夜明けの風景
マリィは港に着いていた。
馬を飛ばし、船を乗り継ぎたどり着いた港は霧に包まれていた。けれど霧の中に、青白い光を見た。屋根の上。シルヴィの光。
「シルヴィ!」
彼女は叫んだ。掌に炎を集めた。魔力は半分しかない。けれど、届く距離だ。
「サラマンダー!」
マッチを擦る。炎が灯る。蜥蜴が現れ、それが膨れ上がった。人の背丈ほどに。朱と金の鱗。溶けた真鍮の目。
「行け!」
サラマンダーが、屋根へと駆け上がった。炎の尾が、昏きものを薙ぎ払う。水泡の肌が、蒸気を上げて弾けた。
「マリィ!」
シルヴィの声がした。マリィは屋根によじ登った。火傷の痕のある掌を、シルヴィに向けて差し出した。
「手を!」
シルヴィが手を伸ばした。その瞬間——。
アルヴィスが、動いた。白い法衣が翻る。彼の手が、シルヴィの水筒を掴んだ。
「もらった」
「離して!」
水筒が、宙を舞った。温かい水が霧の中に零れ落ちる。青白い光が、散った。
「ああ……」
シルヴィの声が、震えた。精霊の気が霧に溶けていく。
アルヴィスは水筒を掴んだまま、屋根の端へ後ずさった。
「これで、媒は手に入った。あとはくらきものに喰らわせれば——」
そのとき、風が吹いた。
霧が、一瞬で晴れた。いや晴れたのではない。吹き飛ばされたのだ。強烈な突風が、港全体を薙ぎ払った。
「待たせたね」
声がした。屋根の向こう、港の桟橋に、フィーナが立っていた。鞴を肩に担ぎ、灰色の髪を風に遊ばせて。
「風の国から、飛んできた。……ちょうどいい風が吹いてね」
彼女は鞴を踏んだ。空気が唸り、渦を巻いた。昏きものたちが、風に煽られてよろめく。
「シルヴィ。水筒を」
フィーナが言った。シルヴィは頷いた。アルヴィスが掴んでいる水筒を、じっと見つめた。
「取り返す」
彼女は掌を向けた。魔力はない。けれど、水筒の中にはまだ水が残っている。精霊の気が、まだ微かに。
「ウンディーネ。……もう一度だけ」
水筒が、光った。アルヴィスの手の中で、水筒が熱を持った。彼は思わず手を離した。水筒が、シルヴィの掌に戻ってくる。
「馬鹿な。魔力がないのに」
アルヴィスが呟いた。
「魔力じゃない」
シルヴィは水筒を胸に抱いた。
「これは、信じる力。精霊を待つ力。……あなたには、わからないでしょう」
そのとき、地響きがした。
港の地面が、揺れた。石畳がめりめりと音を立てて盛り上がった。土と岩が、盛り上がり形を成す。
「遅れてすみません」
グレタが、土煙の中から現れた。金鎚を肩に担ぎ、日に焼けた肌に汗を光らせて。
「大地の国から、走ってきた。……ノームが、道を急がせてくれた」
彼女は金鎚を振った。地面が割れ、くらきものたちが亀裂に呑まれた。水泡の肌が、土に還っていく。
「これで、終わりだ」
マリィが言った。四人の少女が、屋根の上に並んだ。炎と水と風と大地。それぞれの掌に、何も残っていない。けれどそこから何かが生まれる力。
アルヴィスは、後ずさった。
「ばかな。四人が揃うなど。四大精霊が、一堂に会するなど」
「会ってないよ」
マリィは笑った。
「私たちは、ただ友達なだけ。精霊はその友達を助けたいと思っただけ。……あなたたちのように、精霊を所有したいと思ったわけじゃない」
アルヴィスは屋根の端まで追い詰められていた。足元では、くらきものたちが土に還り風に散り、炎に焼かれ水に溶けていく。
「私は……水の教会を、救おうとしただけだ」
「救い方は、間違ってた」
シルヴィが言った。水筒を、そっと胸に当てて。
「精霊は、呼ぶものじゃない。訪れるもの。ただ、待つもの。……あなたは、待てなかった。それだけのこと」
アルヴィスは空を見上げた。霧が晴れた空に、星が瞬いていた。彼はゆっくりと膝をついた。
「……長すぎたのだ。待つには。あまりに、長すぎた」
*****
夜明けが、港に訪れた。
昏きものたちはすべて還った。土に、風に、炎に、水に。アルヴィスは水の教会の者たちに連れられて、聖堂へと戻っていった。裁きを受けるのだろう。けれど、それはもう少女たちの知るところではなかった。
港の桟橋に、四人は並んで座っていた。
「疲れた」
フィーナが、鞴を抱えて呟いた。
「走った。風の国から、ここまで。……三日で着いた」
「私も」
グレタが、金鎚を膝に置いた。
「大地の国から、走った。……二日で着いた」
「私は、船で」
シルヴィが、水筒を揺らした。
「でも、水が温かくて。ずっと導いてくれた気がした」
マリィは、マッチを一本擦った。小さな炎が灯る。その中に、蜥蜴が現れた。くるりと尾を巻いて、四人を見上げた。
「ありがとう、サラマンダー」
マリィが言った。炎が、ゆらりと揺れた。
「礼には及ばぬ。お前たちが、お前たちのやり方で精霊と向き合った。それだけのこと」
蜥蜴は、炎の中に消えた。
四人は、しばらく黙っていた。港に朝の光が満ちていく。漁師たちが、恐る恐る船を出し始めていた。宿の主人が、屋根の下から「大丈夫か!」と叫んでいた。
「ねえ」
シルヴィが、ふと言った。
「私たち、これからどうする?」
マリィは、空を見上げた。青い空。どこまでも高い。
「どうもしないよ。ただ、生きるの。マッチを擦って水を汲んで、鞴を踏んで金を打って。……それだけ」
「それだけ?」
「うん。それだけ。……でも、それでいいんだと思う」
フィーナが、小さく笑った。
「そうね。それでいい」
グレタが、金鎚を掲げた。
「それでいい」
シルヴィが、水筒を揺らした。
「それでいい」
四人の少女の掌にはまだ何も残っていなかった。けれど、その空っぽの掌から今日も何かが生まれる予感がしていた。
朝の光が、海を照らしていた。波は静かに、港を洗っていた。
水は、今日も脈打っていた。




