第61話 領主様ではなく将領(しょうりょう)様
魔獣の森への本格的な開拓を進めるにあたり、悠が結成した『魔獣の森遠征軍』。だが、訓練も受けていない新兵や領民たちをいきなり危険な魔獣の森に連れ込むわけにはいかない。
そのため一行は、魔獣の森の前に広がる、比較的安全な「草原」で動物相手にレベリングや連携の練習を行っていた。
木漏れ日が差し込む穏やかな木の下、兵たちが声を掛け合いながら獲物を追いかける様子を、悠は少し離れた場所から見守っていた。
「……なぁ、ジーク。これ、俺いらなくね?」
悠が退屈そうに顎をさすりながら呟く。
「そんなことはありませんよ、悠様。むしろ悠様がこうして見守ってくださっているからこそ、皆あれほど張り切っているのです」
隣に控えるジークが、優しく微笑みながら答えた。ジークの視線の先では、新兵たちが普段以上の連携を見せ、俊敏に動き回っている。
そこへ、もう一人が近づいてきた。
「悠様! 俺もあっちに行って、動物たちを狩りたいんですけど!」
声をかけてきたのはアレスだ。その目はうずうずとした興奮で輝いている。
だが、ジークがすかさずピシャリと撥ね退けた。
「ダメだ。アレスがあそこに参加したら、みんなの訓練にならないだろう?」
「えー、ジーク兄、ケチだなあ……」
不満げに口を尖らせるアレスだったが、ジークの言葉は事実だった。最近のアレスの成長速度は目を見張るものがある。悠の感覚では、アレスの戦闘力はすでにジークをも上回る領域に達しているのだ。
そんな存在が訓練に交ざれば、ただの無双になってしまい、新兵たちの訓練にならない。
それにしてもと、悠はジークとアレスを交互に見上げた。
(……成長期って、本当に恐ろしいな)
少し前までは悠が見下ろすような身長だった二人が、今や悠とほぼ同じ高さにまで背を伸ばしている。
立ち並ぶと、少年から青年へと脱皮しつつある逞しい骨格がよく分かった。このままでは近いうちに悠の身長を追い抜いてしまうだろう。
ジークの少し後ろを見ると、いつの間にかマリアンがやってきていた。彼女は、かつて小さかったジークが立派に軍を率い、頼もしく指示を出している姿を見つめ、胸がいっぱいになった様子で静かに涙を流している。
悠が苦笑しつつ、ジークに向き直る。
「というか、これ、俺もちょっとは戦った方がいいのか? 見てるだけってのも、なんだか落ち着かないんだけど」
「絶対にダメです、悠様」
ジークの表情が、一瞬で真剣なものに変わる。
「悠様がこの遠征に同行してくださること自体が、皆にとって最大のモチベーションなのです。誰も苦戦していない状況で悠様が出てしまっては、兵たちに『自分たちは頼りない役立たずだと思われている』と誤解させ、彼らの自尊心を傷つけることになりかねません。ですから、出ないでください」
「えー……わかったよ、おとなしくしてる」
ジークの鋭いジト目に射抜かれ、悠は両手を上げて降参した。
すると、彼らの会話を聞きつけていたらしい遠征軍の兵たちが、ひそひそと囁き合っていた。
「おい、聞いたか? 領主様が血に飢えていらっしゃるぞ……!」
「静かにしろ! 『領主様』と呼ぶのは失礼じゃないか? 他の領主は戦わないんだぜ? 何かふさわしい敬称はないか?」
「俺たちの軍を率いる偉大な指導者……『将領様』というのはどうだ?」
「おお、響きがいいな! それでいこう!」
兵たちはこくりと頷き合うと、一人の男が声を張り上げた。
「野郎ども、聞いたか! 将領様が戦いをお求めだ! 血に飢えていらっしゃるぞ! こんなぬるい草原の動物ども、一匹残らず血祭りに上げて、将領様にお見せするんだ! かかれぇぇッ!」
「「「うおおおおおーーーッ!!!」」」
さらに遠征軍の動きが激化し、草原はちょっとしたお祭り騒ぎの様相を呈し始めた。
悠は顔を引きつらせ、思わず頭を抱えた。
(……なんでそうなるんだよ。恥ずかしいから、もう本当に穴があったら入りたい……。よし、おとなしくしてよう、絶対におとなしくしてよう)
心の中でそう深く誓う悠だった。
◇◇◇
順調なレベリングと訓練を終え、一行はついに本番である「魔獣の森」の境界線へと到達した。
目の前に広がるのは、鬱蒼と生い茂る巨大な黒い樹木たちの群生。森の奥からは、動物がいた草原とは明らかに異なる、重苦しく、澱んだ空気と、本能的な恐怖を呼び起こす強き獣の気配が漂ってきている。
それまで威勢の良かった遠征軍の面々も、静まり返ってその場に立ちすくんでいた。
それどころか、並外れた強さを持つはずのジークとアレスでさえ、未知の深淵を前にして、緊張のあまり一歩も踏み出すことができずにいる。二人の身体はかすかに強張り、呼吸が浅くなっていた。
(まあ、初めての魔獣の森だからな。緊張するのも無理はない)
悠はフッと息を吐くと、躊躇うことなくその境界線を超え、一歩前に踏み出した。
その瞬間、森の奥の藪が激しく揺れ、地響きのような足音が響き渡った。
ガササササッ!
現れたのは、通常の猪の数倍はあろうかという、文字通り家のような巨体を持つ赤い猪だった。その皮膚は血のような赤に染まり、鋭く突き出た二本の巨大な牙が、悠を狙って一直線に突進してくる。
悠があらかじめ、『威圧』スキルをオフにしていたため、魔獣は悠を格好の獲物と見なして突っ込んできたのだ。
「悠様! 危ないっ!」
ジークが悲鳴のような声を上げた。だが、魔獣の森の威圧感と、突如現れた巨獣の迫力に身体がすくんでしまい、ジークの足は一歩も前に動かない。
しかし、迫り来る突進を前にしても、悠の表情には微塵の揺らぎもなかった。
「安心しろ」
振り返りもせず、悠は優しく、しかし絶対的な安心感を与える声で囁いた。
そして、背中に背負っていた、職人たちが丹精込めて作り上げた頑強な大盾を、左手で掴んで正面に構える。
ドゴォォォォォン!!!
激しい衝突音が森に響き渡り、周囲の木々から鳥たちが一斉に飛び立った。
だが、その衝撃の中でも、悠の身体は一ミリたりとも後退していなかった。巨大な猪の突進を受け止めた盾は、ピシリとも軋んでいない。悠はまるで大地そのものように、悠然と佇んでいた。
「ジーク、アレス! こいつの首をたたっ切れ!」
悠の力強い叱咤が、二人の硬直を打ち破った。
「「はいっ!」」
ハッと我に返ったジークとアレスが、左右に散開する。
ジークの剣が鋭い一閃を描き、アレスの槍が豪快に空を裂いた。二つの刃が同時に赤猪の太い首筋へと吸い込まれ――あっさりとその首が切り落とされた。
プシューーーーッ!
切り口から、大量の血が噴き出す。避ける間もなく、悠はその全身に浴びてしまった。真っ赤に染まった己の鎧を見下ろし、悠は心の中で遠い目をした。
(うわぁ……帰って風呂入りたい!)
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