40 スペード夫人
40 スペード夫人
扉を開けた瞬間、奥から賑やかな声が聞こえた。
客が来てるのね。それはそうね、予約でいっぱいだって言ってたから。
それにしても、質の悪い客が来てるのかしら?
受付の娘が、少し困ったような顔でこちらを見ている。
「いらっしゃいませ。あの……どちら様でしょうか? ご予約は……」
まあ、教育がなっていないこと。
一瞬だけ、フローラの機嫌が悪くなる気配が背後で膨らむ。
けれど、ここで叱りつけるのは下品ね。
わたしは軽く微笑んでみせた。
「スペード夫人が来たと伝えてくれるかしら。そのほうが速いわ」
娘は慌てて頭を下げ、奥へと消えて行った。
その背中を見送りながら、わたしは受け付けスペースを見まわす。
隅に鉢植えが増えているわね。最近、流行って来た南の国の植物。
冬は家のなかに置いておかないと寒さで枯れてしまうとか、夜も暖房をいれたままが理想だとか。
贅沢な調度品よね。
避暑地の店で売り出して、夏が終わって戻るとき、馬車の座席を占領されたって自慢交じりの愚痴を言うのが流行ったわね。
確かに、最近はここに来ていなかった。
主人たら、少し控えめに、などと執事を通じて言ってきたから、それに従った。
けれど、春の社交シーズン前にそれを守る必要なんてないわ。
むしろ、ここで一着、あつらえてこそ、我が家の流れを変えられるってことよ。
やがて、オーナーが一人で戻ってきた。
「よくおいで下さいました、夫人。あの、ご予約はまだ先だったかと……」
「ええ、だから来たのよ」
わたしは一歩踏み出す。
「おかしいでしょう? わたしの予約が半月も先なんて」
「それが……現在、すべての時間が埋まっておりまして……」
言いにくそうに言葉を濁す。
「直接いらっしゃっても、すぐにご案内は難しく……皆様の合間でよろしければ」
「困るわね」
ぴたりとオーナーに視線を合わせる。
オーナーも、こちらを見ている。? なに? 感じが変わった?
気にせず、わたしはすぐに微笑む。
「いいわ。予約の方も同席を許すから、そのまま進めていただける?」
オーナーの目が、ほんのわずかに揺れた。
当然よ。こんなに譲歩した申し出なんてあり得ないでしょ。
「かしこまりました」
彼の案内で奥へと通った。ソファを勧められる。お茶が供された。
前の客が、にこにこして帰って行った。
すると、彼らは部屋を凄い速さで片づけた。乱雑に出していた服地やレースなどの小物。そういったものをきちんと片づけた。
なるほど、こうやって客を迎えるのね。おもしろい物をみたわ。
少しして、別の客が案内されてきた。
娘と二人連れ、控えめな装いの婦人。
わたしたちを見て、びくっとした。
あたりまえよね。貴婦人が先に座っているんですもの。
裕福な平民。最近、こういう輩が増えているのねと思っていると、
オーナーが、すぐにその女へ挨拶をした。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。今年はこのようなラインが出ておりますが――」
楽しげに説明を始める。
その様子を、わたしはじっと見つめた。
なるほど。
「ちょっと」
声をかけると、ぴたりと空気が止まる。
「わたくしをここに待たせて、何をやっているの?」
静かに言ったつもりだったけれど、店の中にすっと響いた。
オーナーが、わたしへと向き直る。
「スペード夫人。先ほども申し上げました通り、ご予約のお客様が優先でございます」
「なんですって」
思わず、声が少し強くなる。
「わたくしが足を運んでいるのに?」
店内の視線が、一斉にこちらへ向く。
けれど、オーナーは一歩も引かなかった。
「どの方も、わたしどもの大切なお客様でございます」
その言葉は、穏やかで――そして、はっきりしていた。
「その点は、ご理解いただけますね」
なるほど。
そういう方針にしたのね。
顧客を優先するのをやめたってことね。
一瞬だけ、胸の奥に冷たいものが走る。
けれど、それを顔に出すほど愚かではない。
そのとき、横からフローラの声が入った。
「お母様、もういいじゃない」
軽く肩をすくめる気配。
「別の店で頼めば。お店はここだけじゃないのよ」
わたしはゆっくりとうなずいた。
「そうね」
一度、店内を見渡す。
先ほどの婦人と、その娘。
静かに、しかし確実にこちらを見ている。
覚えておきなさい。
わたしは踵を返した。
「失礼するわ」
そのまま扉へ向かう。
背筋を伸ばし、歩幅は崩さない。
外へ出た瞬間、冷たい空気が頬に触れる。
馬鹿にされた?
いいえ、違う。
店が変わった。
そして、それに気づかなかったのは、わたし。
ゆっくりと手袋を整える。
ならば、こちらもやり方を変えるだけ。
「次は、向こうから呼ばせるわ」
小さくつぶやくと、フローラが楽しそうに笑った。
わたしは前を向く。
春は、もうすぐそこまで来ている。
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