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【第45話】保健室の告白──前編

【第45話】保健室の告白──前編


 神代さんがいた。


 窓際の椅子に座って、外を見ていた。制服のスカートの上に両手を重ねている。膝の上。指先が白い。力が入っている。


 俺がドアを開けた音で振り返った。


 目が合った。


 いつもの甘い呼びかけは──来なかった。


 代わりに、唇が小さく動いた。声にならない何かを形成して、すぐに閉じた。それからもう一度、今度は音になった。


「……来てくれた」


 記号がない。甘さがない。保健室モードの余裕がない。声が震えてもいない。ただ、事実を確認するような、静かな声だった。


 来てくれた。──当たり前だ。来ると約束した。「ちゃんと言う」と約束した。来ないという選択肢は、昨夜の時点で消した。


「……うん」


 入った。ドアを閉めた。引き戸がレールの上を滑る音。ガタン。それから、静寂。校舎の喧騒が遮断された。放課後の廊下の足音も、部活の掛け声も、全部ドア一枚の向こうに消えた。


 保健室は空だった。朝倉先生は五時まで会議。ベッドは二台とも空いている。白いシーツに夕日が当たってオレンジ色に染まっている。デスクの上にコーヒーカップが伏せて置いてある。先生が洗ってから出たのだろう。カーテンは半分開いている。窓の外に十一月の空。夕焼けが始まりかけている。まだ赤くはない。薄い橙色。黄昏の手前。


 消毒液の匂いがした。いつもの匂い。何百回も嗅いだ匂い。一年生の春から、ずっと。


 ──この匂いの中で、俺は一年半、逃げていた。教室から逃げて、人から逃げて、この白い部屋でカーテンを閉めて丸くなっていた。それが俺の日常だった。


 変わったのは、この人が来たからだ。


 神代さんの隣まで歩いた。いつもの椅子。いつもの位置。いつもの三十センチ。


 座った。


 鞄を足元に置いた。鞄の中に弁当箱がある。今日の昼、神代さんが作った「全部入り」の空き箱。洗って返す。告白の後に。──告白の後に、という思考が平然と出てくる。もう引き返せない場所に立っている。


 椅子の座面が硬い。パイプ椅子。折り畳み式。保健室の備品。このパイプ椅子に何百回座ったか覚えていない。一年生の春から数えたら三桁に届くだろう。同じ椅子。同じ角度。同じ高さ。だが今日は、座り心地が違う。緊張で臀部の感覚が過敏になっている。座面の金属板の継ぎ目が、制服越しに感じ取れる。


 隣を見た。三十センチ。神代さんの左手が、俺の右手の三十センチ先にある。最初の日、この距離は「近すぎる」だった。一週間で「いつもの距離」になった。七ヶ月経った今は「ちょうどいい」だ。──ちょうどいい。三十センチが。他人との距離としてはありえない近さが、この人とだけは丁度いいと感じている。


 壁の時計が目に入った。三時三十八分。秒針が動いている。カチ、カチ、カチ。普段は聞こえない音が、今日は鼓膜に刺さる。一秒ごとに針が進む。当たり前だ。時計は一秒ごとに進む。だが今日の一秒は長い。体感で三秒ある。時間の密度がおかしい。


 壁に貼ってあるポスターが見えた。「正しい手洗い──感染症予防のために」。イラストの子どもが笑顔で泡立てた手を見せている。場違いだ。今この空間で手洗いの手順を確認している場合ではない。


 その隣に、骨格標本のポスター。人体の骨格図。全身二百六個の骨の名称。頭蓋骨の空洞が二つ、こちらを向いている。──目が合った。骨と目が合った。生きている人間と目を合わせる前に、死んだ骨と目を合わせている。順番がおかしい。


 視線を戻した。窓。夕日。カーテンの端が微かに揺れている。換気口から風が入っているのだろう。布地が呼吸するように、ゆっくりと膨らんで、戻る。


 神代さんはまだ外を見ていた。横顔。切れ長の目。睫毛の影が頬に落ちている。髪が肩を流れている。夕日の光が輪郭をなぞっている。


 きれいだ、と思った。


 思うだけなら何百回も思った。だが今日は、その感想に続きがある。きれいだ。だから好きだ。──いや、きれいだから好きなのではない。きれいなのは事実だが、好きの理由はそこではない。


 この人が保健室に来るようになって、俺の昼休みが変わった。コンビニのパンを一人で食べていた昼が、弁当を二人で食べる昼になった。無言で天井を見ていた放課後が、隣に誰かがいる放課後になった。「別に」しか言えなかった俺が、「すごいな」を言えるようになった。「好き」を唐揚げに向けて口にした。「ありがとう」を絞り出した。


 全部、この人のせいだ。


 ──せい、ではない。おかげ、だ。


 口を開いた。


「…………」


 閉じた。


 何も出ない。空気が通過しただけだ。声帯が仕事を拒否している。脳は命令を出しているのに、喉が受け取らない。回線が切断されている。


 もう一回。


「……あ、」


 一音だけ出た。「あ」。意味のない母音。何の冒頭でもない。単なる声帯のテスト信号。


 神代さんがこちらを見た。外を見ていた目が、俺に向いた。


 ──その目を見た瞬間、また言葉が消えた。


 昨日と同じだ。水曜の放課後と同じ。この人の目を見ると、頭が白くなる。コミュ障だからではない。この人だからだ。瞳の中に自分の顔が映っていて、その顔があまりにも情けなくて、言葉の代わりに羞恥が込み上げる。


 五十パターン。昨夜の三時に全部消した。「好きだ」「好きです」「付き合ってください」。全部、俺の言葉じゃなかった。テンプレートだった。誰かの台本の焼き直しだった。


 原稿を作るな、と決めた。出た言葉が全てだ、と決めた。


 ──出ない。


 出ないのだ。決意と出力は別問題だ。エンジンをかけても、ギアが入らなければ車は動かない。俺の喉はニュートラルのまま空回りしている。


 沈黙。


 時計の針が進む。カチ、カチ、カチ。三時四十分。四十一分。四十二分。


 窓の外の空が、橙色から赤みを帯び始めている。十一月の日没は早い。五時前には暗くなる。時間は有限だ。先生が戻るまでの時間も有限だ。


 だが焦れば焦るほど、言葉は遠ざかる。砂漠で水を求めて走るほど喉が渇くのと同じだ。追いかければ逃げる。言葉は追いかけると逃げる。


 手が震えていた。膝の上に置いた手。指先が冷たい。十一月の保健室は暖房が入っているはずだが、体温調節が狂っている。血液が全部心臓に集まっていて、末端に行き渡っていない。


 ポケットのメモに触れた。柊の字。『応援しています』。紙の角が指に刺さった。小さな痛み。


 もう一回。口を開いた。


「…………」


 駄目だ。空気しか出ない。声帯が反逆を続けている。クーデターだ。脳という司令部が命令を出しているのに、喉という現場が拒否している。民主主義の崩壊。──何の比喩だ。こんなときまで頭の中で比喩を量産するな。


 三時四十五分。七分経った。七分の沈黙。長い。宇宙的に長い。ビッグバンから百三十八億年の歴史の中で、今この七分間が最も長い。


 沈黙が続いている。


 昨日の放課後、ここで同じように沈黙した。あのときは一分、二分。神代さんが「急がなくていいよ」と言って、俺は結局言えなかった。


 今日は違う。今日で最後にすると決めた。杏に宣言した。『明日で最後にする』。八代に背中を押された。柊にメモをもらった。先生に場所を作ってもらった。


 これ以上「明日」を重ねたら、明日は永遠に来ない。for文を抜けなければならない。breakを打たなければならない。ここで。今日。この部屋で。


 神代さんが動いた。


 外を向いていた体が、少しだけこちらに回った。膝の上の手がほどけた。片方の手がスカートの裾を握った。緊張している。この人も、ずっと緊張していたのだ。外を見ていたのは平気なふりではなく、俺を見たら自分も言葉が出なくなるからだったのかもしれない。


「……湊くん」


 声が小さかった。保健室モードの甘さはない。外の顔の丁寧さもない。どちらでもない声。澪という人間の、素の声。


「……ん」


「……何を、言ってくれるの?」


 聞いた。この人は、聞いた。


 「急がなくていい」ではなく、「何を言ってくれるの」。待つのをやめたのではない。待ちきれなくなったのでもない。覚悟が決まったのだ。聞く覚悟。受け止める覚悟。俺が何を言っても、この人はここにいる──そういう覚悟の上の問いかけだった。


 「言ってくれるの」。「言うの」ではなく「言ってくれるの」。──くれる。俺の言葉を、この人は贈り物として待っている。


 胸が痛い。物理的に。心臓の左側あたりが締めつけられている。心筋梗塞ではない。たぶん。恋とか愛とか、そういう単語が脳内で変換を待っている。だが今は名前をつけなくていい。名前をつけるのは、言い終わった後だ。


 心臓が跳ねた。跳ねたが、不思議と落ち着いた。矛盾している。心拍数は上がっているのに、頭の中の霧が晴れていく。


 ──ああ、そうか。


 この人は、俺の言葉を待っている。上手い言葉ではない。正しい言葉でもない。俺の言葉を。俺にしか出せない、不完全で拙くて、たぶん文法も構成もめちゃくちゃな言葉を。


 杏が言った。「湊くんが絞り出した言葉なら伝わる」。


 兼好法師が言った。満開でなくても美しい。完璧でなくても、そこに意味がある。


 五十パターンは全部ボツだった。原稿は作らないと決めた。出た言葉が全てだと決めた。


 ──出なかったらどうしようと思っていた。出なかったら、その沈黙も俺の言葉だ、と格好つけてみたりもした。だが沈黙は言葉ではない。沈黙は逃げだ。俺はずっと沈黙で逃げてきた。「別に」で逃げた。「違う」を言わないことで逃げた。否定できないことを、黙ることで許容してきた。


 もう逃げない。


 逃げたら、この人の「待ってる」を裏切ることになる。月曜の夜の「待ってる」。火曜の夕方の「待ってる」。水曜の放課後の「待ってる」。三回の「待ってる」。全部、本気だった。ぜんぶ、震えていた。


 俺が逃げるたびに、この人は笑って「待ってる」と言い直してくれた。何度でも。何度でも、待つ側の覚悟を背負い直してくれた。


 もうこれ以上、待たせない。今日が最後だ。


 息を吸った。深く。肺の底まで。消毒液の匂いが肺を満たした。この匂いの中で一年半過ごした。この匂いの中で弁当を食べて、ブランケットをかけてもらって、手が触れて、「すごいな」と言って、眠れない夜を過ごして、五十パターン全部消して、ここに立っている。


 いや──座っている。パイプ椅子に。神代さんの隣で。三十センチの距離で。何百回と同じ構図。


 だが今日は最後だ。この構図の最後。明日からは違う名前になる。この三十センチが何なのか、答えが出る。


 息を吐いた。ゆっくり。吐き切った。肺が空になった。空っぽの肺。空っぽの頭。原稿はない。用意した言葉はない。空っぽの俺がここにいる。空っぽのまま、口を開く。


 もう一回、吸った。


 目を開けた。──いつ閉じていたのか覚えていない。


 神代さんを見た。


 夕日の中にいた。オレンジ色の光が、この人の輪郭を溶かしている。切れ長の目が、真っ直ぐ俺を見ていた。潤んでいる。泣いてはいない。だが瞳の表面に光が揺れている。風に吹かれた水面のように。


 この目を七ヶ月間、見てきた。保健室モードの甘い目。外の顔の完璧な目。泣きそうな目。笑っている目。「迷惑?」と聞いたときの不安な目。


 今の目は、そのどれとも違う。覚悟の目だ。俺が何を言っても受け止める、という目。


 目を逸らさなかった。昨日は二秒が限界だった。今日は──逸らさない。逸らしたら、また言葉が逃げる。


 口を開いた。


 今度は、声が出た。


「──神代さん」


 呼んだ。いつもの呼び方。七ヶ月間ずっとそう呼んでいた名前。


 だが、その名前は──違う。今日言うべき名前は、それではない。


 七ヶ月前、この人は俺を「湊くん」と呼んだ。最初の日に、言い直した。黒瀬くん、と言い直した。だが次の日から「湊くん」になった。下の名前。距離を縮めた呼び方。


 俺は一度も返していない。ずっと「神代さん」だった。苗字に「さん」。距離を保った呼び方。縮められなかった。怖かったから。名前で呼んだら、何かが変わってしまう気がしたから。


 ──今日は、変える日だ。


 言い直した。


「──いや」


 間。一秒。心臓が一回だけ、大きく打った。


「澪」


 初めて呼んだ。名前。下の名前。二文字。み、お。


 空気が変わった。保健室の空気が、音が、光が、全部一瞬止まった気がした。


 神代さんの──澪の目が見開かれた。唇が微かに開いた。吐息が漏れた。


 声は出さなかった。ただ、目の奥で何かが壊れた。堤防が決壊するように。七ヶ月分の何かが、目の縁に溜まった。


 俺は、その目を見ていた。


 逸らさなかった。


 そして──口を開いた。

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