第二話 割れたカップを宝に変える
壊れた物。
多くの者は、それを捨てる。
ワシには、それがどうにも理解できぬ。
――
王立学園へ入学する少し前の話である。
ワシは、とあるお茶会に招かれていた。
主催者は、エンラ=ド=モンフォール。
公爵家の令嬢。
赤い髪に、赤い瞳。
燃え盛る炎を人の形にしたような娘である。
美しい。
実に美しい。
だが同時に、脆い。
恐怖を怒りで返し、痛みを破壊で返す。
まるで薄い陶器のような娘だった。
この時のワシは、その比喩が後にどれほどそのままの意味を持つか、まだ知らなかった。
「このカップは、ドラガン様が婚約の証として送ってくださった物ですのよ」
エンラ嬢は、誇らしげに白いティーカップを掲げた。
物にまつわる話は、とても良い。
実に良い。
……はずだったのだが。
普通である。
あまりにも普通である。
白い陶器。
ありふれた形。
ありふれた意匠。
目を引くものが何もない。
記憶に残るものも何もない。
なんとも惜しい。
せめて特別な装飾か、珍しい細工でもあれば、褒めるきっかけにもなるのだが。
仕方ない。
ドラガン殿について話を広げるか。
そう考えた、その時だった。
ポットを運んでいたメイドが、足をもつれさせた。
「あっ!」
手からポットが滑り落ちる。
ガチャン!
ポットは、ティーカップを直撃した。
婚約の証は、見事に砕け散った。
「きゃあああああ!」
エンラ嬢が悲鳴を上げる。
メイドは即座に床へ膝をついた。
「も、申し訳ございません、お嬢様!」
だが、残念ながら。
エンラ嬢は許すよりも、殺す方に関心があるようだった。
彼女の手から炎が噴き上がる。
「死になさい」
炎がメイドへ向かって走った。
エンラ嬢の声は、氷のように冷たかった。
「そして、あの世で詫びなさい」
ふむ。
聞くところによると、ドラガン殿はたいへん穏やかな男らしい。
自分が贈った品が原因で人が死んだと知れば、さぞ心を痛めるだろう。
なので、ワシは炎を消した。
簡単な水魔法で十分だった。
室内に白い蒸気が広がる。
エンラ嬢は、すぐさまこちらを振り向いた。
「ザリーさん! 何をなさいますの!?」
「それはこちらの台詞ですわ」
「ご覧になったでしょう!?」
「見ましたわ」
「あの者が、わたくしの婚約の証を壊したのです!」
「それで殺すのですか?」
「当然ですわ!」
返答が早い。
早すぎる。
エンラ嬢は、震えるメイドを指差した。
「あの者の死体をドラガン様のもとへ持っていき、お許しを乞うのですわ!」
ワシは瞬いた。
死体を?
詫びるためか?
それとも呪うためか?
そこはかなり大事な違いではなかろうか。
「ドラガン様にとって、それは迷惑では?」
「でも、これは婚約の証ですの!」
エンラ嬢の声が震えた。
「それが壊れたら、婚約まで……」
そこで、彼女は言葉を切った。
なるほど。
そういうことか。
ワシはエンラ嬢をよく見た。
一見すれば、彼女は怒っている。
だが、怒りが本質ではない。
恐怖だ。
カップが壊れた。
そして彼女の中では、婚約そのものまで壊れたように思えたのだろう。
もしかすると、ドラガン殿は最初からこの婚約を望んでいなかったのではないか。
この割れやすいカップは、最初からその意思表示だったのではないか。
壊れる運命の品。
断るための口実。
そこまで考えてドラガン殿が贈ったとは思えぬ。
しかし。
貴族の家というものは、個人よりも大きな尺度で物を考える。
まして、このエンラ嬢の気性を見れば。
まったくありえない話とも言い切れぬ。
「なるほど。だから怒っているのですわね」
エンラ嬢は視線を逸らした。
しばし黙る。
だが、すぐにまたメイドを指差した。
「いずれにせよ、あの者の死体が必要ですわ」
すると、メイドが思いがけず背筋を伸ばした。
怯えが、すっと顔から消える。
「承知いたしました」
メイドは深く頭を下げた。
「覚悟はできております」
素晴らしい。
被害者本人まで納得しておる。
この世界の風習は、実に不可思議である。
ワシはため息をついた。
そして床にかがみ、割れた陶器の破片を拾い集め始めた。
エンラ嬢が眉をひそめる。
「何をなさっていますの?」
「このカップを、どうするおつもりで?」
彼女は本気で分からないという顔をした。
「どうするも何も……」
砕けた破片を見下ろす。
「壊れたのですわ」
「そうですわね」
「でしたら、捨てるしかないでしょう?」
ワシは大きめの破片を一つ拾い上げた。
「不思議なことをおっしゃる」
「何がですの?」
「婚約の証を、そんなに簡単に捨てるのですか?」
エンラ嬢が固まった。
「そういう意味では――」
「大切な物だとおっしゃいましたわ」
エンラ嬢の声が跳ね上がる。
「大切ですわ!」
「けれど、壊れたから捨てる」
彼女は口を開いた。
そして、閉じた。
ようやく矛盾が届いたらしい。
「ドラガン様に、このような姿はお見せできませんわ」
エンラ嬢は小さく言った。
「もう、台無しですもの」
「いいえ」
ワシは割れた陶器を眺めた。
割れ方が良い。
実に良い。
清く。
鋭く。
どこか優雅ですらある。
珍しい幸運であった。
「台無しではありませんわ」
エンラ嬢が瞬く。
「え?」
ワシは笑った。
少しばかり、危険な笑みだったかもしれない。
「もっと美しくなります」
エンラ嬢は、しばらくワシの顔を見つめていた。
部屋は静まり返る。
メイドも、何を言われたのか理解できないという顔をしている。
「……もっと、美しく?」
「ええ」
ワシは立ち上がり、拾い上げた破片を掲げた。
「一つ、お尋ねしても?」
「……何でしょう」
「その婚約が本当に大切なものならば、傷を負っただけで手放すのですか?」
エンラ嬢は言葉に詰まった。
「それは……」
「直せないから?」
「……はい」
「誰がそう決めたのです?」
その問いは、責める言葉よりも深く彼女に刺さったようだった。
エンラ嬢は足元の破片へ視線を落とす。
先ほどまでの激情は影を潜め、代わりに迷いが浮かんでいた。
ワシは静かに頷く。
「参りましょう」
「どちらへ?」
「職人のもとへ」
――
数日後。
ワシとエンラ嬢は、王国でも指折りの金細工職人を抱える子爵家を訪れていた。
応接室で事情を説明すると、子爵は眉をひそめる。
「陶器の修復に……金を?」
「左様ですわ」
子爵は、本気か冗談か判断に困っているようだった。
残念ながら、本気である。
やがて金細工職人が呼ばれてきた。
職人は割れたティーカップを見た。
ワシを見た。
もう一度ティーカップを見た。
「お嬢様」
「何でしょう?」
「なぜです?」
良い質問である。
人は本当に面白いものを前にすると、決まってその問いを口にする。
「美しいからですわ」
職人は瞬きをした。
子爵はため息をつく。
二人とも納得していない。
当然である。
美とは、最初から理解されるものではない。
職人はティーカップの亀裂を指差した。
「修理すること自体は分かります」
「ええ」
「ですが、傷を目立たせるとは?」
「続けてください」
「修復とは、本来傷を隠すために行うものです」
「そこに問題があります」
部屋が静まり返る。
ワシは見本として持参した割れた皿を取り出した。
そして少量の金を溶かす。
ゆっくりと。
丁寧に。
黄金の雫を、亀裂へ流し込んでいく。
溶けた金は、陽光を映した川のように静かに流れた。
職人が身を乗り出す。
子爵も思わず前へ傾く。
よろしい。
ようやく興味を持ったようだ。
ワシは皿を掲げた。
白い陶器の上を、一本の金色の線が走っている。
隠さない。
誇る。
傷を飾る。
部屋から音が消えた。
職人が見つめる。
子爵が見つめる。
エンラ嬢も見つめる。
ワシは静かに口を開いた。
「傷を隠してはなりません」
黄金の線が光を受けて輝く。
「祝うのです」
職人が首を傾げた。
「傷を……祝う?」
「いいえ」
ワシは金色の継ぎ目を指先でなぞった。
「生き残ったことを祝うのです」
再び静寂が訪れる。
「この皿は、一度死にました」
ゆっくりと皿を回す。
「だからこそ、歴史を持ったのです」
黄金がきらめく。
「傷一つない皿は、何一つ乗り越えたことがありません」
ワシはエンラ嬢を見る。
「ですが、この皿は違います」
エンラ嬢の紅い瞳が大きく見開かれた。
「この傷は恥ではありません」
「証なのです」
「愛された証」
「使われた証」
「そして、乗り越えた証」
誰も口を開かなかった。
やがて子爵が、小さく息を吐く。
「……見事ですな」
職人はワシの手から皿を受け取った。
一度。
二度。
三度。
角度を変えながら、食い入るように眺める。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「なるほど」
よし。
今、この職人は一歩を踏み越えた。
最も難しい一歩を。
「今まで私は、傷を消すことしか考えておりませんでした」
「では、これからは?」
職人の瞳が輝く。
「傷を、意匠として生み出したい」
ワシは微笑んだ。
また一人、同志が増えた。
種は、確かに芽吹いた。
エンラ嬢は、割れたティーカップを見つめ続けていた。
もう怒りはない。
残っているのは迷いだけだった。
「本当に……元に戻るのでしょうか」
「いいえ」
エンラ嬢が顔を上げる。
「戻りません」
ワシは砕けた破片を彼女へ差し出した。
「もっと良いものになります」
エンラ嬢は息を呑む。
「このティーカップは、貴女自身の手で直しなさい」
「わ、わたくしが?」
「ええ」
彼女の声が震える。
「わたくし、そのようなこと、一度も……」
「ならば、今日が最初です」
エンラ嬢は静かに破片を見つめた。
自らの怒りが刻んだ傷。
自らが失うことを恐れた証。
「もし失敗したら……?」
その声は、今までで一番弱々しかった。
「それもまた、良き経験です」
「醜くなってしまったら?」
ワシは穏やかに笑う。
「その時は、なぜ醜いのかを学べばよろしい」
職人が笑った。
子爵も笑った。
メイドも、小さく笑った。
エンラ嬢は部屋を見回す。
そして、もう一度ティーカップを見る。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
彼女は微笑んだ。
小さな笑みだった。
だが、それは今日初めての、本物の笑顔だった。
うむ。
人を焼くより、ずっと良い。
――
数週間後。
アンクウ王立学園。
首席で入学したミークには、一つ大きな問題があった。
何も起こらない。
入学式は終わった。
ゲーム通り。
授業も始まった。
ゲーム通り。
ここまでは間違いない。
なのに。
イベントだけが起こらない。
一つも。
ミークは学園の廊下を足早に歩く。
困惑。
焦燥。
そして、日に日に大きくなる恐怖。
ここは乙女ゲーム『破滅の国の救世姫』の世界。
ミークは全ルートを知っている。
全攻略対象を知っている。
全エンディングを知っている。
そして何より――
すべての悪役令嬢を知っている。
このゲームの醍醐味はそこだった。
個性豊かな悪役令嬢たちが主人公を虐める。
攻略対象はそんな婚約者に苦しみ、主人公が救い出す。
婚約を破棄させ、愛を勝ち取り、悪役令嬢を破滅へ導く。
それが人気を博した王道の展開だった。
そして今日こそ、その始まりのはずだった。
廊下での嫌味。
飲み物をぶちまけられる事件。
衆人環視の辱め。
あるいは魔法を使った嫌がらせ。
本来なら、もういくつも起きているはずなのに。
何もない。
虐めもない。
悪役令嬢も現れない。
イベントも起きない。
物語そのものが始まらない。
ミークは立ち止まった。
背筋を冷たいものが這い上がる。
「どういうこと……?」
予定を間違えた?
いや。
ありえない。
何度も確認した。
何度も覚え直した。
今日残っているイベントは、一つだけ。
学園のテラス。
もしゲームがまだゲームのままなら。
あそこには、必ず誰かがいる。
ミークは駆け出した。
――
いた。
エンラ=ド=モンフォール。
残虐令嬢。
炎を操る危険な公爵令嬢。
主人公のスカートへ火を放ち、それを見て笑う女。
ゲームでも特に有名な悪役令嬢だった。
ミークは覚悟を決めていた。
だが。
テラスで見たのは。
紅茶を飲みながら、穏やかに笑うエンラだった。
意地悪そうな笑みではない。
勝ち誇った笑みでもない。
心から幸せそうな笑顔。
その時点で、おかしい。
いや。
おかしすぎる。
そしてミークはティーカップに気付く。
白い陶器。
金色の継ぎ目。
傷が、美しい模様へと変わっていた。
まるで稲妻のように。
ミークの目が見開かれる。
嘘でしょ。
そんな。
ありえない。
もう一度見る。
さらに近付いて見る。
そして。
「金継ぎ!?」
思わず声が出た。
周囲の生徒たちが一斉に振り向く。
そんなことはどうでもよかった。
ミークの頭は停止していた。
なんで金継ぎがあるの?
この世界、日本なんて存在しないよね?
いや、それより――
なんでエンラが笑ってるの!?
殺人は!?
虐めは!?
悪役令嬢らしい高笑いは!?
エンラがミークへ気付いた。
「あら?」
エンラは誇らしげにティーカップを掲げる。
「この技法をご存じですの?」
ミークは口を開いては閉じる。
まるで水から上げられた魚のようだった。
「え……ええ。昔、本で見たことが……」
前世の知識とは言えない。
とっさに誤魔化す。
「まあ!さすが首席入学者。博識ですのね」
エンラの表情が明るくなった。
「わたくし、ザリー様に教えていただけるまで知りませんでしたわ」
教えてもらった。
修理する方法を。
新しく買う方法ではない。
捨てる方法でもない。
直す方法を。
エンラは、金色の継ぎ目をそっと指でなぞった。
「この傷をご覧になって」
ミークは黙って頷く。
エンラは顔を上げた。
「一つ一つが、ドラガン様を思い出させてくださるのです」
「……え?」
「割れた時は、本当に絶望しましたわ」
エンラは小さく笑う。
「でも、自分の手で直したから」
もう一度ティーカップへ目を落とした。
「今では、あの頃よりもっと思い出が詰まっていますの」
ミークは言葉を失った。
このカップは、ただ直ったのではない。
意味そのものが変わっていた。
失った物の象徴ではない。
想い続けることの象徴。
完璧だった証ではない。
乗り越えた証。
『壊れても、それでも傍にありたい』
そう語る、愛の証になっていた。
ミークの背筋が冷たくなる。
ゲームでは。
ドラガンは救済対象だった。
婚約者エンラに怯える哀れな攻略対象。
婚約の証が壊れた日。
エンラはメイドを処刑し、その死体をドラガンへ送り付ける。
ドラガンは恐怖した。
それが婚約破棄への第一歩となり、主人公が彼を救うきっかけになる。
そのはずだった。
なのに。
目の前では。
エンラが、割れたティーカップへ優しく微笑んでいる。
かつては壊れたカップのために人を殺そうとした女が。
今は壊れたからこそ宝物になったと言っている。
もう別人だった。
いや。
同じ人物ですらない。
ミークは固まった。
嫌な予感がする。
災害が起きる直前のような。
そんな予感だった。
ゆっくり。
本当にゆっくりと歩き出す。
ふと、ミークは校内掲示板へ顔を向けた。
そこには、新しい記事が貼られていた。
『ザリー=ド=ロシュフォール、王都で新たな流行を生む』
『天然結晶派、王国全土へ拡大』
『エンラ=ド=モンフォール、金継ぎ研究会を設立』
ミークは読んだ。
もう一度読んだ。
さらに、もう一度。
手が震える。
思考が止まる。
「……うそ」
もう一度読む。
「いやいやいや」
乙女ゲームだったはずだ。
恋愛ゲームだったはずだ。
経済革命ではない。
芸術革命でもない。
ましてや――
金継ぎ革命などでは断じてない。
ミークは頭を抱えた。
そして。
空へ向かって叫ぶ。
「どんなバランス調整なのよ、これぇぇぇぇぇ!!」
――
その頃。
どこかでザリーは微笑んでいた。
この世界には。
まだまだ、宝へ変えられる物が眠っている。




