3
手を引かれて街を走り抜ける。
通り行く人々が不思議そうな顔をしている。
景色が流れていく速度がやがて落ち、ゆっくりとした歩調に戻って停まる。
町外れの高台で、彼が振り返る。
誰も追ってきていないかどうかを確認するように。
そして誰もいないことを確認すると、港が見えるその丘で私の手を離す。
潮風の香りが鼻先をくすぐる。
ふっと嫌な過去の思い出が過ぎるけれど、気付かないフリをして草むらに座り込む。
「結構走ったね」
彼を見上げながら声を掛けると、彼もまた地べたに腰を下ろす。
「そうだな。ちょっと疲れた」
はーっと息を吐き、泣き言をいう彼に自然と笑みが浮かんでしまう。
こんな風に弱音を吐くところなんて、めったに見られない。
もしかしたら私にしかこんな事言わないんじゃないのかなって思ったら、無性に嬉しくなる。そんな事、絶対教えてあげないけど。
「運動不足じゃないの?」
「そうかもな」
本心を誤魔化す為に言ったのに、さらりと流されてしまう。
「少しは鍛えなおした方がいいかな。昔は俺も軍属だったんだよ」
私の知らない彼の過去。なかなか聞く機会が無いので、興味をそそる。
「そうなの? じゃあ前線で戦ったりした事あるの?」
「いや。戦地に赴いた事は無いな。先の大戦以外、戦争らしい戦争ってした事無いから、俺が生まれて以来。あの頃は結構いい筋肉付いてたんだけど、現役離れるとダメだな」
「そういうもの?」
「ああ。軍なんて暇さえあれば鍛えているようなもんだからね。今とは全然違う体格だったよ」
どんな風だったのだろう。見てみたかったな。今でも別に無駄な肉とか付いているようには見えないけれど、筋肉隆々って感じだったのかな。
「そうなんだ。もう軍には戻らないの?」
「戻れないよ。戻りたいと思ってもね」
彼が薄笑いを浮かべながら答える。何でそんな風に笑うのか、全く想像も付かない。
「俺は祭事を司る仕事をしてるからね。手を血で穢すことは出来ないんだ」
「色々あるんだね。外からは全然わからないけれど」
ポンと彼が頭を撫でる。
その笑顔がどこと無く儚げに見える。どうしてそう見えるのだろう。ぎゅーっと胸が苦しくなる。
不意に、ざざっという波の音が耳に飛び込んでくる。
その音がまた、変に不安感を煽る。
「軍属になんてならないほうがいいよ。もしも戦乱で命を落としたりして会えなくなったら嫌だもん」
「ん?」
過去が脳裏に過ぎる。
波の泡のように消えてしまった、とてもとても大切だった人の事。
波打ち際で別れた日の事。
「あなたはどこにも行かないで。ずっと傍にいてくれる?」
「どうした、急に」
首を傾げる彼の服の裾を掴む。
「不安になったの。波の音を聞いていたら」
「ああ」
視線を港の方に向けたかと思うと、彼が大きく息を吐く。
「そうか。海、か」
私の過去を全て知る彼は、私が海から何を連想したか思い至ったらしい。
それ以上何もいう事も無く、服を掴んでいた私の手を握る。
もしかしたらたくさん言いたい言葉もあるのかもしれない。聞きたいことだってあったかもしれない。けれども彼は何も言おうともしない。
私の頭の中にも、あの人との思い出とか、その頃の彼のこととか、色んな事が湧き上がってくるのに、その一つも口にする事が出来ずにいる。
何も話すことも無く、そして何も問いかける事も無く、私と彼の時間はゆっくりと過ぎていく。
繋いだところから伝わってくる熱だけが、雄弁に心の内を語っている。
どこにも行かないでと願う私の心に、その熱が安心感を伝えようとしてくれているように思える。
波の音を耳に煩いくらいに聞きながら別れた、過去の思い出。
それを乗り越えなくてはいけないのは私自身の問題。
過去を振り切って、彼と一緒に歩もうと決めたのだから。いつまでも過去に縛られているわけにもいかない。
「イヤだって言っても離す気は無いよ」
私の顔を見て、彼がニヤリと笑う。
「やっと手に入れたのに、何で手放さなきゃいけないんだよ」
繋いでいた手を離した彼が私の肩を抱いて、至近距離で顔を覗き込まれる。
「その魂まで俺にくれとは言わない。今生だけで良いから俺の傍にいて。俺は今の、生真面目で不器用で、なのに突拍子も無い事をするお前が良い。今のお前が傍にいてくれれば、それでいいよ」
ぶわっと涙が溢れ出して、視界が涙で曇る。
「何で泣くんだよ」
「だって」
一体どんな気持ちでその言葉を言ったのだろう。
私の心の奥で輝いている、あの人の言葉。未来の約束。
全部ひっくるめて受け止めてくれるだろうって前に親友に言われたけれど、それを言わせてしまう私は大馬鹿者だ。
彼は私が今もなお、あの人の事を大切に大切に想っている事実を受け止めて受け入れている。
私の心の全部が彼には向いていなくとも、私が良いと彼は言ってくれる。
彼の首に両手を回すと、ポンポンと彼が私の背中を叩く。
「俺とお前が出会って、今こうしているのだって奇跡だろ?」
「……奇跡」
「そう、奇跡。あの仕事にお前が就かなかったら、俺たちは一生出会う事も無かった。それについては、アイツに感謝しているよ。お前を選んでくれた事にね」
唇が目から零れ落ちる涙を拾う。
視線が絡んだと思った次の瞬間、息も吐かせない激しさで唇を塞がれる。
本当に苦しくって、息も絶え絶えなのに、それでも彼は離してくれない。胸を叩いても、身を捩ろうとしても。
合間合間に僅かな空気を求めてあえぐけれど、それさえも塞がれてしまう。
耳に届く波の音が、徐々に遠ざかっていく。
「はぁっ……はあ、はあ」
彼が唇を離した時には、肩で息をするほどになってしまっていた。
それなのに彼はクールとしか言いようのない表情で私を見つめる。
「これで、波の音を聞くたびに俺の事思い出すだろ」
「……え?」
「アイツより先に、俺の事思い出せよ」
そう言って私のことを突き放すようにした彼の表情はわからない。
けど、二度とこんな事言わせたくない。
私は自分が幸せになれればそれでいいわけじゃない。彼を幸せにしたい。彼と幸せになりたい。
だから、もう過去を振り返るのはやめよう。
もしもまた胸が痛む日が来たとしても、自分ひとりで乗り越えていこう。いつか思い出になる日まで。
高台で時間を潰し、お昼頃を見計らってまた街に戻る。
街の中は丁度昼時というのもあって、どの飲食店も賑わいを見せている。
その中でも一際長蛇の列が続いている店があって、目的の店だという事が一目でわかる。名産品を低価格で、かつ味の保証もされている人気の一軒。
「結構並んでるよ」
「そうだな。やめとく?」
「まあ、無理に並んでまで食べたいわけじゃないから、適当に露天で何か買って食べる?」
「うん。そういうの、帰ったら出来ないもんね」
当たり前のように言って微笑む彼女に微笑み返す。
本当に俺の世界に入ってくるんだな。まだその実感は無い。
彼女にとって、今この瞬間は日常の延長であるはずだ。俺にとってはかなり貴重な体験だが。
「いかにもデートって感じだな」
「だってデートだもん」
弾むように言う彼女が愛おしい。
ずっとこういう顔をしてくれてたらいいな。そういう笑顔でいてくれるようにするのは、俺の役目だけど。
どうなんだろうな。
恐らく何とかやっていけるだろうというのは、七年もあの仕事をしていていた事から想像は出来るけれど、心まで守れるかどうか。
前例前例の世界で、どうやって出来うる限り手許に置くか。
王城に入ってしまえば、一日の大半を別々に過ごすことになってしまう。
しかしその前に、正妃をとかっていう面倒くさい問題を解決する方が先かな。
彼女の仕事について明かしてしまえば、恐らく反対される事はまずない。諸手を挙げて歓迎されるだろう。
しかしその事について明かさないとなると、猛反対は必至だな。
まずは兄王を説得するのが先か。
ただあの様子からすると、俺が折れないのはわかっていそうだから、強固な反対をされるとは思えないな。
しかし妻は一人いれば十分な俺の意思と、数人は置けという周りの意識の乖離を埋めるのは面倒くさそうだ。
問題を先送りにしてきたが、そろそろその辺りの方策も考えておかなくてはいけないな。
「で、何食べようか」
彼女の一言で意識を元に戻す。
今は王宮の駆け引きをひとまず置いておこう。
「美味いものなら何でも」
言うと、彼女が顔をしかめる。
「どれが美味しいかなんて、わかるわけないでしょ」
市に幾つも並ぶ露店の数に、彼女がそう言うのもわからなくも無い。
「だよな。じゃあ美味そうなものを探すか」
「一緒に?」
「一緒に」
問いかける彼女が指を絡めて手を握りなおすから、自然と笑顔がこぼれてしまう。
一緒がいいと言外に言われた気がして、悪い気はしない。むしろそうやって甘えられると嬉しい。
どっちかというと崖っぷちでも一人で踏ん張って弱音を吐かないような彼女だから、甘えてくれるって事は、それだけ俺に心を預けてくれてるんだなって。
人ごみに紛れ幾つもの店を物色し一通りの買い物を済ませて、思い思いに食事を取っている人の中に紛れ込む。
ここで余計な連中に見つかりたくないし。
ただ、もう問題の大半は解決したんじゃないかと思う。
あの時にあそこにいたのは、第七王子なんていう小者じゃなく、正式に軍の全権を握っている人物だった。
兄の即位式の時に参列していたので覚えている。
義姉の兄で、この国の第二王子。
そんな人物が動いているのだから、第七王子のイタズラもこれで終わるだろう。
明日には無事船に乗って国を目指せると思うが、面倒なのはこの王族たちとどう鉢合わせしないで国を出るかという問題だ。
正式に訪問しているわけではないので、どうにも見つかるのは都合が悪い。
国際問題に発展するというような大げさなものではないが、やはり戦争をしていた両国間においては、まだお忍びで王族が紛れ込んでいるという状況は芳しくは無い。
こちらが第七王子が何故わざわざお忍びで入国したのかというのが気になるのと同様、相手側も何故俺がお忍びでやってきたかという事は気掛かりな事実だろうし、痛くない腹を探られる事になる。
実際に兄王が求めていたのは、こちらの国との強固な関係を再構築する為の地盤作り。
端的に言うと、コネ作り。
それは一切出来なかったわけだから、帰国した後にあれこれ言われそうで今から頭が痛い。
実際に兄王の期待に答えられなかったわけだから、非難されても仕方ないのだが。
船に乗れるなら敢えて期限ギリギリまでこちらで活動するという手もないわけではないが、あちら側も警戒しているだろうし、良い結果が生まれるとは思えない。警戒されている分、失敗に終わる可能性のほうが高い。
今は波風を立てないようにするのが最適であろう。
露天で買ったものを頬張りながら、彼女が嬉しそうに笑う。
まあ色々批判されるだろうし、叱責も買う事は間違いないんだけれど、今彼女のこの笑顔が見られたからいいや。
自国じゃ周囲がうるさ過ぎて自由に外を出歩く事も難しかっただろうから、デートという意味合いにおいては良かったかな。
微妙な距離も埋まったような気がするし。
まだ彼女の心に巣食う嫌な奴はいるけれど、それでも彼女が俺に心を開いて笑ってくれる。甘えてくれる。時にワガママを言うこともあるし、喧嘩っぽく言い合いになることもある。
きっとあのまま彼女を王城に連れて行ってしまっていたら、こんな風に心の距離が縮まる事は無かっただろう。
とんだハプニングには遭遇したが。
飲み物を飲みきり、彼女が俺のほうを見る。
「いつ、行くの?」
それ以上言わなくとも、船のことだと伝わってくる。
重要な事を隠して話す事が多いせいか、相手が何を言おうとしているのか、お互いにものすごく気を配っているように感じる。
ただ、何の事を言おうとしているのだろうと考える事も無く彼女の考えが伝わるから、苦労を感じた事は無い。
「夜には。まだ全てが片付いているとも思えないしね」
「ねえ、私には良くわからないんだけれど、どうして問題が解決すると思ったの?」
周囲に目を配り、余計な耳や目が無いか一応確認する。
完全にノーマークというわけにはいかないだろう。恐らくどこかには監視の目があるはずだ。そうでなくては、あの状況下で第二王子に簡単に見つかるはずがない。
巧妙にというほどではないかもしれないが、自国の服は脱ぎ、こちらの国の民族衣装を身につけていたし、彼女の風貌は大分変わっている。
それなのに見つけられたという事は、ずっと監視されていたと考える方が自然だろう。
雑踏のどこかには紛れているはず。
しかし常に同じ顔の人間が傍にいるということは無いので、姿は見える程度の距離間を保って監視しているのだろう。
それに訓練をつんでいる人間独特の雰囲気を醸し出す奴も傍にはいない。
「俺の兄弟と同じだよ。決して一枚岩じゃないって事」
「んーっと、仲が悪いって事でいいのかな」
考えて、当たり障りの無い言葉を彼女が選ぶ。
「端的に言えばね。片方が領域侵犯をしたから、もう一方が出てきたって事だと思うよ。だから道理を通す為に、手を引かせるだろうと思った。だから俺らの問題は解決すると思ったんだ」
彼女が空を眺めて、考え事に没頭している。
俺の言った言葉の意味を咀嚼し、自分なりに理解しようとしているのだろう。
今全てをこの場で説明する事は難しい。そのあたりにもどかしさを感じる。
だけれど、これが異国だからというのではなく、恐らくこれからずっと、俺たちの間ではこういう真相を隠すような会話が多くなるはずだ。
言いたいことを言わず、伝えたい事を伝えなくてはいけない。それはすごく難しい。
納得したのか、彼女が俺の顔を見る。
「わかった。じゃあそれまでゆっくりデートしようね」
微笑んで彼女を見つめると、彼女の頬がほころぶ。
「ねえ、お土産買わなきゃ。旅行の醍醐味の一つよ、お土産買うのって」
「何が欲しいんだよ」
「何でもいいの。ただ一緒に出かけたんだっていう記念に欲しいだけ。何がいいかなー。お店見て回ろうね」
言葉一つで俺を有頂天にする。
でも絶対に顔色は変えたりしない。あんまり嬉しそうにしてても、なんかだらしないだろ。彼女に首ったけって感じで。
「いいよ。時間はまだたっぷりあるしな」
しょうがなく付き合ってやる風を装って、軽い足取りをわざとゆっくりと意識的に歩いたりして誤魔化した。
闇の帳が下り、港に足を運ぶ。
昨日までいた警備の人間はおらず、商船では積荷を載せる作業が続いていた。
出航までの残された時間、思いかけない邪魔をされた分を取り戻すように、乗組員たちが忙しそうに動いている。
「本当に見事にいないね」
彼女が驚きの表情で港を見つめる。
「ああ。でもどこかで隠れて見ているよ。俺たちが来ないかどうか」
「そう」
港を望む突堤で、彼女が短くなった髪を掻き揚げる。
今はもう彼女は民族衣装は着ていない。
貴族というには物足りず、庶民というには豪奢に見える服を着て、しっかり化粧も施している。
設定上は、商船の持ち主の血縁者という事になっている。故に豪商の娘といった風貌だ。
着替えて化粧をして、彼女の表情は昼間のような柔らかさが消えた。
この船にちゃんと乗れるかどうかという緊張もあるかもしれない。また追われるのではないかと。
しかしそれ以上の何かを、船を見る彼女の横顔に感じる。
「あそこに行ったら、あなたは元の身分に戻るのでしょう」
俺を見ず、彼女の視線は船をじーっと見つめている。責めているわけでは無いという事はわかるのだけれど、どうしてそんなに悲壮な決意を胸に秘めたかのような顔をしているのだろう。
「どうした?」
問いかける俺に、彼女が振り返って泣き笑いのような表情を浮かべる。
「あなたも私も、もう心から笑ったり怒ったり、冗談言ったりしたり出来なくなるのよね」
彼女の心に芽生えたものの正体を掴んだ気がした。
「周りに他人がいる時は、そうだな。でも二人きりでいる時は今までと同じように過ごしたい。だってお前は王子様の俺じゃない俺が好きなんだろう」
冗談めかしに言うと、彼女が溜息をつく。
「うん」
消え入りそうな声が、全てを諦めてしまっているように思えてくる。
この時間が幻だったというかのように、彼女は俺との間に自ら溝を作り出そうとしている。
だけれど、どんな言葉を言えば彼女の心をとかせるのだろう。どんな言葉も、彼女の心のうちには届かない気がして、俺は紡ぎだすべき言葉が見つけられずに彼女を見つめるしかない。
灯台の光が、定期的に彼女の横顔を照らす。
まるで過去の仕事をしていた時の彼女のように、凛としている。
彼女もまた、仮面を被ろうとしている。
幾度か横顔が光に照らされたかと思うと、ふにゃっと彼女の顔が緩む。
「ワガママ言って良い?」
俺に向き直った彼女は、昼間の彼女と同じようにくるくると表情を変える。
「いいよ。何?」
「好きって言って。それだけで私、頑張れるから」
恥ずかしそうに俯く彼女を抱きしめる。
胸の中に湧き上がってくる愛おしさで、他人の目がどうだとかっていう事が吹っ飛んだ。
「好きだよ。そんなんでよければ、毎日だって言ってやるよ」
「約束してくれる?」
「お安い御用だ」
本当に彼女にはかなわない。
心の内に他の誰かを住まわせているくせに、俺の一番欲しい言葉をくれる。俺だけを見ているかのように錯覚させる。
彼女の嫌いな波の音を聞きながら、何度も何度も唇を重ねる。
彼女にとっての一番にはなれなくとも、俺にとっては誰よりも恋しくて愛おしいのだということが、彼女の心に刻まれるように願いながら。
忙しそうに働く船夫たちの間をぬい、目的の商船に近付くと二人の男が待ち構えている。
ただで帰してくれるわけが無い事はわかっていた。
第二王子と、第七王子。
溜息を堪えて営業用の笑顔を浮かべる。
「お久しぶりです。こんなところまでご足労頂きありがとうございます」
第二王子に向けて挨拶すると、社交辞令が返ってくる。
「先日はご一緒に船旅を楽しませていただき、ありがとうございました」
第七王子へと皮肉一杯の挨拶をすると、こちらはブスくれた顔で挨拶してくる。
だから、そういうところが小者なんだって。
末っ子の我侭は、他国の人間には通用しないよ。そんな事親切に教えたりはしないが。
「このたびはどのような目的でわが国へ」
直球な質問を投げかけてきた第二王子に、敵意は無い事を示す為に笑顔で答える。
「個人的に旅行をと思っておりました。なかなか自国では自由の無い身ですから、こちらなら自由を謳歌できるのでは思いまして。浅慮でした」
嘘ではない。全てが事実ではないが。
「なるほど。確かに事前にご連絡を頂いていたら、それなりの応対をさせていただかなくてはなりません」
第二王子はそれ以上突っ込もうとはせず、手のひらを船へと続く階段の方へ向ける。
恐らく聞きたいことはもっとあったはずだ。しかしお互いに本心など見せる事が無い事はわかっている。
仮に俺のこの国での道中を探られても、痛いところは一つも無い。どうせ後で調べるだろうが、純粋に観光ばかりしていたことに驚かれるかもしれない。
「どうぞ、快適な旅になりますように。愚弟が色々とご迷惑をお掛けし、申し訳ありませんでした」
かくっと腰から折って、いかにも軍人風の礼をする第二王子が頭を上げるのを待ち、こちらも頭を下げる。
「こちらこそ、混乱を招くような事をしてしまい、申し訳ありませんでした」
これで終わりと言わんばかりに、第二王子は船へと急かすように促す。
もしかしたら第七王子が俺と船で出くわした理由など、聞かれては困る事があるからかもしれない。
一言も口を開かなかった彼女が、二人の前で優雅に一礼をして俺の後に続く。
まさか彼女が、ごく普通の商店の娘とは思うまい。その所作は非常に洗練されている。
彼女に基礎を叩き込んでくれた七年間に感謝の念が湧く。
階段を幾段か上ったところで、背後から声を掛けられる。
「招待状を頂きました。またお会いいたしましょう」
第二王子の言葉に振り返ると、にやりと第七王子が笑う。下卑た笑い方だ。
「招待状ですか?」
「ええ。あなたの結婚式の。秋にはまたお会いする事になります。その時には婚礼祝いをお持ちいたしますので、ご希望の品がございましたら何なりと」
どういうことだ。何も俺は聞いていないぞ、そんな話。
しかし笑顔を浮かべて、二人に一礼する。
「祝いの品などいりません。ご臨席頂ければ、それだけで幸いです。ではまた秋に」
動揺を押し殺し、二人の王子に別れを告げて船に乗り込む。
俺の知らないところで、誰かが動いている。いや、誰かじゃない。兄王が動いている。異国にまで招待状を出す権限があるのは、兄王唯一人だ。
そう簡単に全てが片付くとは思っていなかったが、厄介な相手が敵にまわったな。




