第25話 泥濘に咲く光
灰色の雲が低く垂れ込め、湿った冷気が肌を刺す。
町の一角に追いやられた北西地区は、生きながらにして墓標を立てられたかのような、どんよりとした沈黙に支配されていた。踏み荒らされた黒い泥は底なしの沼のようにぬかるみ、そこかしこから立ち上る生活排水と排泄物の臭いが、鼻腔を鋭く刺して呼吸をためらわせる。
悠は手押し車の車輪を泥に取られそうになりながらも、ゆっくりと奥へと歩みを進めた。周囲のボロ布の影から、光を失った泥人形のような瞳がいくつも悠の姿を追うが、誰一人として声をかける者はいない。そこにあるのは、ただ静かに死を待つ者たちの冷徹な拒絶だけだった。
天幕とも呼べないような、破れた粗末な布切れを支柱に掛けただけの影に、その親子はいた。
母親は、かつてはそれなりの身なりをしていたのだろう、泥と煤で薄汚れたワンピースを引きずり、虚ろな目で宙を見つめている。その細く痩せ衰えた腕の中には、ひとりの小さな子供が抱かれていた。
子供は異常なまでの高熱に浮かされているようで、呼吸は浅く激しく、今にもその細い糸のような息が途切れてしまいそうだった。小さな胸が不規則に上下し、ゼイゼイと苦しげな喘鳴が泥の地面に吸い込まれていく。その小さな額にはびっしょりと冷や汗がにじみ、顔は苦痛で歪んでいた。
悠は息を呑み、痛む胸を抑えながらも、あえていつもの調子で声をかけることにした。
こういう、どうしようもなく絶望的な状況で、あれこれと小難しいことを言っても相手には届かない。こういう時こそ、本質をドストレートにぶつけるのが一番いい。そんな気がする。
「おはようございます。俺、悠=ドレイクって言うんですけど……畑、耕しませんか?」
あまりにも場の空気にそぐわない突飛な挨拶に、母親の虚ろな瞳が、ゆっくりと錆びついた人形のようにこちらを向いた。しかし、その瞳には何の光も宿っていない。ただ、怪しげな人を一瞬だけ捉え、すぐにまた、腕の中で苦しむ我が子へと視線を戻してしまった。
話しかける相手を間違えたか。いや、そんなことはない。悠は屈み込み、子供の顔を覗き込んだ。
「とてもかわいい子供ですね。なんて名前なんですか?」
「……アレス」
母親の乾いた唇から、消え入るような囁きが零れ落ちた。風が吹けばかき消されてしまいそうな、か細い声だった。
「おお!軍神様の名前じゃないですか。とっても力強くて、いい名前ですね!」
悠が努めて明るい声で言うと、母親は自嘲気味に、力なく首を横に振った。
「……神様なら、助かるね」
その言葉には、覇気も、怒りも、悲しみすらも残っていなかった。すでに「奇跡など起きない」という現実を、幾度も突きつけられて摩耗しきった者の、諦観の響き。
悠は静かに息を吐いた。
これ以上、言葉での説得は無意味だ。そして、悠の心はすでに決まっている。
あえて厄介ごとに足を突っ込む。スローライフを一旦棚上げし、自分のチート能力という最強の「切り札」の片鱗をここで見せることになる。茉莉の呆れた顔や、絢乃の心配そうな顔が脳裏をよぎったが、それ以上にも、この目の前の小さな命を見捨てるわけにはいかなかった。
「……ちょっと、撫でてもいいですか?」
母親は一瞬、警戒したように体を強張らせ、拒絶の言葉を口にしかけた。しかし、悠の穏やかで透き通った瞳を見つめると、諦めたように力を抜いた。肯定も否定もしない無言を承諾と受け取り、悠はそっと手を伸ばした。
熱で燃えるように熱くなったアレスの小さな額に、手のひらを添える。
アレスはくすぐったそうに、あるいは心地よい冷たさを感じたのか、ぴくりと小さく眉を動かし、僅かに表情を和らげた。
(なぜかは分からない。でも、こうすべきだと思ったんだ)
悠はそっと目を閉じた。
日本の神社で、家族の健康や平穏を祈る時のように、胸の前でそっと両手を合わせる。
――『健やかに生きていけますように』――
ただ、強く、深く願った。
その瞬間だった。
悠の体から、透き通った温かな光がじわりと溢れ出した。
それは太陽の光のようでありながら、決して目を射るような眩しさはなく、むしろ凍える体を優しく包み込む毛布のような、深い慈愛に満ちた輝きだった。
「あ……あ……あ!」
母親が、信じられないものを見るかのように、両手で口を覆って小さく叫んだ。
光は悠の体から、周囲の汚れた空気へと気流のように広がっていく。その神秘的な輝きに引き寄せられるように、周囲の天幕の影から、同じように熱で伏せっていた子供たちや、生きる気力を失っていた母親たちが、ふらふらと立ち上がって集まってきた。
(うわ、マジやめてくれ。目立つ覚悟はしたけど、こんな目立ち方はしたくない……! めっちゃ恥ずかしい!)
悠は内心で頭を抱え、顔から火が出るほどの羞恥心に悶絶していたが、祈りの手を下ろすわけにはいかなかった。
十数秒ほど続いた優しい光の波動は、やがて粒子となって大気中に溶けるように収まっていった。
すると、さっきまで熱にうなされて呼吸も絶え絶えだったアレスが、ぱちりと大きな目を開けた。
「……う、ん……お母さん?」
「アレス! ああ、アレス!」
母親は我が子を強く抱きしめ、大粒の涙を流した。
それだけではない。激しい咳を繰り返し、今にも息が止まりそうだった隣の天幕の子供も、すっきりと晴れやかな顔で起き上がり、「体が軽い!」とはしゃぎ始めている。周囲にいた難民たち全員が、病の苦しみから解放され、その肌には健康的な赤みが戻っていた。
「か、神様……! ありがとうございます、ありがとうございます!」
アレスの母親が、ぬかるんだ泥の上にもかかわらず、悠の前に正座をして何度も額を地面に擦り付け始めた。周囲の人々もそれにならい、神を見るような畏怖と感謝の入り混じった目で拝み始めようとする。
(その地面、汚いからやめた方がいいですよ!…そんなことより)
「いや、違うんです! 俺は神様なんかじゃないです! ただ、そういう……そう! たまたま持っていた薬の効果というか、それをちょっとアレスさんに飲ませただけで……!」
あまりの拝まれっぷりに慌てて言い訳をする悠だったが、周囲の興奮は収まらない。
「魔法? いや、あれは聖法だ!」
顎を恐怖でガタガタと震わせた一人の女性が叫んだ。その言葉に、周囲から「聖法?」「なんだそれ?」といったざわめきが起こる。
「……人族」
その時、女性の影から進み出た一人の男の子が、やはり顎を震わせながら悠を指差した。
「魔法も、聖法も人間族には使えない。それに、その人間と同じ姿……間違いない、貴様人族だな!」
男の子の言葉に、周囲の空気が一気に張り詰めた。感謝の念が、一転して「恐ろしい人族への警戒」へと変色していく。
魔法はともかく、聖法? そして『人族』。人間族ではなく『人族』という響きに、悠は脳内で(まあ、後で調べよう)と処理しつつ、この場を収めるための最善の策を考えた。
人間はわからない物を恐れるものだ。ならば。
「人族じゃないよ?」
「う、嘘だ! 魔法も聖法も使えて、そんな姿をしているのに、人族じゃないなんて信じられるか!」
男の子が必死に声を荒らげる。
悠は小さくため息をつき、頭を掻いた。こうなったら…
「――人間族でもないよ」
悠は念じる。脳内のステータス画面から『種族変更』のスキルを選択し、『龍神族』へと意識を切り替えた。
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