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【第43話】湊の"言葉"

【第43話】湊の"言葉"


 水曜日。午前三時。


 眠れない。月曜も眠れなかった。火曜も眠れなかった。水曜も眠れない。不眠三連勝。こんな記録は要らない。


 天井を見ている。暗い。何も見えない。だが脳は止まらない。脳だけが深夜営業を続けている。閉店時間を過ぎているのに蛍光灯が消えないコンビニ。


 昨日、「話したいことがある」と言った。言ってしまった。神代さんは「待ってる」と返した。澪からのLINEにも「楽しみにしてるね」と。


 楽しみ。


 ──この人は、俺が何を「話したい」のか、わかっているのだろうか。


 半分はわかっている。火曜の保健室でそう思った。だがもう半分は、わからない。わからないから「楽しみ」と言えるのかもしれない。わかっていたら──わかっていたら、なんだ。嬉しいのか。怖いのか。迷惑なのか。


 わからない。わからないことが多すぎて、脳のメモリを食い尽くしている。


 布団の中でスマホを開いた。メモアプリを起動した。新規メモ。タイトル:なし。


 打った。


 パターン1:「好きだ」。


 基本形。直球。三文字。鏡の前で十五回練習した。声は出る。だが──三文字で伝わるのか。七ヶ月分が。弁当と、ブランケットと、保健室と、手が触れた瞬間と、「迷惑じゃない」と打ったあの夜と、眠れない夜と。全部が三文字に収まるのか。


 収まらない。


 パターン2:「好きです」。


 敬語。丁寧。だが「です」をつけた途端、就職面接に聞こえる。「御社を志望した理由は、好きだからです」。志望動機じゃない。


 パターン3:「ずっと好きだった」。


 嘘ではないが正確でもない。「ずっと」は言いすぎだ。保健室に来た最初の日は「早く帰ってくれ」と思っていた。好きだと気づいたのは木曜だ。木曜から水曜、六日間。六日間を「ずっと」と呼ぶには短すぎる。


 パターン4:「付き合ってください」。


 ──ここで手が止まった。


 付き合ってください。定型文中の定型文。だが、俺たちの場合、致命的な問題がある。


 全校生徒がすでに「付き合っている」と思っている。


 噂レベル5。公式認定。八代が広め、柊が裏付け、杏が後押しし、朝倉先生が黙認した。学年全体の共通認識として「黒瀬と神代は交際中」が定着している。


 その状態で「付き合ってください」と言ったら──何が起きる。


 神代さんが「え? 付き合ってなかったの?」と言う可能性がある。ゼロではない。冗談で言うかもしれない。冗談でなくても、この七ヶ月の保健室の日々は「付き合っている」のと何が違ったのか、正直、俺にも説明できない。


 弁当を作ってもらった。ブランケットをかけてもらった。手を繋いだ。LINEで「おやすみ」を交わした。保健室で毎日隣に座った。──これは交際ではないのか。形式的な告白を経ていないだけで、実質的にはとっくに何かが始まっていたのではないか。


 だとしたら「付き合ってください」は遅すぎる確認作業だ。書類の判子を後から押すような行為だ。


 ──いや、違う。


 形式は大事だ。言葉にしなければ伝わらないことがある。言葉にしなかったから、こんなに長くかかった。否定できなかったから噂が広がった。言葉にできなかったから八代に「ズルい」と言われた。


 言葉にする。言葉にしなければならない。


 だが「付き合ってください」ではない。定型文では足りない。


 パターン5:「俺と付き合ってほしい」。


 パターン6:「これからも隣にいてほしい」。


 パターン7:「保健室で、ずっと一緒にいてほしい」。


 パターン8:「お前がいないと保健室が広すぎる」。


 パターン9から先は、もう自分でも何を書いているのかわからなくなった。


 二十パターンを超えたあたりでスマホの画面が文字で埋まった。三十パターンを超えたあたりで、全部が同じに見え始めた。四十パターンを超えたあたりで、言葉が記号に見えた。「好き」の三文字が形を失って、ただの線の集合体になった。ゲシュタルト崩壊。好きという感情がゲシュタルト崩壊を起こしている。


 五十パターン。全部ボツ。


 どれも、俺の言葉じゃない。


 他の誰かが言いそうな、どこかで聞いたことのある、テレビか小説かドラマか、誰かが用意した台本の焼き直し。俺が鏡の前で十五回練習した「好きだ」は、筋肉の動きとしては完成した。だが中身が空っぽだ。音声データだけがあって、意味がインストールされていない。


 メモアプリを閉じた。五十パターンを全選択して、削除した。


 暗い天井。午前四時。


 ──杏が言っていた。「上手くなくていい」。「湊くんが絞り出した言葉なら」。


 絞り出す。用意するのではなく、絞り出す。


 原稿を作るな。作ったら読むだけになる。読み上げた「好きだ」は朗読であって告白ではない。


 じゃあ、何を言う。


 考えた。考えて、考えて、天井の染みが薄く見え始めた頃──答えが出た。


 言えなかったことを、全部言う。


 これまで飲み込んだ言葉を。「別に」の裏にあった本心を。「違う」と言えなかった理由を。「ありがとう」の先にあった感情を。


 「好きだ」はそのうちの一つでしかない。一番大事な一つだが、それだけでは足りない。


 ──全部、言う。


 原稿はない。リハーサルもしない。その場で口から出た言葉が全てだ。出なかったら──出なかったら、その沈黙もまた、俺の言葉だ。


 ……いや。出なかったら困る。沈黙を告白に含めるのは前衛芸術すぎる。


 午前四時半。少しだけ、眠れそうな気がした。


 ◇


 水曜日。教室。


 二時間の睡眠で起床した。人間の最低稼働時間を下回っている。目が開いているのが不思議だ。


 八代が横目でこちらを見た。


「……三日連続で顔色悪いな」


「……大丈夫」


 八代が眉を寄せた。


「大丈夫じゃないだろ。保健室で寝ろよ」


 保健室。今日、あの場所で──いや。今日ではない。今日は「話したいことがある」と言った翌日だ。昨日の約束がある。だが、今日言うのか。今日言えるのか。


 五十パターン全部ボツにした男が、今日の放課後に何を言える。


 ──考えるな。考えたら、また五十一パターン目を作り始める。


 授業中、窓の外を見た。十一月の空。灰色と水色の間。雲が薄い。風はない。穏やかな天気。告白日和かどうかは知らない。告白日和という概念が存在するのかも知らない。


 教科書を開いた。古文。「徒然草」。第百三十七段。「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」──花は満開だけを、月は曇りなく照るのだけを見るものだろうか。


 違う、と兼好法師は言う。満開でなくても美しい。曇っていても味がある。


 ……不完全でも伝わる、という意味だと解釈していいか。兼好法師に恋愛相談をしている。八百年前の随筆家に告白のアドバイスを求めている。末期だ。


 ◇


 昼休み。保健室。


 ドアを開けた。


「湊くん♡」


 水曜の一撃。破壊力は変わらない。変わらないが、受け止め方が変わっている。月曜は直撃で倒れた。火曜は防御ゼロで貫通した。水曜は──痛いが、立っている。慣れではない。覚悟だ。覚悟があると、人間は立てる。


「……おう」


 隣に座った。弁当。今日は唐揚げだった。


「唐揚げ♡ 湊くん好きでしょ♡」


 好き。好きだ。唐揚げが好きだ。──違う。唐揚げではなく。


「……うん。好き」


 唐揚げの話だ。唐揚げの話だが、心臓が跳ねた。自分で「好き」と口にしたのが、練習以外では初めてだったことに気づいた。対象は唐揚げだが、口の形は同じだ。す、き。二音節。


 神代さんがにこにこしている。俺の「好き」が唐揚げに向けられたものだと知っているのに、嬉しそうだ。この人は俺の「好き」という音声を回収する才能がある。文脈を無視して感情だけ抽出する。高性能なフィルタだ。


 食べた。うまかった。味がする。今日はする。昨日よりも。一昨日よりも。


 ──なぜだろう。言葉が決まっていないのに。五十パターン全滅なのに。


 理由はわかっていた。「何を言うか」を決めるのをやめたからだ。原稿を捨てた。用意するのをやめた。その瞬間、脳のメモリが解放された。味覚にリソースが回った。


「……うまい」


「えへへ♡」


 朝倉先生がデスクにいた。コーヒーを飲みながら書類を書いている。いつもの光景。


 ──この光景を、あとどれくらい見られるだろう。


 告白したら、変わる。この「いつも通り」は消える。良い方向に変わるとしても、同じ温度には戻らない。昼休みの保健室で弁当を食べる二人。弁当を作る澪。「すごいな」と言う俺。カウントを数える澪。コーヒーを飲む朝倉先生。


 全部、変わる。


「……神代さん」


「ん?」


 こちらを向いた横顔に、西日が当たっている。


「……今日の弁当、すごいな」


「七日目♡」


 七日目。連続記録が更新された。


 ──あと何回、この「すごいな」を言えるだろう。


 昼休みが終わった。神代さんが立ち上がった。


「じゃあ、放課後にね♡」


 いつもの別れの挨拶。


 ドアが閉まった。


 朝倉先生がこちらを見た。


「黒瀬くん」


「……はい」


 先生がコーヒーカップを置いた。


「今日、顔色悪いわね」


 知っている。鏡で確認済みだ。


「でも、目はいいわ」


「…………」


 目がいい。何が「いい」のか。視力は普通だ。


「何か決めた人の目をしてる」


 朝倉先生はコーヒーカップを口元に運んだ。それ以上は何も言わなかった。


 ──この人は、知っている。何を決めたのか。聞かないけれど、知っている。


 ◇


 五時間目。六時間目。


 ノートの余白に何も書かなかった。昨日はノートに名前を書いた。今日は書かない。書く必要がないからだ。


 言葉は決まっていない。決めないと決めた。矛盾しているようだが、これが俺にとっての結論だ。


 五十パターンのうちどれも正解ではなかった。なぜなら、正解は用意するものではないからだ。告白は問題集ではない。選択肢の中から正答を選ぶのではない。


 出た言葉が正解になる。間違いようがない。なぜなら、俺の言葉は俺にしか出せないからだ。


 ──偉そうなことを考えているが、要するに「何も準備できなかった」を哲学でコーティングしているだけかもしれない。


 チャイムが鳴った。放課後。


 鞄を持って立ち上がった。


 八代が横を通りすぎざまに、小声で言った。


「……なんか知らないけど、頑張れよ」


 なんか知らない、は嘘だ。全部知っている顔をしている。だが踏み込まない。火曜の屋上以降の距離を守っている。


「……おう」


 返事が、いつもより一音節多い。「おう」ではなく──いや、「おう」だった。だが声量が違った。


 廊下を歩いた。保健室へ。


 ◇


 放課後。保健室。


 ドアを開けた。神代さんがいた。先に来ていた。窓際に座って外を見ていた。西日を浴びて、横顔が光っていた。


 俺を見た。立ち上がりかけて、やめた。座ったまま、少しだけ体をこちらに向けた。


「……来たね♡」


 声が小さかった。いつもの甘い呼びかけの音量より、半分くらい。


 朝倉先生はいた。デスクで書類を書いている。こちらを見ない。見ないことで、空間を作っている。


 隣に座った。いつもの三十センチ。


 沈黙。


 昨日、「話したいことがある」と言った。今日がその日だ。神代さんは待っている。昨夜のLINEで「楽しみにしてるね」と言った。待っている。


 口を開いた。


「…………」


 閉じた。


 口を開いた。


「…………」


 閉じた。


 ──出ない。


 五十パターン全滅。原稿なし。「出た言葉を信じる」と決めた。決めたのに、何も出ない。ゼロだ。空白だ。メモリ解放したはずなのに、出力がない。自由帳の一ページ目を開いたまま、ペンが動かない。


 神代さんがこちらを見ている。目が合った。切れ長の目。睫毛の影。瞳の中に、夕日に照らされた俺の顔が映っている。


 この目を見ると、言葉が消える。いつもそうだ。この人を見ると、頭の中が真っ白になる。コミュ障だから──いや、違う。コミュ障だからではない。この人だから、だ。


 「好きだ」が喉の奥に詰まっている。栓をされた瓶みたいに。中身はある。圧力もある。だが栓が抜けない。


 一分。二分。


 神代さんが先に口を開いた。


「……湊くん」


「……ん」


 神代さんが少し首を傾けた。穏やかな目だった。


「急がなくていいよ♡」


 ──急がなくていい。


 この人は、また待ってくれている。言葉が出ない俺を責めない。催促もしない。ただ、隣にいて、「急がなくていい」と言う。


 ……ずるい。


 ずるいのは俺の方だと八代に言われた。だが今、この瞬間は、この優しさがずるい。優しくされるほど、言えなくなる。「好きだ」の栓が、優しさで余計に押し込まれる。


 ──今日は、言えない。


 わかった。体がわかった。頭ではなく、喉が。舌が。今日の俺にはまだ、この栓を抜く力がない。


 情けない。どこまでも情けない。三日連続で「明日」を繰り返す。for文が終わらない。


 だが──一つだけ、今日できることがある。


 昨日は「話したいことがある」と言った。曖昧な言葉だ。逃げ道が残っている。「話したいこと」は何でもいい。進路の話でも、天気の話でも、理論上は成立する。


 今日は、逃げ道を塞ぐ。


 自分の逃げ道を、自分で塞ぐ。


「……神代さん」


「……うん」


 目を見た。二秒。今の俺の限界。


「明日、放課後──保健室で、待っててほしい」


 昨日より一歩だけ踏み込んだ。「話したいことがある」ではない。「待っててほしい」だ。待ってほしい。俺のために。俺が、言葉を絞り出すために。


 神代さんの息が止まった。一瞬。瞬きが一回。


 そして──目が潤んだ。昨日と同じ。泣いているのではない。感情が溢れかけている。


「──うん♡」


 声が震えていた。


「待ってる♡」


 同じ言葉。昨日と同じ「待ってる」。だが声の奥行きが全然違った。昨日の「待ってる」は期待だった。今日の「待ってる」は──覚悟だ。この人も、覚悟を決めている。


 俺が何を言おうとしているか、もう全部わかっている。半分ではない。全部だ。


 わかっていて、「待ってる」と言ってくれている。


 朝倉先生がデスクから立ち上がった。コーヒーカップを持って、保健室の奥の給湯コーナーへ歩いた。背中がこちらに向いている。何も聞こえなかった、という背中だ。


 帰り支度をした。鞄を持った。


「……じゃあ、明日」


「うん♡ 明日♡」


 神代さんが笑った。三番目の笑顔。金曜に見て、火曜に見て、水曜にまた見た。保健室モードでもなく、外の顔でもない。分類できない笑顔。


 ──この笑顔に、明日、名前をつける。


 ◇


 帰り道。


 スマホを見た。杏からLINE。


 『どうだった!?!?』


 打った。


 『明日にした。明日で最後にする』


 返信。


 『信じてる!!!!!!!!』


 感嘆符の数が昨日の倍になっている。インフレだ。明日にはもっと増える。


 もう一件。神代澪。


 メッセージはなかった。既読もつけていない。


 ──来ないのか。


 五分待った。十分。来ない。


 昨日は「楽しみにしてるね」と来た。一昨日は「楽しみ」「おやすみ」と来た。今日は──来ない。


 意味を考えた。嫌われたか。──違う。あの目は嫌っている目ではなかった。


 わかった。


 この人も、言葉を選んでいるのだ。俺と同じように。何を送るか迷って、何も送れなくて、スマホを握ったまま動けないでいるのだ。


 ──同じだ。俺たちは、同じことをしている。


 俺が「好きだ」を言えないように、この人にも言えない言葉がある。待つ側にも、覚悟が要る。


 打った。


 『明日、ちゃんと言う。だから待ってて』


 ──送れた。


 今日、保健室で出なかった言葉が、画面の上では出た。LINEだから言えた、のではない。「好きだ」は書いていない。書いたのは約束だ。約束なら、言える。内容はまだ言えなくても、「言う」という宣言なら、できる。


 返信。三秒。


 『うん♡』


 一文字と一つの記号。


 それだけで十分だった。

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