二択にならない二択
作る料理に拘りを持つ者は、きっと何度かその料理を作り、慣れて、アレンジをし始める人物に限るだろう。
しかし、この桐江准は何度も作っているにも拘わらず、一切味付けも変化も求めない少年であり、平穏好きなのだ。
作った料理はなんちゃってカツ丼。
大洲藍莉というイレギュラーなお客に加えて、食費に使える金には限りがある。
その為、お惣菜のカツを自作のタレにフライパンで焼きつつ、溶いた卵を放り込み、盛っていたご飯の上に乗せて、かさ増しのようにレンジでチンしたもやしを乗せて、おしまい。
なんちゃってカツ丼の完成である。
コツはもやしをフライパンに入れない事である。
「⋯⋯失敗した」
そう、この少年は失敗したのだ。
何を失敗したのかと言うと。
「タレが濃い⋯⋯」
そう、お醤油の入れ過ぎである。
麺つゆで味を調整したのにも関わらず、「二人分だもんなぁ」と言って、倍作ったはずなのだが、この少年は醤油の入れ過ぎで味が濃くなり、カツはタレのつけ過ぎで中々に舌に響く味となっているのだ。
「悪い。残してもいいぞ?」
「何言ってるの?食べるわよ。折角、作ってくれたのに、勿体ないじゃない」
「お、大洲しゃん」
箸をうっかり落としそうになるものの、しっかりと指で掴んだまま、何とか失敗したカツ丼は完成したのだ。
「ご馳走様。ありがとうね。お皿シンクに置いておいて、洗うから」
「洗うから?⋯⋯いや、あの、届くの?高さ?」
「⋯⋯⋯⋯届かすわ!」
「え?」
そうして立ち上がった少女・ミニ藍莉は皿を持って、キッチンのシンクへと歩き出して、レッツ・ウォッシング!
「うぅ〜!はっ。はぁ、はぁ。ううぅぅぅぅ〜〜!何よぉぉ、なんでシンクってこんなに高いの!」
「僕はシンクを買った事ない」
「そっちじゃぁぁ、ない!はぁ。はぁ、はぁ、はぁ」
年齢的に幾つかは知らないが、目元が丁度シンクの縁辺りである少女にとって皿洗いは苦難そのものであり、背を伸ばしても、ジャンプしても一向に洗える段階に届いていないのだ。
「台は、ある?!はぁ、はぁ」
「無いです」
「ぐぬぬぬぬ⋯⋯かくなる上はっ⋯⋯」
「いや、無理しなくても良いんだぞ?僕がやるし」
「何言ってるの!後からになって『借り』とか『貸し』とか言われたくないの」
「あ、そこなのね」
どうやら、変な所に拘る少女であり、意外な一面があるなと准は納得した。
「桐江くん、私を担いで!」
「神輿にでもなられるので?」
ワッショイ!ワッショイ!と言いながら、小さな少女を台に乗せて担ぎあげるのを想像したが、思った以上に似合わない事により、その思考は一気に飛んでいく。
「違うわよ。巫山戯てないで、はい!私の背後に立つ!」
「悪役なら絶対言わない台詞だ⋯⋯」
言われるがまま、少女の脇に手を伸ばして、持ち上げた准。
ミニ藍莉の頭が顔に当たるものの、我慢して皿洗いが終わるまで待つ事となる。
「まだ?」
「そんな簡単に終わる訳無いでしょ?後、どさくさに紛れて胸触らないでね」
「触る胸無いじゃん⋯⋯」
それが少女の逆鱗に触れた。
「ふん!」
鼻辺りにある後頭部は前から後ろに振られて、思い切り准の鼻っ柱に叩きつけられた。
「あがっ!っっくぅぅぅぅ⋯⋯」
鼻を抑えようにも、両手共に塞がっており、少し後ろへと脚は動き、少女共々揺れた。
「自業自得よ。元に戻ったなら兎も角、今の私はなんか嫌」
「なんで、元に戻ったらいいんだよ⋯⋯」
「自分のルックスに自信があるからよ」
確かに胸あり、引き締まった腰ありとルックスは上々なのかもしれないが、普通ならそれも拒否るものなのだが、少女こと彼女は見窄らしい身体付きの状態で触られるのはNGらしい。
「左様で⋯⋯。それで、何処を触らせてくれるんだよ?大洲様は?」
「う〜ん。そうね⋯⋯。腕とか?」
「却下」
「駄目か⋯⋯。因みに何処触りたいのよ?」
「全部だろ?」
振り返ろうと途中まで顔を向けたもののそれを止めて、前へと向き直った少女。
少し間をおいて言う。
「⋯⋯中々に言うわね」
「胸だけなんて勿体ないだろ?」
「私、とんでもない人に今持ち上げられてるのね⋯⋯」
「やっと気付いたかい?お嬢ちゃん」
赤くなった鼻を状態でニコニコと笑みを浮かべる准おじさん。
「おじさん。息しないで、髪に吹きかかった気持ち悪い」
少女はそんなおじさんには目もくれずに言い切ったのだった。
「本当に⋯⋯なんだかなぁ⋯⋯」
本当に無い胸を揉みまくってやろうかと、そんな邪悪度億万パーセントの気持ちが込み上げたが、濡れた手で腕を叩いた事が合図となり、少女持ち上げ期間は幕を閉じた。
「⋯⋯さて」
一息着いた少女と少年は食事をした机を掃き終えた後、ダイニングの椅子に腰掛けて、話を聞く準備へと入った。
冷蔵庫の音と屋外から聞こえる少年達の騒ぐ声が部屋に響く中、始まる。
「私がこの姿になったのは、朝学校に行こうと玄関を出てからなの」
その言葉を皮切りに話は切り出された。
どうやら、家にいる間の時間はなんとも無く、平穏そのものであったのだが、玄関の戸を開けて、学校へと向かおうとすると、大洲藍莉、十七歳は見た目が十歳前後にまで退化してしまったのだと言う。
「変わった事とかは?前日とか?その日以前に何か触ったとか、見たとか、起きたって感じのは?」
「何もないわよ?普通に学校行って、帰って、弟と一緒にご飯食べて、友達と電話して、駄べって、寝ただし」
本当に普通。
変哲のへの字の無い程に当たり前の日常であり、誰もが送っている普通の事だ。
そうなればと、切り込んでいく准は身振り手振りで言う。
「うーん。知らない間になにか見た?とか⋯⋯」
「だとしたら、私が見た物は何?ってならない?」
「そうだなぁ⋯⋯。というか、大洲的には幾つくらいの年齢と見た目なんだ?」
「⋯⋯十歳かな?」
随分と具体的な数字を言う少女は首こそ傾げていたが、それなりの自信があるように窺えた。
「その心は?」
「この服を買って貰った時、よく着てたのかそのぐらいだから。小五でしょ?十歳は」
「まぁ、誕生日迎えればそうだな」
「あの⋯⋯、私戻れるの?」
不安そうに見つめる少女。
それに便乗するかのように、励ましの言葉を投げても罰は当たらないのだろう。
「分からない。戻るにしても、それなりの条件や意図があるだろ?」
けれど、准はそれをしなかった。
それは、励ましにはならないと踏んだ。
慰めにも近く、もっと確信的になってからでなければならないと思ったから。
「こういうの慣れてるように見えたけど、こういった事って今の世の中じゃ、皆起きてるの?」
「皆は起きてない。偶々触れちゃいけないものに触れちゃったって場合とか、人の心理的、精神的な事に何かが干渉してこういった事が起きるらしいから、皆が皆。必ずしも何か起こる訳じゃないらしい」
「怨念がある石に触る⋯⋯とか?曰く付きの場所に行くとか?」
「それもあるな」
「これ、オカルトって事?」
首を傾げて聞いた。
日本にも呪いが籠った墓があり、それをずっと置いていたり、曰く付きと言われる物を保管している場所もある。
けれど、准は首を横に振る。
「オカルトじゃないな。オカルトなら『身体を小さくする』じゃなくて、『身体を犯す』筈だから、多分違う」
「犯す?」
ミニ藍莉は自身の腕や身体を見る。
小さくなってしまった事以外の変化を確かめるように。
「身体に痣が出来たり、黒く変色したり、別人みたいになったりとか。そういうのに、『小さくする』って工程を挟む必要無いだろ?せっかちなんだよ。幽霊や呪いって」
「そうなの?呪いって一朝一夕に出来ないってテレビで言ってたけど⋯⋯」
「準備は掛かるけど、出来たら即効性の毒みたいに回るんだ」
「桐江くん。なんか、専門家みたい」
そう感心した様子で呟いた言葉にたいして、准は首を横に振る。
「受け売りだよ。僕もこういうのに巻き込まれてから調べ始めたら、専門家みたいな人と会って教えてもらったんだ」
「その人は何処にいるの?」
「いや、もう居ない」
ミニ藍莉は「あっ」と小さく漏らすと、申し訳なさそうな表情で准を見た。
「亡くなったの?」
「いや、変な穴に入って消えてった⋯⋯」
「はい?」
ミニ藍莉の表情はコロッと変わった。
あれほど、申し訳ないといった表情は唖然としたと思えば、怪訝そうな、不可解そうなものに変わり、視線からは「何言ってんだ?」という圧が加わっていた。
それを察した准は焦った様子で、手を横に全力で振って見せる。
「⋯⋯いや!マジなんだって!ワームホールみたいな穴にな?その⋯⋯手振りながら入ってたんだ!嘘じゃないから、信じて!」
「ふ〜ん」
「信じてないなぁ⋯⋯。まぁ良いけど⋯⋯」
「貴方の言葉を信じていないんじゃなくて、その人の事を信じていないの」
しかし、少女からすれば当然なのだ。
ワームホール以前に、その前提である受け売りの知識を与えた人物は聞く限りでは、如何にも怪しいに尽きる。
仮に本当なら尚の事だ。
けれど、少し微笑んだ准からはそれは無いといった様子である。
「⋯⋯いや、信じられる。少なくても、その人のお陰で妹は助かってる」
「え?妹さんも何かあったの?」
「ちょっと待ってくれ⋯⋯」
落ち着いた手つきでスマホに手を持った准は何かを探すようにスワイプしていき、そしてスマホを見せた。
「⋯⋯なにこれ?」
「その人曰く、『四つ目の四馬に充てられた』って。だから、妹の写ってる写真は途中から全部黒い何かに覆い被さるんだってさ」
その写真は本来ならば、妹の中学進学祝いの何気ないものの筈だった。
ピースサインで笑顔の筈の准の妹は、届いた中学のセーラー服に身を包み、准を含んだ家族共に何気ない思い出話となる筈であった。
しかし現実はそうはならなかったのである。
歪んだように家族の真ん中に居た准の妹だけが、黒く、ピースサインで前に伸ばした筈の腕は有り得ない位置に写り、顔はぐちゃぐちゃとなっている。
そして、首は締め付けられて、脚には手が数十という数が弄るように触れられて、背後には青く光る目のようなものが写りこんでいた。
「な、なんなのこれ?!」
「さぁ、名前は聞かない方が良いって。かっこいい名前なだけで質が悪いって言ってたな、その人は」
「治ったの?」
「あぁ、けど検査入院で今は病院に居る。実害出ててさ。骨も折れてた事もあって中々になぁ⋯⋯」
准は思い返していた。
妹が豹変したように暴力を起こして、当時通い始めたばかりのクラスを学級崩壊に招き、問題を起こした事。
食べた物が全て、腐ってしまい、嗚咽している様子も、そして、急に倒れ込んでしまい、眠りに着いた事も、全て。
「良かった。妹さん無事なのね」
「あぁ。病院に行ったら、元の妹に戻ってて安心したよ」
「元の?」
「人が変わったみたいになっててさ。だから⋯⋯って、今はそれじゃない。大洲の事だ」
「あ、あぁ。そうね。話が脱線したわ」
コホンと鳴らしたミニ藍莉は一間置いて、腰をジリジリと奥にやり、座り直して向き直った。
「私のこれは何て呼べばいいの?不可思議な現象?オカルトじゃないならミステリー?それともファンタジー?」
すかさず、准は言う。
「『怪異現象』だな」
「『怪異現象』?」
「そう。僕はそう教わった。少なくても不思議現象じゃ言いづらいだろって事でそうなった」
「なんだか、拍子抜けする理由だけど⋯⋯。まぁ良いわ。それでこの怪異現象、私はどう治るの?」
呆れた様子を見せるミニ藍莉だが、一応の納得をした。
しかし、根本的には何も始まっていないのだ。
「まずは、昨日の大洲の動向をしっかり把握しないといけないな。後、親にも伝えないとまずいんじゃ⋯⋯」
「そうね。悪いんだけど、後で電話貸して貰える?」
「あぁ」
「それと昨日の私は何も無い程に普通だったわよ?どうするの?」
少し考えた後、准は一つの判断を下す。
「明日、大洲の家に行ってみるか⋯⋯」
「え?行くの?」
「行くだろ?行かなきゃ分からないし」
「そうね。分かった。じゃあ、学校が終わったら電話してね?」
それを言われた時、准の視線は少女を凝視するようになった。
「というか、スマホは?」
「十歳の私は持ってないみたい。ランドセルにも無かったし」
ソファで寝かせている赤いランドセルはリコーダーがはみ出しており、給食袋はソファからはみ出していた。
(しかし、なんで十歳なんだ?)
一つの疑問であった。
昨日には何も無かったと言っている少女の言葉を信じるならば、十歳の頃に何かがあり、それが起因してこうなった以外に考えられないのだ。
「⋯⋯十歳の時に何か無かったのか?特別な事とか、大事な事とか?」
だから、准は聞いた。
十歳頃、最も印象に残った出来事。
その内容を。
「⋯⋯男の子に初めて告白されたとか。弟が産まれたとか。成績表で初めて親と教師に駄目出しされたとか、かしら」
「弟くんの事以外、割とどうでもいいな⋯⋯」
生命の誕生は兎も角、他があまりにも有り触れ過ぎている。
どう考えてももっとあるだろうと思わざるを得ない。
「何よ?私の十歳は弟有りきって言いたいの?」
腕を組んで、牽制を突くミニ藍莉。
自虐にもならないそれは准の首を横に振らせる。
「そうは言ってないだろ?けど、特別な事とか
大事な事なのに、成績とか告白とか要らないって言ってるんだ」
「私の初めての日が⋯⋯」
目が見開かれた。
一瞬、思考が停止した准は口をポカンと開いて、硬直してしまい、再起動した時に何を少女が言ったかをまた思考し、そして理解に至る。
「え?!⋯⋯お前⋯⋯え?大洲、まさか⋯⋯」
「何よ?⋯⋯悪い?」
組んでいた腕は股に挟むようにして視線を泳がせており、少し恥ずかしそうにしている。
その様子に根負けしたように、俯いた准は何を言おうかと考えるも、結局は何も出ずに「いえ」と、それだけ言って黙りこくってしまう。
すると、恥ずかしそうにしている筈のミニ藍莉の口から音が漏れた。
「ぷっ。ふふはははは〜はははははは」
突然の大笑い。
唖然としていた准は仕組まれたと察して、目を細めた。
「⋯⋯⋯⋯なんだよ?」
「初めてって言うのは告白自体の事よ?それを何を飛躍してるのよ。ふふっ」
「お前、途中で面白がってただろ?」
「当然」
(やっぱり⋯⋯)
完全に一手取られた准は不貞腐れるように顎を手を乗せて、テーブルに顎を置いてしまう。
それを見たミニ藍莉はテーブルに少しだけ身体を乗せるようにして准に寄って髪をワシャっとし始めた。
「言っとくけど、私処女よ?」
「どうでもいい情報この上無い」
「何よ?私の初めてという事がそんなに気に入らないの?」
頭に乗せられた手を掴んで、元の定位置へと戻させる准。
そして、不貞腐れていた態度を止めて、ミニ藍莉へと向き直り、抗議をする。
「気に入る、いらない、じゃない。どの道、見た目もチビになってるし、確かめよう無いだろうが」
そう、つまり。
たとえ既に済ませていようと、そうでなかろうと、初体験前の状態の身体になっているのならば、少女の言葉は嘘か本当か分からないのだ。
「へぇ〜、つまり、元に戻ったら確かめようとするんだぁ」
それを揶揄うように反論するミニ藍莉。
「解釈違いだな。初めての相手が誰かを探そうとしなきゃ行けないか、要らないかの違いだ!お前の身体をとやかくするつもりは一切合切、これっぽっちも全く思ってない!」
「女の子相手にそこまで言うなんて⋯⋯鬼畜ね。童貞くん」
どうやら、桐江くん改めて、童貞くんへと改名されてしまったらしい。
不名誉この上ないとばかりに、准は立ち上がる。
「おい、なんで僕が童貞の体で進んでんだ!分かんねぇだろ。ヤリまくってっかも知れないじゃん!」
「無いわね。本当に童貞じゃないなら、そんな反応しないもん」
「童貞であろうとなかろうと、十歳で卒業したとか言われたら誰でもこんな反応になるわ!」
アパートの一室は盛大な声で轟いた。
━ ━ ━
現在、ミニ藍莉はお風呂で入浴中である。
家に帰ろうにも、自身の姿が誰にも見えないどころか、鍵すら持っておらず、泊まる事となった。
「どうしたもんか⋯⋯」
大洲家の電話番号は既に貰っている。
今時、固定電話がある事の方が珍しい世の中で大洲家はそれがあったのだ。
そして、准は一つの過ぎりがあった。
学校で准だけ見えずとも、周りは見えている事にある。
友達が見えていたのならば、家族はどうなのだろうか?
仮に姿が見えていないのならば、今頃は大騒動真っ只中であり、警察も動いている。
とはいえ、そんなにすぐニュースになる訳は無い。
ならば、手は一つである。
「掛けてみるか⋯⋯」
同級生の女子の電話番号というこの上ない貴重な物と思えている准は震える手でスマホを操作していく。
(震えるな⋯⋯、そうだよ、ただの確認じゃないか。それに、何も疚しい事もない。親御さんに確認するだけなんだから)
そして、電話番号を入力しきった准は通話ボタンをタップして、耳にスマホを添えた。
よく聴く音が耳に流れて、数十秒。
プツッと音が鳴って、声が聞こえた。
『もしもし』
声の主は聞いた限り、三、四十代のものであり、その人物が母親だとすぐに認識した准は緊張した様子で声を発する。
「あ、あのもしもし⋯⋯桐江と言います。えと、僕、娘さんの、えーと大洲藍莉さんのクラスメイトの」
『あら、藍莉のお友達?ちょっと待っててね』
そう言って、受話器を置いたのだろう。
声の主は遠くへ行った。
そして、「藍莉ーお友達から電話ー」と張った声で呼び掛ける声が聞こえる。
どうやら、野球中継でも見ているのだろう。
父親らしき人が「おおー!」と言っている辺り、応援している球団は調子が良いみたいだ。
すると、受話器から音がした。
「⋯⋯もしもし?」
しかし、返事が来ない。
「⋯⋯もしもし?大洲?」
一向に帰ってこない。
それどころか、耳を澄ましていればいるほど、准からは野球中継の音と、電話口を離れた母親が戻ってきた足音が聞こえて、父親に電話の事を伝えるような声が聞こえる程である。
「⋯⋯あの〜、もしもし?」
不気味な音すら聞こえない、全くもっての静寂。
すると。
『こらー、蒼太!!お姉ちゃんの所に行こうとしない!今お話してるんだから!』
(すいません、会話になってません⋯⋯)
すると、ブチッと音が鳴って通話は切れた。
「え?!⋯⋯会話どころか、何も無かったんですが⋯⋯」
スマホを耳から離して、溜め息を吐いた准。
しかしどうやら、電話でも声は聞こえないらしい事が分かると同時に彼女はいる体らしい事は判明した。
「明日になって、変な噂が流れてなきゃいいけど⋯⋯」
そう、彼女は居るのだ。
居るという前提で考えるのならば、明日、なにかの弾みでクラス内で噂されれば十中八九、准は『電話を掛けた癖に「もしもし」しか言わない阿呆』というレッテルが貼られるという事になる。
「嫌だァァ⋯⋯。悪口は嫌だぁぁ。どうせならハッピーであれ!」
「何が悪口なの?」
准の背後を振り返ると、お風呂上がりで頬が紅い少女が妹の中学のジャージを捲って羽織る大洲藍莉ミニバージョンがそこに居た。
「⋯⋯。なるほど、風呂上がりの女性が良いっていう男の趣向がちょっと分かるかも」
「貴方ね⋯⋯。私、見た目だけなら十歳なんだけど?」
「安心して欲しい。たとえ外見がチビでも僕は中身を正しく見れる男だ。つまり、ちゃんと大きい大洲がそこに居て、風呂にあがってきたと想像出来る立派な頭脳を持っているって事だ」
「要は妄想と想像が豊富って事ね」
「⋯⋯ぅぅぅ。手伝ってやんない!」
「ごめんごめん。悪かったわ」
呆れた顔にも見えて、微笑ましそうにも見える顔を浮かべる少女。
その少女はよく見ればまだ少し髪が濡れていた。
「つうか、まだ濡れてるじゃねぇか⋯⋯」
「女の子の髪は乾きにくいのよ」
そう言って、頭に掛けていたタオルを使い、押し当てるようにして乾かそうとする。
「⋯⋯ドライヤーあったろ?」
「使っていいか聞こうとしたけど、なにか話し声してたから止めたの」
「使っていいぞ?」
「ありがと」
そうして、ドライヤーの位置を教えて、出てくるまでの時間をソファに座っていた准は僅かな違和感が拭えずにいた。
「なんだろ⋯⋯、なんか変なんだよな⋯⋯なんだろ?」
眼鏡をかけた少年でもなければ、後ろ髪を結んでお爺さんの名前を賭ける人物でも無い准はその違和感が凝りのように残っている。
電話の際の違和感、そして、先程の少女の違和感。
何かあるはずと思っていた思考はドライヤーの音と共に流れていってしまう。
そして、風呂に入る准。
髪を乾かした少女は「ソファで待っている」とだけ言って准を見送り、今まさに湯船に浸かっている状態なのだ。
「分かんねぇ⋯⋯」
根本的な解決策が見当たらない少年は呆然と上を眺めているのみ。
身体が温かくなっていき、そろそろ出ようと立ち上がって、浴槽から脚を出した。
「⋯⋯⋯⋯あ」
違和感は見つかった。
脚を着けて、准は苦い顔をしながら洗面所へと向かう。
明かりが当然のように自身の影を濃くしているが、少女には影が無い事に気付いた。
気付いてしまったのだ。
風呂上がりの彼女に見蕩れていてすっかりと抜けていた生物や物体にあるべきもの。
液体、気体にすら存在する影は少女がタオルで頭を拭いていた時には無かった。
「大洲⋯⋯、さてはかなりやばいんじゃないのか⋯⋯」
困惑もあった。
このまま洗面所を出て、少女と鉢合わせる事は何に繋がるのか。
どういった事が起こるのかが全く予想外であり、同時に少女の存在はなんなのかと頭を常にフル稼働しなければならない。
「⋯⋯」
急に怖くなった。
リビングで律儀に待ってくれている可能性が大いにある少女の存在が。
「⋯⋯けど、話している限りでは本人っぽいんだよな。化けてる?だったら電話の大洲の声は何で聞こえないんだ?⋯⋯駄目だ、分からない⋯⋯。やっぱり根本的に解決策を見つけないと、どうしようもない」
これまで遭遇してきた『怪異』はどれも現象の中ではそれほど不気味さは無かった。
危険や脅威は対処すれば済み、条件や規則は従い、守れば収まっている。
最も最初の『怪異騒動』でもあった妹の件は前者であり、ゴールデンウィークの『怪異現象』はしっかりと規則を守る事で平穏を取り戻している。
けれど、今回のは手遅れ感すら出ていた。
影響による範囲が一個人では収まっていないのもそうだが、本人が自覚していないのだ。
『根本的な起因』を。
普通ならば、何か理由や行動によって発生する出来事が無ければ、『怪異現象』は起こらない。
けれど、それに気付いていないのは本人が隠しているのか、本当に知らないにしても、この状況はかなり逼迫している。
「電話をもう一度掛ける?大洲に掛けさせるとか?⋯⋯本人の声は本人の耳からのものと人が聞くものとはブレがあるってあの人も言ってたし⋯⋯。いや、聞かせたとしてどうするんだ⋯⋯。もし、大洲が本当に消えたりしたら洒落にならない。あ〜どうしよう」
頭を抱えて、しゃがみ込んだ准は悩む。
悩み、結果。
「⋯⋯電話させるか」
その為には、少女と立ち会わなければならない。
服を着て、半ズボンを履いて、勢いよく洗面所の扉をスライドさせて、洗面所を出た。
「たのもー!!⋯⋯あれ?」
意気揚々と先陣を!とそう思っていた准。
しかし、リビングには誰も居なかった。
「は、背後!」
そして、背後を向くものの、居ない。
誰も居ないのだ。
「いやいや、心霊番組なら、もう一回振り返った時だろ?分かってるって!」
そう言って、思い切り拳を振り向きざまに当てようとするも、空振りに終わり、本当に何も無かった。
「⋯⋯⋯⋯」
恥ずかしい黒歴史がまた一頁追加されてしまい、ソファの方へと向かうと、ちゃんと少女はいらっしゃったのだ。
ただし、眠ってはいたが。
「⋯⋯まぁ、歩き回ってたって言ってたもんな」
影が無い。
ソファと彼女の間に無ければならない存在はミリ単位ですら無い。
タオルケットを持ってきた准は少女に被せて、少しだけその寝顔を眺めていた。
「⋯⋯本物なら、助けたいよな。やっぱり」
今の状況下で『どっちが本物の大洲藍莉ですか?』と問い掛ければ、誰もが虚空に居る彼女を差し、目の前で寝ている小さな少女は見向きもされないのであろう。
『姿と声が見えず、聞こえない彼女』と『小さくなり、影が無い少女』という究極にもならない二択。
「大洲⋯⋯。誰がなんと言おうとも、僕はお前が本物だって信じてるからな⋯⋯」
リビングの電気は消えた。
准がスイッチを押して消したのだ。
そして、そのまま自室へと戻った准は眠りに着く。
目を開けた少女は少し微笑んで暗がりとなったリビングでまた目を閉じた。




