19 忘れられない
星辰との約束を交わしたその日、屋敷に戻った慧雪は、師匠に診療所に来るよう呼ばれた。
「師匠……?」
難しい顔をする師匠を見た瞬間、慧雪の胸がザワついた。
「何かあったのですか?」
「ああ、山を越えた南陳の村で、大勢の病人が出たと知らせが入った。村人たちが発熱、頭痛、寒気を訴えているらしい。中には意識障害や、呼吸困難をおこしている者も」
慧雪ははっとなって目を見開く。
「もしかして、瘧疾!」
ああ、と仙星は真剣な顔で頷く。
「急いで治療をしなければ重症化する。最悪、たくさんの死者もでるだろう」
慧雪はごくりと唾を飲み込んだ。
「落ち着くまで、この診療所を閉じることになるが……」
「私も行きます」
「慧雪、おまえは来てはいけない。おまえにもしものことがあれば」
慧雪は薬草棚に走り、必要な薬を取り出す。
「柴胡、半夏、黄芩、人参、甘草、大棗、生姜、沢瀉、猪苓、蒼朮、茯苓、桂皮……」
慧雪は師匠を振り返る。
「マラリアに効果のある柴苓湯を用意していきましょう。村人たちを救うために、たくさんの薬草を」
「慧雪や……」
「師匠、私も手伝わせてください。師匠の足手まといにはなりません。自分のことは自分でなんとかします。だから!」
慧雪の真剣な目に仙星は笑う。
「うむ、分かった。慧雪や、足手まといだと思ったことは一度もないよ。それどころか本当を言えば、一人でも手伝ってくれる者が欲しいと思っていた」
「では!」
「ああ、朝一番で南陳の村に向かう。それまでにおまえも支度をしなさい」
「はい!」
慧雪は急いで屋敷に戻り荷物をまとめた。そして早朝、師匠とともに町を出た。
慧雪が屋敷を出た一刻後のことである。
一人の男が慧雪の屋敷を訪ねて来た。
李鶯陛下であった。
「慧雪という女子がいるだろうか。会わせて欲しい」
「はい、ですが慧雪さまは朝方、南陳の村に出かけられました」
「南陳? なにゆえそんな場所に?」
側仕えとおぼしき者が男に耳打ちをする。南陳の村の状況を伝えたようだ。
「なるほど。彼女が戻ってくるのはいつだ?」
「申し訳ございません。いつになるかは存じ上げません」
「そうか……」
その後、皇宮に戻った李鶯陛下であったが、慧雪のことが忘れられずにいた。
「誰か」
「はい、ここに」
御前太監が進み出る。
「景安の村にいた娘を探せ。慧雪という名の女子だ」
「かしこまりました。ですが、お探しして、いかがなさるのですか」
李鶯陛下はふっと口に笑み刻み、茶器を手に取る。香り高い茶を堪能し、息を吐く。
「美しく健気な女子だった。病で倒れた弟を献身的に看病する姿に朕は心を打たれた。朕は彼女が気に入った。だから、朕の妃に迎える」
「おそれながら陛下。妃にお迎えするのでしたら、一度、皇后さまに相談された方がよろしいかと存じます」
御前太監は頭を下げ、遠慮がちにけれど陛下を諭すように言う。
後宮の決め事を、皇后抜きで勝手に決めるわけにはいかない。
「朕が娶りたいと思った。皇后に相談する必要はない!」
李鶯陛下は手にした茶器を太監の足元に投げつけた。
「陛下、お静まりを! お身体に障ります」
太監はその場に膝をつき、皇帝陛下に許しを請う。
その時であった。
「皇太后さまのおなりー」
外から聞こえた太監の声に、陛下は立ち上がる。
現れたのは、陛下の実母の皇太后であった。
「母上、ごきげん麗しゅう」
皇太后を迎えるため立ち上がった陛下を、皇太后は手でとどめる。
「挨拶はよい。久々におまえの顔を見に来たが、外までそなたの怒鳴り声が聞こえたぞ。どうしたのだ?」
「それは、その……」
言いよどむ陛下の代わりに、やむなく御前太監が答える。
「陛下は新しいお妃さまを迎えたいそうで……」
それを聞いた皇太后は笑った。
「新しい妃を迎えたいとな? よほど、その娘が気に入ったようだな。だったら迎えればよかろう」
李鶯は目を輝かせた。
「よいのですか!」
「うむ、簡単なことだ。その慧雪という娘を次の秀女選びに加えればよいだけ」
途端、李鶯の顔が曇る。
「三年に一度の秀女選抜試験が今年行われる」
「その話は断ったはずです。新たな妃を迎えるつもりはないと何度も言いました」
「ならば、慧雪という娘のことはあきらめよ」
「そ、それは!」
「選抜試験を行うか、慧雪を諦めるか、選びなさい」
秀女選抜試験を行えば、皇太后の意にかなった娘を選び後宮に迎えなければならない。そうなれば、あらたな面倒事が増える。だが、行わなければ慧雪を妃にできない。
この国の皇帝陛下であっても、母親の威力には逆らえないのだ。
「分かりました……」
途端、皇太后の表情がご機嫌なものとなる。
「安心するがよい。すべては陛下のため、私がよきに計らおう」




