40.あの日の事は忘れない デススパイダー改めラブリースパイダー
マスターは偉大な方だった。あの日に起きたことはずっと忘れない。
私はデススパイダーと呼ばれている。一日の仕事は己の八本の脚で糸を編み、ただ黙々と網を張る。
それがいつもの日課。誰にも見つからず、誰にも恐れられず、静かに暮らせたらそれでいいと、そう思っていた。
本当は、私以外の誰かと話してみたかったし、糸の使い方を伝えてみたかった。
でも、声をかけようとすれば悲鳴を上げられる。
光沢のある漆黒の脚が、「死を呼ぶ」と呼ばれるその名前が、誰かとの距離を決定的に引き裂いていた。
「名前からして損してるよね……ラブリーってどうかな?」
マスターのその提案に、最初は戸惑った。
けれど、徐々に淡いピンク色に変わっていく体をみて、少しだけ希望が灯った。
丸みを帯びた脚。ふわっとしたフォルム。マスコットのような瞳。
初めて、自分が“可愛くなる”なんて考えた。
変身後、ピンクの体色とつぶらな瞳、ふわふわの脚を持った自分を鏡越しに見たとき、そっと自分の顔に手を添えた。
「……これは、わたし?」
しばらくして、私のもとに冒険者に連れられて一人の少女が現れた。
手には小さな手編みのバッグがあった。
それは、ラブリースパイダーが森のあちこちの枝に結んでいた小さなバッグ。
「せんせい、これ、すっごくかわいい!」
その女の子は、目を輝かせて言った。 “せんせい”と呼ばれた瞬間、胸の奥に灯がともる。
それからというもの、ラブリースパイダーは「クラフト教室の先生」として活動を始めた。自らの糸を提供し、子どもたちに編み方を教える。子どもたちが彼女に寄り添い、笑い、彼女もまた笑う。
「……人間の子どもって、あんなに柔らかく笑うのね。昔は、見ただけで泣かれたのに」
その言葉に、紅葉はそっと頷いた。
「君のやさしさが、やっとちゃんと伝わったんだよ」
今、私は「ラブリ先生」と呼ばれている。へへ何だか親しみ持てるでしょ。
冒険者とともにやってくる子どもたちは、わくわくした顔で糸の刺繍をお願いしてくる。
その期待に応え、器用な前脚を動かし、花模様や星の飾りを丁寧に織り込んでいくその時間が、何よりも幸せだった。
「先生、また来てもいい?」
言われるたびに、心がほどけていく気がした。
かつて恐怖の象徴だった糸が、今では“誰かの喜び”を縫い留めている。
いつしか私の中にあった過去の孤独は静かに溶けていった。




