46 テリウスの父親目線
46 テリウスの父親目線
わたしは、机の上に置かれた報告書を前にして、しばらく動けなかった。
軽く考えていた。その一言に尽きる。
ミネルバとの婚約は、あくまで政略だ。家同士の結びつきが本質であり、当人の評価など二の次――そう割り切っていた。
だからこそ、婚約破棄の相談をされた際も、取るに足らぬ問題だと判断した。あちらの親も了承している。わたしの知るミネルバならば、おとなしく身を引くだけだ。
相手の家が変わるわけではない。むしろ実家で冷遇されているミネルバより、愛されているフローラを据えたほうが、スペード家との繋がりは強固になる。
フローラの方が「都合がいい」。そう思った。
「判断を誤った」
ぽつりとつぶやく。誰もいない部屋で、その声だけがやけに重く響いた。
報告書には、最近のミネルバの動向が簡潔にまとめられている。
ローハン家との結びつき。アレクサンダーとの関係。
王都での評価。夜会での存在感。
そして、スペード家との決定的な距離。
一つ一つは断片にすぎない。だが、並べてみれば明白だった。あの娘は、完全に立場を変えた。
「化けた……か」
言葉にしてみると、妙にしっくりきた。元々の素質を隠していたのか、それとも環境が彼女を覚醒させたのか。いずれにせよ、今のミネルバは、以前の物差しでは測れない。
それを見誤った。いや、見ようとしなかった。
「テリウス」
思わず息子の名を呟いた。あれの浅はかな恋心に、親心が混じったか。政略とはいえ、息子の好きな相手を、という甘さがなかったとは言えない。そう、最終的に許したのも、判断を下したのもわたしだ。
「責任は、わたしにあるな」
椅子にもたれ、天井を見上げる。今さら、フローラとの婚約は動かせない。それをすれば、わが家の軽率さを社交界に晒すことになる。
ミネルバに非難される隙はない。彼女は実家と縁を切りながらも、最低限の礼儀は通している。ローハン家という後ろ盾を得て、自ら価値を上げた娘が、なぜ泥舟となった過去に戻る必要があるだろうか。
「完全に、間違えた」
静かに結論を口にする。問題は、そこでは終わらない。
スペード家だ。あの家は、いまや不用意に関わるべきではない負債になりつつある。
以前ならば、多少強引でもこちらのペースで押し通せた。だが、今は違う。拒絶されるだろう。しかも、王家すら無視できない正論で、はっきりと。
「距離を置くしかないか」
自然とそうなる。関わらない。触れない。向こうから来ない限り、こちらからも動かない。それが、これ以上傷口を広げない唯一の道だ。
「まさか、ここまでとはな」
机の上の報告書を指で軽く叩く。スペード家が仕立て屋で演じた醜態。笑いものにしていた母娘が、今や王都の物笑いの種だ。
一つの婚約破棄。それだけのはずだった。
だが実際には、関係図の地殻変動が起きた。その変化についていけなかったのが
「わたしか」
乾いた笑いが漏れる。どれほどの損失を生んだか、今さら直視した。
だが、嘆いても時間は戻らない。
「次だ」
短く言い切る。失った財産を数えるのは愚か者のすることだ。これ以上失わないことを最優先に、テリウスの教育も含めて立て直しを図らねばならない。
「動くか」
ゆっくりと立ち上がる。机の上の報告書をまとめ、手に取る。
もう、ミネルバという存在を「駒」とは見ない。
扉に向かいながら、ふと足を止める。
「ミネルバ……か」
名前を口にする。かつては、ただの記号に過ぎなかった娘。
それが今では、畏怖すら感じさせる存在になっている。
「見事だな」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
認めざるを得ない。あの娘は、自らの手で勝利を掴み取ったのだ。
そして――わたしは、それを見誤った。
その事実だけが、冷たく、静かに残った。
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