第100話 百花のじいちゃんはすごかった
広大な八龍城の大広間を、氷点下のごとき冷たい静寂が吹き抜けた。
元男爵たちは「い、今のは何かの暗号か……?」「意識と騎士……?」と完全に思考停止して目を白黒させている。
(……や、やっべぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!! 滑った!! ド滑りしたぁぁぁぁぁ!!)
心の中で絶叫が木霊する。恥ずかしさのあまり顔から火が出そうだ。穴があったら入りたい。いや、今すぐ助走をつけてヘッドスライディングで飛び込みたい。
そんな凍りついた空気を、背後に控えていた妻の一声が容赦なく叩き割った。
「誰がうまいこと言えって言ったのよ」
絢乃の呆れ果てた、しかし完璧なタイミングのツッコミだった。
それを皮切りに、横にいた茉莉がプッと吹き出し、ルフがクスクスと口元を手で隠し、控えていたドレイク家の文官や兵士たちからも堪えきれない笑いがドッと広がった。
その温かな笑い声に救われたのか、質問していた男爵がハッと我に返り、必死に言葉を絞り出した。
「よ、鎧もキシキシ言いますしね……!」
元男爵なりの、命懸けのダジャレのフォローだった。
「お主、分かってるではないかーーっ!!」
俺は己の猛烈な恥ずかしさを力技でかき消すため、大広間に響き渡るような大声で叫んだ。
ドッと男爵たちの間にも安堵の混ざった笑いが広がり、張り詰めていた重苦しい空気が一気に霧散していく。
「コホン……! 話を戻すが、騎士の身分はそのまま維持して構わない」
俺は手元の湯呑みを持ち上げ、冷めたお茶をグッとあおって喉を潤した。
「領地を守るための専属兵士がいるのは当然のことだ。むしろ、希望するならば何人かの騎士をこのドレイク町に派遣し、うちの兵たちと一緒にレベリング──合同訓練をさせてもいいぞ。もちろん強制ではない、希望者のみを募る形だ」
「ほ、本当によろしいのですか……!?」
質問した男爵が、信じられないものを見るように目を見開いた。
「ハンナ様やクリスティーナ様をはじめとする武士の方々の圧倒的な強さは、この地で特別な訓練を受けた賜物だと聞き及んでおります! ぜひ……ぜひ我らの騎士たちにも、その薫陶を受けさせてやってください!」
「ああ、いつでも連れてくるといい」
俺が力強く頷くと、広間にいたすべての男爵たちが一斉に膝をつき、深々と頭を垂れたのだった。
◇◇◇
謁見を無事に終え、龍栖館の執務室へと戻ってきた俺は、どっと押し寄せてきた精神的な疲労を息とともに吐き出しながら、再び書類仕事に取り掛かっていた。
──バァァァン!!
「悠様ぁぁぁ!! 俺もお供させてくれぇぇぇ!!」
前触れもなく執務室の重厚な扉が勢いよく蹴破らんばかりの勢いで開け放たれ、元気の塊のような大声が部屋中に炸裂した。
飛び込んできたのは、鮮やかなピンク色のショートヘアを揺らし、爛々と目を輝かせた少女──百花だった。
「ひゃっ!? も、百花さん! 無礼ですよ! ノックもせずに飛び込むなんて……! 悠様、大変申し訳ございません! 後できちんと教育し直しますので……!」
後ろから息を切らしながら滑り込んできて、直角に腰を折って平謝りしたのはフィオナだ。
ただの秘書のままだと何かと立場が不安定だったため、先日正式に『筆頭秘書官』として任命し、こうして俺の身の回りの補佐や内政の実務を精力的にこなしてもらっている。
「まあまあ、フィオナ、落ち着いてくれ。……ところで百花、お主いくつなんだ?」
「俺か? 二十歳だぞ!」
百花は汚れていない綺麗な和服の上から、誇らしげにドンと胸を叩いた。
「二十歳!? 立派な大人じゃないか! ならもう少しぶ」
『分別を』と言いかけて、俺はすんでのところで口をつぐんだ。人のことを言えないからだ。
「ふん! 大人になったらあっという間に老いちまうんだ! だから俺は、やりたいことをやって自由に生きる! そう、じいちゃんのようにさ!」
「そうか。なんか良いおじい様だったんだな。俺とも話が合いそうだ」
「じいちゃんはもう死んだ!」
あっけらかんと、まるで「昨日の晩飯がうまかった」とでも言うような軽快さで言い切る百花。
「……あ、す、すまん。申し訳ないことを聞いた」
「いいんだよ! 言ってなかったのは俺なんだからさ!」
百花はニカッと八重歯を覗かせて笑った。眩しい太陽のような笑顔だ。見ているこちらまで釣られて頬が緩んでしまう。
「それよりさ! 海、行くんだろ!?」
「海? ああ、いつか未開地を開拓して、美味しい海の幸を探しに行きたいとは思ってるけど……」
「今行こうぜ!!」
「ええっ!? そんな急に言われてもな、準備ってものがだな……」
「俺のじいちゃん、昔すげぇ船長だったんだぜ! イグなんちゃら王国ってとこのデカい船を動かしててさ! 俺、じいちゃんから船の動かし方も、海の地図の書き方も全部教わったんだ!」
──カチリ。
俺の脳内で、何かのスイッチが音を立てて切り替わった。
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