第78話 約束という名のご褒美 茉莉視点
愛しい旦那様である悠がボアラント町へと出発してから、ヤマブキ寝殿造にはどこか張り詰めた、それでいて妙に静まり返った空気が漂っていた。
見送りを終えた私は、木造りの美しい回廊に立ち、遠く広がる空を見上げながら、小さく息を吐き出す。
「さて、何からしようかしら」
独り言のようにつぶやくと、すぐ隣に立っていた絢乃が、くすりと小さく笑った。
「まーちゃん、さっそく仕事モードだね。悠くんがいなくて寂しいのは私も同じだけど、あんまり根を詰めすぎちゃダメだよ?」
「分かっているわ。……でもね、絢乃。無性に、あの味が恋しくなってしまったの」
「あの味?」
「ええ。絢乃、だし巻き卵が食べたいわ」
私の唐突な注文に、絢乃は一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべて頷いた。
「まーちゃんのだし巻き卵ね! よし、任せて。今すぐとびきり美味しいのを作ってあげる」
私たちは並んで歩き、ヤマブキ寝殿造の台所へと向かった。
この和風の寝殿造は、悠が建てたものだが、台所の設備は現代日本の使い勝手を忠実に再現しつつ、かまどなどがそろっている。
絢乃が手際よく卵を割り、出汁を用意する様子を眺めながら、私は懐から一枚の書面を取り出した。
「だし巻き卵を待つ間に、これからのドレイク商会の針路について話しておきましょうか」
「うん、聞きながら作るね」
卵を溶く規則正しい音が響く中、私は構想を語り始めた。
「まずやることは、ダミーの商会を作ることよ。ドレイク商会は、あくまで表向きのクリーンな商売をしていきましょう。そして、ダミーの方は、隠れる龍――『土竜』から名前を取って『モウル商会』とするわ。そこでの目的はロビー活動よ。各貴族にこっそりと資金を横流しして、その流れを記録した二重帳簿をこちらの脅しのネタにする……そんな感じの、少し泥臭い役割を担わせるの」
ちょうど台所に顔を出したフィオナに、私は視線を向けた。
「フィオナ、モウル商会の代表として適任の、いい人材はいないかしら?」
「スミレ様」
フィオナは丁寧に一礼し、静かに答える。
「悠様の龍神としての神々しいお姿を目撃し、その威光に心酔した難民たちが何名か、ドレイク町で待機しております。彼らの一部は単なる忠誠心だけでなく、商売の才覚も確かな者たちです。その中から特に口が堅く、裏の調整に長けた男を一人、モウル商会の長として推薦いたしましょう」
「ええ、お願いするわ」
私は頷き、さらに思考を進める。
「ハンナ男爵たちには、魔獣の森で修練を積ませつつ、同時にこの奥様城の防衛を頼んでいるのよね。ただ、彼女たちのやる気を引き出すために、ちょっとした仕掛けを用意したわ。猫伯爵との間で、『もし訓練中に城を壊してしまったら、その修繕費はすべて男爵たちが支払う』という契約を結んでおいたの」
「えっ、男爵様たちがですか!?」
さすがのフィオナも、その理不尽とも言える契約内容に驚いたように目を見張った。
「そうよ。伯爵たちには『自分たちの防衛戦力を無償で鍛えさせてあげるのだから、多少の破損費用を持つのは当然でしょう?』と説得したわ。これでハンナたちは、修繕費を気にしてさらに戦うようになるわ、全力で防衛戦闘の訓練に臨むはずよ」
ふふ、と私が悪戯っぽく笑うと、だし巻き卵を盛り付け終えた絢乃が、呆れたような、でもどこか心配そうな視線を送ってきた。
「まーちゃん? あまり無理はしないでね?」
普通なら、超過酷な魔獣の森へと送られ、壊した城の費用まで負担させられているハンナたちの境遇を哀れむべきなのだろう。
けれど、絢乃にとっての優先順位の最上位は、私と悠、ルフの三人だけだ。それは私も同じだった。
私たちの身内の安全と利益のためなら、他人がどれほど振り回されようと知ったことではない。
「今は無理をする時よ」
手渡された箸を受け取り、黄金色に輝くだし巻き卵を口に運ぶ。
口の中に広がる優しい出汁の旨味と、ほんのりとした甘みに、思わず顔が綻んだ。
「美味しいわ、絢乃。……今は踏ん張りどころなの。私たちは今、この地を『物品交換の時代』から『貨幣交換の時代』に変えようとしているのだから。大麦やアブラナ油、亜麻布をそのまま通貨として扱っている今の状態では、将来的に『株式会社』という経済システムを組み込むことが非常に難しいのよ。ドレイク商会が発行する銅貨を広く流通させ、価値の尺度を統一する。この移行期を乗り越えれば、この先はかなり楽になるわ」
そこまで言って、私は少しだけ肩をすくめた。
「まあ、あの悠が私たちのそばにいる限り、そんな平穏で楽な時代が長く続くとは到底思えないけれどね。……ああ、なんだか説明しているだけで知恵熱が出そう。エナジードリンクが恋しくなるわ……あいつ持ってるんじゃないかしら」
ケーキや柏餅もあるのだ、エナジードリンクがあっても不思議ではない。
「ふふ、確かにそれは大事ね、そして今やるべきだと思う。でもね」
絢乃は私の前に両手を突き出し、悪戯っぽく微笑んだ。
「その代わりに約束して。三食必ず私のご飯を食べること。そして、一日の終わりには必ず私の全身マッサージを受けること。いい?」
「……それじゃ、私へのただのご褒美じゃない」
私が苦笑すると、絢乃は「いいの! それが私の条件なんだから」と胸を張った。
そんな絢乃とのやり取りは非常に心地よかったが、ふとした瞬間に、胸の奥を通り抜ける寂しさは拭えなかった。
悠がいる時の、あの怒涛のようにトラブルが舞い込み、それを力と知恵で解決していく刺激的な日々。
それに比べれば、今の生活はあまりに静かで、少しだけ退屈だった。
(早く帰ってきてほしいわね、あのバカな旦那様……)
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