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船が護岸を離れ、大海原に漕ぎ出して数日。
彼女は見事に仮面を被り通し、他者を寄せ付けないような雰囲気を醸し出している。
二人きりでいる時間も皆無に近い。
一緒の部屋で良いと思っていたのだが、周囲はそうはさせてくれなかった。
例えば食事の時やお茶を飲んでいる時も、今はもう隠していない俺の身分のせいもあり、自然と人の目が集まる。
その中で、彼女は微笑みを讃えたまま俺を見つめる。
その笑みは、彼女に俺の存在を無視され続けた三年間を思いさせる。
見事なまでに表情を読ませない笑顔。
衣一つ翻すのも絵になる立ち居振る舞い。
遠巻きに聞こえる声が、彼女を褒め称える。
嬉しい反面、そんな評価は欲しくないという矛盾が生まれる。
行儀作法なんてクソ喰らえ。
頬杖ついて膝を組み、彼女の顔を見つめる。
「どうなさいましたか。何か失礼を致しましたでしょうか」
完璧すぎるその対応に、イライラが募る。
こうあって欲しいと思った姿であるのにも関わらず、そんなの彼女の姿じゃないと拒絶反応が生まれる。
俺の好きな彼女は、いいとこのお嬢様もしくはお姫様風の彼女なんかじゃない。
あ、これって彼女が俺に言っていた事と同じだ。
もどかしさ、触れる事が出来ない物足りなさ、本音が見えない息苦しさ。
そんな全てをひっくるめて、彼女は王子様の俺が好きなんじゃないって言ったんだな。
相手の立場になってみないとわからないなんて、俺って鈍感だな。
額面どおりに捕らえすぎていた。
王子様然とした俺の態度とか、俺の身分とか立場とか、そういった煩わしいものが嫌いなのかと思っていた。
そうじゃなくて、すぐそこにいるのに手の届かないような距離感が嫌だったんだな。
「いや。何でも無い」
頬杖をついたまま、窓の外を眺める。
外には水平線がどこまでも続いているだけで、空と海の青しか視界には映らない。
「気分転換に付き合って貰えるか」
向き直って彼女に聞くと、彼女は嬉しそうに頬を緩める。花がほころぶようにという形容が似合うような笑顔だ。
「喜んで。海をご覧になられますか」
立ち上がる俺を見上げながら手を伸ばそうとし、彼女がその手をすっと引っ込める。
周囲の目を気にするが故の気遣いがまた苦々しく、立ち上がろうとする彼女の前に手を差し出す。
立ち上がろうとする女性に手を差し伸べて、何が悪い。
誰かに言い訳するかのように、心の中で呟いた。
俺の顔と手を見比べ、そして彼女が指先を俺の手のひらにそっと重ねる。
「ありがとうございます。殿下」
殿下、か。
間違ってないけど、超イライラする。彼女にそう言われると。
立ち上がって手を離そうとした彼女の手を握り締める。
瞳に動揺の色が広がるけれど、無視した。
「行こう」
周囲の興味津々といった視線も振り切り、通路に出て甲板へと続く階段を登る。
「殿下。いかがなさいました」
背後から問われると、一気に沸点を越えてしまった。
足を止めて振り返ると、回れ右して階段を下りる。
「殿下?」
トドメの一言に、ぶちっと理性の糸が切れた。
大股で通路を歩き、手を握られているので小走りになりながらも付いて来ざるを得ない彼女を引きずるようにして、自分に与えられた部屋の中に戻る。
バタンという大きな音を立てて扉が閉まり、他者と俺たちが隔絶される。
困ったような顔をした彼女が、扉の前で首を傾げる。
「どう……したの?」
握り締めたままの手に視線を落とし、それからまた俺の顔を見る彼女の眉間には皺が寄っているし、明らかに動揺しているのが手に取るようにわかる。
「怒ってる?」
彼女の手を離し、ソファにどかっと腰を下ろす。
扉の前から動こうとしない彼女に手招きをすると、周囲を見回してから彼女が俺の傍にやってくる。
けれど、手を伸ばしても届かないような距離で足を止める。
「誰もいない。平気だから」
そう言っても、彼女はその場から動こうとはしない。
「今から距離感を覚えておかないといけないと思うから」
「距離感なんてどうでもいい。とっとと切り替えろ。今くらいお前の素顔を見せろよ」
戸惑いの表情を浮かべつつ、彼女が俺の顔をじーっと見つめる。
何を推し量ろうとしているのか。それとも何か言いたいことがあるのか。
そんな彼女の視線から、決して目を逸らさない。
「言えよ。何でも」
距離を保ったままなのがもどかしい。しかし言いたいことがあるのなら、今聞かなくては聞けないだろう。
表情を曇らせ、何度も何度も溜息をつく。
そんなに言い難いことなのだろうか。
もしかして俺の知らないところで、彼女に嫌味を言うヤツだとか、嫌がらせをされているとか、そういった類の事だろうか。
好奇心と品定めするような視線に晒されているのは、俺といるさほど長くない時間でも感じるほどだ。
彼女が嫌な思いをしているのではないかと、不安が過ぎる。
でもそういう思いをしているのならば、俺に話して欲しい。孤軍奮闘といった状況に近く、俺しか彼女の思いを受け止められる相手はいないのだから。
「秋に、誰と結婚するの? 私じゃないよね」
数日前に聞いた結婚話を彼女なりに解釈したんだろう。
自分じゃないという結論に達したのは、決して間違いではないが、それを導き出してどんな思いをしていたのだろう。
「知らない。俺は何も聞いてない」
投げ出した足を組み、彼女の顔を見上げる。
ぴくりと眉が動くけれど、それ以上表情を変えようともしない。
長い長い沈黙が流れ、彼女は視線を窓の外に向けたまま溜息をつく。
言い訳は山のように浮かぶけれど、そんな事言っても仕方が無い気がして、黙ったまま彼女の横顔を見つめる。
今、この船の上にあって、俺の出来る事は何もない。
結局兄王と話をするなり、裏から手を回すなりしない限り、婚礼話は順調に進んでいくのだろう。
不本意だが、船を下りたら王都に逆戻りだな。
しかしまだ彼女を王城には入れられないし。困ったな。安心して預ける先があるわけでもない。
「知らない、でおしまい? 他に言う事無いの?」
部屋に入ってから一歩も動かないままの彼女が、俺を真っ直ぐ見つめて問いかける。
瞳を見返しても、彼女の瞳はたじろがない。
「他にって。情報も何もないんだから、言いようが無いだろ」
「そうじゃなくて」
はーっと溜息をついて、彼女が肩を落とす。
「わかった。聞いた私がバカだったわ」
あっさりと衣を翻して、彼女が俺に背を向ける。背筋を伸ばし、ほのかに花の香りを振りまいて。
咄嗟に立ち上がって彼女の腕を掴むと、彼女が俺の手を掴まれたのとは反対の手で払う。
「今は何も話したくないから。放っておいて」
「何でだよ」
あからさまな拒絶に腹が立ちつつも、それを隠してもう一度彼女の腕を掴む。
「離して。余計な事は言いたくないの」
怒っているのだと、その瞳が雄弁に語っている。
俺は何か怒らせるようなことをしただろうか。全く記憶にないのだが。けれど、彼女の苛立ちは手に取るようにわかる。
「何を怒っているんだ」
「怒ってない。感情と理性が上手くコントロール出来ていないだけだから、頭を冷やす時間をちょうだい」
感情と理性?
さっぱりわからない。
「頭冷やしたら、今何に腹を立ててるのか話すのか」
「話すわけないでしょ。これは私の問題なの」
彼女の問題って何だ。細切れにしか与えられない情報に、彼女の本心が全く見えてこない。
何に対して怒っていて、何が問題だっていうんだ。
確かに彼女の言うように感情的になっているせいか、ちっとも論理的な話も出来ない。
言いたくないことなら、聞かないほうがいいのだろうか。
しかし彼女にとって俺以外は全くの他人なわけだから、誰に相談できるわけでもないだろう。ここは俺が聞くべきなんじゃないだろうか。
「どうした。話なら聞くから、ちゃんと。だから話してみないか」
「嫌。今は何も言いたくないの」
そう言って顔を背ける彼女が、何故か泣くのを堪えているようにも見える。
ぐいっと腕を引き寄せ、腕の中に彼女を閉じ込める。
抵抗するかと思いきや全く抵抗せず、彼女は俺の腕の中で小さく収まっている。
本当にどうしたっていうんだろう。
彼女の背を撫でながら、天井を見つつ考える。
女心っていうのはよくわからない。ただ何かを胸の内に抱え込んでいるんだろうという事はわかるから、話して欲しいと思う。
だけど全く何に悩んでいるかが思い当たらないんだよな。
「……こうやって」
ボソリと呟く声に、視線を彼女へと向ける。
「ん?」
「こうやって、他の人を抱くの?」
何を言っているんだと聞き返そうとして見つめた彼女の視線は、この上なく鋭い。
「結婚するんでしょう。誰かと。私じゃない誰かと」
「いや。しないよ」
思いっきり眉をひそめたかと思うと、彼女が巨大すぎる溜息をつく。
「私、ちゃんと自分の立場だとか身分だとかわかっているから」
「なんだよそれ」
「王族っていうのは何人も妃を娶るのが普通でしょ。だから、別に不思議無いよ。今更傷ついたりしないもん」
「だから何言って」
「ただ、おめでとうって言えるほど寛容じゃないや。ごめんね」
俺の言葉に被せるように言って、その額を俺の胸にコツンとぶつける。
短くなった髪のせいで見えるようになった首筋に、銀色の鎖が見える。
彼女への想いを自覚した時に、適当な言い訳をつけて贈った青い色の宝石へと繋がる鎖。
その鎖を指で触れ、いつもは隠している石を大気に触れさせる。その為に顔を上げた彼女と視線がぶつかる。
「俺、そんな軽い気持ちでこれを渡したつもりは無いけど。伝わってない?」
視線を一度石に落とし、再び彼女が顔を上げる。
「あなたの意思だけでは結婚だとか妃だとかっていう問題は解決しないでしょう」
「そういう物分りのよさ、いらないから」
「でも……」
「しないって言ったらしない。それとも俺がお前の事好きって事、全然伝わってない?」
ふるふると首を振る彼女の頬を両手で挟む。
「なあ、本当にそれでいいのか? お前は俺が他の女にこういう事しても平気な顔してるのか?」
表情を変えず俺を見つめる彼女に、もどかしくなる。
「俺は嫌だ。お前が誰かに触れられているのを考えただけでも腹が立つ。お前は平気なの?」
微かに彼女が首を左右に動かす。
「俺はお前がいい。お前しかいらない。だからお前だけを傍に置く方法を考えて、何とかするから。だから少しでも俺の事が好きなら、諦めんなよ」
いつものように唇を尖らせ、泣く寸前の潤んだ瞳を俺にぶつける彼女は、言葉よりも瞳で俺に語りかけている。
揺れる瞳を見つめて何かを言い出すのを待っていると、思いっきり睨みつけられる。
「少しじゃないもん。全然わかってないのは、そっちのほうだよ」
「なんだよ、それ」
「何も言わないからわかんないよ。私はどうしたらいいの。このままニコニコ笑ってお人形さんしてればいいの?」
「お人形さんって」
「すっごい好きだから、頑張って着いていこうと思ったのに、あなた私には何も話してくれない。自己完結して、私には全然わからないことばかりだよ」
「えっと」
「えっとじゃないわよっ。いっそ今すぐ私の目の色変えようか? それとも大声で禁断の名前を呼ぼうか。紅き竜の」
「ちょっと落ち着け」
彼女の両肩を押さえるようにすると、身を捩じらせて腕の中から逃げる。
「氏も素性もわからない私なんかがあなたには相応しくない事、ちゃんとわかってるもの。ならどうやって理解してもらうつもりなの? いっそ全てばらしてしまえば簡単じゃない」
「そりゃそうかもしれないけれど、お前が嫌なんだろ。ばれるの」
「嫌よ。もう人から奇異の目で見られたり、奇跡を求められたりするのはうんざり。でもそうしなければ傍にいられないなら、別に構わないって前にも言わなかった?」
彼女はめちゃめちゃ怒っているのに、嬉しくて堪らなくなる。
「何笑ってるのよ」
烈火のごとく怒る彼女が愛おしく、彼女を腕の中に抱きしめた。
激しい抵抗にあうけれど、別にその位大した問題じゃない。
「ちょっと話してる最中なんだから、最後まで聞きなさいよ」
「聞かない。もう十分わかった」
「何がわかったのよ」
憤怒の形相だった彼女から少しだけ怒りの色が遠のいた気がする。ほんの少しだけれど。
「お前が俺の事を好きで好きでしょうがないって事が」
かーっと彼女が頬を真っ赤に染める。
「そんな事ないもん」
ぷぷっと噴き出してしまい、彼女がまた目を釣りあがらせるので、こほんと咳払いをする。
「そう? そんな余裕かましてると、好きで好きで堪らないって白状するまでこの部屋から一歩も出さないよ」
「そんな事したらあなたが困るでしょ。何言われるかわからないよ」
何でそこで困惑顔になるんだか。
「何言われても気にならないね。それよりも、お前に好きで好きで堪らないって言われるほうがいい」
視線を泳がせる彼女を見ているだけで面白い。
何で今更照れたりするんだろうな。何度も好きだって言ったし、キスだって数え切れないくらいしたのに。
そんな恥ずかしい事言わせようとしているつもりは無いんだけれどな。
「言わなかったら、ずっと傍にいてくれるの?」
胸がドキっと跳ねた。
思いがけない言葉に、思わず聞き返すと、彼女が頬を染めながら同じ事を繰り返す。
「好きで好きでしょうがないって言わなかったら、船を降りるまでずっと傍にいて、私の好きなあなたでいてくれるの?」
参った。降参だ。
頬がにやけてしまうじゃないか。
「今の発言、好きで好きでしょうがないって言っているように俺には聞こえるけど?」
余裕なフリして聞くと、彼女が視線を逸らす。
「そんな事ないもん」
ないもん、ね。
「そういう事にしておいてもいいですよ。俺の傍にいたいなら」
クスリと笑うと、彼女が頬を真っ赤に染めて俺を痛くない程度に叩く。
「バカっ」
心地良いこの場所を永遠に俺のものにしておけるように、本気で策謀巡らせるか。
船が王都に近い港町に着き、彼女の手を握ったまま船を下りる。
少し胸元の開いた服を着ている彼女の胸元には、俺の送った青い石が太陽の光を反射して煌いている。
今では彼女はこう呼ばれている。宝石の人。
俺に特定の誰かがいるというのは王宮では有名な話で、船に乗り合わせた貴族の一人が、ある時に彼女の胸元に光る石に気付いたようで、そう呼び始めた。
船の中で一月の間俺から離れなかった、もしくは俺が離さなかった女こそが「宝石の人」だと、良い感じで噂になってくれれば良いが。
しかしそれが兄王の耳に届くまでに、どれだけの時間が必要なんだ。
或いは明日には届いているかもしれないが。
初夏を思わせるような、少し強い日差しを受けて、彼女がまぶしそうな顔をする。
「まずは一戦交えようか。背を伸ばして隙を見せるな」
彼女に耳打ちすると、正面を見据えたままこくりと頷く。
一歩二歩と、船から地上へと近付いていくと、仰々しい近衛の集団が出迎えてくれる。
俺の休暇はまだ一月弱あるんだけれど、仕事しろってことだな。これは。
先手先手で、仕掛けてくるな。さすがは兄上。
階段を降りきったところで、彼女の腰に手を回して引き寄せる。
「言い忘れた。好きだよ」
吐息が掛かる距離で彼女に囁くと、彼女がビクっと肩を揺らす。
そんなちょっとした動作も可愛くて堪らないけれど、今はそれを堪能している時間も無いし、外野の目がありすぎる。
俺が近衛たちの前に立つと、一斉に兵士たちが最敬礼する。
見事に揃った兵士たちの中央に、腹心の部下が仏頂面で立っている。こいつまで動員されているという事は、もう懐柔されたか、兄上に。それとも脅されたか。
何にしても、気を抜けない。
俺はこいつに影武者を立てるように指示し休暇に出たというのに、この状況はどう見てもおかしい。
「お待ち申し上げておりました。殿下」
「うん。わざわざご苦労だったな」
「いえ。陛下より殿下をお連れするまで戻るなと御下命を拝しましたので」
何だそれは。そこまでする必要がどこにある。
いつ戻るかわからない俺を、こいつらはずっとここで待ち続けていたという事か?
尋常じゃないな。これは。
「陛下に何かあったのか」
「詳しくは申せませんが、殿下のお帰りをお待ちになられております」
ここは色々目があるから、全ては話せないか。
ただ単純に体調を崩されたとか、そういうことではないだろう。ここまえ仰々しい出迎えを受けるというのは、何らかの一大事があったと考えてもいいかもしれない。
「そうか。では一日も早く王都に戻り、陛下に拝顔せねばならぬな」
「はっ」
一層深く頭を下げたかと思うと、部下は顔を上げて軍艦を指差す。
「あちらに船を御用意いたしました。大河を上り、王都まで行くのが最適かと思われます」
一区切りしたかと思うと、部下は彼女の方へ目を向ける。
「ご一緒に?」
「ああ」
「畏まりました。御用意は整っておりますので、どうぞあちらへお渡り下さい」
部下に先導され、軍艦に乗り換える。
元々俺が軍に配属された時に新造された船で、俺専用の船みたいなもんだ。軍を退官してからは、一度も使っていなかったが。
表情を変えずに俺の横に立っていた彼女を肩を離し、もう一度手を繋ぎなおす。
繋ぎなおした手をぎゅっと握られ、緊張したり不安に思っていたりするのだろうというのが伝わってくる。
本当に、これからは俺と彼女の戦争みたいなもんだ。
国王たる兄を、王族たちを、貴族たちを敵に回し、二人だけの場所を勝ち取る為に。
船を乗り換えて俺の部屋に着くと、部下が仰々しく頭を下げる。
他のものは全員配置に着いたようで、腹心の一人だけが俺と彼女の前で頭を垂れる。
「殿下」
「何だ」
顔を上げた部下の目線は、彼女に注がれている。
「王都にお連れになられるのは、得策ではないかと存じます」
ゆっくりと彼女が俺のほうを見る。大丈夫だと伝える為に、彼女に頷き返す。
「殿下はどのようになさるおつもりでしたか」
「ああ、兄王とは話さなければならないだろうとは思っているよ」
「さようでございますか。ではその間、そちらの方を当家でお預かり致しましょう」
部下の提案を聞き、その本意を探るべく首を傾げる。
それだけで、話を促しているという事は伝わったようだ。
「この方の御身の安全を図るのであれば、王都の中でお一人にするよりもその方が宜しいかと存じます。父も一人家族が増える旨は了承していると聞いております。当家では既に準備が整っております」
「ああ。そうだな」
溜息交じりに答えると、部下は口元を緩ませる。短い言葉であっても、肯定であると捕らえたのだろう。
「では、後程またお伺いに参ります。私は出航の準備がありますので」
「よろしく頼む」
重たい音を立てて扉が閉まり、自分好みの調度品で飾られた部屋で彼女と二人きりになる。
扉が閉まって彼女の方を見た途端、みるみる顔色が曇る。
大丈夫って言えば、彼女は安心するのだろうか。いや、きっとそうじゃない。きっと全てを理解して、それでもなお受け入れがたいものと戦っているのだろう。
「全部ちゃんと説明する」
「うん」
彼女から手を離そうとしたら、ぎゅっと握られて離すのは嫌だと主張される。
二ヶ月の間、手を伸ばせばそこにいるような生活をしていたのに、これからはそういうわけにはいかなくなる。物理的にも距離が離れてしまう。
以前は離れて暮らしている事も当たり前だったし、何ヶ月も顔を合わせないこともあったというのに、今はそんな事耐えられそうにもない。
「おいで」
手を引いて、かなりゆったりとした大きさのソファに彼女と共に腰を下ろす。
そこでやっと手を離した彼女の前髪を梳くように撫でる。
俺の指の動きを視線で追う彼女の頬に唇を落とし、ゆっくりと離れる。
「今日からお前は貴族の娘で、さっきのでかいのの妹だ」
「貴族?」
「そうだ。バレバレの嘘だが必要な嘘だ。馬鹿馬鹿しいだろ」
「ううん、そんな事ないよ。私はどうしたらいいの?」
聡明な彼女の事、さっきの会話で大体の事を掴み、そしてこれから共にはいられない事を十二分に悟ったのだろう。
「あいつの屋敷か俺の城のどちらかに行く事になると思う。必ず迎えに行くから、それまで待っていてくれるか?」
彼女の華奢な腕が俺の首に巻きつく。ふわりと、異国で買った香水の臭いが鼻をくすぐる。
「待ってるよ。必ず迎えに来てね」
細い肩を片手で抱き、もう片方の手で彼女の頭を撫でる。
絶対に手放したりなんてしない。たとえ兄を敵に回しても。
秋に俺の横で純白のドレスに身を包むのは、彼女でなくてはならない。それは自由に何かを選ぶ事の出来ない俺の、たった一つのワガママなのだから。