第41話 給料は村独自の通貨で
ゴッ、という鈍い音が響いた。
目にも留らぬ速さで踏み込んだ絢乃の右足が、容赦のない角度で男の股間を捉えていた。完璧なまでの急所蹴り(ローキック)である。
「ごふっ……!?」
男は声にならない悲鳴を上げ、顔面を瞬時に土気色に変えた。両手で股間を押さえ、エビのように腰を曲げると、そのまま地面にくずれて激しく悶絶し始める。
絢乃は冷ややかな目でその男を見下ろし、作務衣の裾を上品に整えながら言った。
「私の旦那の悪口を言うことは許しません。その汚い口は、二度と開かないように閉じていてください」
凛とした、しかし背筋が凍るような冷たい声。
周囲の狩人たちは、言葉を失って固まっていた。
どうやら今倒された男は、この村で一番の強さを誇るつわものだったらしい。そいつが一撃で無力化されたのだ。誰もが絢乃の恐ろしさに怯え、一歩も近づこうとしなくなった。
すると、その様子を遠巻きに見ていた薄汚れた衣服を着た村の住人たちが、意を決したように俺たちの元へ駆け寄ってきた。
「あ、あの……! 私たちを、あなたたちの村へ連れて行ってくれませんか!?」
話を聞くと、この村の実態は悲惨なものだった。
狩猟で獲物を獲ってくる者たちが幅を利かせ、自分たちは偉いとふんぞり返り、ぐーたらと寝てばかりで家事は一切しない。それどころか、日頃から妻や子供に対して暴力を振るい、力のない者を虐げていたという。畑仕事や物作りを専門とする者たちも「狩りに出ない穀潰し」と冷遇され、まともな扱いを受けていなかったそうだ。
「私たちはもう、あいつらの横暴には耐えられません! 何でもしますから、どうか!」
必死に訴えかける彼女たちの後ろには、怯える子供たち、そして土器や木工、青銅器、革細工を作っているという技術職人たちの姿があった。
人手だけでなく、喉から手が出るほど欲しかった職人までもが、向こうから来てくれるというのだ。断る理由などどこにもない。
(こら、あやちゃんそんな羽虫を見るような目で狩人を見てはいけません。せめてクズを見るような目で見てあげなさい)
「わかりました。全員、俺たちの村で受け入れます」
結果として、三十人の女性とその子供たち、および二十七人の職人たちが、この村を捨てて俺たちに同行することになった。
去り際、残された狩人たちが「おい! 何勝手に行こうとしてるんだ!」「帰ってきたいとお願いしに来ても許さないからな!」と身勝手な文句をたらたらと垂れ流していたが、俺たちは一瞥もくれずに無視して村を出た。
もちろん、この村との交易は永久に無しだ。
「……まあ、調理する者もいなくなり、武器や防具の修繕もできない。毛皮をなめす職人もいなくなったんだ。あの狩人どもがこの先どうやって生きていくか、見ものだな。野垂れ死んだ後で、残った土地だけ都合よく貰うのも悪くない。少し距離があるのが難点だがね」
俺が独り言のように呟くと、同行する職人や女性たちは、救われた安堵からか、静かに涙を流していた。
◇◇◇
大所帯となった俺たちは、無事にドレイク村へと帰還した。
村の頑丈な堀が見えてくると、移住してきた人々から「おお……」感嘆の声が漏れる。
「それにしても、あなた本当に『人たらし』ね。もちろん誉め言葉よ」
村の広場で待っていた茉莉が、感心したように微笑んだ。隣にいるルフも、コクコクと深く頷いている。
「いや、俺はただ声をかけただけで、交渉したのはほとんど絢乃だよ。それに最後の村は、絢乃のローキックがなければどうなっていたことか……」
俺が苦笑いしながら頭を掻くと、絢乃はしかめっ面で顔で「汚いもの蹴っちゃった」と言っている。
ここからの手配は、執事のジークが実に鮮やかにやってくれた。
新しく来た村人たちをそれぞれの適性に応じて仕事に割り振り、さらに村を囲む堀の外にある肥沃な土地を彼らに与えていく。今までの村人にも、悠たちが挨拶に行ってる間に土地を割り振っていたみたいだ。
「ここが貴方たちの土地だ。ここに家を建ててもいいし、畑にして作物を育ててもいい」
ジークが説明すると、新住民たちは信じられないといった様子で、互いに顔を見合わせた。結果として、彼らは全員、与えられた土地をすべて大麦などの畑にし、夜は村の堀内にある使用人用の寄宿舎で寝泊まりすることを選択した。
「あ、あの、村長様……! 本当に、このような雨風を完全にしのげる立盤な部屋で、私たちが寝泊まりしてもよろしいのですか!?」
一人の職人が、木の温もりが残る真新しい部屋の壁を撫でながら、震える声で尋ねてきた。以前の村では、家畜小屋のような場所で寝させられていたのだろうか?
「良いに決まってるだろ。その代わり、それぞれの専門的な仕事をしっかり頼むよ。給料については――」
そう、これからの雇用と給料をどうするかが、今回の大きな課題だった。
ドレイク村の村人を「村人兼使用人」として扱うことで、生活の保障と仕事を与えたわけだが、問題はその対価だ。
「給料は大麦で」としようにも、彼らは自分たちに割り振られた畑で大麦を耕し、自給自足することが可能になっている。つまり、大麦を給料にしても、わざわざ村の仕事や専門職(鍛冶・陶芸など)を頑張ってこなす報奨制度が機能しないのだ。最初は「助けてもらった恩」で働いてくれるだろうが、そんなボランティア精神が長く続かないことは目に見えている。
(空き時間が出来た。ちょっと見晴らしがよすぎるから、茉莉からもらった設計図通りに城壁を堀の上に作ろう)
この難問について、ヤマブキ寝殿(南西寝殿)に戻って妻たちに相談したところ、彼女たちの間ではすでに解決策がまとまっていたようだった。
「まず、村の中に誰もが利用できる大きな酒場を作りましょう」
皿に入ったひまわり油のランプを囲みながら、絢乃が机の上に地図を広げた。
「お酒や、美味しい料理をそこで振る舞うの。そして、彼らへの給料は、大麦そのものではなく、私たちの村で新しく鋳造する『青銅製の銅貨』で支払います」
「銅貨……? お金を作るのか?」
俺の問いに、今度は茉莉が補足するように頷いた。
「ええ。その銅貨を酒場に持っていけば、大麦一桝と交換できるようにするの。つまり、酒場が実質的な銀行として機能するのよ」
「ふむ……でも、どうしてわざわざ銅貨なんて挟むんだ? 大麦を直接渡すのと何が違う?」
「専門職を育てるためよ、あなた」
茉莉が静かな声で言った。
「もし大麦や油そのものが通貨のままだと、鍛冶屋も陶芸家やその他職人が、自分の使う大麦を作るために、毎日畑仕事を兼業しなきゃいけなくなる。それでは技術が向上しないわ。でも、『働けば銅貨が貰えて、それでいつでも大麦と交換できる』という信用があれば、彼らは畑仕事を辞めて、一日中もの作りに専念できるでしょう?」
「……!」
目から鱗が落ちる思いだった。
確かにその通りだ。通貨という「信用の媒体」を導入することで、自給自足の段階から「分業と専門化」の段階へと、このドレイク村をシフトさせようとしているのだ。
「それに大麦は腐るけど銅貨は腐らないわ。税金を納めるまで個々人が管理するよりも私達で管理もしくは運用することで増やすこともできる。それに、銀行で言う金利みたいなこともいずれは導入するわ。特に街に行く時は個々人が行くよりも一人が行った方が税金が安いしね。そこで村を代表して土地を借りて商売ができる。株式会社のようなこともできるわ」
「ほへー……ごめん、よくわからない」
「まあやっていけば分かるようになるわ」
「でも、酒場の名前は『龍の寝床』にしたい! そして通貨の単位は『龍』で! 商売をするならドレイク商会でいいんじゃないか?」
思いつきでアイデアを言ってみる。
「それはもう決まって……それ、良いわね。金銀財宝が集まってきそうだもの、それに龍ね。1龍、10龍、100龍、1,000龍……語感も問題ない。それに商会名もドレイク村だから問題ない。よし、それで行きましょう」
絢乃が楽しそうに提案する。
「ゆくゆくは銀貨や金貨も流通させて、ここを中心とした一大交易圏を作りたいわね。早くお金の計算がしたい」
絢乃が会社の会計をやっていた理由がお金が好きで、数えるのが大好きだったからだというのが、また面白い。
「そもそも、稼ぐだけでなく貨幣まで自分たちで作るなんて、国家的にというか、法的に大丈夫なのか……?」
地球での常識が頭をよぎり、俺は少し冷や汗をかいたが、絢乃たちは不敵に微笑んだ。
「そもそも、悠君も持っていた『地球のポイント』だって、一種の通貨のようなものでしょう? 要は、その価値がみんなの間で信用され、自由に取引できるかどうかが重要なのよ。そこの仕組み作りは、私たちに任せておいて」
「でもまーちゃん? 国で独自の通貨発行を禁止する法律がある可能性も忘れちゃだめだよ?」
絢乃が茉莉に釘をさす。
「分かってるわ、絢乃。でもそのリスクよりも専門職が育たなくなるリスクの方が大きいと判断したわ」
「さすが俺の妻たちだな……。正直、俺には何が何やらさっぱり分からんが、全面的に信頼するよ」
「あなたは、引き続き自分のやりたいように自由に、そして楽しく生きなさい。それが私達、ひいては村人たちの楽しいにつながるわ」
そう言って火を消し。地下の寝床に入っていくのだった。男爵が来るまで残り4日。
こうして、ドレイク村の命運を握る新たな通貨『龍』と、経済のハブとなる酒場『龍の寝床』のプロジェクトが始動した。
何もない荒野から始まったこの村は、人を受け入れ、技術を蓄え、今まさに「経済」という力を手に入れようとしていた。
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