第66話 猪子爵との一騎打ち
一方その頃、アントラー町の役所では。
かつてハンナ男爵の町であったその場所で、猪子爵は盛大な酒宴を開いていた。
「ガハハハ! どうだ、我が軍の圧倒的な武力は! あの生意気な男爵どもめ、今頃は北の不毛な地で恐怖に震えていることだろう!」
豪華な衣服を身にまとい、肥満体を揺らしながら、猪子爵は極上のワインを満たした杯を掲げた。
「あとは、あの北の開拓地とやらを軽く踏み潰すだけだ。スパイどもも放ってある。何かしらの動きがあればすぐに報告が入る手はずだ。我が勝利はすでに約束されているのだよ!」
猪子爵の傲慢な言葉に、周囲の男爵や騎士たちも同調して大笑いし、次々と酒を煽る。
彼らはすでに勝利を確信し、完全に油断しきっていた。
「よし、今日くらいは勝利の余韻に浸るが良い! 明日は朝から進軍する。俺は少し酒を嗜んだら、早めに休ませてもらうぞ」
猪子爵がそう言って席を立とうとした、その瞬間だった。
「て、敵襲――! 敵襲ですッ!!」
静寂を切り裂くような悲鳴が、広間に響き渡った。
「敵襲だと!? 場所はどこだ、敵の数は何人いる!?」
猪子爵が顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。
報告に駆け込んできた兵は、ガタガタと全身を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で叫んだ。
「も、もうそこまで来ています! 数は……わかりませんっ!」
「何だと――!?」
その言葉が終わるよりも早く、広間の頑丈な扉が、凄まじい衝撃と共に吹き飛んだ。
バキィィィンッ!!
◇◇◇
「邪魔だ」
冷徹な声と共に、もうもうと立ち込める煙を割り、紅蓮の炎をまとった巨大な魔獣――炎帝が姿を現した。
その背には、冷ややかな瞳で猪子爵を見下ろす悠が乗っている。
「ひっ……!?」
猪子爵の傍らで「敵襲!」と叫んでいた兵が腰を抜かして倒れ込むが、炎帝はその巨体で容赦なくその騎士を踏みつけ、黙らせた。
「き、貴様は……! ドレイク町の長ではないか! 何を考えている、この無礼者が! 俺を誰だと思っている! 猪子爵だぞ! 偉大なる子爵なのだぞ! 貴様のような新参の男爵風情が、俺を上から見下ろすなど不敬にもほどがあるわ!」
猪子爵は恐怖を隠すように、大声を張り上げて身分を誇示する。
「弱い犬ほどよく吠えるとはよく言ったものだな」
悠は炎帝をゆっくりと歩ませ、猪子爵へと近づいていく。
「よ、弱い犬だと!? そんな舐めた口を叩きおって……! お前たち、何を突っ立っている! この無礼者を今すぐ叩き斬れ!八つ裂きにしろ!」
猪子爵が外の騎士たちに命令を下す。
だが。
どれだけ待っても、動く者は一人もいなかった。
「な、なぜだ……? なぜ入ってこない!」
「無駄だ。お前の部下たちは、俺の領民たちがすべて叩きのめして、すでに制圧済みだ」
静かに告げると同時に、広間の外から、鍬や斧を手にしたドレイク町の領民たちがドタドタと踏み込んできた。その後ろには、武装したアレスやジークがピタリと控えている。
「ひっ、ひぃぃ……!」
「もう、猪子爵様たちしか残っていないぞ?」
冷たく微笑むと、猪子爵は額から滝のような汗を流し、ガタガタと震えながら腰の剣を引き抜いた。
「い、一騎打ちだ!貴様、貴族としての誇りがあるなら、俺と一騎打ちをしろ!」
「いいだろう」
フッと息を吐き、炎帝の背から滑り降りた。
剣を構え、猪子爵と対峙する。
「死ねぇぇい!」
一騎打ちの開始を告げる間もなく、猪子爵が卑劣にも先制の不意打ちで斬りかかってきた。
だが、その鈍重な一撃は、悠にとって止まっているも同然だった。
すっと半身をずらし、刃を難なく避ける。
猪子爵は顔を真っ赤にして何度も剣を振り回すが、風を切る音ばかりが虚しく響き、悠の身体にかすりもしない。
「クソッ! クソォッ! なぜ当たらん! 貴様、何か卑怯な手を使っているな!?」
「卑怯、ねぇ……。じゃあ、避けるのをやめてやろうか?」
俺は無防備にその場に立ち尽くしてみせた。
「しめた! 死ねぇぇぇ!」
猪子爵が狂喜の表情を浮かべ、渾身の力で俺の肩口へ向けて剣を振り下ろした。
キィィィンッ!!!
金属の激突音が響き渡り――次の瞬間、猪子爵の持つ鉄の剣が、根元から粉々に砕け散った。
「な、なぜだ!? なぜ折れる!? これは業物の鉄の剣だぞ!?」
自分の手が痺れるほどの衝撃を受け、砕けた剣の柄を握ったまま、猪子爵が絶叫する。
俺は平然とした顔で、肩の埃を払った。
「アホめ。粗鉄と青銅なら、青銅の方が硬いに決まっているだろう」
「な、何をわけのわからないことを言っている! ええい、そうだ、あれなら……!」
俺の言葉の意味を理解できない猪子爵は、大慌てで背後の天幕へと駆け込み、何かを必死に探し回った。
そして、一つの奇妙な杖を掲げて戻ってきた。
「ハハハ! これなら貴様を跡形もなく消し去ってくれるわ!」
猪子爵は狂ったように笑うが、その杖を握る手は小刻みに震えている。
「これはな? 魔道具侯爵の魔道具だ! 人族のように魔法を使えるようになる奇跡の道具なのだよ! ほれ、今すぐ跪いて命乞いをしてみせろ。そしたら、気が変わって奴隷として雇ってやるかもしれないぞ? 早く跪け!」
必死に虚勢を張る猪子爵を、悠は冷ややかに見つめた。
「――撃ってみろ」
「なに……?」
「撃ってみやがれ、と言っているんだ」
「ひっ……! し、死ねぇ! 『ファイヤーボール』!」
猪子爵が叫ぶと、杖の先端から小さな火の玉が撃ち出された。
悠は左肩の装甲で弾くように受け止める。
ドォォォンッ!!
激しい爆発音が響き渡り、俺の周囲が黒い煙で包まれる。
「は、はは! ハハハハハ! 見たか! この俺をバカにするからそうなるのだ! おとなしく従って――」
猪子爵が勝ち誇ったように笑い声を上げたが、煙がゆっくりと晴れていくにつれ、その表情は驚愕へと凍りついた。
煙の中から、煤一つ付いていない俺が、退屈そうにあくびをしながら立っていたからだ。
「で、こうなったらどうするんだ?」
「ひぃっ!? な、なぜ生きている!? 魔法だぞ!? 人族が使う魔法なのだぞ! 人間が防げるはずがない!」
「威力が弱すぎるんだよ。それに……」
悠は一歩、猪子爵へと歩みを進めた。
「俺たちは日頃から、もっと強力な魔獣を相手にしているんだ。この程度の玩具、防げて当然だろう」
俺の放つ圧倒的な威圧感と、絶望的な実力差を前にして、猪子爵は白目を剥き、その場に崩れ落ちるようにして気絶した。
「やれやれ……。さて、この粗大生ゴミの処分はどうしたものか」
「悠君、待って!」
広間の入り口から、聞き慣れた愛らしい声が響いた。
振り返ると、戦装束に着替えた絢乃が、茉莉やルフを伴って駆け込んできたところだった。
「あやちゃん、茉莉、ルフ。遅かったな、もう終わったぞ」
「悠君大丈夫? ケガはない?」
「見ればわかるわ。まったく、あなたって人は……。でも、敵の虚を突くという意味では、非常に効果的な戦略だったわね。まさか私たちまで虚を突かれるとは思わなかったけれど」
茉莉がため息をつきつつも、感心したように口元を緩める。
「お見事です、悠様」
ルフも親指を立てて、俺の勝利を称えてくれた。
「無傷さ! よし、こいつは頑丈な紐で縛り上げておけ。処分は後でゆっくり決めよう。……それと、まずは勝鬨だ! えい! えい! おう!」
俺が拳を突き上げると、妻たちが笑顔で応えた。
「「「えい! えい! おう!」」」
それを合図に、周囲を取り囲んでいた領民や難民たち、およびアレスやジークも一斉に拳を突き上げ、割れんばかりの勝鬨を上げた。
「「「おおおおおーーーーッ!!!」」」
その大歓声を聞きながら、俺は東の空からゆっくりと昇り始める朝日を見つめていた。
(……あー、早く帰って風呂に入りたい、べたべた――ざらざらする!)
心の中でそう強く願いつつ、俺は指示を出した。
「よし、撤収だ! 捕虜の護送はジークとアレスに一任する!」
「はっ!」
俺たちは捕虜と戦利品をまとめ、朝日を浴びながらドレイク町へと帰還の途についたのだった。
◇◇◇
その様子を後ろから見守っていたハンナ、クリス、イリア、ミナの四人は、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
「私たちが……あれほど苦戦し、領地を追われるまでに至った相手を、こんなにあっさりと……」
ハンナが震える声で呟く。
「確か、敵の戦力はこちらの十倍以上はあったはずですが……。まるで赤子の手をひねるかのような手際でしたね」
クリスもまた、信じられないものを見たというような顔をしている。
「明日には他の男爵の軍が合流することも加味すれば、今この瞬間が唯一の勝機だった……? それを瞬時に見極めて実行したというのですか?」
イリアが驚愕の面持ちで呟く。
「それ以上に、ドレイク町の領民たち強すぎない!? さっきアレスさんとジークフリートさんの二人が、敵の熟練の男爵たちや騎士を相手に無双してたんだけど……。あそこ、本当にただの開拓地なの……?」
ミナが頬を引きつらせて言った。
四人は互いを見合わせ、無言のまま深く頷き合った。
――悠=ティグリス=ドレイク。そして彼の率いる勢力は、何があっても絶対に敵に回してはならない。その事実が、彼女たちの胸に深く刻み込まれた瞬間だった。
◇◇◇
一方その頃、アントラー町へと続く道では。
「貴女たち、急ぎなさい! ハンナが、クリスが危機に瀕しているのよ!」
猫伯爵ヒルダは、愛馬を激しく駆り立てながら、背後の軍勢に檄を飛ばしていた。
「ヒルダ伯爵様! お願いですから少し休息をお取りください! 夜通し兵を動かしたため、すでに全員の体力が限界です! このまま戦に参加しても、敗北するのは明白にございます!」
傍らの侍女が必死に手綱を引いてヒルダを制する。
「クソォォォ! あの猪子爵め! 私の可愛い妹たちによくも手を出してくれたね! 見つけたらぶち殺してやる!」
ヒルダは怒りに燃え、手綱を強く握りしめる。
「ハンナ、クリス……どうか無事でいておくれ……!」
祈るような気持ちで、ヒルダは一時的な休憩を軍に命じた。
――自分たちが救おうとしている妹たちが、すでに圧倒的な勝利を収め、のんびりと帰路についていることなど、ヒルダたちはまだ露ほども知らないのであった。
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