第9話 大麦と菜種油の経済
町の中に足を踏み入れた瞬間、悠たちを包み込んだのは、雑多な喧騒と、様々な匂いが入り混じった独特の空気だった。
その中を大麦を入れた背負子を背に歩いていく。もちろん持つのは俺だけだ。
露店から立ち上る香ばしいパンの匂い。手押し車が土埃を巻き上げる音。呼び込みの声、値切り交渉の声、子供たちの笑い声。
「……なんか、想像してたより活気あるわね」
茉莉が周囲を見回しながら、感心したように呟く。
「情報収集って言っても、まずどこから見ればいいんだ?」
悠が首を傾げると、茉莉がすっと目を細めた。
「まずは市場よ。人の営みの根っこは、いつだって『金』の流れの中にあるの」
その言葉通り、茉莉は迷うことなく市場の中心へと足を進めていく。悠と絢乃、そしてルフもそれに続いた。
◇◇◇
露店に並ぶ品々を眺めながら歩いていくと、あちこちで客と店主のやり取りが交わされていた。
「これで、大麦二桝分だ」
「はいよ、確かに」
客が葛布の袋の口を開け、中の大麦を桝で量って店主に渡す光景を、何度も目にする。
「……大麦、そのままお金みたいに使われてるのね」
茉莉が顎に手を当てながら分析する。
「単位は『桝』ってところかしら。庶民の日常的な買い物は、これで回ってるみたい」
「へえ……それって、腐ったりしないのかな」
悠が素朴な疑問を口にすると、絢乃がくすりと笑った。
「大麦は保存が利くから、通貨代わりにはぴったりなのかもね。パンにすると美味しくなかったはずだけど」
四人が市場をさらに奥へと進んでいくと、少し様子の違う一角に差し掛かった。
そこにあったのは、家屋や土地の権利を扱う商人たちの店だった。
「この家なら、油二十壺は下らんぞ」
「うちの蔵に眠っている油と交換なら、話は早いんだがな」
その会話に、茉莉の目がすっと鋭くなる。
「……壺? 油が、高額の取引に使われてる?」
「大麦が小銭だとしたら、油は……札束みたいなものなのかな」
絢乃の言葉に、茉莉が頷いた。
「油は精製にも保存にも手間がかかるし、量産が難しいから、価値が高いんでしょうね。建物みたいな高額な取引は、大麦じゃ量がかさばりすぎて現実的じゃない。だから油で決済する、と」
「うん……大麦が桝、油が壺、か」
悠がぽつりと呟きながら頭の中に刻み込む。
異世界に来て、初めて触れる「生きた経済」の仕組み。ゲームの中でしか知らなかった通貨や取引の概念が、現実として目の前で動いている。それは奇妙で、けれど確かな手触りのある実感だった。
◇◇◇
市場をさらに歩いていくうちに、悠はふと、周囲の人々の体格や動きに違和感を覚えた。
誰も彼も、驚くほど「普通」なのだ。
力仕事をしている男たちも、荷物を運ぶ商人たちも、地球の一般人と大差ない筋肉のつき方をしている。悠自身の、あの規格外のステータスと比べれば、あまりにも当たり前で、あまりにも脆弱な身体たち。
『魔獣』という脅威がある割には、現代人並みの肉体をしていることに違和感を感じたのだ。
その予感は、ある一軒の店の前で確信に変わった。
「……高っ」
肉屋の店先に並ぶ肉の塊の値札を見て、悠は思わず声を漏らした。
パン一個の値段に対して、肉の塊はその何十倍もの大麦を要求している。
「随分と高いのね、これ」
絢乃も驚いた様子で値札を見つめる。
近くにいた客と店主の会話に、思わず耳をそばだてた。
「今回もよく獲れたな」
「ああ、村総出で丸一日がかりよ。10人怪我人が出た。あの牛の群れは、簡単には狩らせてくれん」
「命がけだもんなぁ、この稼業は」
その言葉に、茉莉の表情が引き締まる。
「動物一匹狩るだけでも、大人数でなきゃできない命がけの仕事……ってことね」
「……俺のステータスだと、多分あの動物、片手で終わる気がするんだけど。指をピンってするだけな感じで」
悠が小さく呟くと、絢乃がそっと悠の腕に手を添えた。
「悠君の力が、どれだけこの世界で強かったとしても……危ないことはしないでね」
その言葉には、不安げな響きが混じっていた。
◇◇◇
ある程度歩き回ったところで、茉莉が次の目的を口にする。
「情報収集の場所として、冒険者ギルドみたいなものがないか探してみましょう」
四人で町を歩き回りながら、それらしき看板や建物を探すが、いくら探しても見当たらない。
通りすがりの人に、それとなく「動物討伐や雑用依頼を斡旋してくれるような場所は?」と尋ねてみても、きょとんとした顔をされるばかりだった。
「……ないのか、そういうの」
悠が肩を落とす。
「異世界ファンタジーだったら絶対あるやつだったのになぁ」
「まあ、この世界は私たちが知ってるファンタジーとは、違うルールで回ってるってことよ」
茉莉が現実的に受け止め、次の情報へと意識を切り替える。
◇◇◇
そうして市場を歩いていた時だった。
「おやおや、見ない顔だねぇ」
馴れ馴れしい声とともに、恰幅の良い商人の男が、にやにやとした笑みを浮かべながら近づいてきた。
「田舎から出てきたばかりかい? それなら、これなんかどうだい。良い品だよ」
差し出されたのは、明らかに粗悪な作りの布や道具だった。それでいて、提示された値段は法外に高い。
「これ、相場の三倍はぼったくってるわね」
茉莉が小声で悠に耳打ちする。
「田舎者だと思って、足元見てるのよ」
「へえ、そりゃ随分と商売上手なんだな」
悠がやんわりと笑いながら言うと、商人はぎくりとした顔を見せたが、すぐに愛想笑いで誤魔化す。
「い、いやなに、これくらいの値段が普通で……」
「結構です。気持ち悪いので近づかないでください」
絢乃がきっぱりと断ると、商人は不満げな顔をしながらも、他の獲物を探しに人混みの中へと消えていった。
「……ふん」
茉莉がその後ろ姿を睨みながら、静かに呟いた。
「覚えておくわ、あの顔。いつか私たちの町ができた時には、真っ先に潰してあげる」
「怖っ……」
悠が苦笑いを浮かべる横で、絢乃も小さく頷いていた。それは冗談交じりの言葉のようでいて、確かな決意を秘めた響きを持っていた。
◇◇◇
日が傾き始めた頃、四人は町の外れに座り込み、今日一日で得た情報を整理していた。
「経済の仕組みも、この世界の力関係も、だいたい掴めたわね。本当はもう少し市場を見てみたかったけど……仕方ないわ」
茉莉が指を折りながらまとめていく。
「大麦が日常の通貨、油が高額取引の通貨。人の身体能力は全体的に低くて、動物を狩るのすら命がけ。冒険者ギルドみたいな組織はない」
「あとは、ぼったくり商人がいることも分かったな」
悠が付け加えると、絢乃がくすりと笑った。
「それも大事な情報よね」
茉莉が地図を思い浮かべるように視線を上げる。
「さて、これからのことだけど。私たちが暮らす場所、決めましょうか」
「うーん」
悠が腕を組んで考え込む。
「あの農奴の集落、結構痛々しい感じだったし……あそこよりもさらに北東の方に、まだ誰も住んでない土地があったよな。あそこなら、誰にも文句を言われずに好きにできそうだけど」
「それがいいわね」
絢乃が頷く。
「土地の所有者がいないなら、まずそこで生活基盤を整えるのが安全よ」
「大麦は税で納めるから育てるとして、他にも良さそうな作物があったわね」
茉莉が今日見てきた市場の作物を思い出しながら言う。
「まずは畑を作って、そこから少しずつ広げていく感じかしら。葛が生えてるのも見えたから、葛布を作るのもいいわね」
「よし、決まりだな」
悠が立ち上がり、遠くに広がる夕暮れの空を見つめた。
オレンジ色に染まっていく町の屋根、行き交う人々の影。この世界の現実を、今日初めて肌で感じた一日だった。
「ここから、俺たちの生活が始まるんだな」
その言葉には、これまでの気楽さとは少し違う、確かな決意のようなものが滲んでいた。
絢乃と茉莉が顔を見合わせ、静かに微笑む。
四人は夕陽を背に、これから自分たちの手で築いていく新しい暮らしへと、静かに歩き出した。
最後までお読みいただきありがとうございます。
PS
土地の選定って大事だよね。
サバイバル系のMMOって大体いい感じの場所取られてるっていうのあるあるで困る。
かといって人がいないのも交流がなくて困る。
でも本当にいい場所って、多くの人が住み始めないとわからないんだよね。
それが面白い。




