20 そこにいる憎い女
「あら雪答応、あなたも花園に来ていたのね」
その声に、慧雪は深い思考の底から我に返った。振り返ると、侍女と太監を伴い紅貴妃がやって来る。
「紅貴妃さまにご挨拶を」
手を伸ばせば殺せる距離に、憎い女がいる。
慧雪は込み上げる怒りを抑え、現れた紅貴妃に後宮のしきたりに従って礼をする。紅貴妃は口の端を吊り上げ、半眼で慧雪を見下ろした。
今や後宮は茗皇貴妃の次に紅貴妃が偉い立場だ。しかし紅貴妃は茗皇貴妃を差し置き後宮の頂点にいるかのようにのさばっている。妃嬪たちも紅貴妃に逆らえない様子だ。
「陛下も酔狂だこと。おまえは知っているのかしら。かつて侍衛と恋仲になり処刑された妃がいたことを」
「いいえ、存じません」
「その妃は雪貴妃というの。そう、おまえと同じ〝雪〟という封号を持つ妃」
慧雪はそっと下唇を噛みしめる。
「その妃と同じ封号にするなんて、陛下も何を考えているのか」
紅貴妃は無遠慮に、慧雪を上から下まで舐めるように見る。いまだ慧雪はお辞儀をしたまま。紅貴妃の許しがなければ、楽な姿勢はとれない。
「けれど、陛下のお心も理解できるわねえ。おまえとかつての罪人、顔はまったく違うけれど、どこか雰囲気が似ているもの。まるで、雪貴妃が帰ってきたよう」
帰ってきたようではなく、正真正銘、帰ってきたのだ。
紅貴妃、あなたに復讐するために。
紅貴妃は冷笑を浮かべる。
「けれど、雪貴妃とおまえとでは天と地ほどに違う。そうそう、おまえ、焔貴人の妹なのですってね。同じ姉妹で後宮に入ったのに片や陛下の寵妃、片や後宮の底辺」
紅貴妃は肩をすくめ続けて言う。
「今や焔貴人に媚びを売り、たくさんの妃たちがすり寄ってきているわ。なのに、おまえは後宮の片隅で、陛下はおろか、誰にも見向きもされず寂しい毎日を暮らしている」
「焔貴人も紅貴妃さまに目をかけていただき感謝の言葉もないと申しておりました」
慧雪の返答に、紅貴妃はふんと鼻で嘲笑う。
「最下位の妃のくせに、後宮がなんたるかをわきまえているようね」
ええ、後宮にあがるのはこれで二度目ですから。
「紅貴妃さま、恐れながら申し上げます。このまま雪答応さまにお辞儀をさせるつもりですか? 万が一、他の者に見られたら、紅貴妃さまが何と言われるか」
常夜の言葉に紅貴妃はあら、ととぼけた顔をする。
「あら、忘れていたわ。雪答応、楽にしなさい」
「感謝いたします」
そこでようやく慧雪は顔をあげる。
「私が雪答応に嫌がらせをしていると思われたら困るもの。雪答応、取り柄も何もないおまえだけれど、侍女だけは賢い者を得たようね」
ふと慧雪は紅貴妃の側に控える太監と目があった。
慧雪は目をすがめる。
この男も懐かしい男だ。再会できてある意味、喜ばしい。
その男の名は小汀子。
かつて雪貴妃の太監だった者だ。汀子は主である雪貴妃を裏切り、今の紅貴妃に寝返った。金に汚く底意地の悪い宦官。権力を欲するためなら、どんなことでもする、狡賢い男。
この男も、復讐のひとりだ。
汀子は嫌らしい笑いを浮かべ、じろじろと慧雪を見ている。
「あなたも過ちを犯さないことね。後宮のしきたりを破ったら、即刻処刑よ」
「肝に銘じます」
ふふふ、と声をもらし、紅貴妃が去って行くのを見届け、慧雪は再び星辰に視線を向けた。
慧雪の瞳が揺らぐ。
星辰さま、私だけを愛すると誓ってくれたあなたは、正妻を迎えていた。
しかし、これは仕方がないこと。
自分は死んだのだから。
いいえ、そもそも星辰さまの愛に応えられず、陛下の妃として後宮に入った私がいけない。
と、心の中で何度も言い聞かせる。
それでも、分かっていても、慧雪は行き場のない悲しみに心を抉られるような痛みを感じた。
「どうされましたか、雪答応さま? 顔色がよろしくないようですが。お疲れなら宮に戻りましょう」
「いいえ大丈夫よ。ところで常夜、薇蕾さまのことを知っている?」
かつて愛した男性は、どんな女性を妻にしたのだろう。
「はい。噂ですが、薇蕾さまは悋気な性格の方で、星辰さまに女性が近づいただけで、機嫌が悪くなると聞きました。それゆえ、女子たちは薇蕾さまの怒りを恐れ、あえて星辰さまを避けています。雪答応さまも、あのお二人には関わらない方がよろしいかと」
「そうね……」
ふと、星辰がこちらを振り返る。
彼と目が合う。
慧雪はそっと目をそらし、この場から立ち去った。




