第85話 亡国の孫娘
ヒルダ様の合図に応じるように、俺たちの店『龍の寝床』の前に一両の馬車が静かに停車した。重厚な装飾が施された車体は、領主階級の乗る上質な代物であることを物語っている。
馬車の扉が開き、中から一人の人物がゆっくりと降り立ってきた。頭からすっぽりと深めのフード付きローブを被っており、その顔立ちや身なりを伺い知ることはできない。
「アイリス様、この場ではフードを取っても大丈夫ですよ」
ヒルダ様が柔らかな声で呼びかけると、ローブの人物は小さく頷いた。
「はい、分かりました」
鈴を転がすような、清らかで澄んだ声が夜の店内に響く。
彼女が静かに両手でフードを後ろへと滑り落とした瞬間──俺はその場に居合わせた全員と共に、息を呑んだ。
そこに現れたのは、息を呑むほどに美しい一人の少女だった。
月の光をそのまま掬い上げたかのような、透明感あふれるプラチナブロンドの銀髪。波打つ柔らかなロングヘアが腰のあたりまで惜しげもなく流れている。
前髪の間から覗く陶器のように滑らかな白い肌と、深く静かな湖を思わせる鮮やかなブルーの瞳。切れ長で意志の強さを秘めた聡明な眼差しでありながら、どこか愁いを帯びた神秘的な色香を漂わせている。
淡い桜色の小さな唇はキュッと引き締まり、亡国イグゾムリアの血を引く王女としての凛とした高貴さを全身から放っていた。
身に纏っているのは、深く落ち着いたネイビーブルーを基調とした洗練されたのドレス。潜伏と活動のしやすさを兼ね備えつつも、溢れ出る気品を覆い隠すことなどできていなかった。
あまりの高貴さと圧倒的な存在感に、俺は思わず圧迫感を覚え、すんでのところで隣に立つヒルダ様の礼儀作法をまねて、慌てて深く頭を垂れた。
「面を上げてください。私はただ、前王家の孫娘というだけの……ただの民なのですから」
透き通るような声に促され、俺はそっと顔を上げた。とっさに最敬礼の口調で自己紹介をする。
「お初にお目にかかります。私は悠=レイブリス=ドレイクと申します。このドレイク町を治めさせていただいている領主でございます」
俺の言葉を聞いて、厨房の奥からも慌てた様子で茉莉や絢乃、ルフたちが礼節を尽くそうと急いで出てこようとした。だが、前国王の──アイリス様はそれを優しく手で制した。
「だから、私はただの民だと言っているじゃないですか……。そんな態度を変えてくれないと、私、何も話してあげません」
そう言って、アイリス様はぷいっと横を向き、両頬を軽く膨らませた。
『プンプン』という効果音が実にしっくりくるような、少女らしい可愛らしい拗ね方だ。先ほどまでの凛とした気品とのギャップに、俺の毒気は一気に抜けてしまった。
「では、アイリス様──」
「ふん」
もう一度呼びかけようとすると、さらにそっぽを向かれてしまう。
「んんん……じゃあ、アイリスさんで! これ以上は勘弁してください!」
「──ふふ、分かりました。それでいいです」
俺が困り果てて折れると、アイリスさんは満足そうに小さく微笑んだ。そして、気取らない動作でカウンターの丸椅子にするりと腰掛けた。
「それよりも……さっきヒルダちゃんが美味しそうに食べていた、あの焼き鳥を食べたいな」
「「「はい! ただいまお持ちします!」」」
その一口を聞くや否や、厨房にいた妻たちが一斉に仕事モードへと切り替わった。茉莉が素早く炭火を調整し、絢乃が手際よく串を並べ、ルフがタレの準備に入る。
「アイリスさんは本当に自由ですね。……あ、じゃあ俺も! 今度はハツを頼む!」
「貴方も自由ね……」
すかさずヒルダ様から呆れ顔のツッコミが飛んできた。
◇◇◇
焼きたての香ばしい焼き鳥がカウンターに運ばれると、アイリスさんは実に嬉しそうに焼き鳥を口へと運んだ。亡国の王女とはいえ、美味しそうに頬張る姿は年相応の可愛らしい少女そのものだ。
アイリスさんが黙々と焼き鳥を堪能している横で、俺はヒルダ様に気になっていたことを尋ねてみた。
「そういえば、ヒルダ様。ハンナたちの訓練の成果はどうですか? 遠目から見た感じ、かなり強くなったように思えますが」
「もう十分すぎるほどだぞ! 前の倍……いや、十倍は強くなった! 城の修繕費はちょっと痛いが、まあ許容範囲ってやつだな!」
ヒルダ様が答えるより早く、ハンナが胸を張って即答した。自分の成長を誇らしく思っているようだ。しかし、ヒルダ様はフッと意味深な笑みを浮かべた。
「さすがハンナちゃん! 成長が早くてお姉ちゃん嬉しいわ。……じゃあ今度は、私と模擬戦を試してみましょうね?」
「いやっ!? さ、さすがにそこまでは強くなって……っ! いや違うんだ! 決してお姉ちゃんを嫌いになったわけでは……ああぁぁぁっ!」
ヒルダ様の容赦ない提案に、ハンナは一瞬で顔を蒼白にして狼狽した。前回のスパルタ訓練のトラウマが蘇ったらしい。こうして、ハンナの模擬戦が即座に決定した。
「もちろん、貴女たちもよ?」
ヒルダ様が視線を送ると、ハンナの後ろにいたクリスたち他の男爵3人も「ひっ」と短い悲鳴を上げて青ざめた。
「さて、戯れ言はこれくらいにしておきましょうか」
ヒルダ様は表情を引き締めると、お茶を一杯飲んでから俺に向き直った。
「そう言えば貴方、国王様から子爵位を授かったとき、領地運営についての説明は何か受けているかしら?」
「……そう言えば、何も受けていませんね。ただ『子爵に任命する』と告げられただけです」
「そうよね。だって平民から一気に子爵へ上り詰めた前例なんてないのだから。……さて、何から説明したものかしら」
ヒルダ様は人差し指を顎に当てて少し考え込んだ。
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