第24話 悠の願い
町の市場は、土を均しただけの広い広場に、粗末な木枠と葛布を張っただけの露店が所狭しと並ぶ場所だった。
立ち込める大麦の粉の匂い、乾いた糞尿の臭い、そして人々のどこか切迫した呼び込みの声。悠は手押し車を引きながら、周囲の取引の様子を観察し、頭の中でこの世界の経済体系を整理していった。
(ふむ。前回も見たが貨幣の流通していない市場を見ると不思議な気分にさせられる。流通の基盤になっているのは、現物の【大麦】、【油】、そして前回は見なかった【布】の三つかな。これが通貨の代わりなんだな)
悠は露店の商品と、それらが何で支払われているかを照らし合わせていく。前回見れなかった奥の場所も見ることができた。
(ギャッ! なんか飛び跳ねた! これ泥!? それとも糞!? もう最悪なんだけど!)
草履についた泥を掃おうにもそれを拭ったやつにも付くため、断念してそのまま進むことにした。
最も多く使われているのは『大麦』だった。
単位は器のサイズである『桝』。日常的な小銭だ。
観察していると、一食分の粗末な麦粥や固い黒パンが概ね『一桝』。
粗末な宿の素泊まり一泊が『三桝』。
野菜系統が約『五桝』。数ではなく秤で重さを計って売っている。
平民が履くような頑丈な葛布の靴が『十五桝』。
干し肉や革系統が『千桝』。
そして兵士が使うような鉄の剣になると、一気に跳ね上がって『三千桝』ほどで取引されていた。
大麦はタフでどこでも育つため、誰でも生産できる。しかし、これで焼いたパンは信じられないほどボソボソして美味しくない。そのため、多くの庶民はこれをビールにするか、家畜の餌にするか、あるいはドロドロの粥にして食べているようだ。流通量が多いため、少額決済にはこれが一番便利なのだろう。
その上が『菜種油』。菜種で作られた油のみを取引にしている。菜種が何を指すのかはわからなかった。採種という名前の植物があるのだろうか?
単位は『壺』。中額決済や、ややまとまった取引に使われる。
大麦との相場は、【油一壺=大麦十桝】。
ハンナが言っていたように、この町の市場で出店を出すレンタル料が『一壺(=十桝)/月』。これが少し発展した子爵導の町になると『三壺/月』、王都の中心街ともなると『十壺/月』にもなるという。保存性が高く、料理にも灯りにも使えるため、非常に手堅い価値を持っている。
そして最も高価なのが亜麻で作った『亜麻布』だった。
単位は『反』。一枚の長い布の単位だ。
これは糸を紡ぎ、機を織るという手間がかかる「加工品」であるため、非常に高い価値を持つ。
油との換算は【亜麻布一反=油十壺(=大麦百桝相当)】。
まとまった商売の取引や、領主への高額な納税や労役免除のために、この重くて価値のある亜麻布が紙幣のような役割を果たしているようだった。
(物価基準は分かった。俺が今日ハンナから勝ち取ったレンガの売値は、三十壺。これは大麦に換算すると、かなりの富になるぞ。何なら、亜麻布に交換しとこうかな。いやいいか。つまり交渉は大成功だったわけだ)
悠は自分の成果に満足しつつ、少し喉が渇いたのを感じ、市場の端にある『酒場』と書かれた、煤けた木の看板が下がる建物へ入ることにした。
◇◇◇
酒場の中は昼間だというのに薄暗く、泥のついた靴を履いた男たちや、身なりの悪い人が数人、木製のテーブルで気だるそうにくだを巻いていた。
悠はカウンターに行き、店主の親父に大麦二桝を差し出した。
「エールを一杯頼む」
「あいよ」
親父が木杯になみなみと注いでよこした液体は、日本の黄金色のビールとは違い、少し濁った琥珀色をしていた。
悠がぐっと喉を鳴らして一口飲むと、驚くほど爽やかな麦の香りと、心地よい酸味が口の中に広がった。
(お、美味い。日本のビールのように炭酸がガツンとくるわけじゃないけど、香りがすごくフルーティーで…これならいくらでも飲めそうだ)
悠がエールの味を堪能しながら、壁際の目立たない席に腰掛け、周囲の会話に静かに耳を澄ませた。
男たちの愚痴や商人のヒソヒソ話から、この街の生々しい実情が次々と浮かび上がってくる。
「……また鉱山で死人が出たらしいぞ。国直轄の鉱山に送られた『犯罪奴隷』どもだ。あそこは一度入ったら二度と生きては出られないからな。鉱石を掘り出すために、文字通り骨の髄まで使い潰されるのさ」
「恐ろしい話だな。だが、俺たちだっていつそうなるか分からん。隣の領地との境で、また小競り合いがあったらしい。男爵様同士がどこかで戦争を始めてるって噂だ。負けたら『戦争奴隷』として奴隷落ちするなんて理不尽だろ」
「ああ、そのせいでこの町の若い男どもも、戦争の兵隊や、防壁の急ピッチな補修工事、それに森の危険な動物討伐に次々と駆り出されている。行けば怪我をするか、そのまま冷たくなって帰ってくるのがオチだ。俺の従兄弟も先月、討伐戦で足を亡くしたよ……」
「男たちが死にまくっているせいで、町の人口のバランスがめちゃくちゃだ。働き手を失った残された家族、特に身寄りのない『孤児』や、母親一人だけで食い詰めた『子供連れの未亡人』が急増している」
「役所もそんな連中を救う余裕なんてないからな。結局、行き場を失った奴らはみんな、町の『北西の隅』へ追いやられて、その日暮らしの這いつくばるような生活をしてるのさ。あそこは地獄だぞ……」
悠は木杯を静かにテーブルに置いた。
エールの心地よい陶酔感は一瞬で消え去り、胃の奥が重く冷たくなるような感覚が残った。
(北西の隅……)
悠は残りのエールを飲み干すと、手押し車を引いて酒場を出た。そして、市場とは逆の方向、町の北西地区へと向かって足を進めた。
◇◇◇
その区画に一歩踏み入れた瞬間、悠は息を呑んだ。
そこは、先ほどのぬかるんだ町並みがまだ天国に見えるほどの、文字通りの地獄絵図だった。
まともな「壁」すらなく、地面に突き刺した数本の枝にボロ布を被せただけの天幕が立ち並び、その下の冷たい泥の上に、人々が折り重なるようにして倒れ込んでいた。
擦り切れた灰色のボロを纏い、頬が極限まで削げ落ちた母親たちが、うつろな目で虚空を見つめている。その腕に抱かれた子供たちは、もはや泣く元気すら残っていないのか、ただ骨皮と化した細い手足で母親の胸にしがみついていた。
あちこちで、病気による乾いた咳の音が弱々しく響いている。
その中には、熱に浮かされながら今にも息が止まりそうな小さな子供や――すでに完全に動かなくなり、ハエがたかり始めている遺体が、何の手当てもされずに放置されていた。
異世界に来てから、安全な北の開拓地で、絢乃や茉莉、ルフといった有能な身内に囲まれて快適な自給自足スローライフを送っていた悠にとって、この光景は脳天を殴られたような激しい衝撃だった。
(これが……この世界の現実なのか)
悠はふと、先ほど役所で対峙したハンナの姿を思い出した。
彼女は確かに、身のこなしや言葉遣いは気高く、領主としての尊大さを保っていた。しかし、そのドレスを今一度よく思い出してみる。
赤色のドレスは、一見華やかに見えたが、よく観察すれば袖口は擦り切れ、裾の部分は別の布で細かく、しかし丁寧に繕われていた。それは決して貴族の贅沢品などではなく、領地の困窮に合わせて、彼女自身が限界まで着古し、手入れをして着続けているものだったのだ。
(そうか。彼女も、この滅びかけている領地をどうにか維持するために、必死で駆けずり回っていたんだ。だから、俺の持ってきたあのレンガを、どんなに財政が厳しくても『五倍の値段』で直接買い取って、防壁を急いで修復するという公共事業に回して雇用を得ようとしているのだろう……)
この町は、首の皮一枚で繋がっている。
領主ですらボロを着、町の人々は男たちが死に絶え、女子供が北西の泥の上で行き倒れている。これが、このウィルダム王国辺境の真実だった。
悠は、自身の内側に眠る『ステータス』と『亜空間倉庫』の圧倒的な力を意識した。
自分たち四人だけであれば、あの地下室で寝て起き、果物や野菜を育て、大浴場に浸かり、毎日美味しい酒を飲んで、何不自由なく一生スローライフで生きていくことができる。周囲の悲劇を無視して、ただ引きこもっていれば安全だ。
だが――地球にいた頃から、悠の胸の奥にある「願い」は、もっとシンプルで、少しお節介なものだった。
『俺の周りにいる人くらいは、笑っていて欲しい』
ただ、それだけだ。
目の前で飢え、病気で冷たくなっていく子供たちを見捨てて、自分たちだけが温かい風呂に入って白い米を食べる生活が、果たして自分の望む「楽しんで生きていく」ことなのだろうか。
「……スローライフは、一旦お預けだな」
悠はぽつりと呟いた。
これからやろうとしていることは、非常に目立つ。自分のチート級の能力を世間に晒すことになり、厄介な貴族、さらには国から目を付けられるリスクを飛躍的に高めるだろう。茉莉なら「もっと慎重に行動しなさい」と怒るかもしれない。
だが、妻たちだって、この死にかけた子供たちを見捨てるような冷酷な人ではないはずだ。
「ちょっとだけ力を使って、ちょっとだけ目立っても……まあ、いいよね。俺たちの『ドレイク村』を、ここから少しずつ広げていくとしよう」
悠は拳を強く握りしめ、手押し車を固く掴み直した。
彼の黒い瞳の奥に、これまでの流されるような態度から一変した、揺るぎない覚悟の炎が静かに灯っていた。
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