山からの風
風の教会は、この大陸で最も高い山の頂に建っていた。
正確には、建てられていたというべきだろう。白い石を積んだ小さな祠。屋根は半ば崩れ、柱は風に削られて細り扉はとうに失われている。中には祭壇が一つ。それだけの、淋しい建物だった。
人が住める場所ではない。標高は雲を突き抜け、空気は薄く、夏でも雪が残る。祠へ登る道はなく、登った者もほとんどいない。風の信徒たちは、その山の麓で祈っていた。祠には近づかない。近づけない。ただ麓から、雲の上の祠に向かって祈るのだ。
*「風よ。すべてを吹き飛ばしたまえ」*
それが、風の教会の祈りだった。
*****
フィーナが自分の国に戻ったのは、港町での戦いから半月後のことだった。
シルヴィと別れ、グレタと別れマリィと別れた。それぞれの国へ、それぞれの日常へ。けれどフィーナの足は、自然と風の教会へと向いていた。
山の麓の集落には信徒たちが住んでいた。質素な家々。畑。風車。けれど畑は荒れ、風車は半分朽ちていた。信徒たちは畑仕事もそこそこに、ただ山に向かって祈っていた。
「フィーナ様」
一人の老女が彼女に気づいた。杖をついて近づいてくる。かつてフィーナに鞴の使い方を教えた、この集落の長だった。
「お帰りなさいませ。……お元気そうで」
「ただいま。……みんな、元気?」
老女は、少しだけ目を伏せた。
「ええ。祈っております。風が、すべてを吹き飛ばしてくれることを」
フィーナは、集落を見渡した。畑は荒れ家々は傾ぎ、若い者の姿はほとんどなかった。みな、山に向かって祈っている。風が吹き飛ばしてくれるのを、待っている。
「おばあちゃん。みんな、何を待ってるの?」
「風です。強い風。すべてを吹き飛ばす風。……この淀んだ世の中も、腐った教会も争いも。すべてを」
フィーナは、唇を噛んだ。彼女は鞴を背負っていた。肩に食い込む重み。風の国に帰ってきて、彼女は毎日鞴を踏んでいた。けれど、集落の誰も鞴を踏もうとしなかった。
「おばあちゃん。私、山に登る」
老女の目が、見開かれた。
「何を。あの山は、人が住めぬ場所。祠は崩れかけ。登ったところで、何も」
「何かあるかもしれない。……いや、何もないかもしれない。でも登らないとわからない」
フィーナは、鞴を担ぎ直した。
「私は、風を待つのをやめたの。風を起こすほうになりたいから」
老女は、しばらく黙っていた。それから、皺だらけの手をフィーナの頬に当てた。
「お前は、あの頃から変わらんな。鞴を踏むのが、誰よりも下手くそで誰よりも好きな子だった」
「上手くなったよ。……ちょっとだけ」
フィーナは笑った。老女も、少しだけ笑った。
「行っておいで。……風が、お前の背中を押すだろう」
*****
山は、険しかった。
道はない。岩を攀じ登り雪を踏み、風に煽られながらフィーナは登った。鞴は重かった。けれど手放さなかった。途中で何度も休み、水筒の水を飲み乾いたパンを齧った。空気は薄くなる。息が苦しくなる。それでも、登った。
三日目、彼女は雲を抜けた。
そこは、静かだった。風の音が雲の下に聞こえる。空は、どこまでも青かった。そして頂上が見えた。白い石の祠。崩れかけた屋根。けれど、そこにあった。
フィーナは最後の岩場を攀じ登り、頂上に立った。
祠は、思ったより小さかった。けれど、近づくとわかった。崩れているのは屋根だけで、壁と祭壇は残っていた。祭壇の上には、何もない。ただ埃と、風と、時間だけがあった。
フィーナは祠の前に立ち鞴を下ろした。息を整えた。それから、祭壇に近づきそっと触れた。
石は、冷たかった。けれどその奥に何かを感じた。風の気配。シルフィードの気配。けれど、それはとても薄く今にも消えそうだった。
「ここに、いたんだね」
フィーナは呟いた。
「ずっと。誰も来ない、こんな場所に。……ごめんね。みんな、麓で祈ってた。風が吹き飛ばしてくれるのを、待ってた。でもここまで登ってくる者は、いなかった」
風が、吹いた。祠の中を、そっと通り抜ける風。フィーナの髪を、撫でていく。
「お前は、来たな」
声がした。風の声。フィーナは顔を上げた。祭壇の上に、透き通った何かがいた。人の形をした、風の塊。髪は大気の揺らぎ瞳は空の色。
「シルフィード」
「ああ。……久しいな、小さき者。お前が真空を開いたとき以来か」
「うん。あのときは、ありがとう」
「礼には及ばぬ。お前が自力で真空を開いた。我はただ、それに応えただけ」
シルフィードは祠の中を漂った。崩れた屋根の隙間から、空が見える。
「この祠も、もう長くは持つまい。麓の者たちは、我を待つばかりでここへは来ぬ。……お前だけだ。登ってきたのは」
「みんな、待ってるの。風がすべてを吹き飛ばしてくれるのを」
「吹き飛ばして、どうする」
シルフィードの声は、静かだった。
「すべてを吹き飛ばしたら、何も残らぬ。畑も家も、祠も。……それでも、よいのか」
フィーナは、首を振った。
「よくない。……私は、風を起こしたい。吹き飛ばすためじゃなくて、新しい息吹を送るために。澱んだ空気を払って、また息ができるように」
シルフィードは、しばらく黙っていた。それから、微笑んだ。風の指がフィーナの頬を撫でた。
「お前は、変わらぬな。……いや、変わったか。あの頃はただがむしゃらに鞴を踏んでおった。今は、その先を見ておる」
「鞴を踏むのは、変わらないよ。……でも、何のために踏むのかわかった気がする」
フィーナは、鞴を手に取った。祠の外に出て、鞴を据えた。風の国で作った新しい鞴。まだ一度も、まともに使っていない。
「シルフィード。私は、風を起こす。この祠に麓に、この国に。……手伝ってくれる?」
シルフィードは祭壇の上で笑った。
「お前が踏むなら、我は応えよう。……ただし、代償がある。お前の魔力は当分使えなくなる。この祠を維持するために、すべてを風に変えたからな」
「知ってる。……マリィも、シルヴィも、グレタもみんなそうだった」
フィーナは、鞴を踏んだ。
ぎしり、と音がした。古い鞴が動き出す。空気が、祠の中に流れ込む。フィーナは、続けて踏んだ。何度も何度も。麓の集落に、風が届くように。澱んだ空気が、払われるように。
風が、起こった。
祠の中から、麓へ。山を下り集落を抜け、畑を揺らし風車を回し始めた。朽ちかけた風車が、ぎしぎしと音を立てて回る。信徒たちが、顔を上げた。山の頂を見た。風が、吹いていた。
「風だ」
誰かが、呟いた。
「風が、来た」
フィーナは、鞴を踏み続けた。汗が額を伝う。腕が、痺れる。それでも止めなかった。
「これが、私の風」
彼女は、笑った。
「吹き飛ばすんじゃない。起こすの。……みんなが、また息ができるように」
シルフィードが祠の上で渦を巻いた。風が、強くなった。けれどそれは優しい風だった。吹き飛ばすのではなく、包み込む風。澱んだものを少しずつ、新しい空気に入れ替えていく風。
風の教会は、この大陸で最も高い山の頂上に建てられた小さな祠だ。そこは人が住めない隔絶の地。風の信徒はその山の麓で祈っている。風が全てを吹き飛ばしてくれることを。




