#06.
脱がされたフードの向こうに見えるファルゲル公爵の姿は、ルシラが考えていたよりも深刻だった。
一見したところ、公爵の容姿には何の問題もないように見えた。純銀を溶かし作ったかのような長い銀髪は、光の乏しい部屋の内部にあっても鮮烈な美しさを誇っていた。
長いまつ毛の下に位置する瞳は吸い込まれそうな光を帯びていた。すらりとした鼻すじと、透明なまでに白い肌。
しかし、その全ては半分だけ。
凄絶なまでに美しい左側に比べ、彼の右側はとても目を開けていられないほど悍ましかった。
包帯で覆っているものの隠しきれなかった肌の一部が黒く腐り落ちていた。溢れ出た血膿が包帯に染み込み、不快な色を呈していた。
黒いローブに隠されてよくは見えないが、廊下に落ちていた血痕を見るに、腐っていっているのは顔だけではないだろう。
確認したい。けれどルシラはファルゲル公爵と噛み合った視線を外さなかった。
このまま目を逸らせば、公爵は傷つくだろうから。
短い沈黙が執務室に降り立った。ルシラの挑発的な言葉にも、公爵は何の反応も見せなかった。
意外だった。ルシラの言葉は高位貴族が耳にするには非常に不敬なものだった。怒るなり、軽蔑するなり、あるいは心を許すなり。何かしら反応を示すと思っていたのだが。
(無反応とはどんな反応なのかしら。信じられないということ? それとも信じたいということ?)
瞳の中に答えが存在しでもするかのように、ルシラは公爵の顔へ自分の顔を近づけた。その瞬間だった。
「その目……お前も呪われた者なのか?」
公爵が静かに尋ねた。ルシラは笑みを絶やさぬまま首を振った。
「呪われた者は両目が桃色に染まりますわ。桃色は憎悪の女神の瞳の色。ですがご覧の通り、私の目はオッドアイです」
「呪いにかかっていないのに、どうしてその色を持っているのだ?」
「私は生まれた時からこの目を持っておりましたので、どうして私がこの色を持っているのかは分かりません。ただ……」
浅い息を吐き出したルシラがゆっくりと言葉を続けた。
「世界がこの目を持つ者をどんな目で見るのか、私は誰よりもよく知っていますの。だからこそ私は、あなたを愛するためにここへ来たのです」
「……何を言い出すかと思えば」
ルシラの答えに、公爵の唇がわずかに動いた。そしてルシラの手を音を立てて払いのけた。
「瞳の色に訴えてまで愛を口にするのを見るに、相当追い詰められているようだな。欲しいものを言え。可能な限り聞き入れてやろう」
理解しがたい彼の答えに、ルシラの眉が跳ね上がった。
「私はあなたを愛するために訪ねてきたとお伝えしましたけれど」
「この世界には可能なことと不可能なことがあるものだ。お前はここへ来て私と対峙した。それによってお前の勇気は証明されたのだから、必要なものを言えばいい」
自嘲的な笑みが、幼い日の自分の姿と重なって見えた。
どうやらこの程度では彼の心を翻すことはできないらしい。
(まあ、この程度で転び落とされるほど扱いやすい男なら、とっくの昔に使い潰されていたでしょうね)
この世界は私にとって敵でしかない。
甘い言葉を吐きながら近づいてくる者は、悪意に満ちた者ばかり。
だからこそ人間は、信じることより遠ざけることの方が楽なのだ。
愛しているという言葉すら、信じないことこそが自分を守る術なのだから。
人間は本来、邪悪な存在なのだから。
(そう。この気持ち、私は痛いほどよく知っているわ。警戒し、拒絶して。そうすればするほど、より深く絡め取られていくのよ)
ルシラの口元が釣り上がった。
人間は本来、邪悪であるからこそ、盲目的な善意は傷ついた心に酷く深く突き刺さるということを、ルシラはよく知っている。
そして、その善意を表明するために必要なものが何であるかも……ね。
ルシラは机の向こうへと足を進めた。ルシラが近づいてきているにもかかわらず、公爵は動かなかった。
相変わらず顔を背けたまま微動だにしない公爵の右側へと近づいたルシラは、公爵が腰かける椅子の前で静かに膝をついた。
公爵の視線が再びルシラへと向けられた。
「ファルゲル公爵様。この目をあなたにお見せしたのは、私があなたを嫌悪していないとお伝えするためでしたの」
ルシラは極めてゆっくりと、いつでも彼が振り払えるほど緩やかに手を伸ばし、ローブの向こうに隠された彼の右手を取った。
冷たく粘りつく彼の手にルシラの温かな手が触れると、公爵はビクッと体を震わせた。
「あなたを愛することに決めましたのは、ずっと昔にあなたが私に愛をくださったからですの」
「……何を言っているのだ?」
「約8年前のことですわ。私とお姉様は偶然、ファルゲル領地の付近を通りかかることになりましたの」
その年は殊更、夏が暑かった。
連日のように顔を覆う包帯を鬱陶しがるルシ라を哀れに思ったエリーゼが、北方にある侯爵家の別荘へ行かないかと提案してくれたのだった。
「別荘へ向かう街道を通っていた際、高位種の魔物が私たちを襲撃いたしました。絶体絶命だと諦めかけたその時。公爵様が私たちを守ってくださったのです」
当時を回想するように軽やかに目を閉じたルシラは、彼の手に額を寄せた。もちろん本当に目を閉じたわけではなかった。
頭を下げたルシラは即座に目を開け、公爵の手を確認した。
顔よりも腐敗が酷く進行した彼の右手の先には、白い骨が露出していた。
(この状態で座っているというの。大したものね)
呪いは強い痛みを伴う。これほどまでに呪いが進行しているのなら、会話を交わすことすら苦しいはずなのに。
冷徹な思考を巡らせながらも、ルシラは手を止めることなく言葉を続けた。
「あの日、公爵様はご自身が傷つくのも厭わず、私とお姉様を救ってくださいましたの。私たちは感謝の言葉をお伝えしようといたしましたが、公爵様は私たちが自分を恐がるだろうとおっしゃり、挨拶すらお受けにならず去っていかれました」
「あの時の……」
ルシラの答えに、公爵の目がわずかに見開かれた。それに対し、ルシラは嬉しそうな顔で彼の手を強く握りしめた。
「覚えていらしたのですね。呪われたお体でありながらも、他者を救うために飛び込んでくださったあなたの後ろ姿に、私たちは心を奪われてしまったのです」
ルシラの語る話に嘘は存在しなかった。
エリーゼと別荘へ向かったことも、魔物に襲撃されたことも、彼に助けられたことも全て事実だ。
ただ、彼がいなくともルシラとエリーゼは無事であったろうということと、彼の後ろ姿に切ない想いを抱いたのがルシラではなくエリーゼであったということを、口にしなかっただけで。




