第22話 約束事は木簡にお願します
役人は木べらのような薄い板――『木簡』を取り出し、墨汁をつけた筆でサラサラと文字を書き始めた。
悠はその様子を眺めている間、カウンターの奥の棚に無造作に置かれている他の木簡に目を走らせた。
(この国では紙は使われていないのか。奥の話を聞くに、紙のような薄い繊維の紙はあるにはある…羊皮紙のことらしい、それは王都や大貴族同士の公式なやり取りでしか使われない超高級品とのことだ。結構おしゃべりな人が多いんじゃないだろうか?まあ娯楽が無かったらおしゃべりになるか。ラッキー)
悠は役人が書く文字をさりげなく読み取った。そこには、開拓地の正式な住所らしきものが刻まれていた。
『男爵街アントラー農奴村ドレイク』
(ドレイクは農奴村という扱いなのか。そしてここを治める領主は……)
視線を少しずらすと、奥の壁に貼られた重要書類の木簡が目に入った。そこには力強い筆致で『ハンナ=チェルボ=ラインハルトの命により、レンガの供給量を直ちに増加させよ。防壁の補修が急務である』と書かれていた。
(ハンナ=チェルボ=ラインハルト……。これがこの地域の領主の名前か。それにしても、レンガの増産を急いでいるってことは、防壁がかなり傷んでいるか、近隣の治安が悪化している証拠だな。これは交渉材料になるぞ。それに見た感じ木製の防壁しかなかったもんな)
悠がそんな思考を巡らせていると、役人が木簡を差し出してきた。
「よし、これで取引成立だ。お前のレンガは、その手押し車一台分で、油六壺で買い取る。手数料を引いて、残りはこれだけだ」
悠は目を細め、一歩前に踏み出した。
「手数料を引くのは構いませんが、このレンガの品質に対してその買値は安すぎませんか? 王都の職人が作ったとしても、これほどの強度は出せないはずです。買い取りの油の量を、せめて2倍にしてください。さもなければ、このレンガを他の商人に売るか、別の街に持っていきますよ」
「なっ……! たかが開拓民の分際で、生意気な! 役所の提示に文句をつける気か!」
「文句ではなく、正当な価値の主張です。このレンガなら、防壁の強度を格段に上げられる。領主様もレンガの不足にお困りなのでは?」
悠が奥の木簡を指さすと、役人は顔を真っ赤にして絶句した。
「貴様……っ」
「いい交渉ね。耳が痛いわ」
その時、役所の奥の重厚な扉が開き、凛とした女性の声が廊下に響き渡った。
現れたのは、真っ赤なドレスを身に纏い、豊かな赤髪をポニーテールに結い上げた、意志の強さが感じられる美女だった。その鋭い赤色の瞳は、悠を手押し車ごと射抜くように凝視している。
受付役人はその姿を見るや否や、椅子から転げ落ちるようにして床に平伏した。
「は、ハンナ男爵様!? どうしてこのような場所に……!」
(この人がハンナ=チェルボ=ラインハルト男爵か。ここで働いてるらしいのはおしゃべりさんのおかげで分かったけど、まさか出てくるとは)
悠は内心で驚きつつも、表情には出さず、軽く一礼した。
ハンナは平伏する役人を無視し、カウンターの上のレンガをヒョイとつまみ上げた。彼女はそれを太陽の光に透かし、自身の爪で軽く弾いた。キン、と硬質な金属音が響く。
「ちょっと見せてもらうわね。……ふぅん、とても素晴らしい品質じゃない。焼きムラも歪みもないわ。ねえ、そこのあなた。この品質なら、わざわざ遠い王都の特級職人から高い輸送料を払って買い付けるレベルよ?で、それを」
ハンナは片眉を跳ね上げ、机の上にある油の量を見る。
「あんた、この油の量バカじゃないの!? この品質のレンガがこの量で手に入るわけないでしょう! もしこの交渉が決裂して、彼が他の領地にこれを持っていったらどうするつもりだったのよ!」
「ひっ、申し訳ございません! 私はただ、規定に則って――」
「規定、規定って、脳みそまで規定でできているのかしら? もういいわ。ごめんなさいね、そこの職人さん」
ハンナは悠に向き直ると、ふっと艶やかな笑みを浮かべた。
「どこかの有名な工房の職人さんかしら? このあたりに、こんな見事なレンガを焼く工房なんてあったかしらね」
「初めまして、俺、悠=ドレイクと申します。工房のことはよく分かりませんが、私が昨日からドレイク村で焼いて作ってきたものです」
悠が平然と答えると、ハンナは瞳を丸くして絶句した。
「名乗り遅れてごめんなさいね、私はハンナ=チェルボ=ラインハルトよ。って、ちょっと貴方。ドレイク村って……昨日、開拓民の申請を受け付けた、あの何もない荒れ地のことじゃないかしら? そこで一日でこれを?」
「はい。まあ、秘密の製法がありまして」
ハンナはしばらく呆然としていたが、やがて楽しそうに喉を鳴らして笑った。
「面白いわね、あなた。いいわ、このレンガは私が直接買い取るわ。……そうね、この品質なら、当初のこいつが提示した量の【五倍】の油量を出してあげる。これでどうかしら? もちろん手数料は取らないわ」
「五倍、ですか」
三十個のレンガを持ってきたので、三十壺と交換だ。もっと持ってくればよかった。レンガが売れなかった時のことを考え、手押し車の少ししか載せてこなかったのだ。
悠は心の中でガッツポーズをしたが、顔はポーカーフェイスを維持した。ここでさらに畳み掛けるのが、茉莉から仕込まれた(あるいは自身の対人経験による)交渉術だ。
「非常に魅力的なご提示です、男爵様。ですが、私たちはまだ開拓を始めたばかりで、道具も資材も不足しています。もしよろしければ、この素晴らしいレンガを定期的に優先してこちらの役所に卸す代わりに……開拓地の免税期間を、三年の予定から『七年』に増やしていただけないでしょうか?」
ハンナは悠をじっと見つめ、その不敵な笑みに興味深そうに目を細めた。
「大きく出たわね。七年の免税なんて、並大抵のことでは認められないわよ?」
「ですが、このレンガがあれば、アントラーの防壁はどの領地よりも頑強になります。それに、私たちが早く自立できれば、将来的にこの町に納められる税や物資も何倍にもなります。男爵様にとって、決して損な取引ではないはずです」
悠の理路整然とした言葉に、ハンナは「くすっ」と笑った。
「いいわ。気に入ったわ、悠=ドレイク。その条件で手を打ちましょう。ただし、毎月決まった数のレンガを必ずここに納めること。破ったら免税は即座に切り捨てだからね」
「感謝いたします、男爵様。約束は必ず守ります」
「よし、じゃあ新しい木簡は私が直々に書いてあげる。その方がいいでしょ?」
ハンナは受付の役人から筆と木簡をひったくると、奇麗な文字で直筆の免税証明とレンガの取引契約を書き上げた。彼女のサインと領主の印章が押されたその木簡は、開拓地ドレイク村にとって、これ以上ない強力な『後ろ盾』となる。
「ほら、これを持っていきなさい。……で、そこのあんた」
ハンナは直筆の木簡を悠に手渡すと、床で震えている受付の役人を冷たく見下ろした。
「あんたは今日限りでここの担当をクビよ。明日から西の鉱山の資材管理にでも行きなさい。そこなら、あなたの硬い頭でも数字の計算くらいできるでしょう?」
「そ、そんな横暴が許されるか!?」
「私は男爵よ? それに私の姉が誰か忘れたのかしら? それとも動物討伐に駆り出されたいの?」
絶望する役人を尻目に、悠はハンナに丁重に礼を言い、油の壺を受け取って役所を後にした。
◇◇◇
役所の外に出ると、心地よい風が悠の頬を撫でた。
手元には、男爵直筆の強力な木簡と、手押し車に載せられた大量の油の壺。
「よしっ! 大成功だ。免税七年に、レンガの買値も五倍。これなら茉莉たちも文句なしで褒めてくれるはず……」
悠はほくほく顔で手押し車を引いていたが、ふと足を止めた。
周囲を見渡す。そこには、ぬかるんだ道と薄汚れたあばら家が並んでいるだけだ。
「……あれ?」
悠はポケットから茉莉のメモを取り出し、項目を読み返した。
『優先して聞くこと:市場で何が売られているか……』
『さらに重要な情報:宿屋、および「市」が開かれる正確な場所……』
「あ、市場がどこにあるか聞くの忘れてた。この町、看板も何もないから全然場所が分からないし……確か前回来た時に行った場所は……」
手押し車を引いたまま、悠はしばし立ち往生した。そして、意を決して回れ右をし、今出てきたばかりの役所の重い扉を再び開けた。
中では、ハンナが書類を片手に部下に指示を出しているところだった。彼女は戻ってきた悠を見て、怪訝そうに眉をひそめた。
「あら、どうしたの? 忘れ物かしら」
「あの……非常に言いにくいのですが……」
悠は照れくさそうに頬を掻きながら、木簡を抱えて言った。
「市場って、ここからどっちに行けばあるんでしょうか?」
ハンナは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした後、役所全体に響き渡るような大爆笑を上げたのだった。
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