第32話 通貨の本質
木造の素朴な円卓を囲み、窓から差し込む柔らかな木漏れ日の中で、俺たちはこれからの村の特産品と商売についての話し合いを行っていた。
机の上には、いくつかの羊皮紙や簡易的な地図が広げられている。真剣な眼差しでそれらを見つめるのは、俺の妻であり、この家の家政や実質的な財政を握ってくれている茉莉だ。俺の隣には、村の若者であり従者としても頼りになるジークが、背筋を伸ばして控えている。
「レンガに関しては、男爵様からの強いご要望もあるから確定でいいわね。それと、壺もレンガと同じ粘土素材を使うわけだから、窯の建設や職人の育成も含めて並行して進める方向でいきましょう」
茉莉は筆を走らせながら、テキパキと決定事項を木簡にまとめていく。その淀みのない手際に、俺はただただ感心するばかりだった、それと同時に冷や汗が止まらなくなるのだが。少しでも役に立ちたいと、私は喉まで出かかっていたアイデアを口にしてみることにした。
「あのさ、食料全般についても考えたんだけど……一応、肉も特産品として売り出すのはどうかな? 動物の肉とか、こっちで獲れる獲物の肉をうまく加工して……。狩猟は罠とかを利用すればどうにか」
「却下ね」
茉莉は顔も上げずに即答した。その冷徹なまでの決断の早さに、私は思わず肩をすくめる。
「え、どうして? 結構美味しいと思うんだけど」
「再現性がないからよ、悠。安定して供給できないものは特産品とは呼べないわ。それに、いくら罠を仕掛ける工夫をしたところで、動物がいるような危険地帯に足を運ばなきゃいけない事実は変わらないでしょう? 私たちは安全第一で生活基盤を作っているのよ」
「そ、そうだけど……」
「村長様」
ジークが申し訳なさそうに、しかし客観的な事実を告げるように口を開いた。
「ツバキ様の仰る通りです。実はそういった野生動物の肉を安定して得るための罠や試行錯誤は、かつて侯爵一家が莫大な予算と人員を投じて何度も試したと聞いております。結果として、割に合わないとすべて廃止されました。個人の武力や偶然に頼る狩猟は、商売の柱にはなり得ません」
「う……そうなんだ……」
知識不足を突きつけられ、私は小さくため息をついた。現代の知識があれば何でもうまくいくわけではない。この世界の現実という壁は、想像以上に厚いのだ。
俺は気を取り直して、決まっていた予定を伝えることにした。
「あ、それと……ジークとアレスの二人のことなんだけど。これから俺が鍛えようと思ってるんだ。少しでも自分の身を守る術を身につけてもらうために」
その言葉に、茉莉は筆を置き、まっすぐ私を見つめてきた。その瞳には、私への深い愛情と、それゆえの強い懸念が宿っていた。
「……危険なことはさせないこと。それを絶対に守ると約束してくれるなら、やっていいわ」
「うん、約束するよ。無理な特訓や、危険な場所での実戦なんて絶対にさせない。あくまで基本の身のこなしや基礎体力をつけるためだから」
「ならいいけれど……。怪我だけはさせないでね」
心配そうに眉をひそめる茉莉の姿に、胸の奥が温かくなる。茉莉がこうして厳しく言うのも、すべては俺たちの安全と生活を守るためなのだ。
「次に調味料についてだけど」
茉莉は手元の資料に視線を戻し、ジークに向き直った。
「具体的に、この辺りで流通している一般的な調味料って何があるの? というか、何が不足しているのかしら?」
「そうですね……基本的に流通してるのは、塩と酢くらいです」
「ほぼ無いじゃない!」
茉莉は思わず天を仰いだ。そのリアクションに、ジークは少し困惑したような表情を見せる。茉莉はこめかみを押さえながら、小さく独り言のように呟いた。
「……いえ、こっちの話よ。それで、その酢というのは、果物系から作られているの?」
「はい。リンゴから作られたものがほとんどだったはずです」
「そう。なら、酢は自分たちが消費する分だけを細々と作ればいいわね。あ、でも確か……小麦でも作れたかしら。ジーク、この辺りで小麦はどれくらい流通しているの?」
「小麦ですか?いえ、小麦は一部の限られた貴族の間でしか出回らない、極めて高級な『大麦』といった立ち位置になります。その希少価値ゆえに、一部の地域では通貨の代わりとしても使われているほどです」
「そうなのね……」
茉莉は少し考えるように顎に手を当て、不敵な笑みを浮かべた。
「だったら、私たちの畑では小麦をメインにしましょ。食材として使う以外に、もし余るようなことがあれば、それを酢の醸造に回す方向で進めれば無駄がないわ。もちろん物品交換用に大麦も育てるわよ」
茉莉の頭の中では、すでに広大な小麦畑と、そこから生み出される利益の計算が成り立っているのだろう。
「さしすせそ……ね。砂糖に醤油、味噌、あとみりんと酒が欲しいわね。どうせなら、この世界でもそれらを作って普及させちゃおうかしら……」
茉莉が小さく呟いた言葉は、俺にしか聞こえなかったが、彼女の欲望はとどまるところを知らないようだ。
「次は魚の燻製ね。ところで、先ほど塩と酢と言っていたけれど、塩……特に岩塩の流通はどうなっているの?」
「岩塩ですか……。それはもう、完全に高級品です。我々のような農奴どころか平民が日常的に使えるようなものではありません」
「でしょうね。じゃあ、海水の塩……粗塩はどうなの?海から運んでくれば安く済むんじゃない?」
茉莉の当然の問いに、ジークは表情を曇らせ、首を横に振った。
「海は魔獣の巣窟です。地上にもその影響が浸食してきており、沿岸部には近づくことさえできません。海水を汲みに行くなど、命がいくつあっても足りない行為です」
「……そうなのね」
茉莉は少しだけ落胆したように肩を落とした。異世界の厳しい環境は、海という大自然の恵みさえも人類から遠ざけているらしい。
「なら、塩を大量に使う製法は諦めましょう。代わりに、魚を丸一日かけてしっかりと風に当てて乾燥させてから、この辺りでよく採れるオークの乾燥した枝や木片を使って、じっくりと燻製していけばいいわ」
「干し肉より美味しいんでしたっけ?」
「ええ。乾燥した魚にほんのりとスモーキーな香りが付いたもの、として売り出すのよ。それで少しでも高く売れれば儲けものだし、もし付加価値がつかないなら、ただの乾燥魚として燻製にせず、そのまま流通させましょう。どうせ保存期間は変わらないのだし、リスクは最小限に抑えるべきよ」
茉莉の提案は非常に合理的だった。干したものと燻製の保存期間はどうやら変わらないようだ。てっきり燻製の方が保存しやすいのかと思った。
「香辛料漬けにして壺に詰めるアイデアはどうなの?」
「うーん、それは燻製魚よりも保存期間が短いし、何より壺がかさばるわね。輸送コストを考えると割に合わないわ。同じ壺を使うなら、『油』を入れた方がまだ利益が出るわね。却下よ」
またしてもアイデアを却下され、俺は口を閉ざした。
茉莉は次の項目へと目を移す。
「次は……『布紙』ね」
その言葉を口にした瞬間、茉莉は動きを止め、じろりと悠の方を睨んでいた。その切れ長の瞳には、明らかに「どうしてこの知識をこの世界の住人が持ってるの?」という疑念と追及の色が混ざっている。
「どういう経緯でそのアイデアが出てきたのか、非常に気になるけれど……今は聞かないでおくわ」
「あ、はは……助かります……」
俺は冷や汗を流しながら、曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
「素材が亜麻なら、古い衣類や端切れを利用できるから、製造自体はそこまで難しくないはずよ。どうせなら、ただ紙を売るんじゃなくて、ペンとセットにして『筆記用具セット』として売り出すことにしましょ。……ジーク、この世界では普段どういったもので文字を書いているの?」
「基本的には、鳥の羽ペンですね。それにインクを付けて書きます。ただ、そのインクの原料が何なのかは……わかりません」
「そうよね。……うーん、でも、確かこの村の周辺では木簡を使っていたわよね? その時は何を使って書いていたの?」
茉莉から不意に話を振られ、俺は慌てて記憶を探った。
「ええと……木簡の時は、ええと……何だっけ……」
焦れば焦るほど、頭の中が白くなっていく。さっきから会議にまともに入り込めず、役に立てていない焦燥感が、俺の思考力を奪っていく。
「ええと……」
「村長様、木簡であれば、筆に、墨を付けて書くのが一般的です」
沈黙に耐えかねたように、ジークが助け舟を出してくれた。
「あ、そう! それそれ! 墨だよな……」
「そう。でも、そうなると動物の毛や膠が必要になるわね。どちらにせよ、安定して手に入れるには動物を狩らなければならないから、ペンとインクの量産は今の段階では難しいわね。筆記用具の方は一旦保留にしましょう」
茉莉は冷静に判断を下し、再び筆を動かした。
「でも、布紙のアイデア自体は素晴らしいわ。古い亜麻布を安く買い取って、それを原料にすればコストも抑えられる。このアイデアを出したことに関しては、さすが私の旦那様ね」
茉莉はふっと柔らかく微笑み、私を褒めてくれた。その言葉に少しだけ救われたような気がしたが、それでも先ほどからの自分の不甲斐なさ、会話についていけなかった落ち込みは、胸の奥に残ったままだった。
「これで、俺から提案する項目は以上かな」
俺がそう言って会議を締めくくろうとすると、茉莉は呆れたような、しかしどこか楽しげなため息をついて私を見つめた。
「ちょっと、悠。一番肝心なものを忘れているわよ。……『油』はどうしたの?」
「え……あ」
言われて、私はハッとした。
「あの菜種油……ややこしいからアブラナ油って呼ぶけれど、あれはどうするつもり?」
そうだ。この辺りの地域では、菜種油が実質的な通貨、あるいは強力な交易資源として扱われているのだ。それを忘れるなんて。
落ち込む私を見て、茉莉はふっと表情を和らげた。
「安心しなさい。あの独特の匂いを見る限り、原料は間違いなくさっき言ったアブラナよ。もうすでに、アブラナの栽培計画は立ててあるわ」
「茉莉……ごめん、俺、全然役に立ててなくて……」
「貴方ねえ」
茉莉は椅子から立ち上がり、私の隣へと歩み寄ってきた。指示するように、私の肩にそっと手を置く。
「もうちょっとリラックスして考えなさいな。大麦やアブラナ油といった、この世界で通貨のように扱われている物も、私たちが元の世界で知っていた『現金』という紙切れもね、本質はすべて同じ……『信用』よ。その信用が、汗を流して畑を耕すだけで手に入るのだから、考えようによってはとてもいい時代だわ。その信用があるうちに、さっさと作って地盤を固めてしまいましょう」
彼女の力強い言葉と言葉の端々ににじむ知性に、私は深く救われるような思いがした。隣に彼女がいてくれるだけで、これほど心強いことはない。
「……ありがとう、茉莉」
「どういたしまして。あ、それと……」
茉莉は私の耳元に顔を寄せ、くすぐったい吐息とともに、小さく耳打ちした。
「あとで、大麦とアブラナ、それから亜麻の種を頂戴ね。……愛してるわ、あなた」
その囁きに心臓が大きく跳ねる。私は赤くなる顔を隠すように頷き、彼女の手のひらに、求められた種をそっと手渡した。
「俺も、愛してるよ」
その言葉を返すと、茉莉は満足そうに微笑み、再び自分の席へと戻っていった。
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