第51話 ハンナ男爵の久しぶりの帰省
ガタゴトと、不規則な揺れが全身に伝わってくる。
木製の車輪が街道の小石を弾くたび、私の体は座席の上で小さく跳ねた。窓の外に目を向ければ、どこまでも広がる新緑の森と、その合間に時折顔を見せるのどかな田園風景が流れていく。
私が育った、懐かしくも遠い場所となってしまった実家。そこへ向かう馬車のシートに深く背を預けながら、私は小さく息を吐き出した。
「……実家に戻るなんて、最後に帰ってきたのはいつだったっけ」
ぽつりと呟いた言葉は、車内に響く馬の蹄音にかき消されそうになる。
隣で、書類の束に目を通していたクリスが、顔を上げることなく冷静に答えた。
「二ヶ月前の、領主会議の報告以来ですわよ、ハンナ男爵。お忘れになったのですか?」
「いや、覚えてるよ。ただ、なんとなく何年も前のことのように感じられてな」
ドレイク村で悠たちと出会い、彼らがもたらす数々の規格外な出来事に振り回されているうちに、私の時間感覚はおかしくなっていたらしい。ほんの数週間前までの日常が、まるで遥か昔の出来事のように思えるのだ。
◇◇◇
馬車が緩やかな坂を登りきると、目の前が一気に開けた。
視線の先に見えてきたのは、石造りの強固な防壁に囲まれた美しい街――フェリスグラード町だ。
街道の両脇には整然と並ぶ店舗や民家が広がり、多くの人々が行き交っている。辺境でありながら、ここまでの活気と治安を保ち続けているのは、この地を治める『猫伯爵』の功績に他ならない。
ヒルダ=マオ=ラインハルト伯爵。
野生の猫を飼い慣らし、ネズミや害虫の駆除、さらには斥候としての家畜化に成功したラインハルト一族の現当主。そして、かつてこの地方を恐怖に陥れたヒョウをたった一人で討伐したという、凄腕の騎士でもある。
……そして、ハンナ=チェルボ=ラインハルトの姉に当たる人でもある。
「はぁ……。それにしても、やっぱりこの町の名前は呼びやすくていいな」
私がぼやくと、クリスがようやく書類から視線を上げて、くすりと笑った。
「またそのお話ですか?」
「当たり前だろ! 私たちの領地の正式名称、言ってみろよ。思い出すだけでも頭痛がしてくる」
「『侯爵府マグナリア=伯爵司フェリスグラード=子爵導ボアラント=男爵街アントラー=アントラー町』……ですわね」
「長すぎるんだよ! 誰が考えたんだあんな呪文みたいな名前! だから普段は『子爵導ボアラント=男爵街アントラー=アントラー町』って省略して書いてるんだ。だが……あのキモい子爵の名前を書類に書くたびに、ペンを握る手が腐りそうになる」
「公の場でそれを口にしたら、不敬罪で首が飛びますよ」
「わかってるって。だからこうして、身内だけの馬車の中で愚痴ってるんじゃないか」
そんな軽口を叩き合っているうちに、馬車は厳重な門番の検問を通り抜け、伯爵邸の広大な敷地へと入っていった。
ちなみに馬車は猫伯爵から借りている、と言うより会いに行く旨を手紙で送ったら、馬車を連れて帰ってきたのだ。
◇◇◇
門をくぐり、前庭へと進むと、その光景に私は思わず息を呑んだ。
何度見ても、実家であるこの邸宅は美しい。
中央に鎮座するのは、まばゆいばかりの輝きを放つ白亜の外壁と、深い青を湛えたスレート屋根が幾重にも連なる壮大な大邸宅だ。左右対称に伸びる優美な翼棟、そして中央にそびえ立つ見事なドーム屋根。窓ガラスの一枚一枚に至るまで、午後の柔らかな光を整然と反射させ、まるで宝石のように輝いている。
だが、その新緑のシャトーに抱かれるようにして建つ優雅な邸宅の右手には、ぽつりと不釣り合いな構造物が立っていた。
それは、周囲の華美な装飾とは無縁の、無骨で頑丈な石造りの古塔だった。
かつての砦の名残であるその塔は、あちこちの壁が崩れかけ、蔦が絡まりついている。だが、その無骨さこそが、私にとって最も馴染み深いものだった。
「変わらないな……」
ハンナは馬車の窓からその塔を見上げ、ぽつりと漏らした。
すると、馬車が停止するのと同時に、クリスが私の肩を小突いた。
「そうね。あの塔の崩れかけた壁を、ハンナが『私に登れない壁はない!』って豪語してよじ登って、案の定途中で足を滑らせて落ちた時、すごい泣いてたものね。あの時は本当に世話が焼けたわ」
「や、やめろ! そんな幼少期の黒歴史をいちいち掘り起こすな! 誰だって子供の頃は一度や二度、壁から落ちて泣くことくらいあるだろ!」
「普通はそもそも登りません」
クリスが意地悪そうに微笑む。私が抗議の声を上げようとした、その時だった。
「――ハンナちゃーーん! クリスちゃーーん!」
邸宅の大きな玄関扉が勢いよく開き、そこから目にも留まらぬ速さで突き進んでくる人影が見えた。
カツカツカツカツ!と、激しい音を石畳に響かせながら、ドレスの裾を豪快に翻して全力ダッシュしてくる女性。
その背後からは、「ひ、ヒルダ様! お待ちください! 走っては転びます!」と悲鳴のような声を上げて追いかける数人の使用人たち。さらにその後ろでは、何年経っても全く衰えを感じさせない厳しい表情の家政婦長が、額を押さえて深いため息をついているのが見えた。
「うわっ、やっぱり来た!」
私が身構えるよりも早く、馬車の扉が外から勢いよく開け放たれた。
「もう! 全然帰ってきてくれないじゃない! お姉ちゃん、寂しくて死んじゃうところだったんだからね!? 前回会ってから、もう23日も経ってるのよ! 23日よ!? ……まさか、お姉ちゃんのこと嫌いになっちゃった!? いーやーだーーー!」
「ぶふっ!?」
強烈な風圧と共に、引き締まったしなやかな腕が私の首に巻き付いた。
全身の力で抱きしめられ、ハンナの顔は姉の胸元に深く埋もれる。
この女性こそが、我が姉にしてラインハルト伯爵家当主、ヒルダ=マオ=ラインハルトだ。
仕事中は、他を寄せ付けない冷徹なオーラを放ち、必要最小限の言葉しか発しない超寡黙な「猫伯爵」。しかし、こと妹の私(と、ついでにクリス)が絡むと、この重度のシスコンモンスターへと変貌するのだ。
「あ、姉上! 嫌いになってないですよ〜! ほら、大丈夫ですからよしよし! ……って、グッ、苦しい! 姉上、本気で締まってます! その腕力で締めるのはやめて! 首が、首が折れる……っ!」
「だってだって、ハンナちゃんが全然連絡くれないんだもん!」
「わかった! わかりましたから! お姉ちゃん、ただいま! ただいま帰りました!」
私が必死の思いで「お姉ちゃん」と呼ぶと、ヒルダは「んふー」と満足そうな吐息を漏らし、ようやく締め付ける力を緩めてくれた。しかし、完全に腕を解くことはせず、私の両頬をむにむにと引っ張って堪能している。
その様子を温かい目で見守っていたクリスが、咳払いをして一歩前に出た。
「……姉上……お姉ちゃん。抱擁はそのくらいにして、最後まで聞いてください。私たちは、非常に重要な話があって帰ってきたのです」
「えー、クリスちゃん冷たい. お姉ちゃん悲しいわ」
「大事な話があって帰ってきました。……私たちが治める男爵領アントラーの北東にて、ダンジョンが発生しました」
クリスの真剣な眼差しに、ヒルダは頬を弄る手をピタリと止めた。
その切れ長の瞳から、先ほどまでの子供っぽい甘えがスウッと消え去り、底知れない冷徹さと鋭さが宿る。
「……詳しく聞かせなさい」
ヒルダは抱きしめるのをやめ、静かに頷いた。その佇まいは、一瞬にして仕事モードの「猫伯爵」へと切り替わっていた。
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