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昏きもの

水の大聖堂の地下には、地図に載らない階層があった。


聖堂が建つ小島の岩盤を掘り抜いた最深部。満潮のときには海水が壁の隙間から滲み入り、常に濡れた石畳が冷たい光を反射している。松明の火もどこか青く歪んで見えた。


そこには、扉が並んでいた。鉄の扉。一つ一つに、水の紋章と封印の刻印が打たれている。扉の向こうからは、時折、音が漏れた。水の滴る音ではない。爪で石を掻く音。低い唸り。そして、人の声のようなそうでないような、嗚咽にも似た何か。


若い司祭は、松明を掲げたまま足を止めた。


「大司教。ここは——」


「開けよ」


アルヴィスは淡々と言った。白い法衣の裾が、濡れた床を擦る。


「しかし、これらは封印されたものです。教典に反し、精霊の力を不完全に宿した者たち。過去の過ちを、我らはここに封じてきたのでは」


「過ちではない」


アルヴィスは振り返った。松明の光が、彼の顔の半分を影に沈める。


「あれらは、精霊に近づこうとした者たちの成れの果てだ。モンスターに妖精に、ありとあらゆる生き物に精霊の媒を植え付け、精霊の気を注ぎ込んだ。だが純化の術が未完成だったため、あれらは精霊になりきれなかった。……だが、考え方を変えればどうだ」


彼は最も奥の扉の前に立った。他の扉より一回り大きく、封印の刻印も幾重にも重なっている。


「精霊になりきれなかったのなら、その『なりきれなさ』を利用すればよい。あれらは精霊の気を吸う。そして、周囲の媒を喰らう。……港町には、精霊の気を纏った娘がいる。あの娘を喰らわせれば、くらきものはさらに精霊に近づくやもしれぬ」


若い司祭の顔から、血の気が引いた。


「人を、喰らわせるのですか」


「喰らうのは人ではない。精霊の気だ。娘は器にすぎぬ」


アルヴィスは扉に手を触れた。封印の刻印が、彼の掌の下で鈍く光った。


「港を封鎖せよ。くらきものを解き放ち、あの娘が逃げられぬようにする。そして——」


彼は振り返り若い司祭を見た。その目は、海の底のように静かだった。


「娘を、連れてまいれ。生きているうちに。精霊の気が最も濃い、その瞬間に」


*****


港町に霧が立ち込めたのは、その夜のことであった。


シルヴィは宿の窓から外を見た。白い霧が、海から這い上がってくる。いや、霧ではない。霧にしては重すぎる。匂いがあった。潮の匂いと、鉄の匂いと何か腐ったような甘い匂い。


「これは……」


彼女は水筒を握った。掌の水が、震えていた。精霊の気が怯えている。


港の方から悲鳴が上がった。次いで、どたどたと走る音。窓の下で人が転んだ。宿の主人が階下で叫んでいる。


「化け物だ! 港から、化け物が!」


シルヴィは窓を開けた。霧の中に、何かがいた。


人の形をしていた。けれど人ではなかった。肌は水泡に覆われ、目は魚のように濁り腕はひれのように伸びていた。口が裂け、そこから水が溢れている。それは、ゆっくりと港の倉庫を壊しながら、町の中へと進んできていた。


その背後に、さらに影が続いていた。一つではない。五つ、十、いやもっと。霧の中から次々と這い出てくる。どれも形は違うが、どれも水の気配を纏っていた。精霊の気を、不完全に宿した者たち。


昏きもの。居るはずのないもの。伝承にしか語られないもの。それが居た。


シルヴィは水筒を抱いたまま、後ずさった。魔力はまだ戻っていない。ウンディーネを呼ぶことはできない。彼女にできることといえば——この、温かい水を抱いていることだけ。


窓の外で、昏きものが立ち止まった。その濁った目が、宿の二階を見上げた。シルヴィを見ていた。精霊の気を、嗅ぎつけていた。


「見つけた」


霧の向こうから、声がした。穏やかな海のような声。


「シルヴィ殿。水の教会が、貴女をお迎えに上がりました」


白い法衣の男が、昏きものの群れの後ろに立っていた。アルヴィスだった。


「逃げ場はありません。港は封鎖しました。船も出ません。この町は、海の上に浮かぶ孤島のようなもの。……さあ、我らと共に」


シルヴィは唇を噛んだ。水筒を、胸に強く抱いた。


「お断りします」


「なぜ。聖女として遇すると申しておるのに」


「聖女じゃない。私は、ただ水を汲んだだけ。あなたたちのように、誰かを喰らって精霊に近づこうなんて、そんなこと絶対にしない」


アルヴィスの顔から、笑みが消えた。


「残念だ。ならば、昏きものに委ねよう。あれらは精霊の気を喰らう。貴女の中の水を喰らえば、あれらはより精霊に近づく。……貴女は媒(なかだち)として、役目を果たす」


彼が手を上げた。昏きものたちが、一斉に宿へと殺到した。

教会は、精霊を呼び出すためにあらゆるアプローチを行っている。モンスターや妖精を使った実験もその一つだ。彼等は不完全に精霊の力を受け継いだものと考えられており、その力を純化することで精霊に近付けようとする試みが続けられているが、未だ成功例はない。

水の教会は、失敗作として地下に封印し、「昏きもの」と呼んでいた。水の大司教は言う。「昏きもの」を解き放ち、あの町を封鎖せよ。

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