大洲藍莉さんのクラスメイトの」
『あら、藍莉のお友達?ちょっと待っててね』
そう言って、受話器を置いたのだろう。
声の主は遠くへ行った足音が聞こえた。
(良く聞こえる電話だな⋯⋯⋯)
受話器からは『藍莉ーお友達から電話ー』と張った声で呼び掛ける母親の声と父親らしき人が『おおー!』と騒いでいる声が耳によく通る。
野球中継でも見ており、解説役の人が丁寧な口調ながらに滑舌よく話をしており、応援している球団は頗る調子が良いみたいだ。
そんな大洲家の様子を聴覚頼りに確認していく中、相手側の受話器から音が鳴った。
普通なら、いやいや大洲は今鼻歌混じりに風呂場に居るから受話器を受け取れる訳無いじゃん、と思うが、『現象』が起きてしまっているのなら話は変わる。
結局の所、常識的に考えてしまっては負けるのはコチラであり、毅然としていなければならない。
注意深く、ありのまま起こる事を受け入れて、明確にしていかなければならないのが、『現象』に向き合う第一歩。
大洲藍莉を呼びに行くと言った母親の言葉通り、大洲藍莉本人(偽物)が受話器を取ったのだろうと判断して、僕は声を掛ける。
「⋯⋯もしもし?」
しかし、返事が来ない。
全くの無音。静寂と言うには大洲家の中がテレビ観戦で煩すぎるのもある為、騒がしいのは間違いないが、それでも受話器に最も近い筈の大洲藍莉本人の声が全く持って聞こえないのは違和感でしかなかった。
「⋯⋯もしもし?大洲?」
間を置いて再度もう一度声を掛ける。
けれどやはり返事は返ってこない。
それどころか、耳を澄ましていればいる程、野球中継の音と、電話口を離れた母親が戻ってきた足音が聞こえて、父親に電話の事を伝えるような声が聞こえる程にはクリーンな電話であった。
「⋯⋯あの〜、もしもし?」
いよいよ不安になっていき、少し声の抑揚を上げた。
全く進展しない現状に嫌気のようなものもある。
すると────奥から叫び声が聞こえた。
『こらー、蒼太!!お姉ちゃんの所に行こうとしない!今お話してるんだから!』
母親がミニ藍莉の言っていた弟くん相手に怒鳴る声がスマホ越しに響く程に聞こえてきた。
一瞬、スマホから耳を遠ざけて、再度近付けていく。
(───いや、あの⋯⋯。すいません、会話になってません⋯⋯)
どうやらお説教のようなものが始まったらしく、母親の声が綺麗に通る通る。
(⋯⋯⋯⋯ん?なんだ、なんか⋯⋯おかしい?)
すると、ブチッと音が鳴って通話は切れた。
「え?!⋯⋯嘘!会話どころか、何も無かったんですが⋯⋯」
スマホを耳から離して溜め息を吐いてしまう。
しかしどうやら、電話でも声は聞こえないらしい事が分かった。
同時に彼女はいる体らしい事も判明。
収穫物としては些か小さいが何も無いよりはマシだと受け入れる姿勢を取る僕はスマホの画面を凝視する。
「明日になって、変な噂が流れてなきゃいいけど⋯⋯」
そう、大洲藍莉は確かに存在している。
居るという前提で考えるのならば、明日、なにかの弾みでクラス内で噂されれば十中八九、『電話を掛けた癖に「もしもし」しか言わない阿呆』というレッテルが貼られるという事になってしまう。
僕の悪評は一年前から今年に掛けて鰻登りだ。
それはもうハイパーインフレが起きてしまったように注目の的となっている。
「嫌だァァ⋯⋯。悪口は嫌だぁぁ。どうせならハッピーであれ!」
「何が悪口なのよ?」
心配そうな声が聞こえてきた。
思わずその声の方向へ振り返ると、お風呂上がりで頬が紅い少女が妹の中学のジャージを捲って羽織る姿が映った。
不意に僕は凝視する。悪い事なんてあるものか。
そこにお風呂上がりの火照った少女(同学年)であり、高校生(小学生)の美人さんが居れば、誰だって見る、僕だって見る、大統領も仙人も、お釈迦様もブッタもピカソも見るだろう。
だからこそ、恥ずかしそうに身動ぐ大洲に構わず僕は見続けた。
「⋯⋯。なるほど、風呂上がりの女性が良いっていう男の趣向がちょっと分かるかも」
「貴方ね⋯⋯。私、見た目だけなら十歳なんだけど?」
「安心して欲しい。たとえ外見がチビでも僕は中身を正しく見れる男だ。つまり、ちゃんと大きい大洲がそこに居て、風呂からあがってきたと想像出来る立派な頭脳を持っているって事だ」
「要は妄想と想像が豊富って事ね」
なんて事を物申す少女なんだろうか。
間違ってないから本当に酷い。
「⋯⋯ぅぅぅ。手伝ってやんない!」
「ごめんごめん。悪かったわ」
タオルを首元に掛けながら呆れた顔にも微笑ましそうな顔にも見える少女は、よく見ればまだ少し髪が濡れていた。
ツヤがあるように揺れた髪は茶色を色濃く映し、癖っ毛なのか、寝癖なのか、よく分からないウェーブの掛かっていた髪型は少し落ち着いていて、新鮮にも感じる。
「つうか、まだ濡れてるじゃねぇか⋯⋯」
「女の子の髪は乾きにくいのよ」
そう言って、首に掛けていたタオルを使い、押し当てるようにして乾かそうとするも更にボサボサになっていく。
「⋯⋯ドライヤーあったろ?」
「使っていいか聞こうとしたけど、なにか話し声してたから止めたの」
こりゃ失敬。そう口にはせずとも心で思ったからセーフ。
「使っていいぞ」
「ありがと」
ドライヤーの位置を教えて、洗面所から出てくるまでの時間を無駄にソファへと腰掛けていた僕は、僅かな違和感が、未だ拭えずにいた。
「なんだろ⋯⋯、なんか変なんだよな⋯⋯なんだろ?」
眼鏡をかけた少年でもなければ、後ろ髪を結んでお爺さんの名前を賭ける人物でも無い僕には、その違和感が凝りのように心に残っている。
電話の際の違和感。そして先程から家に居る少女に対する違和感。
何かあるはずと思っていた思考はドライヤーの音と共に流れていってしまう。
ドライヤーで髪を乾かし終えた大洲はリビングにやって来てすぐさま、「ソファで待っている」とだけ言って、それを受け取った僕は風呂に入った。
そして、今まさに湯船に浸かっている状態。
身体は温かいお湯によって気持ち良さを感じさせる。
僕の上げた唸り声が風呂場によく響く。
「分かんねぇ⋯⋯」
根本的な解決策が見当たらない。
呆然と上を眺めてばかりの僕には違和感がずっと残り続けてしまう。
流石に待たせすぎるのもマズいと思い、浴槽の栓を抜き、流れていくお湯。
立ち上がって浴槽から出ようとした僕を鏡は曇りながらも映し込む。
「⋯⋯⋯⋯あ」
違和感が見つかった。
中途半端に上げた脚を地に着けて、急ぎ洗面所へと向かう。
明かりが当然のように僕の影を濃くしているが、大洲には影が無い事に気付いてしまった。
風呂上がりの彼女に見蕩れていて、すっかりと抜けていた生物や物体にあるべきもの。
液体、気体にすら存在するその影は、大洲がタオルで頭を拭いていた時には間違いなく無かった。
「大洲⋯⋯、さてはかなりやばいんじゃないのか⋯⋯」
困惑は当然あった────。
このまま洗面所を出て、大洲と鉢合わせる事は何に繋がるのか。
どういった事が起こるのかが全く予想外で、少女の存在は何なのかと、脳を常にフル稼働しなければならない。
「⋯⋯
リビングで律儀に待ってくれている可能性が大いにある大洲の存在が急に怖く感じた。
「⋯⋯けど、話している限りでは本人っぽいんだよな。化けてる?だったら電話の大洲の声は何で聞こえないんだ?⋯⋯駄目だ、分からない⋯⋯。やっぱり根本的に解決策を見つけないと、どうしようもないな」
これまで遭遇してきた『現象』はそれほど不気味さは無かった。
それは何故か。見知った人間が『現象』に『憑かれる』事が少なかったから⋯⋯この一点に限る。
最も最初に僕が遭遇した『怪異騒動』である妹の件は確かに怖かったし不安も確かにあるにはあったが、不気味と呼べるものではなかった。
そもそもの話、アレは僕が原因で、僕が諸悪の根源でしかない。
だから、不気味さとかよりも後悔が大いにあって向き合わなければならない事柄だった。
ゴールデンウィークに起こった『怪異現象』は不気味さよりも寂しさが胸を締め付ける結果となってしまった。
そして、今回のは件はどうしても、手遅れと感じてしまう。
影響による範囲が一個人で収まっていないのもそうなんだが、『根本的な起因』と呼べるものを自覚していない点がそれを色濃くしている。
普通ならば、何か理由や行動によって発生する出来事が無ければ、『怪異現象』は起こらない。
けど、それに気付いていないのは、本人が隠しているのか、本当に知らないのか──。
いずれにしても、この状況はかなり逼迫していると感じた。
『じゃあ、諦めるの?』
────まさか、そんな訳がない。
やらなければならない。『日常を彩る存在』っていうのは、その当人だけに留まらず常に居る人が居て形成されるもの。
その中に、枠組みには既に『大洲藍莉』は含まれている。
だから諦めない。
───首が絞まる。身体が妙に重くなる。
分かっている事は一つ。今回、あの人は助けてくれない。
だから、僕が解決するしかないという事だ。
「電話をもう一度掛ける?大洲に掛けさせるとか?⋯⋯本人の声は本人の耳からのものと人が聞くものとはブレがあるってあの人も言ってたし⋯⋯。いや、聞かせたとしてどうするんだ⋯⋯。もし、大洲が本当に消えたりしたら洒落にならない。あ〜どうしよう」
頭を抱えて屈む。そして、悩み、悩み抜いた結果、僕は決めた。
「駄目だァァァ!」
解決策も打開策も事前策も思い浮かばない。
手立ても打つ手もない現状を恨めしくも思った僕は立ち上がる。
折角温まった身体は洗面所に出てから冷え切ってしまっていた。
けど、また入り直すなんて事は無く、僕は服を着て、半ズボンを履く。
勢いよく洗面所の戸をスライドして洗面所を出る。
明日の僕にバトンタッチだとばかりに身を任せ、リビングに続く扉を開ける。
「たのもーーーぅっ!!⋯⋯あれ?」
意気揚々と先陣を!とそう思っていたけど、肝心のリビングには誰も居なかった。
「は、背後!」
そして背後を向くも、誰も居ない。
拍子抜けするぐらいに普通に僕のよく知る自宅の光景。
玄関先の照明は付いていない為、暗いがそれも何時もの事。
だが僕はここで疑心を手放せる程、甘っちょろくない。
以前にもそういった経験をして結果的に居ましたってケースを直視してる側の人間だ。
「心霊番組なら、もう一回振り返った時だろ?分かってるってッ!!」
無理矢理自身を鼓舞するように声を荒らげた。
思い切り拳を背後へ振り向きざまに当てようとするも空振りに終わり、本当にただ馬鹿をしただけに終わった。
「⋯⋯⋯⋯」
恥ずかしい黒歴史がまた一頁追加されてしまう。
おかしい。冷めてた筈の身体は、まだ熱を持ち始めた。
何かの怪奇現象かな?それとも不可思議体験なのだろうか。
────いや、よそう。恥ずかしくなって水分がどれだけあってもすぐに沸騰してなくなっちゃう。
そして、肝心の大洲本人はと言うと、ソファの方にしっかりといらっしゃったのだ。
ただし、眠ってはいたが⋯⋯。
「⋯⋯まぁ、歩き回ってたって言ってたもんな」
僕は観察するように眠りに着いた大洲を見つめる。
やはり、影が無い。
ソファと彼女の間に無ければならない存在はミリ単位すら無い。
(⋯⋯⋯⋯⋯風邪、引くよな)
急いでタオルケットを持ってきた。
妹の使っていた物だが、今アイツは入院中。
前まではひっそりと押し入れにしまわれていたそれは、ゴールデンウィークの時に引き出してから僕の部屋に寝かせている物。
それを部屋からリビングに持ち込み大洲の身体に被せる。
気持ち良さそうな寝顔を少しだけ眺める。
「⋯⋯本物なら、助けたいよな。やっぱり」
今の状況下で『どっちが本物の大洲藍莉ですか?』と問い掛ければ、誰もが虚空に居る彼女を差す。
代わりに目の前で寝ている小さな大洲は見向きもされない。
『姿が見えない、声が聞こえない、彼女』
『小さくなり、影がない代わりに僕には見える少女』
二択にならない二択だった。
僕にとっては既に決定事項のようなもので、気持ちや意思は揺蕩う事は許さない。
「大洲⋯⋯。誰がなんと言おうとも、僕はお前が本物だって信じてるからな⋯⋯」
頬を軽く小突くと何かしらの反応を見せる。
十歳の見た目をした女の子。それは言い換えれば、守らなければならない対象に他ならない。
「⋯⋯⋯⋯っ!」
不意に妹と大洲とが、被ってしまう。
頭を強く横に振ってその想起を消し飛ばす。
(⋯⋯⋯⋯馬鹿か、僕は⋯⋯⋯)
腹部へ自然と手が添えられた。
『お兄ちゃんがもっと別のお兄ちゃんなら良かったのに!』
僕の後悔。僕の罪、僕のやらかしで決して消えない傷を遺してしまった春の一節。
あの日から一年──。僕は多少なりとも変われたのかは自覚出来ずに今を真っ只中で生きている。
『現象』に見舞われるという事は何か抑え込んでいるものがある──そう僕は思う。
受験にして、進路にしても家庭内の状況や、職場の人間関係、イジメや暴力、時には殺人事件。
裁判の結果によって齎された心身的負荷が起因で起こる事すらあるのが『現象』と呼ばれるもの。
勿論、大洲の身に起こっている『現象』がそれに該当するとは言わない。
時には自然に生まれた『現象』が悪さをする事だって中にはある。
小さな吐息で眠りに付いている少女(彼女)の手を少し握った。
まだ温かくて、生きてくれている実感が確かにある事に安堵する。
少しだけ握り返された。起きているのかとも思ったが、確認する事はしなかった。
「じゃあ、お休み」
自分勝手に握った僕の手は大洲の手から離れる。
リビングの電気を消して、僕は自室へ入った。
明日は学校に向かうのは当たり前として、確かめなければならない事がある。
『大洲藍莉』が僕が掛けた電話に対してどう言った反応を見せるのか、だ。
敵意を向けるのか、それとも素っ頓狂に済ませるのか、それは明日になってのお楽しみ。
(⋯⋯⋯⋯⋯影、か)
自室の机の電気のスイッチを付けて、少し考え込む。
万物において当たり前のようにある影。それが無いというのはつまり──。
駄目だ、何か至ってはならない事を想起しそうになってしまう。
「⋯⋯⋯寝るか」
騒つく胸中。落ち着かない僕はさながら餌が目の前に置かれて尻尾を振って待ち切れない様子の犬そのものだった。
ベッドに寝転び、瞼をグッと閉じる。
明日こそ全て問題の終わっていれば良いな、そう心に何度も何度も訴え掛けるように呟きながら、僕は眠りに着いたのだった。




