水の教会からの誘い
水の教会は、海の上に建っていた。
正確には、湾の中の小島を覆い尽くすように建っていた。白い石を積み上げた聖堂は、満潮のときには波が基壇を洗い、嵐の夜には荒波が壁を打ちつける。それでも聖堂は微動だにしない。崩れないことが、水の教会の意思表示だった。荒波に打たれても、我らは揺らがぬ——と。
だが、その白い石の奥深くでは、別の波が渦を巻いていた。
*****
水の大司教アルヴィスは、六十を過ぎた男だった。白髪を後ろに流し、淡い青の法衣をまとっている。声は常に穏やかで、説教は美しく信者たちは彼を「海の父」と呼んだ。
その穏やかな声で、彼は言った。
「シルヴィ殿は、どこにおられる」
「風の国へ向かったと。その後、行方が知れません」
答えたのは若い司祭だった。アルヴィスは窓辺に立ち、灰色の海を眺めていた。
「純水を創り、ウンディーネを召喚した。……我らが何百年も成し得なかったことを、あの娘はひと晩でやってのけた」
「はい。記録によれば、蒸留を繰り返し最後に魔力の糸を切ったと」
「蒸留か。なんと単純な。なんと、愚かなまでに単純な」
アルヴィスは振り返った。その目には、窓の外の海よりも深い色が宿っていた。
「だが、我らにはもう時間がない。火の教会が動いた。風と大地も動いている。このままでは、水の教会は四大精霊のうち最も遅れを取る」
「しかし大司教、教典は『精霊は呼ぶものではなく訪れるもの』と」
「教典は」
アルヴィスは静かに遮った。
「教典は、精霊に一度も会ったことのない者たちが書き継いできたものだ。私はもう、待つのに疲れた」
彼は机の上に広げられた古い羊皮紙を指でなぞった。そこには、かすれた文字でこう記されていた。
*「精霊は媒に宿る。媒を得たる者は、精霊を得る」*
「これは三百年前の写本だ。火の教会の地下書庫から写させた。……精霊の宿る水というものがある。ウンディーネが降りた水は、その後も長く精霊の気を保つという。ならば、その水を手に入れれば我らは精霊を『所有』できる」
「しかし、そのような水は——」
「ある」
アルヴィスは言った。静かに、しかし確信をもって。
「シルヴィ殿がウンディーネを召喚したときの水。あの娘の掌に浮かんだ純水。ウンディーネが降りたその水は、まだこの世のどこかに残っている。あの娘が保存していれば、あるいは。……いや、たとえ保存していなくともあの娘自身が媒になりうる。精霊が降りた者は、その後も精霊の気を纏う。娘を手に入れれば、水を手に入れたも同然だ」
若い司祭は息を呑んだ。
「お言葉ですが大司教。それは、人を媒として扱うということでは」
「人を、ではない」
アルヴィスは微笑んだ。穏やかな、海のような微笑みだった。
「聖女を、お迎えするのだ。水の教会に。名誉ある招聘だ。断る理由はあるまい」
*****
その頃、シルヴィは風の国の港町にいた。
フィーナの国に雨が降ったあと、彼女はしばらくそこに留まっていた。乾いた大地が水を吸い、枯れた川にせせらぎが戻るのを見届けたかったのだ。魔力はまだ戻っていなかったが、水筒の水を人に分けることはできた。渇いた喉を潤す手伝いをすることはできた。
港町の宿で、彼女は手紙を受け取った。
差出人の名はなかった。けれど封蝋に、小さな炎の紋が押されていた。
*「シルヴィへ。火の教会が動いています。あなたを狙っているのは水の教会かもしれません。気をつけて。私も、フィーナも、グレタもあなたの味方です。—マリィ」*
シルヴィは手紙を胸に当てた。掌はまだ冷たく、魔力は空っぽだった。けれど胸の奥が温かくなった。
その夜、宿の窓を叩く音がした。
開けると、雨が降っていた。いや雨ではない。窓の外に、水の球が浮かんでいた。掌ほどの、透き通った球。その中に声が封じられていた。
「シルヴィ殿。水の教会より招聘いたします。貴女の術を、教会に伝えていただきたい。応じていただければ、貴女は聖女として遇されましょう。……お断りになるのであれば、我らも手段を選びません」
水の球は、ぱちんと弾けて消えた。窓枠に、水滴だけが残った。
シルヴィはしばらく動けなかった。それから、ゆっくりと窓を閉め鍵をかけた。手紙を、もう一度読み返した。
*「私も、フィーナも、グレタもあなたの味方です」*
彼女は水筒を手に取った。中には、井戸から汲んだただの水が入っていた。魔力で創ったものではない。けれど、それを掌に注いだときシルヴィはふと気づいた。
水が、ほんのりと温かかった。
魔力は空っぽのはずなのに。指先に、微かな熱。いや熱ではない。何かが、水の中に残っていた。ウンディーネが降りたときの、あの気配。精霊の気。
シルヴィは水筒を強く握った。
これが、狙われているものなのか。この、目に見えない手で掴めない、けれど確かにある何か。
彼女は窓辺に立ち、夜の海を眺めた。港の向こう湾の入口に、白い聖堂が浮かんで見えた。水の教会の大聖堂。荒波に打たれても揺らがないという、あの白い石の塊。
けれどシルヴィは思った。揺らがないことが、強いことなのだろうか。波に逆らわず、形を変えそれでも水であり続けることのほうが、本当の強さなのではないだろうか。
彼女は机に向かい、マリィに返事を書いた。
*「マリィへ。手紙ありがとう。水の教会から、招きがあった。断るつもりです。けれど、彼らは手段を選ばないでしょう。私はここを発ちます。どこへ行くかは、まだ決めていません。けれどあなたの炎の匂いがするほうへ行きたいと思います。—シルヴィ」*
封をして、窓辺に置いた。夜風がそっとカーテンを揺らした。
その風の中にシルヴィは微かな声を聞いた気がした。風の少女の、鞴の音。それは気のせいだったけれど、シルヴィはなぜだか心強かった。
*****
水の大聖堂の奥大司教の私室で、アルヴィスは一人古い水盤を覗き込んでいた。
水盤の水面に港町の宿が映っていた。窓辺に立つ、水色の瞳の少女。手紙を書くその手。水筒を握るその指。
「見つけた」
アルヴィスは呟いた。水面に指を触れると、波紋が広がり映像が揺らぎ、消えた。
「水の媒は、あの娘の中にある。ならば娘ごと迎えればよい。……聖女として。名誉ある招聘だ。断る理由は、あるまい」
彼は立ち上がり、窓辺へ歩いた。灰色の海が低く唸っていた。嵐が近づいている。
「精霊は呼ぶものではなく訪れるもの、か。ならば私は訪れる精霊を待つのではなく、精霊の宿る器を迎えよう。それが、水の教会が生き残る道だ」
海が、彼の言葉に応えるように、大きく波打った。
そして遠くの港町では、シルヴィが水筒を胸に抱いて眠れぬ夜を過ごしていた。掌の水が、ほんのりと温かかった。それは精霊の気。けれど彼女はまだ、それが自分を救うのかそれとも追い詰めるのか、知らなかった。
水は、静かに脈打っていた。
水の教会は、ある湾の中の小島を覆い尽くすように建てられている。荒波に打ち付けられてもその姿を変えないという意思を示すためだ。
その教会の中でも暗い策略が渦巻いている。水の精霊を得るため、精霊の宿る水を奪おうと考える者がいた。水の大司教だ。




