第73話 生ける伝説
「違う、違いますわ悠男爵様! 背筋はもっと天に向かって真っ直ぐに。顎を引き、視線は陛下の足元から徐々に上げていくのです。そう、まるで大樹が静かに枝を伸ばすように!」
「う、うぐ……こうか?」
「だらしありませんわ! それでは大樹ではなく、風に吹かれた雑草です! もう一度!」
子爵邸の一角にある、磨き上げられた大理石の床が広がる小広間で、俺は冷や汗を流しながら姿勢を正した。
指導の声を響かせているのは、フラクシア=アシュフォード。先日、一騎打ちの末に悠が下した猪子爵ダミアンの娘だ。
敗者の娘であるはずの彼女だが、今は悠の前に立ち、厳しく指導してもらっている。手には木製の指示棒が握られており、悠の姿勢が崩れるたびに、ピシッと床を叩いて音を鳴らした。
彼女には、本当に感謝してもしきれない。
まもなくこのボアラント町に、この国の最高権力者であるウィルダム王が到着する。前世でただの小市民であり、この世界でもつい最近までしがない農奴だった悠が、王様を迎えるための作法など知るはずもない。
兵の出迎え方から、拝謁の際のお辞儀の角度、手足の置き方、さらには返答の敬語の使い方まで、彼女は嫌な顔一つせず(厳しいが)一から叩き込んでくれたのだ。
感謝しかない。もしこれがなかったら、悠は国王陛下に会った瞬間に不敬罪で首をはねられていたかもしれない。
「ふぅ……。フラクシアさん、本当にありがとうございます。俺みたいな無作法者に、根気強く教えてくれて」
額の汗を袖で拭いながら悠が頭を下げると、フラクシアは指示棒を胸元で抱え、呆れたように小さくため息をついた。だが、その瞳には柔らかな光が宿っている。
「意外ですわ。税のお話を伺ったときは、信じられないほどの知略を持った方だと思っていましたのに……まさか、最低限の礼儀作法すらご存じないなんて。なんと言いますか、本当にちぐはぐな方ですね」
「あはは……。まあ、それも仕方ないというか何というか。俺、つい最近までただの農奴だったんだ。土をいじって日々の食いぶちを稼ぐのが精一杯で、貴族の作法なんて縁のない世界で生きてきたからさ」
苦笑いしながら告げると、フラクシアは目を丸くし、それから信じられないものを見るような眼差しを俺に向けた。
「……農奴、でしたの? そちらの方が、私にとってはよほど信じられませんわ。農奴の身から、一国の子爵を打ち倒し、その領地を実質的に支配する立場に上り詰めるだなんて……。まるで吟遊詩人が歌う、建国の英雄譚のようです」
「英雄なんて器じゃないよ。ただ、周りの人たちが平穏に暮らせる場所を作りたかっただけだから」
そんな風に、少し緊張のほぐれた歓談を交わしていると、小広間の重厚な扉が勢いよく開け放たれた。
悠の兵の一人が滑り込むようにして入ってきて、姿勢を正して報告する。
「報告します! ウィルダム陛下の車列が、子爵邸の正門へと入られました!」
その言葉に、室内の空気が一瞬で張り詰めた。
フラクシアの表情から余裕が消え、凛とした、しかしどこか悲壮感の漂う貴族の娘の顔へと戻る。
悠もまた、小さく深呼吸をして、心の中で「よし」と気合を入れ直した。
◇◇◇
子爵邸の重厚な正面玄関。
赤絨毯が敷かれたロビーに、護衛の兵たちを引き連れた一人の老人が足を踏み入れた。
その姿を目にした瞬間、悠は思わず息を呑んだ。
ウィルダム=ヴァン=アキレス。このウィルダム王国の初代国王であり、前王家を武力によって打倒し、建国を果たした生ける伝説。
前王家を倒したのが五十年前という話だから、どんなに若く見積もってもその年齢は六十代後半、あるいは七十代を超えているはずだ。
この衛生環境も文明水準も中世並みの世界において、これほどの高齢まで一国の頂点に君臨し続けているのは、それだけで異常なことと言えた。
洗練された、彫りの深い顔立ち。白髪と白い髭は綺麗に整えられており、まとう豪奢な外套がその存在感を増している。
何より驚かされたのは、その姿勢だ。老境にあるというのに、背筋はまるで糸で天から吊り下げられているかのように真っ直ぐと伸びている。
そして、その切れ長の切れ味鋭い瞳。
向けられただけで、凡百の人間なら呼吸を忘れてしまうほどの、冷徹で圧倒的な眼光を放っていた。
目線だけで人を殺せるんじゃないか、と本気で思わせるほどの威圧感だ。
「ようこそお越しくださいました、陛下。猪子爵ダミアン=エイバー=アシュフォードが娘、フラクシア=アシュフォードと申します。今回は、未熟ながらわたくしがご案内させていただきます」
フラクシアが一歩前に出て、綺麗にドレスの裾をつまみ、完璧なカーテシーを披露した。
だが、その隣に立つ悠には分かった。彼女の細い指先が、そしてドレスの裾が、微かに震えている。
フラクシアは子爵の娘とはいえ、王都のパーティーなどで遠巻きに王の姿を見たことがある程度で、直接言葉を交わしたことは一度もないらしい。
その緊張とプレッシャーは、想像を絶するものだろう。
悠もまた、彼女の震えを少しでも和らげるように、その隣で一歩下がり、先ほど教わった通りの深々とした礼を取った。
重苦しい静寂が玄関ホールを満たす。
ウィルダム王の鋭い視線が、フラクシアへと注がれた。だが次の瞬間、ウィルダム王の険しい表情が、不意に崩れた。
「おお……大きくなったな、フラクシア。いつぞやの王都でのパーティーで、給仕とぶつかって飲み物をドレスにこぼし、大泣きしていた小娘が、ずいぶんと立派な淑女になったものだ」
「っ……! へ、陛下、その節は……大変なご無礼をいたしました……!」
フラクシアの顔が一瞬にして真っ赤に染まる。どうやら思い出したくない黒歴史を掘り返されたらしい。
ウィルダム王は、そんな彼女の様子を見て、からからと愉快そうに笑った。
「良い良い。退屈極まりない貴族どもの社交界だ。あのおかげで、なかなかにぎやかで面白いパーティーになった。主催した甲斐があったというものよ」
その声音には、先ほどの威厳さは微塵もなく、まるで自分の孫娘の成長を喜ぶ好々爺の暖かさがあった。
フラクシアは小さく胸を撫で下ろし、再び居住まいを正した。
「温かいお言葉、恐れ入ります。礼儀を知らぬ小娘の無礼を、お許しいただき感謝いたします。……して、陛下。今回はどのようなご目的で、この辺境のボアラントまでお越しになられたのでしょうか?」
フラクシアの問いに対し、ウィルダム王の瞳から好々爺の光が消えた。
一瞬にして、国を統べる「王の眼」へと戻る。その場にいた者たちの背筋に、再び冷たい刃が押し当てられたかのような錯覚が走る。
「今回はだな……そこの男爵に、用があって参ったのだ」
王の視線が、フラクシアの隣で頭を下げている悠へと向けられるのだった。
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