7月31日 その㉘
──整然と様々な道具が棚の中に並べられて保管されている保健室。
奥のベッドでマス美先生が蒼の治療に専念している中で、稜と梨央・美緒の3人組の前に立ちはだかるのは相生葵──母音のみを喋る女傑であった。
「こっちの方が大人数だけど、保健室は狭いからな……」
狭いのなら、人数の差を活かすことは難しい。それどころか、不利に働く場合さえある。
「おっいあああううんいあおーあんあい。ういいあえええおあうえ(そっちが悩む分には無問題。好きにやらせてもらうね)」
相変わらず母音だけでそう口にするけれど、稜達には何と言っているのかわからない。皇斗や純介なら何を言わんとしているのかわかるかもしれないが、今はどちらも別の場所にいる。
──と、そんなことを稜が思っていると今のが勝負開始の合図だったのか、相生葵は動き出す。
狭い室内で2mくらいの巨体が迫ってくるが、稜に回避する手段はない。そもそも、後方に梨央と美緒の2人がいる時点で回避の選択肢など存在していないと言えるだろう。
「──ぐっ!」
自分の方に飛んできた足をガードするように両腕をクロスして、なんとかその攻撃を防ぐ。
攻撃をヒットしたところを中心に体が震撼する。そして直撃した部分の肉が裂けたような感覚がした。
傷口を見る勇気はないが、きっと酷いことになっているのだろう。
「ああああああ(まだまだだな)」
葵はうめき声に近い声をあげるけれど、きっとそれも意味のある言語なのだろう。だが、理解はできない。
「──稜!大丈夫!?すごい怪我してる!」
梨央の悲痛な声が、稜に後ろから飛んでくる。稜は今、葵から目を離せないけれどここを動くしかないのだろう。
「あいううあうおうういいいああえ。あああ、おおおおいえ。おえあ、あおああいいいえあえう(回復役を潰しに来ただけ。だから、そこを退いて。退けば、後回しにしてあげる)」
相変わらず意味の汲み取れない母音であったが、それでも稜に情けをかけるような発言であることは理解が出来た。
「──梨央と美緒は、隠れて。足止めは俺に任せて」
そう口にして、稜は2人を横目で一瞥する。
「でも──」
「梨央、行こう」
「え、あ」
稜の言葉に対して梨央は困惑したような感じを示したけれど、美緒は即座に状況を判断して保健室に所狭しと置かれているパーテーションの裏に隠れてしまう。機材の裏を通って、保健室から脱出する隙でも狙っているのだろう。
「この場で死ぬのは俺だけでいい。お前の相手は、俺だけだ」
「いいいおいういあえ。えお、あううあい(生き急ぎ過ぎだね。でも、悪くない)」
マスコット大先生に似た被り物の口の端がニヤリと上がったような気がする。被り物の奥の瞳がキラリと光ったような気がする。そして、両者は動き出す──
「いえ(死ね)(散れ)」
再度、その強烈な拳が稜の方へと迫ってくる。それは、正確無比の稜の胴を狙ってきていた。先程と同じ。だから──
「──防げるんだッ!」
稜は、皮膚の避けた腕で迫り来る腕の手首を掴む。葵の手の先には、刃の短いナイフが光っていた。
「普通のパンチで腕が裂けるわけないもんな。何か小細工があると思ったよ」
「おえあえあおおおっえいうお?ういうんおええあいあああえ(これだけだと思っているの?随分とめでたい頭ね)」
「──ッ!」
腕を掴まれても冷静なままであったから、稜はきっと葵に策があるのだろうと考えた。だが、まさか被っていた被りものを突き破って刃物が出てくるとは。まるでキスをするように稜の方へと顔が迫ってきて、脳天に刃物が突き刺さり──
「──させないッ!」
「──ッ!」
──はしない。
葵の斜め上から降ってくる梨央。その無謀な特攻には葵だけでなく稜も反応できていなかった。
だって、稜や美緒が想定していたタイミングとは違ったものだったのだから。
ドサリと物音がして、稜の前で梨央に押し潰されるようにして葵が倒れている。むにゅうっとその体が梨央の薄い体の下敷きになっていた。
「梨央、ナイス!」
稜はそう声をあげて、自分の両手の中に残っている葵の腕から刃の短い凶器を奪い取る。身バレ防止のためににまとっている着ている黒マントに引っかかることなく器用に外した後、梨央が退いた背中に突き刺した。
「──あぁぁ!」
今度は、意味のない悲鳴のようなものだった。どうして顔を上げて動き出さないのだろう。そう思って稜がチラリと葵の顔の方を見ると、先程頭から出した刃物が保健室の冷たい床に突き刺さって中々外れないようだった。
「──自分の攻撃が仇になるとはね」
稜がそう口にすると、自分に腕に傷をつけ、今は葵の背中に刺さっているナイフを引き抜いて頸動脈を掻っ切ろうとする。が──
「──いあああい、えっあい(仕方ない、撤退)!」
そう口にすると同時、稜が触れていた人肌の温度がふっと消失する。霧消ではなく、喪失と表現すべきそれは、四次元──もしくは相生葵に参加していたデスゲーム会場に帰ったであろうことを表していた。
「──逃げられた、か」
稜は悔しそうにそう口にする。できる限り人殺しをしたくはないが、それでも梨央を傷付けようとする人は許せなかった。それに、今は緊急事態なのだから自分可愛さで潔白を保ち続けようと思えなかった。
が、撤退してくれたのは少し安堵できるだろうか。
「──梨央、美緒。怪我はない?」
「ワタシは大丈夫だけど、稜が……」
梨央がそう指摘して、稜の腕にできた裂傷を見る。風に撫でられると、激痛が発生する。もうアドレナリンが切れてしまったのだろうか。すると──
「──いやぁ、僕無しで勝利するとは思っていなかったピョン」
保健室の奥から、そんな能天気な声がする。蒼が意識を取り戻したようだった。
「コラ、喋らないで安静にしてなさい。それで、山田稜君はこっちに来てその傷を見せて。全くもう、次から次へと大忙しよ」
マス美先生がパーテーションの奥からそう顔を見せたので、稜は腕を庇いながらそちらの方へと歩んでいった。
──保健室の攻防は、一件落着だ。





