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【第44話】背中を押す人たち

【第44話】背中を押す人たち


 木曜日の朝。四日ぶりにアラームで起きた。


 理由は簡単だ。昨夜、二十三時に眠れた。月曜から水曜まで眠れなかった人間が、四日目にして眠れた。睡眠が戻った。なぜか。


 覚悟が決まったからだ。


 昨夜のLINE。『明日、ちゃんと言う。だから待ってて』。自分で打った言葉。自分で送った約束。


 今日の放課後。保健室で。神代さんに、言う。


 原稿はない。五十パターン全部捨てた。何を言うかは決めていない。決めないと決めた。出た言葉が全てだ。


 それでいい。それしかない。


 制服に着替えた。ネクタイを一発で結べた。三日ぶりだ。指が震えていない。心臓は早いが、膝は笑っていない。体が「今日で終わる」と理解している。良くも悪くも、今日で終わる。


 鏡を見た。隈は残っているが、朝倉先生に言われた「目」は──どうだろう。自分ではわからない。


 鏡の中の自分に、最後の練習をしなかった。もう鏡は要らない。次に「好きだ」を言うのは、鏡の前ではない。


 ◇


 登校。


 校門をくぐった瞬間、スマホが震えた。LINE。杏から。


 『おはよ!! 今日だね!! 大丈夫!! 湊くんなら絶対大丈夫!!!!』


 朝七時四十五分に感嘆符を十二個打てる人間がいる。エネルギー量が人類の平均値を超えている。太陽光発電並みの出力。


 返した。


 『ありがとう』


 五文字。杏への返信としては過去最長かもしれない。普段は「おう」か「うん」だ。


 返信。一秒。


 『泣ける!! 湊くんがありがとうって!!!!』


 泣くほどか。──いや、この人はそういう人だ。他人の一歩を自分のことのように喜べる。善意の暴走は迷惑だが、善意の全力疾走は眩しい。


 教室に入った。


 八代が自席にいた。こちらを見て、一瞬だけ目を細めた。それから、何事もなかったように視線を戻した。


 ──こいつも、知っている。


 水曜の帰り際に「なんか知らないけど頑張れ」と言った男だ。「なんか知らない」は嘘だった。全部知っている。杏から聞いたのか、自力で察したのか。たぶん後者だ。八代は情報の拡散者だが、同時に優秀な受信機でもある。空気を読む精度が高い。普段はそれを「面白い方向」に使うが、本気のときは黙る。


 今日の八代は、黙っている。


 一時間目が始まった。


 ◇


 二時間目と三時間目の間の休み時間。


 廊下を歩いていた。水を買いに自販機へ向かう途中。


 後ろから声がかかった。


「──黒瀬くん」


 振り返った。柊栞。風紀委員の腕章をつけている。髪をきっちり結んで、姿勢がいい。手には何も持っていない。あの分厚いファイルがない。


「……柊」


「少し、いいですか」


 壁際に寄った。廊下の人通りが横を流れていく。


 柊が俺の正面に立った。真面目な顔。いつも真面目だが、今日のは種類が違う。調査の目ではない。


「単刀直入に聞きます」


「……何を」


 柊の目が真っ直ぐこちらを射抜いた。


「今日、放課後に──何かありますか」


 この学校に秘密は存在しないのか。全員がエスパーなのか。


「……なんで」


「今朝、白石さんが廊下で小さくガッツポーズしていました。それを見て、八代くんが珍しく静かでした。黒瀬くんは四日間顔色が悪かったのに、今日だけ目が違います。──状況証拠は十分です」


 状況証拠。この人は最後まで調査員だった。だが今日の調査は、風紀委員としてではない。


「……あるよ。放課後に」


 言った。柊には言えた。不思議だった。この人には「大事な人だと思う」も言えた。相手によって出力の閾値が違う。柊の前では、なぜか嘘をつく気にならない。真面目な人間には、真面目に返したくなる。


 柊が少し目を見開いた。それから、唇の端が上がった。笑っている。柊が笑っている。ファイルを閉じた日以来、二度目の笑顔。


「……そうですか」


 柊がポケットから何かを取り出した。小さな紙片。折り畳まれている。


「これを」


 受け取った。開いた。


 メモ用紙。柊の字。几帳面な筆跡。


 ──『応援しています。 柊栞』


 一行。それだけ。


 なぜ紙で渡すのか。LINEでいいだろう。──いや、この人はそういう人だ。紙に書いて、直接渡す。デジタルではなくアナログ。風紀委員らしい律儀さ。あの分厚いファイルも手書きだった。


「……ありがとう」


「頑張ってください」


 柊が一礼して去った。背筋が伸びている。歩幅が均一。最後まで柊栞だった。


 メモを制服のポケットに入れた。紙の角が指に触れた。


 ◇


 四時間目。昼休み前の最後の授業。


 時計を見た。十一時四十分。あと二十分で昼休み。昼休みの後に五時間目と六時間目。六時間目が終わったら放課後。放課後が来たら、保健室。


 カウントダウンが始まっている。残り五時間弱。数字が具体的になると、心臓が反応する。体温が上がる。掌に汗が滲む。


 だが、膝は笑っていない。足は震えていない。


 火曜とも水曜とも違う。あの二日間は恐怖だった。言えない恐怖。失敗する恐怖。変わってしまう恐怖。


 今日は──違う。


 怖い。怖いのは変わらない。だが、怖さの質が変わった。「言えなかったらどうしよう」ではなく、「言った後、何が起きるだろう」に移っている。視線が、未来に向いている。


 チャイムが鳴った。昼休み。


 ◇


 昼休み。保健室。


 ドアの前で立ち止まった。今日、ここに来るのは昼が最後だ。次にこのドアを開けるとき、俺は告白をする。


 ──重い。ドアが重い。物理的には軽い引き戸だが、意味が重い。


 開けた。


「湊くん♡」


 神代さんがいた。いつもの場所。隣の席。窓から光が入っている。十一月の柔らかい光。


 だが──今日の神代さんは、少しだけ違った。


 いつもの甘い声。いつもの笑顔。だが、目の奥に緊張がある。昨夜のLINEを読んでいる。『明日、ちゃんと言う。だから待ってて』。この人は、今日が「明日」であることを知っている。


「……おう」


 隣に座った。弁当箱を出した。


 神代さんも弁当箱を出した。蓋を開けた。


「今日は、湊くんの全部入りにしたよ♡」


 蓋を開けた。唐揚げ、卵焼き、生姜焼き、ブロッコリー、ミニトマト。これまでの弁当のベスト盤だ。全メニューが一つの箱に集結している。アベンジャーズだ。弁当界のアベンジャーズ。


「……すごいな」


「八日目♡」


 八日目。カウントが続いている。明日からは九日目になる。なるのか。──なる。明日も、明後日も。告白しても、ここで弁当を食べる。弁当の味は変わらない。変わるのは、俺の気持ちの名前だけだ。


「……うまい」


「嬉しい♡」


 食べた。全部うまかった。味がする。はっきりする。今週で一番味がする。覚悟が味覚を最適化している。


 食べ終わった。箸を置いた。


 朝倉先生がデスクにいた。書類を書いている。こちらを見ない。


 ──だが、昼休みの終わり際に、先生が立ち上がった。


「黒瀬くん」


 呼ばれた。先生が俺のそばまで来た。神代さんの隣で。


 先生は神代さんを見て、俺を見て、小さく息を吐いた。


「今日の放課後、私は五時まで会議」


 事務的な口調。報告。業務連絡。


「保健室は空けておくから、戸締りだけよろしく」


 ──空けておく。


 五時まで会議。保健室は無人になる。俺と神代さんの二人きり。条件が、整う。


 偶然か。偶然ではない。先生は「何か決めた人の目をしてる」と昨日言った。今日が何の日か、知っている。知っていて、場所を作ってくれている。


「……はい」


 それだけ返した。声が少し震えた。先生は何も言わず、デスクに戻った。


 神代さんがこちらを見ていた。先生のやり取りを聞いていた。「五時まで会議」の意味を理解している。


 目が合った。


 神代さんが微笑んだ。いつもの保健室モードの笑顔ではなかった。少し唇が震えていた。緊張している。この人も、緊張している。


「……放課後、ね♡」


「……うん」


 チャイムが鳴った。昼休みの終わり。


 立ち上がった。神代さんも立ち上がった。ドアの前で少しだけ並んだ。


 神代さんが小さく言った。


「……今日の弁当、全部食べてくれてありがとう♡」


「……全部うまかった」


 神代さんが目を細めた。嬉しそうだった。だが、その嬉しさの奥に、別の色があった。祈りに似た何か。


 ドアを出た。廊下で別れた。右と左。別々のクラスへ。


 ──次に会うのは、放課後。


 ◇


 五時間目。


 ポケットの中のメモが、太ももに当たっている。柊のメモ。『応援しています』。紙の角が尖っている。小さな痛みが、現実を繋ぎ止めている。


 授業の内容が頭に入らない。だが、ノートは白紙ではない。意味のない線を引いている。ペンを動かしていないと手が震える。動かしていれば、震えが止まる。


 六時間目。最後の授業。


 古文。「徒然草」の続き。昨日と同じ段。「花はさかりに」。先生が解説している。


「──つまり兼好法師は、完璧な状態だけが美しいのではない、と言っているわけですね」


 完璧でなくても美しい。


 ──杏が言った。「上手くなくていい」。朝倉先生が言った。「わかるまで大事にしなさい」。八代が言った。「ズルいのはやめろ」。柊が書いた。「応援しています」。


 兼好法師まで味方についている。八百年の時を超えた援軍。味方が多すぎる。一人で決めて一人で実行するはずだったのに、いつの間にか包囲されている。ただし敵の包囲ではない。味方の包囲。四方八方から背中を押されている。


 ──一人じゃなかった。


 保健室に逃げ込んでいただけの自分に、いつの間にか人がいた。


 八代は噂を広める迷惑な男だったが、屋上で「ズルいのはやめろ」と踏み込んでくれた。柊は風紀を盾にした調査員だったが、最後に「応援しています」とメモをくれた。杏は善意の暴走機関車だったが、「上手くなくていい」と核心を教えてくれた。朝倉先生は管轄外を貫いたが、場所を空けてくれた。


 全員が、俺の知らないところで、俺のために動いている。


 いや──俺のためだけではない。神代さんのためでもある。二人のために。この保健室で生まれた、何か名前のつかない関係のために。


 時計を見た。三時二十分。あと十分で六時間目が終わる。


 心臓が喉元まで上がっている。手が冷たい。背中に汗をかいている。教室の暖房のせいではない。体温の調節が狂っている。戦闘前の兵士が体温を上げるのと同じ反応だ。


 時計。三時二十五分。あと五分。


 教科書の文字が揺れている。視界が狭くなっている。トンネルのように。焦点が時計の針だけに絞られている。


 三時二十八分。


 三時二十九分。


 ──鳴った。


 チャイム。六時間目の終了。放課後の始まり。


 教室が動き始めた。椅子を引く音。鞄を持つ音。「部活行くか」「帰ろうぜ」の声。日常の音。みんなにとっては普通の木曜日の放課後。


 俺にとっては、違う。


 鞄を持った。立ち上がった。


 八代が正面にいた。目が合った。


 八代が言った。


「おい黒瀬。今日、学食でカツ丼食ったんだけどさ」


「…………」


 八代が鞄からコンビニの袋を出した。


「ゲン担ぎってわけじゃないけど。──余ったから」


 机の上に袋が置かれた。中身。カツサンド。


「……なんだこれ」


「だから余ったんだって。食いたきゃ食え。別にお前のために買ったとかじゃないから」


 嘘だ。全部嘘だ。学食のカツ丼とコンビニのカツサンドに何の関連もない。「余った」カツサンドは存在しない。わざわざ買ったのだ。俺のために。


 だが「俺のために買った」とは言わない。「余った」と言う。──ズルい。ズルいのは俺だけじゃなかった。こいつもズルい。優しさを別の言葉で包む。照れなのか意地なのか、たぶん両方だ。


「……サンキュ」


「別に。余っただけだから」


 八代がにやっと笑った。目が笑っていた。口元は軽いが、目は本気だった。


「──行ってこい」


 小声だった。クラスメイトには聞こえない音量。俺にだけ届く声。


「…………おう」


 鞄を持った。カツサンドをポケットに入れた。──入らない。鞄に入れた。ポケットには柊のメモがある。反対のポケットには、月曜に神代さんにもらった目元用クリームの残りがある。


 荷物が増えている。いつの間にか。


 鞄の中に弁当箱がある。神代さんが作った「全部入り」の空き箱。洗って返す。今日のうちに。──告白の後に、返す。


 教室を出た。


 廊下を歩いた。


 保健室に向かう廊下。何百回も歩いた。逃げ込むために。逃げ込む以外の目的で歩いたことがない道。


 今日は違う。


 逃げ込むのではない。向かっている。自分の足で、自分の意思で、あの場所に向かっている。


 廊下の窓から夕方の光が差している。十一月の光。オレンジ色が薄い。冬が近い。空気が冷たい。吐く息が白くなりかけている。


 足音が聞こえる。自分の上履きがリノリウムの床を踏む音。軽い音。だが一歩ごとに、何かが積み重なっている。


 保健室が見えた。廊下の突き当たり。白いドア。小さな窓。カーテンが閉まっている。朝倉先生は会議で不在。中は無人のはずだ。


 ──いや。


 無人ではない。


 神代さんが、待っている。


 昨夜のLINE。『明日、ちゃんと言う。だから待ってて』。澪の返信。『うん』。一文字と一つの記号。


 待っている。あの人は、この扉の向こうで、俺を待っている。


 ドアの前で止まった。


 心臓がうるさい。体中の血液が顔面に集合している。手が冷たい。足の裏に汗をかいている。


 ポケットのメモに触れた。紙の角。柊の字。『応援しています』。


 杏の声が聞こえる。「上手くなくていい」。


 八代の声が聞こえる。「行ってこい」。


 朝倉先生の背中が見える。「空けておくから」。


 ──一人じゃない。


 深呼吸した。吸った。吐いた。もう一回。吸った。吐いた。


 手をかけた。引き戸の取っ手。冷たい金属。何百回も触った取っ手。


 引いた。

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