29.もみじや仮営業二日目・午後――はじめての宿泊
「……ああ、こりゃ、すげぇな」
玄関をくぐった途端、大柄な女性――灰色の和鎧を着た冒険者・葵が思わず声を漏らした。
玄関ホールの奥に広がる、白漆喰と黒い梁の洋館様式。
それでいて、足元は畳と赤絨毯。まるで、和と洋の時間が交差するような空間だった。
「こういうとこって、なんか……畏まっちゃうかと思ったけど、変に肩がこらねえな」
受付カウンターでは、着物姿にエプロンドレス姿の“ブラウニー班”が笑顔で対応している。
「お荷物、お預かりいたします」
あの、宿の案内動画で見た制服だ。けれど実物は、思っていたよりずっと自然で温かかった。押しつけがましくない、距離のある丁寧さ。
連れの二人――
・長身の青年・クロ(ローブ姿。分析型の冒険者)
・白髪混じりの治癒士・柳(やなぎ。物静かで老練)
も、それぞれ館内の意匠に目を奪われていた。
「迷宮の中で、こんな空気吸えるとはね……」
柳が、ふぅと目を閉じて吐き出す。
「五感が休まる。これは、結界……いや、“空気の設計”か。上手いな」
「設計、というか……もしかして、あの子たち?」
クロが小声で指したのは、玄関奥に立つ一人の少女――案内係のリン。シルキー班のリーダーだ。
整った制服、ぴんと立った姿勢。無表情なのに、どこか凛とした気配がある。
「あの子、ただ者じゃないよな?」
「……しっ。口にするなって、言ったろ。ここでは、それが“礼儀”だ」
二人は目配せして話を打ち切った。
冒険者の間でも、“迷宮の中に出来た”ある特別な場所”の存在は噂になっていた。
迷宮由来の存在と、人間がほんの少しだけ接点を持てる場所。
“そういう宿屋”ができたらしいと、誰からともなく。
案内された部屋は、二階の角部屋だった。
窓の外には山の稜線、そして、露天風呂からゆるやかに湯けむりが昇っているのが見える。
迷宮の中だってことを忘れてしまうほどの景色がそこには広がっていた。
「……これ、仕事じゃなくて泊まりに来ると、全然違うな」
葵が、ごろりと布団に寝転んで天井を見上げる。
「迷宮の床より100倍いい。あたりまえだけど」
クロが笑いながら座布団を整えた。
「寝転ぶだけで回復する気がするよ、俺」
柳は黙って湯呑を手に取り、ひと口すすってからぽつりと漏らす。
「……この香、ただの焙じ茶じゃない。多分、“場”に合わせて調整してるな。人を落ち着かせる香りの層が入ってる」
「魔術的な?」
「いや、これは“技術”だ。人間の仕事。だから、心に効く」
クロと葵が同時にうなずく。
迷宮内に出来た初めて泊まる宿屋。
現実世界で泊まる宿と雰囲気が違う、剣も魔術も必要としない時間。
けれど、そこで感じる安堵感は、迷宮をいくら攻略しても得られなかったものだった。
その夜。
露天風呂に入った葵は、思わずのぼせるほど長湯をした。
「いや~……これ、もう無理だ。出たくない……」
肩の古傷が、湯に浸かったとたんにすっと軽くなる感覚があった。
柳は、ぼそっと言った。
「ここ……いいな。次のアタックが終わったら、また来ようか」
クロも同意した。
「こんな場所、下手にSNSで広まってほしくないな。俺らの“隠れ処”にしておきたいくらい」
山野紅葉は、帳簿をまとめながらその会話をこっそりモニタリングしていた。
ふふ、バレない程度に、だよ。
「“また来たい”って言われるのが、一番うれしいよね」
窓の外では、さくらがぼんやり月を見上げている。
額の宝石が、静かに七色の光を帯びていた。




