第29話 動き出す村
地下の静謐な闇と、クーラーがもたらす程よい涼しさに包まれた寝室。
悠はゆっくりと目を開け、ふかふかのベッドの中で大きな伸びをした。異世界に転移してからというもの、目まぐるしい変化の連続だったが、昨夜は妻たちとの温かな時間を過ごしたおかげで、かつてないほど深く、穏やかな眠りを得ることができた。
「ふぅ……よし、今日も一日、頑張るか」
毛布を跳ね除け、身支度を整えて階段を上る。
地下の秘密基地から地上部へと出ると、ひんやりとした朝の澄んだ空気が悠の頬を撫でた。遠くにそびえる山々が、昇り始めた朝日の柔らかな光に縁取られ、朝露に濡れた高原の草原がキラキラと黄金色に輝いている。
寝殿から外に出て軽く体を動かしたりストレッチをする。
ふと、悠は新築の寝殿造の屋根を見上げて、足を止めた。
「ん……? 何か、昨日と雰囲気が違うような……」
昨日、戻ってきたときにはよく見えなかったのだが、朝の光の下でよく観察すると、その変化は明らかだった。
風雅な屋根瓦の一部に、朝光を効率よく吸収するような、深みのある藍色のプレートが違和感なく組み込まれている。
「……これ、ソーラーパネルか!?」
悠は思わず目を見張った。
悠が亜空間倉庫から出した電力機器であるソーラーパネルが、和風の美しい景観を一切損なうことなく、まるで最初からそこにあったデザインの一部であるかのように完璧に溶け込んでいるのだ。
「さすがは俺の妻たちだな。美観を大事にしつつ、実用性も忘れない。本当に頭が下がるよ」
朝から妻たちの細やかな気配りと技術力に胸を熱くしながら、悠は寝殿へと戻った。
食卓には、ルフが腕によりをかけて作った、湯気の立つ朝食が並んでいた。
香ばしく焼き上げられた川魚、みずみずしい野草のサラダと、温かいスープ。朝の光が差し込む板敷きの部屋で、悠、綾乃、茉莉、ルフの四人は並んで美味しい朝食を堪能した。
食後の温かいお茶をすすりながら、悠は昨日から考えていたことを切り出した。
「そういえばさ、みんな。これからの呼び方のことなんだけど」
「呼び方、ですか?」
ルフが小首を傾げ、金色の瞳を丸くした。
「ああ。村の人たちからの呼ばれ方で、三人とも『奥様』だと、誰を呼んでるのか分からなくてややこしいだろ? だから、ちょっと区別できるような呼び名を考えたんだ」
「確かにそうね」
茉莉がお茶のカップを置いて頷いた。
「公式の場や、村人たちの前で全員が一括りに『奥様』呼ばわりだと、指示を出すときにも混乱が生じるわ」
「私も賛成よ。それぞれに相応しい呼び名があれば、村の人たちも親しみを持って呼びやすいでしょうね」
綾乃も優しく微笑みながら同意する。
「で、考えたんだけどさ。正式な場――儀式や、外部の人間と接するときには、それぞれのイメージに合わせた花の名前を冠した呼び方にしようと思う」
悠は人差し指を立てて説明した。
「まず、綾乃は【ヒナゲシの奥方様】。茉莉は【スミレの奥方様】。ルフは【ヤマブキの奥方様】だ。これなら気品もあって、外聞もいいだろ?」
「あら、素敵。ヒナゲシの花言葉には『思いやり』や『いたわり』があるもんね。私にぴったり」
綾乃は嬉しそうに頬を緩めた。
「スミレね。古風で、どこか控えめながらも凛とした響きがあるわ。悪くないわね」
茉莉も満足そうに微笑む。
「ヤマブキの奥方様……! わぁ、なんだかとても可愛らしくて、くすぐったい響きです! 悠様、素敵な呼び名をありがとうございます!」
ルフは嬉しさのあまり、小さく飛び跳ねて喜んだ。
「喜んでもらえてよかった。ただ、普段の生活でいちいち『〜の奥方様』って呼ぶのは長くて大変だから、普段はもっと短く呼んでもらおう」
「普段の呼び名?」と茉莉が尋ねる。
「ああ。
綾乃は【ヒナゲシ様】。
茉莉は【スミレ様】。
ルフは【ヤマブキ様】。
普段は村人たちに、こう呼んでもらうように徹底させようと思う。どうかな?」
「ええ、シンプルで聞き取りやすい。それでいきましょうか」
絢乃がまとめ、新しい呼び名は満場一致で決定した。
朝食の片付けが終わると、茉莉が大きな羊皮紙の図面をテーブルの上に広げた。
そこには、悠が昨日『建築』スキルで建てた寝殿を南西とした、極めて精緻な設計図が描かれていた。
悠はその図面を覗き込み、思わず息を呑んだ。
「……茉莉、これ、マジか?」
「ええ、大真面目よ。私たちの新しい『ドレイク邸』の完成予想図よ」
茉莉が誇らしげに胸を張る。
図面に描かれていたのは、五つの寝殿が絶妙な配置で連結された、超巨大な寝殿造の複合建築群だった。
それぞれの寝殿には、北対、西対、東対といった対の屋が配置され、それらが渡殿と呼ばれる屋根付きの回廊で複雑に結ばれている。中央にメインの寝殿があり、四隅にさらに四つの寝殿造が配置されている、まさに城砦とも呼べる規模の布陣だった。
「今できているのが、この南西の寝殿ね」
茉莉が図面の一角を指差す。
「……それで地下への入り口が五つもあったのか。納得したよ。でも、五つの寝殿造ってことは、俺たち四人がそれぞれ一棟ずつ使って、中央を共用にするのか?」
「ふふ、違うわよ、悠君」
絢乃がクスリと悪戯っぽく笑った。
「寝殿造というのはね、本来、どこに主人が眠っているのかを外部の者に悟らせないために考えられた建築様式でもあるの。どこが本物の寝室か分からないようにすることで、暗殺や夜襲の危険から身を守るための、防衛上の知恵なのよ」
「だから、誰がどこで寝るかは決めず、日によって寝室を移り変える感じにするの。まあ表向きはどこが誰の寝殿かは公表するけれども」
茉莉が補足する。
(そうなのか……。まあ、実際は地下のいつもの秘密基地で寝るから、地上でどう変わろうが俺たちには関係ないんだけどな)
悠は心の中でこっそり苦笑したが、その言葉は胸にしまっておいた。
それにしても、ここまでの規模の建物を辺境の森のただ中に建てるのだ。
悠はふと思いついた冗談を、軽い調子で口にした。
「なぁ……もしかして『貴族』にでもなろうとしてるのか?」
すると、茉莉が心外そうに美しい眉をひそめ、悠をジロリと睨んだ。
「何を当然のことを言っているのよ。この世界で安全を確立するためには、『ちゃんとした身分』を確保しなきゃいけないって言ったでしょう? ……言ってなかったかしら?」
「え? いや、『ちゃんとした身分』って、てっきり『平民』のことかと……」
「そんな不安定な立場、貴族の一言で簡単に踏み潰されるわ。私たちが手に入れるべき『ちゃんとした身分』は当然、『貴族』よ」
茉莉のあまりに迷いのない即答に、悠は頬を引きつらせた。
「いやいや、貴族ってそんな簡単になれるものなのか? 国王様の許可とか、爵位の授与式とかが必要なんじゃ……」
そこへ、お茶の追加を運んできた執事のジークフリートが、恭しく頭を下げて会話に加わった。
「村長様。男爵位であれば、国王陛下の直接の許可がなくとも、子爵以上の爵位を持つ貴族であれば、その権限において授与することが可能でございます」
「ええっ、そうなの!?」
悠が驚いてジークフリートを見る。
ジークが敬語になっていることには気づかないでおく、きっと誰かに『教育』されたのだろう。
茉莉の目が、獲物を見つけた肉食獣のように爛々と輝いた。
「でかしたわ、ジーク! それなら話が早いわね。すぐにでも計画を始められるわ。この近くを治めている、一番近い子爵を教えなさい!」
「いえ、子爵様のところに行かなくても、この街を治めるハンナ男爵様に気に入られれば、道は開けるかと存じます」
「どういうこと?」
茉莉が身を乗り出して聞く。
「ハンナ男爵様の姉上は、この一帯を含む『伯爵司フェリスグラード』を治める猫伯爵――ヒルダ=マオ=ラインハルト様なのです。彼女を通じて猫伯爵様に我々の存在と実力を認めさせれば、男爵位の推薦をいただくことは十分に可能です」
「ほほう……!」
茉莉は不敵な笑みを浮かべ、細い顎に手を当てた。
「男爵がこの村に視察に来るのが一週間後だったわね……6日後ね。それまでに、彼女に私たちの有能性をこれでもかと見せつけてやるわ! 私が村人たちに指示を出して、村の基盤と建築を進めるから、ジーク、マリアン、悠の三人は、我が領地の『特産品』を考えなさい。男爵の心を掴み、爵位をもぎ取るわよ!」
茉莉の力強い号令とともに、昨日割り振られた役割に沿って、村全体の仕事が本格的に開始された。
全体の総監督は茉莉。
畑の開墾と農業指導は絢乃。
そして、川での漁や水資源の管理はルフが担当し、村人たちはそれぞれの指導のもと、活気に満ちた声を上げて働き始めた。
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