第107話 海の上の城壁
潮の匂いと、切り出されたばかりの湿った魔木の香りが、開け放たれた窓から吹き込んできた。
急造された港湾要塞の一角、仮設執務室で、俺は羊皮紙の上に広げられた海岸線の測量図と睨み合っていた。羽ペンを指先で回しながら、小さく溜息を吐き出す。
「船を出すための船着き場を作りたいんだがな……。これだけ魔獣が蠢いている海に、無防備な停泊所を置くのはさすがにリスクが高すぎる」
視線を窓の外へと向ける。
眼下では、泥と汗にまみれた兵たちが、誇らしげな掛け声を上げながら巨大な魔獣の死骸を荷車へ積み込んでいた。ドレイク町へと向かう輸送部隊の列は途切れることがない。
積み荷は魔獣の肉や甲殻だけにとどまらなかった。海沿いで採取されたワカメや昆布らしき分厚い海藻、さらにはミネラルを豊富に含んだ澄んだ海水を波々と湛えた大樽までもが、幾重にも固定されて運ばれていく。塩の精製や出汁取りに使うための貴重な資源だ。
何より驚嘆すべきは、これほどの激闘を潜り抜けたにもかかわらず、味方の被害が『死傷者ゼロ』で済んだことだろう。怪我人すら一人も出していない。パワーレベリングの狂気と、死に物狂いで磨き上げた連携の賜物とはいえ、我軍の頑強さには驚くばかりだ。
「なあなあ! いつになったら海に行くんだよ! さっさと行こうぜ! 悠子爵様!」
バタン! とけたたましい音を立てて扉が跳ね上がり、百花が飛び込んできた。
ピンク色の髪を激しく揺らし、小さな体を小刻みに跳ねさせながら執務机へと詰め寄ってくる。
「落ち着け百花。気持ちは分かるが、船を安全に出し入れできる港湾拠点が先決だ。波止場もないのに船を出したら、帰ってきた時に接岸できずに魔獣の餌になるぞ」
「むぅ……海が目の前にあるのに、お預けなんていやだ!」
ぷうと頬を膨らませて不満を露わにする百花を宥めていると、執務机の脇に控えていたジークが、静かに深々と頭を垂れた。その端正な顔立ちには、どこか自嘲めいた翳りが落ちている。
「……申し訳ありません、悠様。今回ばかりは、私の浅薄な知恵では役に立ちようがありません。海という未知の戦場、さらには陸の常識が通じぬ魔獣の生態……ウィルダムのいかなる戦史にも、これほどの防衛構想の前例は存在しないのです」
「そんなことないと思うぞ?」
俺はペンを置き、恐縮するジークの目を真っ直ぐに見据えた。
「俺がこうして防衛や都市の構想に没頭していられるのは、ジークが兵站の手配から補給路の確保といった山のような雑務を全部一人で捌いてくれているおかげだ。ジークがいなきゃ、一日で破綻してる。本当に感謝してるんだぞ」
「悠様……。勿体なきお言葉にございます。そう仰っていただけるのならば、この身を粉にしてでも軍務を全ういたしましょう」
ジークは胸に手を当て、感極まった様子で深く礼を執った。
気を取り直して、俺は机上の地図を指先で叩く。
「さて、防衛設備だが……。幸いなことに、俺たちが占拠したこの港の周辺は、浅い大陸棚が沖合まで長く続いている」
奥の方に見える山のごとき超巨大魔獣は、この浅瀬には入ってこられない。天然の防壁として機能しているわけだ。だがそれは同時に、こちらの大型船も浅瀬に足を取られて航行できないという諸刃の剣でもあった。
「いっそのこと、頑丈な城壁のような防波堤でこの湾一帯を完全に囲い込んでしまおう。海への出入り口を三箇所だけ設けて、そこから船を統制しながら出入りさせる形にする。これなら外海からの魔獣の侵入を監視・迎撃しやすい」
「海上に城壁を……! まさに逆転の発想にございますね」
方針が決まるや否や、俺はすぐさま建築班の棟梁たちを呼び集め、矢継ぎ早に指示を飛ばした。
◇◇◇
そこからの作業スピードは、常軌を逸していた。
現場に投入された兵と職人たちは、土木作業すらもレベリングの一環と言わんばかりの勢いで木材を組み上げていく。
(気のせいかレベリングが地球で言う『スパルタ』みたいな使われ方をしている気がする。……気のせいであってほしい)
わずか一週間が経過する頃には、海上にそびえ立つ魔木製の港湾要塞が輪郭を現していた。頑強な魔木を何重にも打ち込んだ防波堤が波を遮り、穏やかになった内海で船の出入りが本格的に可能となった。突貫工事ゆえに細かな利便性や装飾は後回しだが、物資の揚陸効率は見違えるほどに跳ね上がった。
だが、海に巣食う魔獣たちもただ黙って見過ごすはずがなかった。
完成した防壁を嗅ぎつけたのか、魔獣の群れが再び押し寄せてきたのだ。しかし、魔木製の海上壁はビクともしない。強烈な体当たりや水のブレスを浴びせても傷一つ付かないと悟るや、魔獣たちは狡猾にも進行ルートを変え、壁の途切れた無防備な海岸線を目指して大きく迂回を始めた。
「回り込もうって魂胆か。奴ら賢いな」
俺は要塞の物見櫓から海を見下ろし、即座に追加の号令を下した。
「目に映る範囲の海岸線、すべてを港湾要塞で覆い尽くせ! 陸側も内陸深くまで防壁で囲い、完全に遮断する!」
周囲からは「景観が台無しになるのでは」と危惧する声もあったが、一蹴した。遠距離から高圧水流を放ってくる魔獣がいる以上、景観なんて気にしてられない。景観よりも安全が最優先だ。
……そもそも景観を気にするほど良い景色か? 魔獣しかいないぞ?
それからさらに二週間――着工から三週間が経つ頃には、仮設の魔木要塞は、見事な切石積みの重厚な石製港湾要塞へと進化を遂げていた。
だが、職人たちの目はこれしきの成果では満足していなかった。
「悠様、この石壁の外側をレンガで補強し、いずれはあの『コンクリート』とやらで固めましょう!」
「いやいや、骨組みに鉄を通した『鉄骨鉄筋コンクリート』の方が強度が出ますぜ! 最終的には全面を分厚い金属装甲板で覆っちまいましょう!」
現場の熱狂的な議論の末、段階的にさらなる増築工事を推し進めることで話がまとまった。これで当面の間、この地の公共事業が途切れる心配は完全に消え去ったと言っていい。
最後までお読みいただきありがとうございます。




