第48話 大邸宅のある開拓地
「悠、頼む! 私の街の運営を、君に丸ごと任せるわけにはいかないだろうか!?」
龍栖館の広々とした応接間。
木目の美しいローテーブルを挟み、ハンナ男爵は身を乗り出して懇願した。その表情はかつてないほど真剣で、宿る瞳には切実な光すら浮かんでいる。
しかし、対面する座布団に座っていた悠は、湯呑を静かにテーブルへと置くと、一切の迷いなく言い放った。
「嫌です」
「えっ……」
ピシャリと、一瞬で凍りつく応接間。
ハンナ男爵はまるで雷に打たれたかのように硬直し、次の瞬間にはがっくりと肩を落として、魂が口から抜け出しかけたような虚無の表情を浮かべた。
――さて。
時計の針を、少しだけ巻き戻そう。
ハンナ男爵と、その騎士と兵士たちの一行が、ここドレイク村へ足を踏み入れた、あの夕暮れ時のことだ。
◇◇◇
空が朱色から濃い紫へと移り変わる、美しい夕暮れ時。
ドレイク村へと続く道に、金属同士が擦れ合う重々しい音が響き渡っていた。
フルプレートの甲冑で身を固めた屈強な騎士と兵士たちを率いて、領主であるハンナは息を切らせながら進んでいた。彼らの表情には、これから始まるかもしれない戦闘への覚悟が張り付いている。
「悠。開拓の手助けが欲しければ素直に言ってくれて――っ!」
丘を越えた瞬間、先頭を歩いていたハンナの足が、まるで見えない壁に衝突したかのようにピタリと止まった。
彼の背後に続く兵士たちも、次々と足を止め、目の前の光景に言葉を失った。
そこにあったのは、彼らの記憶にある『未開の草原を切り拓き始めたばかりの、泥にまみれた寂しい入植地』では到底なかった。
あたり一面に広がる畑の先には、なみなみと水を蓄えた堀と、その上に聳え立つ堅牢で壮大な城壁が立ちはだかっている。
その重厚な門の先――広大な敷地のすべてが「ドレイク邸」であった。 城壁の中に広がるその領域には、洗練された趣を纏う重厚な寝殿造の建築群が五つ、広大な庭園や池を包み込むように美しく並び立っている。周囲の自然と見事に調和しながらも、見る者を圧倒する至高の存在感を放っていた
「……なんだ……これは……!? おい、私は道を間違えたのか……? ここは本当に、あの開拓地なのか!?」
ハンナ男爵は持っていた剣の柄から手を離し、口をあんぐりと開けて呆然と立ち尽くした。背後の兵士たちからも、「おい、見ろよあの建物……」「あんな壁、見たこともないぞ」「動物の襲撃どころか、魔獣が来ても大丈夫じゃないか?」と、動揺したざわめきが波のように広がっていく。
「わざわざお越しいただきありがとうございます。……いやあ、頑張りました」
悠は何でもないことのように頭を掻いて微笑んだ。
「頑張ったで済むような変容ではないだろう!?」
ハンナ男爵の顔が、驚愕と混乱で一気に真っ赤に染まった。彼は悠の前に一歩で詰め寄ると、その肩を掴んで激しく揺さぶる。
「私だって度々、この周辺に動物を狩りに来ているんだぞ!? こんな立派な街並みなんて、なかったはずだ! 一体どんなことをやれば、こんな短期間でこんな場所が出来上がるんだ!?」
街並みではなくあれ全体が屋敷だと知ったらどう反応するのだろうか……。黙っておこう。
「いやあ、本当に……ちょー頑張ったんですよ」
悠は人懐っこい笑みを浮かべ、胸を張ってドヤ顔を決めた。
その瞬間、ハンナ男爵の中で、領主としての理性と威厳のタガが完全に外れた。彼は悠の服の胸元をむんずと掴み、子供のようにジタバタと駄々をこね始めた。
「んんー! ずるい! ずるいぞ、悠! 私だってこんな綺麗で素晴らしい場所に住みたい! 不公平だ! 私は毎日、あの冷たくて狭い役所の執務室で、山積みの書類に囲まれて机にしがみついて寝てるんだぞ!? それなのに君はなんだ! こんな天国みたいな家を作りおって! ずるいずるいずるい!」
「わわっ、ハンナ様、服が伸びます! 引っ張らないでくださいってば!」
男爵の面影はどこへやら、ただの我が儘な子供と化したハンナに、悠は目を回しながら叫んだ。
その時、先頭に立っていた一人の騎士が一歩前に出て、凛とした冷ややかな声が響き渡った。
「ハンナ男爵様。お戯れはそこまでになさいませ」
進み出てきたのは、無駄のない洗練された動きの女性騎士だった。
磨き抜かれた金属鎧の上から漆黒のマントを羽織り、艶やかな黒髪を後ろで一つに結わえている。切れ長の瞳と通った鼻筋を持つ、冷徹な美しさを漂わせる人物だ。
彼女は、悠の服を掴んで揺さぶり続けるハンナの後ろに回ると、その鎧の襟首を片手でひょいと掴み、容赦なく引き剥がした。
「痛い、痛いよクリス! 首が締まる!」
「静かにしてください。見苦しいですよ、一応は領地を治める身なのですから」
女性は深いため息をつくと、ハンナを片手でぶら下げたまま、悠に向き直って深々と一礼した。
「お初にお目にかかります。私はハンナ男爵様のしつブッ……」
挨拶の途中で、ぶら下げられていたハンナがジタバタと暴れ、悠に向けて叫んだ。
「悠! 彼女はね、実は私の――」
「ごほん……失礼。私は、ハンナ男爵様のしグッ……」
再び話し始めようとした女性の言葉を、ハンナが「幼馴染でね――」と横から遮る。
三度目の挨拶を遮ろうと、ハンナが口を開きかけたその瞬間だった。
ピキリ、と女性の額に青筋が浮かぶのが見えた。
「いい加減にしろ!」
「ぶふぉっ!?」
女性はハンナの右腕を掴むと、流れるような動作で腰を落とし、綺麗な弧を描いて彼女を地面へと投げ飛ばした。
ドゴォン! と、地面にハンナの甲冑が叩きつけられ、凄まじい金属音が響き渡る。
悠は引きつった笑いを浮かべたまま、そっと一歩後退した。
「ひ、ひどいじゃないかクリス! 親友を投げるなんて!」
地面に仰向けになり、四肢を投げ出して呻くハンナ。
「次は手加減しないよ?」
「……はい。おとなしくします」
冷徹な瞳で見下ろす彼女に、ハンナは即座に降伏を宣言し、借りてきた猫のように小さくなった。
女性は衣服の乱れをすっと整え、何事もなかったかのように優雅に微笑んだ。
「失礼いたしました。では改めて。初めまして、私はハンナ男爵の執事兼従者兼騎士団長のクリスティーナ=チェルボ=グラウスと申します。ちなみに、わたくしも男爵です」
「どうも! ドレイク村の村長、悠=ドレイクです。グラウス様も男爵様なんですか。親友と一緒に男爵様になるなんてすごいですね! じゃあ、領主も兼業なんですか……? さらにすごいです!」
悠が純粋に目を輝かせて言うと、クリスティーナ――クリスは、ふっと苦笑いを漏らし、肩の力を抜いた。
「クリスと呼んでくださいな。ハンナとは小さい頃からの腐れ縁でね。昔、領地近くの森で狂暴な大鹿を一緒に狩った功績で、親から爵位を譲り受けたの。だから、私は領地を持たない男爵よ」
「おお! じゃあクリス様で! つまり、二人で力を合わせてこの領地を切り盛りしているんですね。頑張ってください!」
悠が邪気のない満面の笑みで親指を立てると、クリスは呆気にとられたように瞬きをし、それからじわじわと不安そうな表情になっていった。
彼女は悠をじっと見つめ、それから悠の背後に控える、静かに微笑むルフや、心配そうに見守る絢乃と美しく立つ茉莉へと視線を巡らせた。
「……貴方、本当にこの村の村長なの? 後ろの女性たちの方が、よほど威厳があって頼りになりそうだけれど……」
「あはは、よく言われます」
「……はぁ。色々と心配だわ。まあ、何かあったら私に相談しなさい。貴方、気づいたら詐欺師に騙されて、いつの間にか奴隷契約書にサインさせられていそうな気がするわ」
「えっ、そんなに危なっかしいですかね……?」
クリスの率直すぎる評価に、悠は苦笑するしかなかった。
◇◇◇
ひとまずの挨拶を終え、一行はドレイク邸の中へと案内された。
門をくぐり、龍栖館の正面玄関を通ると、その磨き抜かれた床や温かみのある内装を目にしたハンナは、再び「おお……!」と声を上げて周囲を見回している。
「ハンナ男爵様、並びに兵士の皆様。まずは遠路はるばるのご足労と、救助活動へのご協力に感謝いたします。長旅の疲れを癒やすため、お風呂が沸いておりますので、どうぞご利用ください」
ルフが完璧な所作で一礼し、男爵たちを大浴場へと案内する。ドレイク邸の風呂は、精霊様からもらった温泉に、悠の建築スキルを駆使して作り上げた、石造りの広々とした大浴場になっている。旅の汚れと緊張を落とすにはこれ以上ない場所だった。
一方、絢乃は『龍の寝床』で戦場のような忙しさに追われていた。
「大変、男爵様たちが泊まるなんて! 急いで美味しいご飯を作らなきゃ! 新鮮な食材と、えっと、この前捕れたお肉を使って……頑張るぞー!」
パタパタと走り回る絢乃の様子を遠目に見ながら、悠はそっとため息をついた。
これからが、彼にとって本当の「試練」の始まりだった。
重厚な応接間の扉を閉めると、室内はしんと静まり返った。
悠は、下座で、きっちりと背筋を伸ばして正座をする。
対面する上座には、茉莉が座っている。
彼女は座布団に座り肘掛けに肘を載せ、手の甲にあごを乗せて、半ば睨みつけるような冷たい視線を悠に向けていた。その美しい顔立ちが、不機嫌さで少し尖って見える。
「……さて。貴方にとって『ちょっと』というのは、一日を指すのかしら? それとも、あのダンジョンの中だけ、時間の流れが極端に遅かったのかしら?」
茉莉の声は静かだが、だからこそ底知れない冷たさがあった。
「本当に申し訳ございませんでした……」
悠は深く頭を下げた。
「中と外の時間差については、俺にもよく分からないんです。ただ、採掘や狩りに夢中になってしまって、気がついたら外があんな時間になっていて……本当に、反省しています」
「どれだけ心配したか分かっているのかしら? 絢乃が心配のあまり半狂乱になって、今にもダンジョンへ飛び込もうとするのを止めるのが、どれだけ大変だったか……」
茉莉は深いため息をつき、すっと立ち上がった。
そして、自分が座っていた場所を、ぽんぽんと手の平で叩く。
「……ここへ来なさい」
「はい……」
悠はおとなしく立ち上がり、彼女の座ってた場所に正座をしようとした。しかし、茉莉はその手を横に振り、遮った。
「正座じゃなくて、胡座をかきなさい」
「え? 胡座?」
疑問に思いながらも、悠は座布団の上で胡座をかいた。
すると、茉莉は満足そうに頷き、なんと悠の胡座のスペースにすっぽりと収まるようにして、悠の太ももを椅子にする形でコロンと横たわったのだ。茉莉の上半身を手で支える。
「……え、茉莉!?」
悠の体がカチコチに硬直する。
太ももに伝わる彼女の頭の心地よい重みと、ふわりと鼻腔をくすぐる甘い花の香り。茉莉は悠の膝の上で、上目遣いに悠を睨んできた。
「おとなしく、このままでいること。……動いたら怒るわよ」
「は、はい……」
「本当に、心配したんだから……」
ぽつりと、茉莉が小さな声でこぼした。その声には、先ほどまでの怒りの色はなく、ただ純粋な安堵と、大切な存在を失うかもしれないという恐怖の残滓が混じっていた。
悠はその言葉を、聞こえないふりをした。
二人は、沈黙の中でそれぞれ別の決意を固めていた。
悠は心の中で誓う。
(これからは、絶対に無茶な行動はしない。妻たちをこんな風に不安にさせるようなことは二度としないようにしよう)
そして、悠の胸元に顔を埋めるようにした茉莉もまた、心の中で強く誓っていた。
(私はもっと強くなる。愛しい旦那がどんな危険な場所に足を踏み入れようとも、常にその隣に並び立ち、彼を守れるように)
二人の間に流れる、静かで、少しだけ甘酸っぱい空気。
しかし、そのロマンチックな静寂は、邸宅の奥深く――風呂場の方から響いてきた、野太い絶叫によって無残にも打ち砕かれた。
「きんもちぃぃぃーーーーーーーっっっ!!!」
それは、大浴場の湯船に浸かったハンナが、旅の疲れを極限まで癒やされた瞬間の、場違い極まりない雄叫びだった。
応接間の二人は、思わず顔を見合わせ、同時に吹き出してしまったのだった。
◇◇◇
夜も更け、ヤマブキ寝殿の北側。
悠が以前に建てた、小さな「精霊社の本殿」の周辺。
満月が二つ、夜空に並んで静かに輝く下で、きらきらと光る淡い光の粒たちが集まっていた。
『やっぱ大丈夫だったね』
一つの光が、嬉しそうにふわふわと揺れる。
『大丈夫だった』
『うん、大丈夫』
『でも贈り物にまだ気づいてないよ?』
『そうそう、せっかく参拝に来てくれたのに、全然気づいてない』
精霊たちは、特別な贈り物を本殿の中に残していたのだが、当の悠は全く気づかずに帰ってしまったらしい。
『もっとわかりやすい場所に置こうか』
『賛成!』
『そうしよう』
『これで、この土地に力がもっと集まりやすくなるね』
『なるなる』
『つまり』
『つまり〜?』
『もっともっと、住みやすくなるよ!』
『このまま、この綺麗な場所を維持してくれるといいな』
『維持してくれるといいね』
『きっと、悠なら維持してくれるよ』
精霊たちは楽しげにクルクルと回りながら、拝殿のお皿に残された白い球体をつついた。
『……それにしても、この「餅」って美味しいね』
『美味しい!』
『もぐもぐ』
夜風が静かに吹き抜け、精霊たちの楽しげな笑い声は、二つの満月の光の中に溶けて消えていった。
最後までお読みいただきありがとうございます。




