第3話 魚を宝に変える
王立学園へ入学する数か月前のこと。
ワシことザリー=ド=ロシュフォールは、グラシアーナ・フォン・グレインフォード嬢の婚約披露パーティーへ招かれていた。
グレインフォード家は、王国でも有数の名門だ。
王国の食料生産の多くを取り仕切っており、人々からは「王国食糧卿」とまで呼ばれている。
民が何を育てるのか。
何を食べるのか。
その大半に影響力を持つ家と言っても過言ではない。
当然、宴席は豪華だった。
白い丸皿。
茶色い肉。
茶色いソース。
茶色い煮汁。
茶色いシロップ。
そしてテーブルの中央には、まるで主賓のように巨大なパイが鎮座している。
名を『月桂冠の祝福パイ』。
婚約披露の席で振る舞われる伝統料理らしい。
中身は肉、チーズ、バター、シロップ。
そして脂。
脂。
さらに脂。
焼き上げた後から、甘いソースまでたっぷりとかけられている。
切り分ければ、肉汁とシロップが一緒になって溢れ出した。
……これは本当に料理なのか。
それとも人間の胃袋への宣戦布告なのか。
「まあ! なんて美味しそうに焼けていますこと!」
グラシアーナ嬢は満面の笑みでパイを切り分けていた。
豊かな金髪。
大きな碧眼。
親しみやすい笑顔。
そして、それらに負けぬほど豊かな体格。
彼女が動くたび、幾重にも重なった豪華なドレスが金色の鐘のように揺れていた。
実に幸せそうな娘である。
美味い物を食べるのが、心の底から好きなのだろう。
それ自体は悪くない。
何も悪くない。
だが――
ワシは目の前の料理を見る。
肉。
脂。
甘味。
肉。
脂。
甘味。
どの料理も攻め方が同じだ。
色の対比もない。
味の緩急もない。
つまり、美しさがない。
これほど金をかけながら、実にもったいない。
一皿食べただけで、すでに胸の辺りが重くなってきた。
このままでは胸焼けで討ち死にする。
もうよい。
茶でも飲もう。
ワシはカップを持ち上げ、一口すすった。
「……甘い」
いや。
甘すぎる。
なぜ茶まで甘いのだ。
この家では苦味そのものが罪人扱いされておるのか?
ワシはそっとカップを戻した。
戦略的撤退が必要だ。
そう判断し、宴席を抜けてバルコニーへ向かった。
――
グレインフォード領は王国の穀倉地帯として知られている。
広大な畑を渡ってきた風が、ワシの髪を撫でた。
草と土の香り。
「ふぅ……」
実に心地よい。
少なくとも自然は、加減というものを理解しておる。
「おや、ザリー嬢ではありませんか」
穏やかな声に振り返る。
長身で細身。
淡い金髪に青い瞳。
柔和な顔立ちの美青年が立っていた。
ファルディオン。
グラシアーナ嬢の婚約者である。
「どうかなさいましたか?」
ワシは令嬢らしい微笑みを浮かべた。
「少し風に当たりたくなっただけですわ」
食事から逃げてきたとは言えぬ。
顔見知りではあるが、それほど親しい仲ではない。
ファルディオンはしばらくワシの顔を見ていた。
やがて、かすかに笑う。
「なるほど」
そして少し間を置いて言った。
「では、あの食事はお口に合わなかったのですね」
ほう。
危ういことを言う男だ。
婚約者の家の料理を、部外者であるワシの前で批判しようとしている。
しかも婚約披露の日に。
ワシは改めて彼の顔を見た。
祝宴に出席している男の顔ではない。
「どうやら、あなたも同じようですわね?」
ファルディオンは遠くの畑へ視線を向けた。
「ええ」
風が前髪を揺らす。
その横顔には、隠しきれぬ憂いがあった。
「本日のような日に、そのようなお顔をなさるものではありませんわ」
「分かっています」
彼は小さく笑った。
だが楽しそうな笑みではない。
「ただ……」
言葉を選ぶように沈黙する。
そして、
「これを一生食べ続けることになるのかと思うと……」
と言った。
その先は聞かなくても分かった。
ファルディオンはグレインフォード家へ婿入りする。
当然、その家の習慣に従うことになる。
食事も含めて。
「少々、失礼ではありませんの?」
婚約者の家にも。
婚約者本人にも。
「ええ。そうでしょうね」
ファルディオンは苦笑した。
先ほどよりさらに寂しい笑みだった。
「どうか忘れてください」
ふむ。
困った男だ。
ワシと彼は、わざわざ面倒事に首を突っ込むほど親しくはない。
放っておいてもよい。
だが、まったくの他人でもない。
何より――
こんな単調な料理が、この国の最高峰とされているのが気に入らぬ。
美味さは量だけで決まるものではない。
脂と甘味を積み重ねれば豪華になるわけでもない。
それに、あの二人の仲は悪くなさそうだった。
グラシアーナ嬢は素直で愛嬌のある娘だ。
婚約そのものに問題があるようには見えない。
ならば直すべきは婚約ではない。
献立だ。
よし。
少し手を貸してやるか。
ついでに、この国の料理をもっと美しくしてやろう。
そう考えると胸が躍った。
ワシは扇で口元を隠す。
「ぐふふ……」
面白くなってきたではないか。
――
数週間後。
ワシはグラシアーナ嬢とファルディオン殿を、ロシュフォール家の別荘へ招いた。
表向きは、婚約披露の宴へ招いてもらった礼である。
本日の目的は夕食。
いや。
正確には、戦である。
「ザリー嬢、本日はお招きいただき、ありがとうございます」
グラシアーナ嬢が優雅に礼をした。
幾重にも重なったドレスが、金色の鐘のように揺れる。
ワシも微笑みを返した。
「お気になさらず。あれほど盛大な宴でもてなしていただいたのですもの。お返しをしないわけにはまいりませんわ」
グラシアーナ嬢は誇らしそうに顔を輝かせた。
うむ。
まずは褒める。
それが最も賢いやり方だ。
「ですが」
ワシは続ける。
「グレインフォード家と同じような料理を出して、競い合うのは愚かなことでしょう?」
「まあ?」
「ですから本日は、少し変わった物をご用意いたしましたの」
グラシアーナ嬢の大きな碧眼が輝く。
「変わった物?」
「珍しくて、美味しい物ですわ」
「それは楽しみですわね!」
その隣に立つファルディオン殿は、婚約披露の宴にいた時より、はるかに表情が柔らかかった。
「私も楽しみにしております、ザリー嬢」
彼がワシを見る。
共犯者の目だ。
本日の食事会に隠された真の目的は、すでに説明してある。
もっとも、何を出すかまでは教えていない。
反応は素の方が価値がある。
「お二人にとって、忘れられぬ夜になると思いますわ」
グラシアーナ嬢は嬉しそうに微笑んだ。
ファルディオン殿とワシが、自分を攻略しようとしているとは夢にも思っていない。
武力ではない。
食事でだ。
――
食堂へ入ったグラシアーナ嬢は、足を止めた。
長いテーブルの上には、ほとんど何もない。
巨大なパイもない。
山のような焼き肉もない。
何皿もの料理が積み重ねられた、果てしない光景もない。
シャンデリアの下に、三人分の席だけが用意されていた。
「あら?」
グラシアーナ嬢は室内を見回す。
「わたくしたち、早く到着しすぎたのかしら?」
声には本気の心配が混じっていた。
「まだお料理の準備が整っていないようですわ」
ワシは片手で口元を隠し、柔らかく笑った。
「いいえ、グラシアーナ嬢。すべて予定どおりですわ」
彼女はもう一度、何もないテーブルを見る。
「では、お料理はどこに?」
「一品ずつお出ししますの」
グラシアーナ嬢は首を傾げた。
「一品ずつ?」
この国の貴族の宴では、すべての料理を一度にテーブルへ並べるのが伝統だ。
皿の数が多いほど、富の象徴になる。
その間に料理が冷めるかどうかなど、二の次らしい。
「なぜ、わざわざ分けて出しますの?」
「料理の中には、火から下ろした瞬間が最も美味しい物もあるからですわ」
ワシは空のテーブルを示す。
「すべてを一度に並べれば、口へ運ぶ頃には冷めてしまう料理もありますでしょう?」
グラシアーナ嬢は考え込んだ。
その表情から察するに、料理の温度を味の一部として考えたことがないらしい。
一方、ファルディオン殿は興味を示していた。
「つまり、出来上がった順に運ばれてくるのですか?」
「ええ、そのとおりですわ」
「そして、熱いうちに食べる」
「ご名答」
グラシアーナ嬢は両手を合わせた。
「まあ、面白いですわね!」
婚約者へ顔を向ける。
「ファルディオンも、そう思いませんこと?」
「ええ。楽しみです」
その笑顔は本物だった。
よい。
二人は互いを大切に思っている。
ならば話は簡単だ。
直すべきは婚約ではない。
献立だけでよい。
ワシが使用人へ小さく合図を送る。
扉が開いた。
最初の料理が運ばれてくる。
深い紺色の皿に、薄切りの肉が並べられていた。
その横には、少量の玉ねぎと人参が添えられている。
濃い色の皿が肉の色を引き立てる。
白い玉ねぎと鮮やかな橙色の人参が、彩りと対比を加えていた。
ファルディオン殿が身を乗り出す。
「青い皿ですか」
心から感心しているようだった。
「野菜があることで、料理全体が明るく見えますね」
ワシは微笑む。
すぐに気づいたか。
見込みがある。
手を貸すことには同意していたものの、献立そのものは見せていない。
今の反応は完全に本心だ。
一方、グラシアーナ嬢の反応は芳しくなかった。
目を細め、肉をじっと見つめている。
「ザリー嬢」
「なんでしょう?」
「なぜ、お肉がこれほど薄いのです?」
声にはわずかな不満が含まれていた。
「お肉は厚く切るものでしょう?」
「そうなのですか?」
「当然ですわ」
まるで家名と文明そのものを守るかのような自信だった。
「厚い肉ほど肉汁を逃しません。薄い肉では、見た目にも物足りませんもの」
ワシは皿を少し持ち上げた。
「珍しい物をお出しすると申しましたでしょう?」
グラシアーナ嬢は眉を寄せる。
「珍しければ優れているとは限りませんわ」
「おっしゃるとおりです」
彼女の前へ皿を置く。
「薄い肉にも、確かに欠点はございます」
「たとえば?」
「冷めやすい」
グラシアーナ嬢の顔に、勝ち誇った表情が浮かぶ。
「では、やはりわたくしの言ったとおりではありませんか」
ワシは微笑んだ。
「ですから、すぐにお出しするのですわ」
彼女の表情が固まった。
「網から下ろした瞬間、そのままテーブルへ運ばせましたの」
艶やかな肉の薄切りを示す。
「今が最も美味しい瞬間ですわ」
ファルディオン殿がゆっくりと頷いた。
「調理法の弱点を、給仕の方法で補っているのですね」
「そのとおりです」
グラシアーナ嬢は、ワシとファルディオン殿を交互に見た。
そして視線が野菜へ移る。
先ほどよりも、さらに疑わしげな表情になった。
「それで、こちらは何ですの?」
「玉ねぎと人参ですわ」
「それくらい分かります」
口調が少し鋭くなる。
「なぜ、貴族の皿に載っているのかと尋ねておりますの」
ファルディオン殿が彼女を見る。
ワシは笑顔を崩さない。
「美味しいからですわ」
グラシアーナ嬢は、ワシが泥を最新流行だと宣言したかのような顔をした。
「野菜が?」
「ええ」
「畑の匂いがしますわ」
「穀物も同じですわよ」
「それとは違います。これは土の中で育つではありませんか」
グラシアーナ嬢は椅子の上で姿勢を正した。
「野菜は農民や使用人が食べる物ですわ」
面白い。
王国中へ食料を供給する家の令嬢が言うと、なおさら面白い。
だが、その矛盾を指摘するのはまだ早い。
「そうかもしれませんわね」
ワシは言う。
「ですが、決めつける前に召し上がってみてはいかが?」
グラシアーナ嬢は首を横に振った。
「苦いに決まっています。あるいは土の味がするのでしょう」
ファルディオン殿がフォークを手に取った。
「では、まず肉からいただきましょう」
彼はグラシアーナ嬢へ安心させるような視線を向ける。
「ザリー嬢も、冷めればもったいないとおっしゃっていましたから」
グラシアーナ嬢は迷った。
議論に負けるのは嫌いなのだろう。
だが、食べ物を無駄にするのは、それ以上に嫌いらしい。
「……分かりましたわ」
フォークで肉を一枚刺す。
そして慎重に口へ運んだ。
ワシは見守る。
ファルディオン殿も見守る。
使用人たちまで見守っているように見えた。
グラシアーナ嬢が一口食べる。
目が大きく開いた。
噛む動きが止まる。
一瞬、喉に詰まらせたのかと心配になった。
やがて彼女が声を漏らす。
「これは……?」
ファルディオン殿も自分の皿の肉を口にした。
反応は控えめだったが、驚いていることに変わりはない。
「香りがまるで違いますね」
考えるように噛む。
「味も違う」
フォークの上の肉を見つめた。
「想像していたより、ずっと軽い」
グラシアーナ嬢がワシを見る。
「どうやって……?」
「ワシが作った調味料に漬け込み、炭火で焼きましたの」
「なるほど。余分な脂が下へ落ちるのですね」
ワシは片手を頬へ添える。
「お口に合いまして?」
グラシアーナ嬢は噛み続ける。
眉を寄せていた。
不味いからではない。
むしろ逆だ。
「……甘くありませんわ」
最後の抵抗のような一言だった。
ファルディオン殿はもう一口食べる。
「私は、とても美味しいと思います」
グラシアーナ嬢が婚約者を見る。
彼は笑っていた。
礼儀としてでもない。
気を遣っているのでもない。
本当に楽しんでいる笑顔だった。
彼女の抵抗が揺らぐ。
皿へ視線を落とす。
そして、もう一口。
さらに、もう一口。
やがてフォークを置いた。
「認めるのは、とても悔しいのですけれど」
「それは残念ですわ」
グラシアーナ嬢はワシの言葉を無視した。
「ですが……」
もう一度、満足そうなファルディオン殿の顔を見る。
そして小さく息を吐いた。
「美味しいですわ」
よし。
門は開いた。
――
食事は続いた。
しばらくの間、二人の将来についての穏やかな会話が続く。
グラシアーナ嬢は上機嫌で肉を食べていた。
ファルディオン殿も同じだ。
その時、ワシは一つの変化に気づいた。
ファルディオン殿の食べる速度が少し落ちている。
満腹だからではない。
味に慣れ始めているのだ。
どれほど美味い料理でも、同じ味が続けば感動は薄れる。
重要なことだ。
「ファルディオン殿」
彼が顔を上げる。
「玉ねぎを召し上がってみてくださいませ」
「玉ねぎを?」
その表情は、テーブルクロスを食べてみないかと勧められたような顔だった。
「信じてくださいませ」
少し迷った末、彼はフォークで玉ねぎを刺した。
この玉ねぎは軽く酢へ漬けた後、焼いてある。
風味を消さぬ程度に。
少しだけ際立たせるために。
ファルディオン殿が口へ運ぶ。
そしてすぐに眉を上げた。
「酸っぱい」
「ええ」
彼は考え込むように咀嚼する。
「それで?」
「特別美味しいとは思いませんね」
実に正直な感想だ。
グラシアーナ嬢がどこか満足そうな顔をした。
ようやく自分の味方が現れたと思ったのだろう。
ワシは頷いた。
「では、もう一度お肉を」
ファルディオン殿は素直に従った。
肉を口へ入れた瞬間。
目が見開かれる。
「おや」
もう一口。
さらにもう一口。
「味が濃くなったように感じます」
「そのとおりですわ」
酸味が舌を目覚めさせたのだ。
肉そのものは変わっていない。
変わったのは感じ方だけ。
ファルディオン殿は心底感心したようだった。
「玉ねぎが肉を引き立てているのですね」
「そう考えていただいて結構ですわ」
すると彼はすぐに婚約者へ向き直った。
「グラシアーナ。君も試してみるといい」
グラシアーナ嬢は露骨に顔をしかめた。
「酸っぱい野菜ですわよ?」
「だからこそです」
「嫌ですわ」
「意外と良いですよ」
「絶対に嫌ですわ」
交渉決裂。
ならば別の攻め口を使うまで。
「でしたらグラシアーナ嬢」
ワシは微笑む。
「人参はいかがです?」
彼女が警戒した目を向ける。
「人参?」
「ええ」
「それも酸っぱいのですか?」
「いいえ」
ワシは首を振った。
「甘いですわ」
その瞬間。
彼女の興味がわずかに動いた。
この人参は肉と同じ調味料に漬けた後、ゆっくりと煮込んである。
甘い。
だが甘すぎない。
肉料理と甘味文化を繋ぐ橋だ。
それでもグラシアーナ嬢は疑い続ける。
「ですが……」
人参を睨む。
「所詮は野菜ですわ」
「それは残念ですわね」
ファルディオン殿が吹き出した。
グラシアーナ嬢は無視する。
「野菜は硬いですもの」
「これは柔らかいですわ」
「土の味がしますもの」
「これはしませんわ」
「平民の食べ物ですもの」
「不思議ですわね」
ワシは首を傾げた。
「なぜ貴族の娘が、美味しい物を我慢しなければならないのです?」
グラシアーナ嬢が黙った。
その言葉は、彼女の考え方の中心へ真っ直ぐ刺さったらしい。
眉を寄せる。
さらに寄せる。
どうやら人参が優勢のようだ。
もっとも。
彼女は素直に降参する性格ではない。
依然として人参を睨んでいる。
睨み続ければパイへ変化するとでも思っているのだろうか。
やがてファルディオン殿が手を伸ばした。
人参を一切れ口へ運ぶ。
「ほう」
咀嚼する。
そして笑った。
「これは美味しい」
さらにもう一口。
「柔らかい」
また一口。
「甘いですね」
そして婚約者へ微笑みかけた。
「肉ともよく合っています」
会心の一撃である。
グラシアーナ嬢の防壁がさらに崩れた。
彼女は人参を見る。
人参は何も弁明しない。
やがて。
諦めたように息を吐いた。
それは敗北を受け入れた者の溜息だった。
ゆっくりと。
慎重に。
フォークで人参を持ち上げる。
目を閉じる。
そして口へ運んだ。
一秒。
二秒。
突然、目が見開かれる。
「まあ!」
驚きは本物だった。
すぐに二口目。
さらに三口目。
「甘いですわ!」
「そのように作りましたので」
「野菜の味がいたしません!」
全国の野菜が聞いたら抗議しそうな感想である。
だが前進は前進だ。
グラシアーナ嬢は皿を見る。
人参を見る。
そしてワシを見る。
その顔には困惑が浮かんでいた。
長年信じていた価値観に、初めてひびが入った者の顔だ。
実に面白い。
実に興味深い。
門は開いた。
そして今、城壁が崩れ始めている。
ワシは椅子へ背を預けた。
本来なら、徐々に攻める予定だった。
慎重なやり方だ。
堅実なやり方だ。
だが。
グラシアーナ嬢の適応力は予想以上だった。
ならば予定を変える。
ワシは使用人と目を合わせた。
小さく頷く。
使用人は静かに一礼し、その場を去った。
よし。
一つの思い込みを捨てられるなら。
もう一つくらい、捨てられるだろう。
しかも予想より早く。
「ザリー嬢?」
グラシアーナ嬢が不思議そうに尋ねる。
「次のお料理は何ですの?」
ワシは微笑んだ。
「きっと印象に残りますわ」
なにしろ。
多くの貴族が主役に相応しくないと思い込んでいる食材なのだから。
しばらくして。
食堂の扉が再び開いた。
淡い飴色をした、長方形の『長皿』が運び込まれる。
その直後。
豊かで食欲を誘う香りが部屋へ広がった。
グラシアーナ嬢が瞬きをする。
ファルディオン殿も瞬きをする。
ワシは笑う。
本当の戦は、ここからだ。
使用人たちが皿を中央へ置く。
香りが先に届く。
濃厚。
魅力的。
先ほどの肉料理とはまるで違う。
グラシアーナ嬢が眉をひそめた。
ファルディオン殿が身を乗り出した。
二人とも皿を見つめている。
素晴らしい。
困惑こそ期待していた反応だ。
淡い飴色の長皿には、美しく焼かれた魚の切り身が置かれていた。
その左右には、穀物と数種類の野菜を盛った小皿が並ぶ。
艶やかな魚の皮と鮮やかな野菜が、落ち着いた飴色の器によって一層引き立てられていた。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがてグラシアーナ嬢が声を絞り出す。
「ザリー嬢……」
「なんでしょう?」
「あれは……魚ですの?」
「魚ですわ」
彼女の目が大きく開いた。
「魚?」
「魚ですわ」
「主菜として?」
「主菜ですわ」
グラシアーナ嬢は本気で衝撃を受けていた。
ファルディオン殿は困惑している。
どちらも予想どおりだ。
貴族社会において魚の立場は低い。
貧しい者は魚を食べる。
裕福な者は肉を食べる。
ゆえに魚は劣った食材である。
実に馬鹿げた理屈だ。
だが人は考えることをやめると、それを伝統と呼ぶ。
「何かの間違いではありませんこと?」
グラシアーナ嬢が言う。
「間違いではありませんわ」
彼女は長皿を指差した。
「あれは魚ですわよ?」
「鋭いご指摘ですわね」
「貴族の宴で魚が主役になることなどありませんわ」
ワシは微笑んだ。
「でしたら今夜は、良い勉強になりますわね」
――
王立学園へ入学して二日目。
ミークは苛立っていた。
何も起きない。
本当に何も起きない。
ゲームの知識によれば、そろそろ重要人物たちと出会っているはずだった。
それなのに――
王子もいない。
攻略対象もいない。
事件もない。
悪役令嬢たちすら姿を見せない。
せっかくの知識が、まるで役に立っていなかった。
どうなってるのよ?
昼休みになり、ミークは学園の食堂へ向かった。
せめて一つくらいはゲームどおりであってほしい。
ゲームでは、グラシアーナ・フォン・グレインフォードがよくここで昼食を取っていた。
何か分かるかもしれない。
そう思ったのだ。
食堂へ入る。
献立表へ近づく。
見上げる。
そして固まった。
「……は?」
目を細める。
次の瞬間。
目が大きく見開かれた。
焼き魚。
なます。
「なんじゃこら~!!」
周囲の生徒たちが一斉に振り向く。
ミークは気にしなかった。
あり得ない。
『破滅の国の救世姫』の学園食堂に焼き魚など存在しなかった。
あるのはケーキ。
菓子。
チョコレートファウンテン。
お嬢様たちが歓声を上げるような華やかな甘味ばかり。
焼き魚の入る余地などなかった。
「どんな乙女ゲームの学食よ!」
ミークは頭を抱えた。
「ミークさん。どうかなさいました?」
声に振り向く。
そこにいたのはエンラ・ド・モンフォール。
ゲームでも有名な悪役令嬢の一人だ。
美しい。
優雅。
危険。
そして今は昼食のトレーを持っていた。
「エンラ様……」
エンラは上品に微笑む。
「お困りのようですわね」
ミークは献立表を指差した。
「これは何ですか!?」
エンラは献立を見る。
「昼食の献立ですわね」
一切の悪意もなく答えた。
「それは見れば分かります!」
「でしたら、何がご不満なのでしょう?」
ミークは歯を食いしばった。
ゲームと現実がズレているなど説明できるはずがない。
「その……知らない料理ばかりなので」
「あら」
エンラは小さく笑った。
「学園一の秀才でも、知らないことはありますのね」
(知ってるわよ!)
(問題は、なんで存在してるかなのよ!)
ミークは作り笑いを浮かべた。
「料理は専門外ですので」
「なるほど」
エンラは頷く。
そして何気なく言った。
「グラシアーナさんが導入なさいましたの」
ミークは固まった。
「……はい?」
「新しい献立ですわ」
エンラは平然としている。
一方ミークは頭痛がしてきた。
グラシアーナ?
あのグラシアーナ?
将来、ファルディオンまで太らせる、あのグラシアーナが?
「どうやってですか!?」
思わず身を乗り出す。
エンラは瞬きをした。
「どうやって?」
「どうやって、この国に存在しない料理を覚えたんですか!?」
エンラの目に興味の色が浮かんだ。
面白がっている。
間違いなく面白がっている。
「ご本人に聞いてみてはいかが?」
ミークは即座に周囲を見回した。
「どこですか?」
エンラが窓際を指差す。
「あちらですわ」
ミークは視線を向けた。
金髪。
青い瞳。
優しい笑顔。
少しふくよかな体型。
少しだけ。
ミークは固まった。
「……誰?」
エンラがため息をつく。
「グラシアーナさんですわ」
ミークはトレーを落としかけた。
「ええぇぇぇっ!?」
なんで!?
ゲームのグラシアーナはもっと太っていた。
とても太っていた。
攻略対象ファルディオンを同じ体型へ変えてしまうことが、ルート最大の問題だった。
プレイヤーたちにはあだ名まで付けられていた。
ファットディオン。
酷いあだ名だ。
だが事実だった。
それなのに。
窓際の女性は、ミークの知るゲームでの姿とまるで違う。
まただ。
またザリーだ。
きっとザリーが何かやったのだ。
ミークは席へ向かった。
――
「グラシアーナ様?」
グラシアーナは顔を上げた。
焼き魚と穀物を食べている。
一見すると米にも見える。
だがよく見れば麦だった。
当然だ。
この世界に米はない。
「ごきげんよう。ミークさんでしたわね?」
柔らかな笑顔。
もちろん知っているだろう。
首席入学者は目立つ。
だが――
敵意がない。
傲慢さもない。
悪役令嬢らしい笑い方もない。
それが逆に不気味だった。
ミークは向かいへ座る。
「質問があります」
「一つだけですの?」
「なんで学園に焼き魚があるんですか?」
グラシアーナは少し考えた。
そして答える。
「美味しいからですわ」
ミークは頭を抱えたくなった。
答えになっている。
なっているのだが。
欲しい答えではない。
ゲームには魚料理なんて存在しなかった。
「そうではなくて、どうやって焼き魚を知ったんですか?」
グラシアーナは瞬きをした。
「ザリー様が教えてくださいましたの」
やっぱりザリー。
何もかもザリーだ。
ミークは身を乗り出す。
「どうして、そんな地味な料理を学園にまで――」
グラシアーナは首を傾げた。
「まあまあ」
そして給仕へ合図を送る。
しばらくして、一皿の料理が運ばれてきた。
「食べてみてくださいな」
ミークは皿を見る。
焼かれた白身魚。
そこから漂う、甘く香ばしい匂い。
ミークはこの香りを知っていた。
「まさか……」
一口食べる。
「西京焼きじゃん!」
白味噌へ漬けてから焼いた魚だ。
魚臭さが減る。
魚に慣れていない貴族にも食べやすい。
だが問題はそこではない。
味噌が存在していることだ。
味噌など、この世界に存在するはずがない。
グラシアーナが首を傾げる。
「さいきょうやき?」
「あ、えっと……味噌という調味料に漬けてから焼いた魚料理です」
「ああ」
グラシアーナは納得した。
「ザリー様は『味噌焼き魚』と呼んでおりましたわ」
ミークの心臓が速くなる。
味噌。
焼き魚。
本来存在しない料理。
一つなら偶然。
二つなら疑惑。
ここまで重なれば、もう証拠だ。
「へ~。それも本の知識?」
声がした。
ミークは振り向く。
いつの間にかエンラが隣に座ってウドンを食べていた。
「なんでウドンがあるんだよ!」
ミークはウドンを指差した。
「美味しいから、かしら?」
「美味しいのは知ってるよ!」
ミークは思わず叫んだ。
……。
金継ぎ。
西京焼き。
なます。
そして、さらにウドン。
もう偶然では説明できない。
多すぎる。
日本の知識を持ち込んだ人間がいる。
そしてその中心には一人の女がいる。
ザリー=ド=ロシュフォール。
あいつも転生者だ。
もう間違いない。
会わなければ。
話を聞かなければ。
なぜ悪役令嬢たちを救っているのか。
なぜ壊れるはずの婚約を守っているのか。
そして何より――
このままでは王国が滅ぶことを知っているのだろうか。
『破滅の国の救世姫』は、ただ攻略対象と恋をすれば終わるゲームではない。
まず、すべての攻略対象に、悪役令嬢との婚約を破棄させなければならない。
そうして初めて、攻略対象たちは自分の弱点を克服する。
婚約が残れば、攻略対象たちは弱点を抱えたまま戦争へ向かう。
その結果、王国は敗北し、滅びる。
つまり、すべての悪役令嬢が婚約破棄されなければならない。
誰と恋をするかは、その後の話。
ヒロインがどの攻略対象を選ぼうと、この条件だけは変わらない。
……。
ザリーが何を考えているのかは分からない。
だが。
これ以上好き勝手にはさせられない。
ミークは拳を握った。
まずは会う。
ザリー=ド=ロシュフォールに。
この物語を根底からひっくり返そうとしている女に。




