第69話 子爵導ボアラント=ボアラント町
俺は相棒である炎帝の背に揺られながら、高くそびえ立つ防壁を見上げていた。
いや、防壁と呼ぶにはあまりにもお粗末な、泥と石を乱雑に積み上げただけの代物だ。
「ここが、猪子爵の直轄地『ボアラント町』か……」
隣を歩く兵の面々も、油断なく周囲を警戒している。
何しろ、あの傲慢かつ強欲な猪子爵が支配していた土地だ。
王都へ護送される途中で何者かに暗殺されたという知らせを聞き、猫伯爵ことヒルダ様から「一時的にこの町を抑えろ」と命令されたものの、どんな 抵抗があるか分かったものではない。
そのため、俺は男爵街ドレイクに配備している兵の三分の一という、かなり多くの戦力を引き連れてここまでやってきたのだ。
残りは町の守備と男爵街奪還と占領に回している。奪還と占領はジークとアレスに任せている。守備は妻たちだ、守備の人たちは見回りと魔獣の森の訓練をローテーションでさせている。その中に妻たちも加わっている状態だ。
門の手前で立ち止まり、兵に命じて旗を大きく振らせる。
描かれているのは、我が猫伯爵様から借りたコート・オブ・アームズーーいわゆる紋章だ。
戦になることを警戒して、門の上には弓兵でも伏せていることを想定し兵たちに盾を構えさせていたのだが、そんな気配は微塵も感じられない。
ぎぃ、と嫌な金属音を立てて、ゆっくりと木製の頑丈な門が開いていく。
だが、そこから現れたのは、磨き上げられた鎧を着た兵士たちではなかった。
「……ん?」
門の向こう側にいたのは、ボロボロの、もはや布切れと呼ぶべき衣服を身にまとった領民たちだった。
全員例外なく頬がこけ、骨が浮き出るほどに痩せ細っている。その手には槍や剣の代わりに、錆びついた鍬や、刃のこぼれた鎌といった使い古された農具が握られていた。
彼らは怯えた目でこちらを見つめ、門を開けるために全力を尽くしたのか、荒い息を吐きながら農具を盾にするように身を縮めている。どうやら、門番の兵士すら残っていないらしい。
俺は炎帝の首筋を優しく叩いて落ち着かせ、腹の底から声を張り上げた。
「我が名は、悠=ティグリス=ドレイク男爵だ! 猫伯爵様の命により、このボアラント町の統治を一時的に預かることとなった!」
その声が響き渡ると、門の前に集まっていた領民たちの間で、ざわめきが広がった。
「ドレイク男爵……あの、猪子爵を倒したという……」
「新しい貴族様か……」
「俺たちはどうなるんだ?」
不安と恐怖が混ざり合った囁き声。
その人混みをかき分けるようにして、一人の腰の曲がった老人が前に出てきた。深い皺が刻まれた顔には、明らかな怯えの色がある。
「あの……悠男爵様……お尋ねしてもよろしいでしょうか……?」
「構わん。言ってみろ」
「……猪子爵様は、どうされたのですか?」
老人の問いに、俺は淡々と事実を告げた。
「王都への護送中、何者かの手によって暗殺された。もうこの地に戻ることはない」
その瞬間、何人かの口から「おお……!」という感嘆の声が漏れた。中には、あまりの嬉しさに小さく胸元で祈りを捧げる者もいた。だが、大半の領民は喜びを見せることはなかった。ただ暗く、諦めきった目で地面を見つめている。
(まあ、そうだよな)
支配者が変わったところで、どうせ自分たちを搾取する者が代わるだけだ。彼らの目はそう語っていた。貴族という存在に対する、根深い不信感。それを払拭するには時間がかかりそうだった。
悠は目の前の老人に視線を戻す。
「ご老人。貴方がこの人たちのの代表か?」
「……はい。皆の意見を取りまとめる役目をしております」
「よし。なら、この町の状況に詳しい奴を何人か連れてついてこい。それと……猪子爵の屋敷へ案内してもらえるか?」
(なぜって? 方向音痴だからだ。ここに来るのにも『将領様、そちらでは』とやんわり告げられることが何度あったことか……)
「私がお供いたしましょう。こちらへ」
老人が一歩踏み出すと、背後から「長老を一人で行かせるわけにはいかない!」と、若者たちが四人ほど名乗りを上げた。その手には相変わらず鍬や鎌が握られている。
「男爵様、こいつらも同行させてよろしいでしょうか?」
老人が心配そうに聞いてくる。農具を持ったままの同行だ。普通の貴族なら「無礼者め、武器を捨てろ」と激怒するところだろう。
だが、悠は肩をすくめた。
「ああ、構わない。そのままついてこい」
こっちには武装した優秀な兵がいるのだから農具を持ったところで問題はない、むしろ手を出せないのでいい手だと思う。
農具を持った人を攻撃しようものなら、領民すべてが敵になると言っていい。攻撃できるし、攻撃できない状況を作る。
(賢い領民たちだ――いや、強かと言った方がいいだろう)
悠は門の周囲に兵を配置し、他の門の警備にも人員を送るよう指示を出した。町の治安維持が最優先だから、連れてきた兵の大半を治安維持に回す。
そうして指示を終えると、老人の案内で猪子爵の屋敷へと向かうことにした。
「……少し、遠回りをして町の中を見せてくれないか?」
悠の頼みに、老人は一瞬驚いた顔をしたが、黙って頷いた。
道中、悠は炎帝の背から町の様子を観察した。
控えめに言って、最悪だった。
道路は舗装されておらず、あちこちがぬかるんでガタガタになっている。おまけに人の糞尿が道のあちこちに放置され、強烈な悪臭が鼻を突く。
両脇に並ぶ民家は、今にも自重で崩れ落ちそうなほどに傾き、屋根の隙間からは雨漏りを防ぐための汚れた布が見えていた。
そして、その薄暗い家々の窓やドアの隙間から、無数の怯えた視線がこちらを盗み見ていた。まるで、獰猛な肉食獣が通り過ぎるのをじっと待つ小動物のようだ。
衛生環境が悪すぎる。このまま放置すれば、どんな疫病が流行るか分かったものではない。
そんな糞尿漂う泥の道を抜けると、突如として視界が開け、異常なほど立派な門構えが現れた。
それが、猪子爵の屋敷だった。
白亜の石壁に、鉄の装飾や彫刻がふんだんに施された豪奢な館。だが、周囲のあまりの荒廃ぶりと相まって、その美しさはかえって醜悪に見えた。
「……醜いな」
思わず本音が口から漏れる。
見栄は張るものではなく切るもの――それが絢乃の言葉でもある。
まさにその通りだ。
自分だけが甘い汁を吸い、足元で領民が飢えて死にかけているというのに、この豪華絢爛な屋敷はただの成金趣味の塊にしか見えない。
屋敷の門前に近づくと、残されていた門番らしき男が二人が、ガタガタと膝を震わせながら槍をこちらに向けてきた。
「ひ、こ、ここはボアラント子爵様の屋敷だ! 立ち入ることは許さん! 控えよ!」
声は裏返り、腰が完全に引けている。
俺は炎帝の歩みを止め、冷ややかな視線を向けた。
「報告は受けていないのか? この町は、この俺――悠=ティグリス=ドレイク男爵が一時的に支配することになった。自分の命が惜しいなら、よく考えて行動することだな」
そう言って、腰の剣の柄にそっと手をかける。
それだけで、門番たちの顔から完全に血の気が引いた。槍の先がさらに大きく揺れ、ついに床へとカランと落ちた。
「う、うわああ……」
戦意喪失だ。まあ、当然だろう。
(さて、何から始めようか)
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