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この街は今日も語る  作者: 紫芋
笠辺沙耶は語らない

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11/16

醒めた戦い

空弩街あくどがい』の中心に建てらている電波塔。


 ()()は三百メートル程度の高さをしているその頂上で、壁に穴が空いた展望台デッキで男は高笑いをしていた。


 一人の女性の放った言葉。諭すものではなく、促すような発言に対して腹を抱えて笑いを浮かべているその男は愉快素敵に立ち上がり、腕を横に広げる。


「少年。これは、人の物語だッ。酸いも甘いもしゃぶり尽くさないと、飲まれるぞ?」


 嬉々として川に入って、転げそうになっている少年を見て、語る言葉は何処か忠告じみたものを感じさせており、それを聞いていた女性は舌を鳴らした。


「最低ね。貴方⋯⋯」


 吹き抜けとなった建物の奥で腰を据えている女性が一人。


 男からは様相は窺えないが、その声を聞いて振り返り、指を差した。


「最低?馬鹿言うな。元よりこの街は、世界は、イカれてる。小さくひ弱なウイルスは強く強力なウイルスが潜伏している身体に入っても潰されるのと一緒さ。蝙蝠とかがまさにそれだ」


 その例え話に苦笑して一蹴する女性。


「この街は哺乳類でもなければ、ウイルスではないわ」


 嘲笑にも似た乾いた笑いが出た。


「⋯⋯いや、哺乳類の作った街で地球を害するだけのウイルスさ。何も変わらない。違わない。甘んじている事態に目を向ける事もしないのがウイルスでなくて何なんだ?」


「じゃあ、貴方は悪魔ね?」


 立ち上がった女性のヒールの音が響いた。


 再度外を眺めている男はそれを気にも止めずに口角が僅かに上がる。


「馬鹿言え。手口が小狡いだけの悪魔と一緒にするな」


 黒のジャケットが風に揺られていく。


 女性の視界からは、それが不気味にも見えてならない。


「⋯⋯でも貴方、彼にあれから干渉していないのでしょう?結局は捨てたようなものじゃない」


「捨てた?違うな放置だ。俺はアイツのパパでもなければママでもない。わざわざ一から十まで面倒を見れる訳が無い。⋯⋯そんなに気になるならお前が行けばいい。あぁ〜、お前は行けないか?行ける訳ないわな。すまんすまん。ウッカリだ」


 嘲るように含みのある言い方。


 琴線に触れるような物言いに僅かに顰めっ面を浮かべた女性は灰色の髪を手で払うようにして、後ろへと流す。


「何がウッカリよ。わざとでしょ?そうやって揶揄う暇があるのなら、何かしたらどうなの?」


「お前に指図されずともやったさ。だから、あのカスを遺した」


「⋯⋯貴方、知ってて放置したの?!」


 一歩前に出る女性。


 驚愕の事実を知ったと言うべき声色を出すが、男は微動だにせず続けた。


「あぁ、あの小娘の為にな」


「何人の人間が亡くなったと思っているのよ?」


「ざっと三十五人、いや犬猫とか微生物も含めるなら百万かな?」


「信じられない⋯⋯。貴方、最低ね」


 軽蔑の言葉は男を僅かに笑みを浮かべさせた。


 それが女性には堪らなく不愉快にさせる。


 けれど、口には出さない。


 出そうとも、出すまいと知られているのだから。


「俺の世界で起こる事なら、嘆くし贖罪だってするさ。けどな、ここは俺の世界じゃない。だから、最終的にハッピーエンドならそれで良い」


「その結果がコレ?」


「いや、通過点だ。どうせ、笠辺家の才女が気付いて、俺の動向かお前の動向を追い始める。その時が勝負所かな⋯⋯」


 振り返ると女性が苦い表情を浮かべていた。


 それを眺めるだけの男では無い。


 月明かりが皓々と男の後ろ姿を照らしていく。


 雲というカーテンは剥がれていき、女の様相が正しく見えていき、溜め息を吐いて崩れ掛けた壁に凭れ掛かり腕を組む。


「それにな。お前に文句なんざ言わたかぁねーよ。結局は逃げただけの軟弱で脆弱な心持ちの、胸と尻しか大きくならなかった貧弱者の分際で。弁えるって言葉を知らないのか?愚図」


 明らかな軽蔑と蔑視の言葉。


「⋯⋯⋯⋯そうね。悪かったわ」


 女性は建物の奥に行って、隠れるように、座り込んだ。


「分かればいい」


 そうして、凭れ掛かっていた壁から背を離して、背伸びをした男は吹き抜けた壁に向かって正面を向く。


「⋯⋯何処に?」


「以前処置した奴がバグり始めてる。直しに行く」


 しかし、女性はそれが分からない様子で、首を僅かに左に傾げており、それを背中越しに感じ取った男は言葉を紡いだ。


「そうか、お前は知らないのか。まぁ、しゃあねーか。あの時のお前は馬鹿丸出しだったもんな」


「⋯⋯」


「じゃあ、夜道には気を付けるんだな。愚か者」


 捨て台詞を吐いた男は三百メートルの高さから急降下して行った。


 その様子を眺めるでもなく、無視するのでもなく、呆然としているだけの女性は沈黙の中、一人となり、立ち上がる。


「知ってるわよ。言われなくったって」


 灰色の髪が靡いた。


 向かい風は進行を拒むようにして吹かれて、脚は前に行く様子を見せず、ただそこに佇むのみ。


 月はまた隠れた。


  ━ ━ ━


 バシャバシャと音を鳴らして、走る。


 明かりは無い。


 手探りで死骸に縋るように、手探りで、ただ言われたように道路の真下までひたすら走る。


 滑りそうになる脚は身体の体勢を大きく崩して、転げそうになるのを支えて、膝に手を添えた。


「何処に⋯⋯何処に?!」


 左右を一心不乱に見る。


 突然、盲目になってしまい焦るように、身体から伸びた腕は川の中を弄るかのように、払うようにして川を荒らす。


 荒らして、荒らして。


 今尚、道路側では家屋の破壊音とアスファルトが粉々になる音が響いている。


 破片は川の中に落ちて、波紋を呼ぶ。


 闇にも等しい暗がりの右側を弄る。


 下から上がるように。


 川を掻き分ける脚は重くなるのを知っている。


 それでも、じゅんは止まらない。


 反対側へと振り返る。


 Uターンするように身体は暗がりを歩く。


「早く見つけないと⋯⋯。クソ!何処だよ!」


 最初に川の中にあると言ったのは自分で、落ちていると断言するように言ったのは沙耶さやだ。


 けれど、信じたのは准自身の意思であり、それを真っ当する為だけにひたすらに身体は動いた。


「早く、早く、はやっ⋯⋯ッ!」


 ずぶ濡れの爪先に石とは明らかに何か違う感触がぶつかった事で、歪んでいく表情に明るさが点っていく。


 脚下にあるその何かを手で必死に掴もうとする。


 それは、重く、水を多く含んだ筒は准へと運ばれる事を拒むかのようであった。


 けれど、その重さが核心へと導く。


「あったぁぁ!」


 一気に腕の力で引き上げた准はその筒の全容が視界に映ったと同時にバランスは一気に崩れて、後ろに倒れた。


 ズボンはずぶ濡れでもはや『着衣泳でもしました』と言った方が幾分か笑いが取れる程の揺れ具合で、跳ねた水滴は髪を濡らして、上着は絞る必要性がないほどに視界に収めた段階で水を多分に含んでいるのが容易に分かる程。


「いてて。⋯⋯けど、見つけた!⋯⋯見つけれた」


 ゆっくりと、起き上がっていく准はその腕で抱えている黒い筒とそれを縛るようにして括られた白い紐。


 長さは百二十センチメートル程度であり、想像以上の重さに持ち運びがあまりにもしにくく、半ば引き摺るようなな形で沙耶の居るであろう方角を目指して足を動かした。


「待っててくださいよ。先輩!」


 彼女が今どうなっているのか、それは知らない。


 けれど、無事をただ祈って、前へと進む。


 戦闘音が響く、時に叫び声にも似た悲鳴と、何かを喚いているようにも聞こえるその声が沙耶と女である事は容易に理解出来た。


 そして、見つかった事を報告するべく、腹の底から声を出そうと深呼吸した瞬間である。


 道路に沿って設置されているガードレールが軒並み支柱ごと外れていった。


「なっ!なんだこれぇぇぇぇ!」


 そして、中途半端に穴を開けたように外れたガードレールはそのまま、横へと薙ぎ払われる。


 准は見てしまった。


 そのガードレールに弾かれるようにして、身体を大きく仰け反らして飛んで行く沙耶を。


「あッ!先輩ぃぃぃっ!!!」


 宙に舞う華麗なダンスは月の内部で繰り広げられるかのように、赤い飛沫は准の顔に張り付いた。


  ━ ━ ━


 最初に拳を握った沙耶は思い切り空振り、宙へと回避を行って、背後に回った女は左手から紫色の液体を垂れ流しながら、沙耶へと迫った。


 眼前に伸びた左手はあっという間に距離を無くしていき、ドロドロとして蒸気すら出ている。


 そう、左()だけ。


 同じように、前へと踏み込んだ沙耶は外側から左腕を右手で掴み、握っていた左手を掴んだ腕に目掛けて、ぶつける。


 それと同時に、外へと逃げる衝撃に合わせて、掴んでいる右手は内側に腕をへし折るようにして力を加えていき、ゴキッ!と鈍い音を掻き鳴らしながら腕を完全に引き千切った沙耶は、口を開けて、千切れた腕を未だ健在の右手で抑えようとしている隙を逃さないように、女の身体に連撃を与えていく。


「うわぁぁッ!おまっッ⋯⋯刀がなッ!アァァァァァァァァァァァ」


「刀が、無いと、弱い、だけ。戦えない、とは、言って、無いっ!!!」


 身体を浮かせた沙耶は、華奢な脚からオマケとばかりに女の側頭部へと強烈な回し蹴りを食らわせて、近くにある電柱にぶつかる。


 電柱から離れた背中。砕けた鉄筋コンクリートは欠片と粉となって地面に落下して、女の膝を畳ませた。


(どうなっているッ!⋯⋯いくら何でも、免疫があるからと言って、人間があそこまで傷んだ身体をここまで酷使すれば、リバウンドで死ぬ筈。無痛?いや、だとしても影響は出る⋯⋯。では何だ?!)


 身体は人間。中身は『怪異』である女。


 身体が朽ち果てようとも、存在までは消失などは絶対にできない。


 頭を潰されようとも、心臓を抜かれようとも、生きていられるのが、【現象】たる象徴であり、存在の定義。


 それは、叩きのめしている笠辺かさべ沙耶さやも何度も教わり、経験して、実感した事実。


「貴女、怖いの?」


 互いの瞳に光は映っていない。


 紺色の髪が、靡いて行く中、身体はひたすらに前を向く。


「貴女⋯⋯ひょっとして、人じゃないんじゃないのォ?」


「馬鹿に、しないで。人、よ?」


「そんな馬鹿な筈が──」


「でも、事実。それ以外、ある訳、ない」


 それが事実なのか、偽りか。


 女の思考は加速する。定義して、仮定を生み、削除して、また仮定を作る。


「⋯⋯まさか⋯⋯。ハッハッハ〜ッ」


 その繰り返しの果てに一つの答えを得た。


「アッハッハッハッハッハッハッハ〜。私、あったま良いィィ〜」


 自身の肯定。しかし、表情は険しくなっていき、最後は眉間に皺を寄せて口を開けた。


「ざっけんなァァァァッ!何が、怪異だ!不可侵だ!化け物だ!貴様の方が余っ程イカれてるぜェェェェ!なんてこったい!なんだかんだで!お前ら人間は糞だなァァァァァァア!!最っ高の病気だァァァ!」


 その答えに、彼女は応えない。


 何も言わないし、何も反応を示さない。


 ただ『無言』のまま、女を見た。


「やっぱり、イカれてるねェ〜、人ってのはさァ」


「ん!?」


 右脚付近に落ちている左腕。その左腕の伸びた先にある手は未だ、紫色の粘液を纏っており、地面を溶かしていた。


 そして、一気に広がる。


「⋯⋯っ!」


こわせ!」


 上空に跳ぼうとした沙耶の脚は掴まれた。


 否。粘液によって捕まれたまま、地面から脚を離せずに居る。


 藻掻くように、脚を動かそうとも離れず、手で触れようとすれば、一気に触れた箇所からその部分は変色していき、そして。


 脚の感覚は消えた。


「やっぱり、アンタ殺さないとダメだわァ。はぁ〜。おかしいと思ったんだよねェ。血反吐まで吐いて、胃をぶっ壊したっていうのに、立ち上がるんだもん。異常だって思う訳よ?⋯⋯アンタさァ。その身体。⋯⋯()()()()()()()()


 ゆっくりと歩き、ガードレールを掴む。


 ギギギッ!とガードレールは音を鳴らして、押さえている箇所は穴が空いて、ボウリングの玉を掴むように指を固定していく。


「そりゃあ私との相性言い訳だァ〜。死体なら、病原菌の進行なんてないに等しいしねェ?」


「⋯⋯⋯⋯」


 めいいっぱいに腕に力を込めて、アスファルトは勢いに負けて、ガードレールの支柱は地面から剥がされていき、引き千切るようにして完成した。


 十メートル程の白く縦長の武器は女の手元にある。


 それを建物が並んだ家屋を壊しながら右方向へ。


 決して、眼前の少女に当てないようにして、振るう準備を整える。


 一呼吸の末、目を見開いた。


「ひィィ〜〜!無言は肯定と、見たァァァァァァァァァァ!」


 豆腐を包丁で切るように、川とは反対側にあった家屋は壊されながら沙耶の元へと向かっていく。


 瓦礫が沙耶の足下に転がり、中には写真立てや椅子の破片も転がっていき、次第に家屋は完全に潰れた。


 動けない脚での回避は不可能である。


 ならばと、腕でのガードを選択した沙耶。


「っっっ〜〜〜!!」


 骨が軋んでいき、肉は引き千切れそうな痛みを発生していく。


 骨にガードレールが食い込むのと同時に無表情のまま、歯を食いしばっている沙耶。


 上半身は仰け反るようになっていき、勢いに押し潰されそうになる中、身体は遂に地面から離れる。


 それは、浮遊感が訪れるという意味を持ち、投げ出されたように川の方角へと腕から漏れ出る血が彼女を渦巻く嵐のように撒き散らされていき、下に居た少年の視界を赤一色に染め上げた。


 身体は薙ぎ払わられたガードレールの餌食となり、それらを齎した女の口角は上がりきっていた。


「先輩ぃぃぃぃっ!!」


 大きく宙に浮いた彼女の身体は抵抗を見せる事も無く、八メートルという高さから真下にある川へと身体を大きくぶつけるようにして落下した。


 黒い筒を持ちながら、川へと一気に叩き付けられた沙耶に駆け寄る准。


「先輩っ!せんぱっ⋯⋯。あぁ」


 腕は骨が露出している程に損傷して、抉れている肉は痛ましく、悲痛さを物語っており、頭や身体からは血が流れていき、か細い息遣いは死を想起させる。


 横向きに倒れている身体を無理矢理にでも仰向けにして、呼吸を整えさせて、口が僅かに開いた口元から無造作に零れる水からは死骸が流れていく。


「先輩!気をしっかり持ってください!⋯⋯くそ!折角、見つけたのに!」


 改めて黒の筒を持つ准。けれど、もう意味を持たない。


 使える本人が死に体なのだ。


(⋯⋯⋯⋯せめて、刀の近くで⋯⋯)


 持っていた黒い筒を彼女の手に触れさせて、静かに目を閉じた准の耳には、何かが川に落ちた音が聞こえてくる。


 瓦礫やアスファルトの破片が川に落ちる音は先程からずっと鳴っており、小さな波紋から大きな波紋まで、准の座り込んでしまっている川に広がっている。


 そして、それらとは全く別の種類のものが確かに川に降りて来て、准達の方へと歩いて来ていた。


『自身は殺されない。だから安心だ』とはならない。


 それが嘘ならば殺される訳で、気が変わったなら殺される。


 けれど、桐江きりえ准は黙って見ているほど冷静でもなかった。


 近付いて来る女を悔しそうに睨み付けて、あらん限りに目で訴えた。


『なんて事をしてくれるんだ』と。


 その視線に気付いた女は、嘲笑するように口角を上げたのだ。


「そんな目で見ないでェ〜。私も割と危機だったんだからァ〜」


「僕にはそうは見えない。勝利に酔ってるお前に、危機なんて言葉を形容できる状況が本当にあったのか、怪しいってものだ!」


 余裕綽々。僅かな掠り傷と指を絡めて遊ばせる前髪。


 何よりも。この女は笑っていた。


 上瞼と下瞼の距離は限りなくゼロに近い程に細まった瞳は嘲るようにも、軽蔑しているようにも見えた准は、彼女の身体を守るように、前へと立ち塞がっていく。


「正気ィ〜?君ィ?」


「僕は死ねない。死ぬ理由も意味もないからな」


「そういえば、どうして君も死なないんだろォ〜。おっかしいなァ。何か()()()()()


(なんの事だ?飲水の事か?いや、何処にである普通のお茶しか飲んでいない。含むって⋯⋯何を言ってるんだ?)


 理解し難いといった面持ちでしゃがみ込んでいる少年をじぃーと観察するように見つめる女。


 細まった目は徐々に広がりを見せていき、口が開いていく。


「⋯⋯。まさかと思うけどさ、君、抗体持ち?」


 それは少年をより不可解に落とす言葉であった事は言うまでもなかった。


(抗体?虚象の事か?いや、アイツとの繋がりで抗体って言うなら、家に居た時はどうなんだって⋯⋯。いや、抗体って事は⋯⋯そういう事なのか?)


 不審そうな顔を伺わせる准を見て不審がる女。


「お前、一人じゃないのか?」


「⋯⋯なにィ〜。よく分かったわねェ〜」


 イヤらしい笑いを浮かべたと同時に、准は唖然とした。


 自身の背後、真横、上にある道路、前方。


 ほぼ全ての角度から、水飛沫も無ければ、音も無く、突然以外に形容できない仕方で杖をついた老人が姿を現したのだ。


「え⋯⋯」


 その老人は、公園に戻って沙耶と共に刀を探している際に出会った老人であった。


 しかし、准は違和感を覚えている。


 些細かつ粗末で、決して追及も言及もしない程度のもの。


 傍から視れば、【同一人物の老人が多数】なのだろう。


 けれど、あの公園で出会った【光の粒の老人】とは顔付きが違った。雰囲気が違った。


 眼前に現れる現場を見たのは今回が初であり、【光の粒の老人】の直接的な出現を目撃はしていない。


 だから、追及も言及もそれについて問う事も准はしなかった。



  ━ ━ ━


 共鳴していく。


 肌を嫌に刺激する冷たい水と相反していくように掌は何故か熱かった。


 決して燃えるようなものではなく、ポツンと灯った火のようなもの。


 それが何か、見えなくても分かる。


 暗く、意識が遠退いていくとしても、この感覚だけはちゃんと憶えている。


 たった一つの、一本の振るうべき刀。


 たとえ筒によって遮断されていようと伝わる。


 意識は静まり返った。


 身体に纏った衣類は全て剥がれて、ありのままの身体で沈む。


 意識して動かせる訳では決して無いけど、それが心地良く感じて、ずっと居たいと思えてしまう。


 怠慢と怠惰の限りに、この暗く淀んで冷たくも無音と無干渉の世界に。ずっと、ずっと。


 声が鳴る。


 篭っており、決して大きくはない何か話しているような小さな声。


 男性か女性か。大人か子供か。


 自然と耳を澄ましてその声の正体を求めようとして、息を深くして、注意深く感じ取る。


『──死ねない。────から──』


 波の音が言葉を阻み、身体を透き通っていく水は奥へ奥へと落とそうとする。


 けれど、その声の主を理解した。


 身体が、心が、無理矢理にでも這い上がろうと腕が伸びていき、重い身体を半ば強引に動かす。


 濁流はやってきた。


 それを引き留めようとする強く、水の中と思われた世界に逆波が生まれて身体を前ではない別の方向に追いやろうとする。


 それが堪らなく不快感を生んでいき、自然と閉じた瞼を開いた。


 右手にある灯火は身体の中に入っていく。


 緩やかに浸透していく熱は飽和しない。


 氷結の身体は真っ赤に燃え上がり、逆波は迂回するように避けていき、最後に世界は蒸発した。


 身体は稼働する。


  ━ ━ ━


「は?」


 驚愕の表情でその准を見ている。訳では無い。


 僅かに水が跳ねた。


 准の脚を流れる川の水は少しだけ、塞き止められた。


 振り返る准と硬直する女。


 月明かりは照らした。


「刀。ありがとう」


 そこに立っていた。笠辺かさべ沙耶さやが。


 白の紐は解かれていく。黒の筒から露出する。


 紺色と金色の柄を握られる。紺色の鞘は顕現した。


「貴女。もう勝てない」


 一気に引き抜かれた鞘は川の中に、鋼に揺らめく刀身は近くに居た老人を三人。斬り裂かれていた。


 身体を大きく翻した沙耶。壁を走り抜け、踏み込んだ脚は身体を老人へと近付け、老人を薙ぎ払う。


「なッ⋯⋯なにその刀?馬鹿げてる!」


 老人の身体は二つに、斜めに、縦に、横へと。


 三十を斬り終えた頃には、既に道路に居る老人の数は三人にまで減っていた。


「後、三人。刀の錆にする」


 壁に着地した沙耶は踏み込んだ。


 老人二人の間へと一直線。


 川の波より速く、振り向かれる瞬間よりも俊敏に、触れようとする老人の腕は斬り払われていき、胴体を一瞥する様子もなく斬り捨てられる。


「最後⋯⋯」


 大きく飛んだ沙耶。


 突き立てられた刀は老人の頭上から地面に突き刺さって、完全に消失した。


 僅か十秒の出来事。


 そして、大太刀のきっさきは女に向けられると、沙耶は静かに笑った。


「後は、貴女だけ」


 冷たく刺さる視線と邂逅した。


 目の前に立ちはだかる障害のように。


 けれど、女は沙耶ではなく、その刀を不思議そうに見つめた後、徐々に口角が吊り上がっていく。


「その刀⋯⋯。フフッ。アッハッハッハッハッハッハッハ!⋯⋯やっぱりアンタ達人間の方が私達の何十倍も何百倍もイカれてるわ!」


 喜劇を嘲る女は、惨劇を賛美して、悲劇を軽視した。


 高らかな笑いは街に轟く。


 せせら笑う事は決してしない。


 盛大に愉快に愉悦にも似た確信は女の心を踊らせる。


「だとしても、私は貴女を斬る」


「言っておくけど、この身体は元々ちゃんとした人のよ?良いの?」


「なんだって?!」


「貴女、分かって、ない。私と、この大太刀・祝魄しゅくばくが、その程度の事、気にする、と思う?」


「何言ってるんですか?!中身は兎も角、人なんでしょ?!だったら──」


「⋯⋯大丈夫。信じて」


「先輩⋯⋯」


 血濡れた衣服に身を包み、口元に紅く固まった紅を付けて、笠辺沙耶は刀を握り直す。


「貴女はもうお終い。負けるのは必然で確約されてるから、黙って斬られて」


 腰を少しずつ落としていく。右脚は後ろに行き、左脚は少し前へと。


 身体は右を向いて、刀もそれに合わせるように鋒は決して女から照準を外さぬように突き立てられたまま。


 川の水が煩く聞こえる程に沈黙が騒めく。


 律儀な程に真正面に居る女は一歩、下がろうと脚を動かした。


 瞬間。沙耶は消えた。


「え⋯⋯」


 声を出した女。その目や口、鼻から黒いモヤが溢れ出していた。


 女の背後に居る沙耶は既に刀を振り切っており、腕が伸びており、前に出ていた脚は反対になっている。


 互いに一瞥もしない。


 驚いた様子で身体を弄る女は違和感を感じたように、眉間に皺を寄せた。


 そして、焦った表情で息を漏らす。


「嘘でしょ⋯⋯。これ、私達のような存在だ──」


 向かい風が准を襲う。


 突然の突風と生暖かい感触が肌を酷く突き、妙に痛みを発生させていく。


 突然の咳き込みと、身体を妙に熱くさせられた感覚。


 目眩と頭痛に胸の痛みと、様々な身体の違和感は准を一気に襲った。


「うぅ、なんだこれ?!⋯⋯ぁぁぁがぁぁあ」


「煩い」


 断ち斬った。


 無造作なぐらいに雑に黒いモヤは斬り裂かれて、確かに准の視界に広がっていた黒いモヤは消失した。


 それを軽蔑するような視線で見つめた沙耶は目の前で倒れた女性には目もくれずに准の方へと歩いて行く。


「大丈夫。すぐに治すから」


 刀の鋒は准へと向かい、突き刺された。


「あぁぁぁッ!!」


 酷い激痛と肉を抉るような感覚が准に広がっていく。


 そして、それは僅か数秒で沈静化していき、徐々に波紋のように広がって行った違和感は消失した。


「はぁ、はぁ⋯⋯。先輩」


「大丈夫?君、助かったよ。良かったね?」


「⋯⋯なんで刀持つと、抑揚着くんですか⋯⋯」


 刀を持つ前の沙耶は抑揚のない話し方で、ロボットにも似た喋り方をしていた。


 けれど、今の彼女は違う。


 ごく普通に当たり前の人のように話している。


「それが私だから。さぁ、この人運ぼ?」


 けれど、表情は硬いままである。


「⋯⋯はい。あのこの人⋯⋯」


「生きてるよ。私のこの刀は『異質な存在』と『歪な現象』に対してだけ効くから。普通に生きてる人間には意味が無いんだよ」


「あぁ、なるほど⋯⋯」


 紺色の柄と鈍く光る鋼の刃。


 それを鞘に収めて、月を眺めた沙耶は少し微笑んだ。

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