8月5日 その⑧
根源的恐怖。
腹の奥底から湧いてくる、大蛇のように巻きついてくる窒息感。
真夏の下着が汗を含んでビッタリ体に張り付いてくるような不快感。
この世に存在する全てのネガティブな事象や感情は、全て彼のために作られたのだろう。それらが、まるで刃こぼれしたナイフのような形となって撫子の首筋に当てられていた。
──もちろん、これらは比喩である。
比喩であるからこそ、尚恐ろしい。本物の大蛇に体を絞められ汗が染み込んだシャツを纏っているだけなら、首筋に刃こぼれしたナイフが当てられているだけなら対処はできた。
大蛇を振り解き、下着を脱ぎ捨てて、ナイフを退ければいいのだから。
だが、それは全て撫子が覚えた不愉快であることに違いない。そうである以上、取り外すことも逃げ出すこともできない。
「──隠していたな、私の前では」
「さぁ?なんのこと?」
「その醜悪さだ!これほどのものなら、私は隠せないわけがない!どうやって隠した!答えろ!」
「何を言ってるのかサッパリだよ。僕はいつも僕のまんまだよ。強いて言うなら、君が背けたんじゃない?僕という超解像度の現実から」
後方から、撫子の視線を覆うように手が伸ばされる。
否不未は毒だ。
相手をマイナスに引きずり込み、最善策で対処をしても結局は0を保つだけ。無毒化しようがプラスには働かない、毒。
──なんだよ、それ。ムカつく。許せない。
──来た。
「──触るな、この変態!」
グルリと体を180°回転させて、そのまま飛び込んできたアッパーを否不未の顎に叩き込む──叩き上げる撫子。
『嫉妬』と『憤怒』、そして『傲慢』を同時に覚醒させる離れ業は、智恵の師匠を名乗るに相応しいだけの技量だろう。それには思わず否不未も驚いたのか、素直に攻撃を喰らって──いない。
「──ッ!」
「センスはよかったよ、センスは。でもね、君は僕に怯えてる。心の底では逃げてるんだよ、僕から」
撫子には、否不未が何を言っているのかわからない。
それもそのはずだ。撫子は、自らの人格を保つために無意識下で否不未を無視し続けているのだから。
──現在、撫子は七つの大罪だけしか持ち合わせていない否不未という最低最悪な箱の、その外側だけ捉えている状態だった。
彼の理解できない本質を理解しようとすると、「七つの大罪」を認識できてしまう撫子は人として壊れてしまう。その禍々しさを直視したら、発狂死してしまう。それを避けるため、撫子は無意識で否不未をキチンと理解していることを避けたのだった。
──だが、その弊害で撫子は否不未に触れられない。
そうである以上、撫子は勝利することなどできなかった。そう、勝利できない。勝利できないのは、いつだって彼女のせいで──。
「-・ ---・- -・-- -・-・ -・-・・ -・ --」
「──わぁ!新しい敵。君も智恵ちゃんに会いに来たの?」
そこに現れたのは、『敗北の女神』深海ケ原牡丹。過去参加したデスゲームに敗北したことが理由で、モールス信号しか話せない彼女は現実を直視できない撫子を助けに来ていたのだ。
否不未は、撫子からも距離を取る。彼の頭の上でシアンが揺れる。
「──牡丹。どうしてここが」
「・-・ ・-・-- ・・ --・-・ ---- ・-・ ・・・ ・- ・・・- -・ ・・ ・-・- ・・- ・・-・・ ・-・・・ -・・-・ ・--・ -・ ・-・・ ・・・」
「そうじゃなくって。牡丹は七つの大罪を感じられないよね?なんでここがわかったの」
唐突な登場と掴みどころのない説明に、半ば八つ当たりのような質問をする撫子。それに対して、牡丹は冗談のようなことを真剣な表情で答える。
「---- ・--・ ・・-・ ・・-- -・・ ・・- ・-・・ ・・ -・・・ ・- --・-・ -- ・・・- ・-・・ ・・ ---- ・-・・ ・--・ -・ ・-・・ ・・・」
「──アンタねぇ……」
牡丹にそんなことを言われては、否不未と邂逅する前から負け戦であることがわかっていたようでどこか癪に障る。
「ちょっとちょっと!僕も会話に混ぜてよ。-と・で喋られても、何を言っているのかサッパリだ」
「逆よ」
「---・ ・-・-・ ・-・ ---- ・・-・・ ・- ・--・ ・-・-- -・--・ --・・- -・・- ・-・ ・- -・・・ ・-- ・・・- -・-・ -・-- ・・ -・--・ --」
否不未と間の抜けたやり取りができるのも、その芯を捉えていないからに他ならない。
事実上の敗走を指示された撫子は悔しそうな表情を浮かべるけれが、それとは裏腹に足は即座に否不未とは反対側に逃げていた。
「──おいおい、この僕が君達を逃がすと思ってるの?」
逃げていく2人を見ながら、余裕そうにそんなことを口にする否不未。彼が「七つの大罪」を駆使すれば、撫子や牡丹になど簡単に追いつけるとでもいうのだろうか。
その足を動かす素振りは見せない。そして、彼はこう続ける──。
「僕はね、君達を──逃がす!」
そんなことを口にして、撫子の方へ右手でピースを作る否不未。だが、彼のピースは一度見られることなく森林の奥の方へと2人の姿は消えていった。
──1人残された否不未は、深い森の中でぽつり。
「君じゃ智恵ちゃんを殺せない。僕の目に狂いはないよ。『暴食』で見ていたからね」
彼の右手のピースは、彼の右目を上下に挟むように動いて行く。その瞳は、黄色く光っていた。
──撫子の頭上のシアンは、もう見えない。





