第98話 戦争の実感のない悠の貢献
やわらかな陽光が差し込む龍栖館の執務室には、淹れたての紅茶から立ち上るカモミールの香りと、乾いた羊皮紙の匂いが満ちていた。
カリカリと軽快にペン先が紙を滑る音と、時折パラリと資料がめくられる微かな擦過音が心地よく部屋に響いている。
布紙を使わない理由は、動物や魔獣の皮が余りまくっているからである。それに物持ちも良く、壊れにくいため、正式な書類には羊皮紙を使っているのだ。
そんな穏やかな執務室の窓際──ゆったりとした長ソファで、俺は至福の時間を噛み締めていた。
後頭部を預けているのは、柔らかくもほどよい弾力を持ったルフの太ももだ。ふわりと漂う彼女特有の甘く爽やかな香りと、肌越しに伝わってくる温もりが、日頃の書類仕事で凝り固まった思考をトロトロに溶かしていく。
ルフのしなやかな指先が、優しく俺の前髪を梳いてくれるたび、思わず喉から気の抜けた吐息が漏れそうになる。
「……ふふ、悠様、とても気持ちよさそうなお顔をされています」
見上げると、ルフが金色の瞳を細めて穏やかに微笑んでいた。
普段の彼女は領内の兵士たちの訓練や防衛隊の指導に追われており、屋敷を留守にすることが多い。
こうして二人きりでゆっくり過ごせる時間はどうしても限られてしまうため、執務の合間のわずかな隙間時間を見つけては、こうして全力でスキンシップをこなしているのだ。
だが、そんな極上の空間に、対面の執務机から冷徹な現実が突きつけられる。
「──悠。ヒルダ伯爵様から親書が届いているわよ。『今後何か新しいことを始めるときは、頼むから事前に一報を入れてほしい』とのことよ」
茉莉が分厚い封書から視線を上げて告げた。
その隣で帳簿をまとめていた絢乃も、苦笑いを浮かべながら手元の万年筆を置く。
「……ん? 事前に報告? なんのことだ?」
俺はルフの膝枕から首だけを傾げて眉をひそめた。ここ最近、俺がやったことと言えば、領内の内政をちょこちょこと整えたくらいのものだ。誰かに迷惑をかけるような突飛な真似をした覚えはないはずなのだが。
怪訝な顔をする俺を見て、茉莉が深く溜息を吐き出しながら書類を一枚抜き取った。
「悠が少し前に制定した『農一・商二・流一の税制』と、先日宣言した『農奴制の完全廃止』よ。あれの影響で、近隣のあらゆる領地から一斉に、この子爵導ブレイシアを目指して民が大移動を始めているそうよ」
「……あー。それで、ヒルダ伯爵様が治めているフェリスグラード町の周辺でも、ドレイク町に移住しようとする人が増えてる感じ?」
「そういうこと。領民が雪崩を打って逃げ出している領主たちから、猫伯爵家へ悲鳴のような抗議と問い合わせが殺到しているらしいわ」
「うぐっ……じゃあ、あまり大きな改革は急にやらない方がよかったのかな?」
申し訳なさに肩をすくめると、茉莉は「そんなに気にすることは無いわ」と軽く手を振った。
「ヒルダ伯爵様は手紙で小言を添えつつも、すぐに各地へ早馬を走らせて、自分の直轄領でも同じように税制と身分制度の改革を進める動きを取っているそうよ。ただ、あちらは古くからの貴族社会のしがらみがあるから、実際に制度化して浸透させるまでにはどうしても時間がかかるらしいけれど……つまり、悠がやっていること自体は完全に正しいと認めているわ」
茉莉は手元の資料から完全に視線を離すと、ソファに寝そべる俺をまっすぐに見据えた。その瞳には、呆れと感嘆が入り混じったような光が宿っている。
「それにね、戦争の方も悠のおかげで信じられないくらい優位に立っているそうよ。なにせ敵対派閥の領民たちが、重税と過酷な身分制度から逃れるために、あの手この手を使ってブレイシアへ亡命しようと大混乱を起こしているんだから。何なら、領主のやり方に愛想を尽かした騎士が、フル装備のまま正面切って部下を引き連れて亡命してきているそうよ。戦う前から敵の戦力が勝手に削れていくんだから、笑えるわよね」
「俺のおかげ……なのか? 実際に前線で命懸けで戦ってくれているのは、ヒルダ伯爵様やハンナ、クリス、イリア、ミナたちだろう?」
「戦略シミュレーションゲームをこよなく愛したあなたがそれを言うと、ただの嫌味にしか聞こえないのだけれど?」
茉莉がジト目で睨んでくるが、俺としては本当に腑に落ちないのだ。
「いやだってそうじゃん。俺、戦争の『せ』の字もない平和な町で、制度をちょっと便利に変えたり、新しい仕組みを作ったりしてるだけだぜ? 確かに前世のゲームでは経済や内政で敵国を兵糧攻めにするプレイもよくやったけどさ、あれは見下ろし視点でマップ全体の戦況が見えていたからな。前線から遠く離れたここにいると、貢献云々の前に、戦争をやっているっていう実感そのものが全く湧かないんだよ」
ぽりぽりと頬を掻いていると、執務室の重厚な木の扉が控えめにトントンとノックされた。
「どうぞ」
茉莉が声をかけると、扉が静かに開き、黒い燕尾服をまとった使用人が一礼して入ってきた。
我が屋敷では役割によって服を変えているのだ。戦など戦いに関係する者達は和服を、それ以外の商会系や屋敷を維持する方たちなどは洋風の服を着させるようにしている。
そうすることでぱっと見で分かるからだ。
「失礼いたします。悠様、周辺の領地より男爵様一同が到着なさいました」
「……来たか」
俺はルフの温もりから名残惜しさを感じつつも身体を起こし、ソファから立ち上がった。ルフがすっと立ち上がり、俺の上着を手早く整えてくれる。
男爵位の廃止と武士への移行を布告してから、かなりの日数が経過していた。もちろん、放置していたわけではない。戦乱の混乱もあったが、何より『どの陣営に所属するのかを見極める期間』として、あちら側に一月の猶予を与えていたのだ。
そして今日が、ちょうどその期限の日だった。
「よし、行こうか」
俺は軽く首を鳴らし、気を引き締めて執務室を後にした。
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