第49話 男爵の提案
大浴場で旅の汚れと張り詰めた緊張感をすっきりと洗い流したハンナとクリス、そして騎士と兵士たちの一行は、ドレイク邸の食事処『龍の寝床』へと案内されていた。
木造りの温かみのある広い室内には、すでに大人数分の食事がずらりと並べられ、食欲をそそる香ばしい匂いと温かな湯気が立ち込めている。
「なんだこの美味そうな飯は! それに、なんて白くて美しいんだ!」
ハンナは席に着くや否や、目の前に出された漆器の器を両手で持ち上げ、まじまじと見つめて歓声を上げた。
そこにあるのは、ふっくらと炊き上げられた『麦飯』だ。つやつやと輝く白米の中に、大麦の素朴な黄色が混ざり合っている。この世界で一般的に食べられている、不純物が多く混じったボソボソとした黒い大麦の粥や硬いパンとは、見た目からして次元が違った。
ハンナは木箸を不器用ながらに使い、麦飯を一口そっと口へと運んだ。
噛み締めた瞬間、もちもちとした柔らかな食感と、噛むほどに染み出す米ならではのほのかな甘みが口いっぱいに広がる。
「う、美味い……! なんだこれは、もっちりとしていて噛めば噛むほどうまみがあふれてくる。こんなに美味い麦があるなんて!」
感動に震えるハンナの横で、同じく浴衣を羽織ったクリスも、その美しい顔をほころばせて箸を動かしていた。
彼女が特に関心を示したのは、香ばしく焼き上げられた『焼き鳥』だった。
「悠、このお肉にかかっている、甘辛くて深いコクのあるタレは一体何かしら? この食欲をそそる香りと合わさって、いくらでも食べられてしまうわ」
「それは醤油とみりんをベースにした焼き鳥のタレですよ。気に入っていただけて何よりです」
それを聞いたクリスは「醤油とみりんは何でしょうか? 後で調べさせましょう」とつぶやいていた。
悠は微笑みながら、温かい『味噌汁』をすすった。うんま! 絢乃愛してる!
だが、その穏やかな笑みの裏で、悠の頭は冷静にドレイク村の今後の課題を弾き出していた。
(……この焼き鳥のタレや味噌汁に使っている『醤油』や『味噌』。これらを量産するためには、どうしても大量の『潮』――つまり塩が必要だ。だけど、この周辺の開拓地ではまだ岩塩の鉱脈が見つかっていない。今使っている調味料は、俺の亜空間倉庫にあるストックを切り崩しているだけなんだよな)
ストックには限りがある。いつまでもチートの備蓄に頼るわけにはいかない。……と言ってもその数は正確に把握できないほど大量にあるのだが、有限であることに変わりはない。
(やっぱり、早いところ海に面した場所に開拓地を広げて、そこを拠点にした町を作りたい。そこで『粗塩』や『海産物』を定期的に、安定して収穫できるルートを確立しないと、今後の新しい料理の開発は頭打ちになる……)
そんな悠の心配を余所に、ハンナは麦飯を三杯平らげ、大満足の様子でぷはーと息を吐いていた。
「はぁ……極楽極楽。あの風呂といい、このご飯といい、ここは本当に天国だな。なぁクリス?」
「ええ、悔しいけれど認めざるを得ないわね。この豊かな食文化だけでも、この村と懇意にする価値は十分にあるわ」
クリスは小さく微笑み、湯呑を静かに置いた。
◇◇◇
食事が終わり、一同は龍栖館の広々とした応接間へと移動した。
夕食時の賑やかな雰囲気から一転し、室内はしんと静まり返っている。
磨き抜かれた木目の美しいテーブルを挟み、悠はソファで背筋をピンと伸ばして座っていた。
その対面に座るハンナとクリスは、ドレイク邸で用意された浴衣を羽織り、リラックスした様子を見せつつも、その瞳には真剣な光が宿っている。
ハンナはゴホンと一つ咳払いをすると、身を乗り出して両手をテーブルについた。
「悠、頼む! 私の町の運営を、君に丸ごと任せるわけにはいかないだろうか!?」
その表情はかつてないほど真剣で、宿る瞳には切実な光すら浮かんでいる。
しかし、対面する座布団に座っていた悠は、湯呑を静かにテーブルへと置くと、一切の迷いなく言い放った。
「嫌です」
「えっ……」
ピシャリと、一瞬で凍りつく応接間。
ハンナはまるで雷に打たれたかのように硬直し、次の瞬間にはがっくりと肩を落として、魂が口から抜け出しかけたような虚無の表情を浮かべた。
「そ、即答……。もう少し考えてくれてもいいじゃないか……」
「当然です」
悠は小さくため息をつきながら、冷めかけたお茶を口に含む。
「そもそも、領民の方々はハンナ様を慕っているのでしょう? こんなどこの馬の骨とも知れない若造が突然現れて、今日から私が町を治めますと言ったところで、誰一人として従いませんよ。それに――」
悠は少し視線を落とし、自嘲気味に笑った。
「町の運営を丸ごと請け負うなんて、責任が重すぎます。私にはその責任は取れませんし、何より、今は自分たちのこのドレイク村を切り拓くだけで手一杯なんです」
「……そうだろうか? 案外、あの美味しい食事を与えればコロッとなびきそうなものだが……」
ハンナが恨めしそうに呟く。
「食事であれば、場所を借りて売りに行きますよ。ですが、運営はご勘弁ください」
「そうか……。そうだな。君の言う通りだ。自分の町の運営を他人に丸投げしようだなんて、領主として甘えていた。この話は諦めよう」
ハンナはそう言うと、先ほどまでの落胆ぶりが嘘のように、スパッと気持ちを切り替えて表情を明るくした。その凄まじい切り替えの早さに、悠は少し拍子抜けしてしまう。
だが、ハンナはすぐに悪戯っぽい笑みを浮かべ、声を潜めて切り出した。
「ならば、次の本題だ。――悠、君たちも男爵にならないか?」
その言葉に、悠は思わず目を丸くした。
(男爵に……?)
それは、悠たちがハンナの視察時に引き出す予定だった言葉だった。この世界で『安定した身分を手に入れる』ためには男爵になる必要があるからだ。
本当なら、あれこれと交渉して有利な条件を引き出したいところだが、ハンナのこの気持ちの切り替えの早さを見るに、下手に渋れば「ならこの話はなかったことに」とあっさり引っ込められてしまいかねない。
目的はあくまで『俺、絢乃、茉莉、ルフの四人で男爵になること』だ。それ以上は望まないし、それ以外何か貰えればラッキーくらいでいこう。
ただ、不利な条件を裏で結ばされないかの確認だけはしっかりとしておかなければならない。
「……それは大変ありがたい申し出ですが、何をしてほしいのでしょうか? それに『君たち』というのは、私、絢乃、茉莉、バールーフの四人の認識で間違いないですか?」
「ああ、まずはその四人で間違いない」
ハンナは頷き、姿勢を正した。
「それと、まだ確定ではないことを念押ししておく。あくまで私がお姉……猫伯爵様に進言することになる。提出する業績は、君がダンジョンから持ち帰ったあの謎の黄色い宝石だ。あれほどの希少価値があれば、国も無視はできない。それに加えて、この周辺に出没していた凶暴な虎を狩ったことにして報告しよう。他三人は、その討伐を手伝ったという扱いで報告しておく」
「分かりました。それと約束事は、できれば木簡などで形にしていただきたいのですが……」
「もちろん、公的な申請書を作成する際にしっかりと書類にする。口約束でも、私の方から違えることはしないがね」
ハンナは一度言葉を区切ると、少しだけ表情を曇らせた。ルフが木簡の準備をして机の上に置いてくれる。さすがルフだ!
「それと、男爵になってからの『義務』についてだが……特に目立ったものはない。ただ――兵役を課されるかもしれない。これだけは覚悟しておいてくれ」
「兵役、ですか……」
「そうだ。明確な基準のようなものはないのだが、ある程度大きな町や豊かな領地を治める領主からは、騎士や兵士の提供を強制される。君たちのような、まだできたばかりの小さな村であれば、おそらく当面はその義務はないだろうが……頭の片隅には入れておいてほしい」
(兵役があるかもしれない……か。身分を得るということは、相応の戦う力を求められるということだな。ますますレベリングと、村の防衛力強化が重要になってくる。俺は……強くなっていいのだろうか? さらに制御しにくくなる気がする)
悠は頭の中で今後の戦闘訓練の計画を練りつつ、ハンナの言葉に耳を傾けるのであった。
ハンナとの会議はまだまだ続く。
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