【第42話】杏の察知能力
【第42話】杏の察知能力
火曜日の朝。目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
時計を見た。五時四十三分。普段は七時まで起きない人間が、一時間以上早く覚醒している。体が勝手に緊張している。脳が「今日はヤバい日だ」と判定して、睡眠を強制終了させた。
昨夜、自分で決めた。火曜日。放課後。保健室。LINEで約束もした。「明日、放課後、時間ある?」。澪は「あるよ」と返した。日時確定。場所確定。あとは中身だけ──中身が、ない。
何を言うか。
金曜に「出たとこ勝負でいい」と決めた。原稿は作らないと決めた。拙くていいと決めた。決めたことが多すぎて、肝心の言葉が一つも用意されていない。「好きだ」。それだけでいいのか。「好きだ」の後に何を続ける。「付き合ってくれ」か。「これからもよろしく」か。何だそれは。年賀状か。
洗面台で顔を洗った。鏡を見た。隈は昨日より薄くなっている。神代さんにもらったクリームを塗ったからかもしれない。武器を敵から支給されている兵士だ。
制服に着替えた。ネクタイを三回失敗した。指先が微かに震えている。告白は放課後だ。まだ十時間以上ある。十時間前から指が震えるのは、人体の設計ミスだ。
◇
教室。一時間目。
黒板の文字が滑る。ノートを開いているが一文字も書いていない。十一月なのに掌に汗をかいている。
時計を見た。九時十五分。放課後まであと六時間以上。途方もなく長い。
八代が横から覗いてきた。
「黒瀬、ノート白紙だぞ」
「……聞いてる」
八代が小声で続けた。
「聞いてねえだろ。──なんかあんのか?」
ある。ありすぎる。だが言えない。お前に言ったら三分後にはクラス中が知る。
「……何もない」
八代が片眉を上げた。信じていない。だが火曜の屋上以降の距離感を維持して、それ以上は聞かなかった。
◇
昼休み。保健室。
保健室のドアの前で立ち止まった。放課後ではない。まだ昼だ。放課後まで、あと四時間の猶予。
深呼吸した。開けた。
「湊くん♡」
いつもの声。甘い。破壊的。今日は特に破壊的だ。なぜなら六時間前から心臓が臨戦態勢に入っているから。防御力がマイナスに突入している。攻撃を受ける前から負傷している。開戦前の白旗。戦史に残る最速降伏。
「……おう」
隣に座った。弁当箱を出した。
「今日はね、ハンバーグだよ♡」
蓋を開けた。手作りハンバーグ。デミグラスソース。付け合わせのブロッコリーとにんじん。弁当としての完成度が高い。レストランと比較しても遜色がない。いや、レストランには甘い一言がつかない。付加価値で勝っている。
「……すごいな」
「六日目♡」
六日目。もう記録を数えている。こちらの「すごいな」がカウントされている。スタンプカードのように。十回目で特典が付くのだろうか。十回目の特典が何なのか、考えるのが怖い。
「……うまい」
ハンバーグを噛んだ。味がする。昨日の生姜焼きは味が薄かったが、今日は味がする。少しだけ余裕があるのかもしれない。放課後まであと四時間の余裕。四時間のバッファが味覚を救っている。
神代さんが隣で幸せそうに自分の弁当を食べている。時折こちらをちらりと見て、目が合うと微笑む。俺は一秒で逸らす。一秒が限界だ。二秒見たら、口から全部出る。「好きだ」が。不意打ちの暴発。告白は放課後だ。昼に暴発させてはいけない。
──そのとき、ドアが開いた。
「やっほ〜」
白石杏。月曜と同じタイミング。鞄からポッキーではなく、今日はグミを取り出した。
「はい、おすそ分け〜」
三人でグミを食べた。朝倉先生にも一つ差し出して「ありがとう」と受け取られた。杏はこういう距離の詰め方が上手い。人間関係の潤滑剤だ。
食べ終わって、神代さんがふと立ち上がった。
「ちょっとお手洗い行ってくるね♡」
ドアが閉まった。
保健室に、俺と杏と朝倉先生。朝倉先生はデスクで書類仕事に没頭している。実質二人。
杏がグミを口に放り込みながら、唐突に言った。
「──ねえ湊くん」
「……ん」
杏の目が据わっていた。グミを噛む手が止まっている。
「もしかしてさ、澪ちゃんに告白しようとしてる?」
心臓が止まった。比喩ではない。本当に一拍飛んだ。不整脈。心電図に異常が出る。
「……は」
「やっぱり」
杏が目を細めた。探偵が真相を言い当てたときの顔。だがこの探偵は善意でできている。笑顔が明るい。明るすぎて、逃げ場がない。
「な、なんで──」
「だって、昨日から全然澪ちゃんの顔見られてないじゃん。いつもは一秒くらい見てるのに、今日ゼロ秒だよ?」
計測されていた。俺のアイコンタクト時間が、秒単位で計測されていた。
「あと、箸の動き。いつもは最初の一口で『すごいな』って言った後、普通に食べるじゃん。今日は三口目でまだ咀嚼がぎこちなかった」
咀嚼まで。俺の咀嚼パターンまで解析されていた。この女、柊のファイルより精度が高い。柊はデータを集めるが、杏はリアルタイムで観察している。衛星写真と地上偵察の違いだ。
「それに──」
「もういい。わかった」
両手を挙げた。降参。これ以上分析されたら、告白の日時まで言い当てられる。
杏が嬉しそうに身を乗り出した。
「やっぱりそうなんだ! いつ? 今日?」
声が大きい。朝倉先生がちらりとこちらを見た。杏は気づかない。
「……声」
「あ、ごめんごめん」
小声になった。だが目がきらきらしている。善意の光。制御不能の善意。
「……杏。これ、絶対に神代さんに言うなよ」
「言わないよ!」
即答。だが信頼度は低い。杏の「言わない」は「言うつもりはない」であって、「絶対に言わない」とは限らない。善意が暴走したら、口が勝手に動く人種だ。
「本当に言うなよ。頼む」
杏が真剣な顔になった。珍しい。
「──うん。本当に言わない。約束する」
声のトーンが変わった。いつもの軽さが消えている。
「……ありがとう」
沈黙。杏がグミの袋をいじりながら、少し考えるように言った。
「ねえ、湊くん」
「……なんだ」
杏が真っ直ぐこちらを向いた。
「何て言うか、もう決めてる?」
核心を突かれた。決めていない。それが問題だ。「好きだ」は言える。鏡の前で十五回練習した。だが「好きだ」の後が真っ白だ。
「……決めてない」
杏が少しだけ口角を上げた。呆れではない。納得のような、温かいような表情。
「だと思った」
「……悪いか」
杏が首を横に振った。
「ううん。むしろさ──」
杏が窓の外を見た。十一月の灰色の空。
「澪ちゃんはね、湊くんの言葉が聞きたいんだと思うよ」
「…………」
杏の声が静かになった。
「上手い言葉じゃなくていいの。たぶん、上手くない方がいい」
上手くない方がいい。
その言葉が、胸に落ちた。重力に従うように。抵抗なく。
「澪ちゃん、いつもいろんな人に『さすが神代さん』って言われてるでしょ? 完璧な言葉、完璧な対応、完璧な笑顔。──そういうの、たぶんもう疲れてるんだよ」
知っている。知っているから、あの人は保健室に来る。完璧でなくていい場所に。
「だから、湊くんの言葉がいいの。下手でも、短くても、『……別に』しか出なくても。湊くんが絞り出した言葉なら、それが一番伝わると思う」
杏の声は、いつもの「え〜」「〜じゃん」の軽さが完全に消えていた。真剣だった。この人は、ふざけているときと本気のときの落差が激しい。ギャップの方向性が神代さんとは逆だ。普段が軽い分、真剣な言葉が重い。
「……上手くなくていいのか」
「うん。むしろ上手かったら澪ちゃん引くと思う。湊くんがスラスラ告白したら、ちょっと怖くない?」
笑った。──俺が。杏の言葉で、笑った。不意打ちだった。自分の口角が上がったのが遅れてわかった。
「……確かに」
確かに。俺が流暢に告白したら、何か憑依しているとしか思えない。コミュ障がスラスラ喋ったら事故だ。ぎこちない方が、俺らしい。
杏がにっこり笑った。
「大丈夫。湊くんなら大丈夫だよ」
根拠がない。だが──不思議と、嘘には聞こえなかった。
朝倉先生がデスクからこちらを見ていた。目が合った。先生は何も言わず、コーヒーカップに口をつけた。だが目の奥が「聞こえてたわよ」と語っていた。養護教諭の全方位レーダー。死角はない。
ドアが開いた。
「ただいま♡」
神代さんが戻ってきた。俺と杏の空気を一瞬で察したのか、首を傾けた。
「……杏ちゃんと何話してたの?」
「なんでもない」
即答した。制作時間ゼロ秒。嘘の練度が上がっている。告白練習より嘘の方が上達するのは人として正しいのか。
杏が何食わぬ顔で「ポッキーとグミどっちが好きかって話〜」と笑った。嘘が上手い。俺より遥かに上手い。共犯者として優秀だ。
神代さんが俺を見た。三秒。いつもより長い。目が少しだけ細くなっている。疑っている、のとは違う。何かを探している目だ。
「……ふうん♡」
その「ふうん」には、疑問と感嘆と甘さが全部入っていた。一音節に情報を詰め込みすぎだ。ZIP圧縮並みの密度。解凍したら中身が膨大な量になる予感がした。
チャイムが鳴った。昼休みの終わり。
杏が先に立ち上がった。
「じゃあね〜。午後も頑張ろ〜」
その「頑張ろ」が俺に向けた暗号なのは間違いなかった。杏は振り向かなかった。だが背中が「応援してる」と言っていた。背中で語る女。背中の方が口より雄弁な人間を、俺は二人目に見た。一人目は朝倉先生だ。
◇
五時間目。六時間目。
時計の針が遅い。物理法則を疑うレベルで遅い。一分が三分に引き伸ばされている。好きな人に告白する前の授業は、時間が無限に伸びる。アインシュタインはこっちを論文に書くべきだった。
ノートの端に文字を書いた。授業の内容ではない。
『好きだ』。書いて、消した。『お前が好きだ』。書いて、消した。『神代さんが好きだ』。書いて、消した。
『澪が好きだ』。
書いて──消せなかった。
名前。下の名前。一度も呼んだことがない。「澪」と呼べるか。告白の瞬間に。
シャーペンの芯が折れた。力を入れすぎた。
◇
放課後。
チャイムが鳴った。心臓がチャイムと同期して跳ねた。十時間前から覚悟していた瞬間が来た。
鞄を持った。立ち上がった。
八代が言葉なく拳を突き出した。グータッチ。全部わかっている顔だった。杏から聞いたのではない。八代は自分の鼻で嗅ぎ取っている。あの日、屋上で「ズルいのはやめろ」と言った男は、俺がズルをやめようとしていることを察していた。
拳を合わせた。軽い衝撃。それだけで、足が少し軽くなった。
廊下を歩いた。保健室に向かう廊下。何十回も歩いた廊下。逃げ込むために歩いた廊下を、今日は違う目的で歩いている。
足が重い。膝が笑っている。心臓が喉の辺りまで上がってきている。
保健室のドアの前で止まった。
深呼吸。吸った。吐いた。
開けた。
──誰もいなかった。
朝倉先生のデスクに、メモが置いてあった。
「会議で不在。戸締りよろしく。──朝倉」
朝倉先生がいない。保健室に俺一人。そしてすぐに、神代さんが来る。
二人きり。
条件が、整ってしまった。
昨日、条件のせいにした。朝倉先生がいるから、と。今日は朝倉先生がいない。言い訳が消えた。逃げ道が塞がれた。宇宙がグルになって俺を追い込んでいる。
隣の席に座った。自分の席。いつもの場所。窓から西日が入っている。十一月の夕方の光。オレンジ色。保健室の白い壁が暖色に染まっている。
消毒液の匂い。古いカーテンの布地の匂い。その奥に、かすかに──
ドアが開いた。
「──湊くん♡」
神代さん。制服姿。鞄を肩にかけている。保健室に入った瞬間、小さく息を吐いた。いつもの切り替え。外の顔から、保健室の顔へ。
「先生は?」と聞きながら、メモを見つけた。「会議なんだ」と呟いて、隣に座った。いつもの距離。三十センチ。
「二人きりだね♡」
二人きり。第六話──いや、澪が最初に保健室に来た頃にも、こんな台詞があった気がする。違う。メタ思考をするな。今は昔のことを思い出している場合ではない。
「……うん」
声が掠れた。喉がカラカラだ。水を飲むべきだ。だが水を取りに立ったら、この空気が途切れる。途切れたら、もう一度作り直す勇気がない。
神代さんが鞄から弁当箱ではなく、水筒を出した。
「はい♡ お茶。今朝淹れたの」
渡された。蓋を開けて飲んだ。温かかった。ほうじ茶。香ばしい匂いが喉を通った。乾いた粘膜が潤った。
「……ありがとう」
「ん♡」
沈黙。
宿題を出す気配もない。神代さんも教科書を出さない。二人とも、今日はなんとなく「勉強する日」ではないことを感じ取っている。
西日が伸びている。窓の影が床を這う。時計の秒針が動いている。一秒。二秒。三秒。
──言え。
脳が命令を出している。舌が動かない。
──言え。今だ。二人きりだ。条件は整った。
口を開いた。
「……神代、さん」
「ん?」
神代さんが首を傾けた。俺を見ている。目が丸い。待っている。
──ここだ。ここで「好きだ」と言え。鏡の前で十五回練習した。声は出る。出ると証明した。あとは、鏡を超えるだけだ。
口が動かない。
喉が閉じる。声帯が反乱を起こしている。脳からの指令を拒否している。月曜と同じだ。鏡の前では出た音が、この目の前では出ない。
三十センチ。たった三十センチの距離が、鏡と現実の間にある深い溝だ。
杏の声が頭の中で鳴った。「上手くなくていいの」。上手くなくていい。わかっている。上手くなくていいのに、一言すら出ない。上手い下手の問題ではない。出力自体が停止している。
「…………なんでもない」
また逃げた。
神代さんの目が少しだけ揺れた。一瞬。本当に一瞬だけ。それから、ふわりと笑った。
「そっか♡」
優しかった。追及しない。問い詰めない。「なんでもない」を受け入れて、ただ笑う。
──この優しさが、つらい。
追及してくれた方が楽だ。「何が言いたいの」と聞いてくれた方が、押し出される。だがこの人は待つ。待ってくれる。待たせてしまっている。
残りの時間を、いつもの放課後のように過ごした。宿題を開いた。英語の長文を読んだ。隣でシャーペンの音が鳴った。日常だった。いつも通りの、保健室の放課後だった。
──何も言えなかった。
五時のチャイムが鳴った。帰りの時間。
立ち上がった。鞄を持った。
「……じゃあ」
「うん♡」
神代さんが笑った。いつもの笑顔。だが目の奥に、昨日と同じ色があった。三番目に近い。分類できない。
ドアに手をかけた。
──待て。
足が止まった。このまま帰ったら、また「明日こそ」が始まる。for文の無限ループ。終了条件のないコード。永遠に回り続ける先延ばし。
杏の言葉。「上手くなくていい」。「湊くんが絞り出した言葉なら」。
──絞り出せ。告白じゃなくてもいい。今日はまだ「好きだ」が言えない。言えないなら、言えないなりに、一歩だけ進め。
振り返った。
神代さんがまだ座っていた。こちらを見ていた。帰ると思ったのに振り返った俺を、驚いた顔で見ていた。
「……神代さん」
「……うん」
神代さんの目が真っ直ぐこちらに向いている。
「明日も、放課後──」
ここまでは言える。いつもの約束。いつもの「じゃあ、放課後に」。
だが今日は、一言だけ足す。
「──話したいことが、ある」
声が震えた。情けないくらい震えた。顔が赤い。耳が熱い。首まで火照っている。
神代さんの目が大きくなった。唇がわずかに開いた。呼吸が止まったように見えた。
三秒。沈黙。保健室の時計だけが動いている。
神代さんの目が潤んだ。泣いているのではない。感情が目に集まっているだけだ。
「──うん♡」
声が小さかった。いつもの甘さとは違う。震えていた。神代さんの声が、震えていた。
「……待ってる♡」
「待ってる」。
この人は、いつも待ってくれる。俺の言葉が出るまで。俺が一歩踏み出すまで。何日でも、何週間でも。
「……おう」
それだけ言って、ドアを閉めた。
廊下に出た。壁に背をつけた。足の力が抜けた。膝が笑うどころではない。膝が大爆笑している。立っているのがやっとだ。
告白は、できなかった。
だが──「話したいことがある」と言った。
これは約束だ。明日、言う。明日の放課後、保健室で、「好きだ」と言う。逃げられない約束。自分で作った終了条件。for文のbreak。
廊下を歩いた。足がふらついた。
杏の言葉が頭の中で繰り返されている。
「上手くなくていい」。
──上手くなくていい。下手でいい。声が震えてもいい。顔が真っ赤でもいい。金曜に決めたことを、今日また決めた。
だが一つだけ、金曜とは違うことがわかった。
「好きだ」だけでは足りない。この七ヶ月の全部を伝えなければならない。否定できなかったこと。否定したくなかったこと。隣にいてくれたこと。
原稿は作らない。作ったって、あの人を見たら全部飛ぶ。
だから──明日、その場で、出た言葉を信じる。
上手くなくていい。俺が絞り出した言葉なら、伝わる。杏がそう言った。
信じる。それしか、できないから。
帰り道、スマホが鳴った。LINE。杏から。
『今日どうだった!?』
打った。
『明日にした』
返信。一秒。
『おっけ!! 大丈夫!! 応援してる!!!!』
感嘆符が多い。杏らしい。
もう一件。LINE。神代澪。
『明日、楽しみにしてるね♡』
──楽しみ。
昨日と同じ言葉。だが重さが違った。「話したいことがある」と伝えた後の「楽しみ」は、昨日とは温度が違う。この人は、半分ではなく──全部、わかっているのかもしれない。
打った。
『うん』
制作時間、一秒。
──過去最速を更新した。




