7月31日 その⑳
左腕が鏡の世界の外に摘出され、実質的に欠損した愛香は先程までは左腕があった──今は何もない虚空を反対の手で撫でるようにした後に前方にいる李徴を睨む。
マスコット大先生──に似た存在である覆面教師に対しての攻撃は無駄で無益なように思えたから、その場にいる3人は標的にしていない。
──狙うは一点、李徴のみ。
その黄色と黒の猛獣のことを3人はその目で捉えて離さない。その猛獣も、応えるように3人を一瞥した後に──、
「──ガルルルルラァ!」
雷鳴のような低い咆哮を轟かせ、李徴は愛香の方へと動き出す。先ほどと同様、現実世界と鏡の世界を行き来しながら強敵愛香に残された右腕の方へと飛び込むが──
「──片腕がないからと妾に勝てると錯覚したな?」
愛香の振るう拳は、正確に李徴の鼻先を捉える。もう彼女達に容赦などと言うものは残っていない。だから、その右腕は李徴の猛々しい顔面にめり込んで──
「──ッ!」
その拳が顔面がめり込む寸前、愛香の右腕が鏡の世界から消失する。きっと、その平らな断面には鏡が貼り付けられているのだろう。
「片腕がずっとあるままだと錯覚したのはアナタの方でしたね、森愛香さん」
そんな嘲笑が上空から聞こえてくる。もう、自らの関与を隠すつもりはないらしい。愛香に向けて覆面教師はそう口にして、右半身に鋭い牙が食い込むところを見ている。
「──うっ、ぐぅぅ」
叫び声を上げないように、必死に歯を噛み締めている愛香。その悔しそうな表情には、痛みに耐えていることに追加して両腕とも失った屈辱感にも堪えているように見えていた。
「愛香ちゃん!」
真胡が李徴に反撃をしようと動くが、李徴が鏡を渡って簡単に逃げられる。真胡はそのまま愛香の方へ駆け寄る。肩に深く牙が食い込んだようで、服は破れて赤に塗れた肩が顕になっていた。両腕を失くした愛香は、その傷口を抑えることもできないから血がダダ漏れになっている。
「痛そう……待ってね。すぐ傷口を抑えるから」
真胡はすぐに自分の服を脱ぎ、愛香の傷口をそれで圧迫して止血を試みる。すると、そこに再度李徴が突進していって──
「邪魔、しないで」
そう口にして、真胡は振り上げた拳を李徴の頭にぶつける。噛み付かんと口を大きく開けていた李徴は、そのまま地面に叩きつけられた。李徴の頭蓋が軋む音がする。怒りの鉄鎚は、李徴の意識を飛ばすには強すぎるものだった。李徴はその場で失神し、動かなくなる。
「──よくも、妾に傷をつけてくれたな。ゲテモノめ」
愛香はそう口にすると、応急処置も程々に何度も李徴の頭を踏みつける。その度に地面が震撼し、愛香の怒りが実感できた。李徴の頭が潰れ、そこから血がダラリと噴き出る。顔が歪み、このまま踏まれ続ければ脳みそが飛び散るであろうと思ったその時だった。
「──ッ!」
突如、李徴を襲っていた豪脚の雨は止む。代わりに、李徴の頭の上にドシンと四肢を全て失った──要するに、ダルマ状態になった愛香の体が落ちてくる。
刹那、失神から醒めて刮目した李徴は抵抗のできない愛香に齧りつこうとする。その若く引き締まった上物の肉体は、李徴にとって格好の獲物で──、
「──真胡ッ!」
愛香が、力を振り絞って真胡の名前を呼ぶ。
「妾を助けろ」──そう続くかと思ったけれど、それ以上は語られない。ただ、真胡を捉える大きな瞳が覆面教師にはバレたくない作戦を共有してくれていた。
──愛香が口ほどに物を言う目で語った作戦は、真胡にとって実行することが苦しい物だった。
──が、迷っている時間はない。
優柔不断な真胡に変わって皇斗が動くのは、距離の関係で不可能だ。決断は真胡がするしかない。
「──愛香ちゃん、ごめん!」
李徴の牙が愛香のきめ細やかな肌に食い込む直前、そんな謝罪が聞こえて愛香のことを蹴り飛ばす。
四肢を鏡の世界の外に追い出されて自分で動くことのできない愛香は、真胡に蹴飛ばしてもらうことで回避をしたのだ。
「──声を出さなかったのは、私の脚を追い出されないようにするため!」
真胡の遠慮のない一撃で吹き飛んでいった愛香は、皇斗によってキャッチされる。
「覆面教師も馬鹿ではない。だから、これ以上愛香の体を外に出すようなことはしないだろう」
李徴と覆面教師の2人は、皇斗と愛香のツートップを鏡の世界に閉じ込めることに成功した。今、現実世界で何が起こっているのかわからないけれど想定していなかった事態に陥っていることは想像に容易い。
「──ならば、投げろ」
愛香が皇斗に向けてそう口にすると、2人は頷く。そして──
「では、そっちは任せた」
皇斗は、四肢の消えた愛香を覆面教師の方へと投げて自分は李徴の方へと駆ける。
「真胡。李徴を抑えろ」
「──うん!」
的確に指示を出す皇斗の視界の真ん中で、作戦通りには行かせまいと李徴が真胡に襲いかかる。
「グラララァ!」
真胡の方へと飛びかかり、その喉を噛み切ろうとする。
「──ッ!」
真胡は咄嗟に右腕でガードして、その攻撃を防ごうとする。だが、李徴の牙は凶暴だ。その牙は真胡の腕を噛み切──
──れない。
「──ッ!」
真胡の鍛え上げられた筋肉が、李徴の牙を途中で止めた。
「──ふんっ!」
真胡は噛まれた腕に力を込める。すると、李徴の爪は抜こうとしてもなかなか抜けない。
「仕方ない、私が助けてしんぜまし──」
「させるか、部外者。貴様は還れ。あの世にな」
皇斗に投擲された愛香は、覆面教師の前まで現れる。そして、残された口で覆面教師の喉を掻っ切った。
「皇斗。邪魔者は消した。好きにしろ」
ペッ、と覆面教師の喉の肉を吐き出して落下していく。一方で、名を呼ばれた皇斗は李徴の後方へと辿り着いて──
「──これで終わりだ、李徴」
皇斗はそう口にして、李徴の尻尾を引き抜く。人の体に戻った李徴は、すぐに皇斗の手によって意識を奪われたのだった。





