プロ野球選手との淡い恋84
稲村会長が骨折して入院した事実は、一部の人間以外、箝口令が引かれた。
幹部でさえも知っている者は、会長が腹心と信用をおいた者のみだった。
イナケンほどの大企業になれば、敵は外部だけでなく内部の派閥争いは凄惨を極める。
稲村が一代で築いた会社であり、今は稲村会長の意思が全てを決定する。
しかし、後釜を狙った動きや息子である一希をよく思わない者、様々な勢力が日々うごめいていた。
会長は高齢だ。
この入院を機に、クーデターを起こそうと言うものがいてもおかしくない。
まだ息子には自分の跡を引き継ぐだけの力が備わっていないことも、会長自身が分かっていた。
中学の同級生で親交のある宮沢が理事長を務める病院に極秘入院をした。
始めは特別室に入ったが、極秘入院の為、見舞いも大してあるわけではなくヒマを持て余した。
骨折して動けない足以外は健康なのだから仕方ない。
5人兄弟の末っ子で、大人になれば会社でも人に囲まれてきた。
雑多で多忙な生活になれてしまうと、静けさと有り余る時間は堪える。
無駄なことばかり考えて、それは様々な方向へ広がり、時に心を揺さぶる。
稲村は特別室から一般病棟への移動を希望した。
病院はセキュリティ的にも首を縦にふらなかったが、稲村の脅迫めいた熱意に押し切られ、二人部屋ならばと認めた。
しかし、この部屋の移動はある変化をもたらした。
稲村がイナケンの会長であることは完全に伏せられている。
特別室にいるうちは、お金持ちのどこかのお偉いさんくらいの認識だった看護師や職員たちの態度が明らかに変わった。
どうやら、多くの職員が特別室の部屋代が払えず、一般病室に移されたと思ったようだった。
いつでも最上級のもてなしや配慮を受けてきた。
久々の雑な扱いは腹立たしどころか、笑いたくなった。
海千山千の稲村にとっては彼らを観察する、これほど楽しい遊びもなかった。
見事な手のひら返しを楽しんだが、そんな中、全く変わらずいつも笑顔で接してくれたのは佐野そよだった。
あの子は、誰にでも変わらない。
自分の仕事を理解し、職務を全う《まっとう》しているのだ。
会社に戻ったら、あの子は引き抜こう。
あんな人材を生かさないとはもったいない。
稲村は復帰への思いをより一層強めた。




